ダダ運動年表史-1-1913-1919

アンドレイ・ナーコフ編

■年 表


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■1913

ベトログラード,12月3日,5日。未来派オペラ「太陽の征服」の最初の公演。脚本クルチョーヌイフ,フレープニコフ,音楽マチユーシン,衣裳,舞台装置マレーヴイツチ。この時に,「黒い正方形」をふくめて,無対象のフォルムが初めて現れる(マレーヴイツチは後に「無意識」だったという)。ロシア未来派はひろく大衆にたいし「新しい創造の原理」を宣言する。「超理性的な」インスピレーションと,新しい純粋なフォルムの創造が,この芸術運動の基本原理を成す。

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パリ。ロシア人画家レオポルド・スルヴァージュが,一連の抽象的なコンポジションを制作。これは「色のリズム」というタイトルの映画をつくるのに使われる筈だった。「時間のなかで生起する抽象絵画」というこの企画は,ギヨーム・アポリネールを夢中にさせたが,まだ生れたばかりの映画界では理解を得られず,実現されなかった。


 ■1914

モスクワ,5日10−14日。タトリンが自分のアトリエで,最初の無対象のレリーフを公開する。立体=未来主義的な発想のこれらの彫刻も展覧会を宣伝するポスターでは「綜合的=静的コンポジション」という言い方で紹介されていたが,20世紀美術史のなかでは,最初の複合的素材による集対象(抽象)のアッサンブラージュである。また展覧会とあわせて,タトリンの友人で未来派のポドガエフスキーの音声詩の朗読が行われる。ポドガエフスキーは後にタトリンの造形に想を得てコラージュを用いた小冊子を出版することになる。

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■1915

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ペトログラード,3月。ロシア未来派の終焉を画する展覧会となった,第1回の未来派「路面電車Ⅴ」展に,タトリンは,7点の絵画的レリーフ」を出品。マレーヴイツチはこの展覧会に18点の絵画をもって参加。うち5点は「超理性的」作品で,日録のなかでマレーヴイツチ自身が「その内容については関知しない」としている。エクステル,ローザノワ,ポポーワ,ウダリツオーワ,プニー,モルグノーフは同展に立体=未来主義的作品をもって参加している。mermal306

モスクワ,6月。マレーヴイツチが,最初の無対象絵画を描く(その中には,有名な「四角形」,後に「黒い正方形」とよばれるあの作品も含まれていた)。それらの作品はこの年秋まで他の芸術家たちからは知られずにいた。マレーヴイツチはまた小冊子「キュビスム,未来派からシュプレマテイズムまで」を執筆,これは12月に出版されることになる。この小冊子には,マレーヴイツチがシュプレマテイズムと名付けた新しい無対象芸術の原理の最初の定式化が含まれていた(彼にとってそれは,造形芸術の一切の「旧制度」にたいする,純粋な色彩と純粋な感覚の絶対的優位を意味した)。

ミラノ。未来派のバッラとその弟子デペロが,「世界の未来派的再構築」宣言を発表。その中で初めて,さまぎまな素材で作った抽象的なフォルムの動的な構成という考えが説かれた。こうして切開かれた新しい未来派的造形の道は,実際の彫刻作品の形で豊富に彩られることはなかった。この宣言は,ボッチオーニの道の到達点を成すものであり,彫刻の分野でイタリア未来派は,卓越した理論は発表したが,作品は僅かしか残さなかった。その後を引継いだのは.ドイツ,東ヨーロッパ,とりわけロシアであった。

ベトログラード,12月19日。「最後の未来派展0.10」がオープン。マレーヴイツチは,名高い「四角形」を含む39点の無対象絵画を出品。批評家は,この作品を直ちに,侮蔑的な意味で「黒い正方形」と名付けた。マレーヴイツチはまた,「キュビスム,未来派からシュプレマティズムまで。絵画の新しいレアリスム」と,彼の他にクリューン,プニー,ボグスラフスカヤ(プニーの妻)の署名の入った「シュプレマテイズム」宣言を配る。タトリンはこの展覧会に13点の作品をもって参加,内2点は「コーナーレリーフ」の大作であった。

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 この2点のレリーフは,「自律的な」無対象の造形,いいかえるなら我々の現実体験の空間に関与するのではなく自律的な空間(理想的空間)の概念を強く主張する造形の成立を断固として表明するものであった。タトリンは略歴を記したリーフレットを印刷させたが,そこには4点のレリーフの図版もあげられていた。

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 また,ローザノワ,クリューン,プニーも無対象レリーフを出品していた。この展覧会は,大戦の真只中において,ロシアに無対象美術が誕生したことを告げるものであった。それはまた,シュプレマティズムと構成主義という,相互におぎないあうと同時に敵対するふたつの流れの存在することを明らかにした。このふたつの流れは,今後15年間にわたってロシアにおける無対象美術の弁証法的発展を定めるものであった。ニューヨーク。メキシコ出身の風刺漫画家デ・サヤスの運営するモダーン・ギャラリーでピカビアの展覧会。ピカビアは抽象的,機械主義的作品を出す(前ダダ的作品)。1913年のアーモリー・ショーにつづいて,ヨーロッパ生れの近代美術が,抽象とダダという側面を強く主張したのであるも これは近代美術をつくる二つの基本的な構成要素であり,20世紀アメリカ美術の発展を初めから,しかも決定的なやりかたで性格づけた。

■1916

バルセロナ,1月。レアル・クラブ・マリティモでアルテュール・クラヴァンはボクシングの教師をつとめる。このダダイスト的な行動、感覚の先駆者は,カナリア諸島,パルマ諸島,さらにはアメリカ,ブラジルヘの大旅行を企てる。「もし僕に僅かなりとも詩人の資質があるとすれば、それは僕が気違いじみた愛,並外れた欲求をもってるからだ。僕はペルーの春がみたいし,きりんと友達になりたい。プチ・ラルースの辞典でアマゾン川は全長6420kmで流量は世界一とよむと,もう散文でだって言えないくらい影響されてしまうんだ」(1916年1日19日の手紙)。

・・・,2月3日,彼は,イリス公園におけるA・キュシェとF.オシュの対戦の審判をつとめる。・・・,4月。黒人のチャンピオン,ジャック・ジョンソンとアルテュール・クラヴァンのボクシング試合。各回3分,6ラウンドの後クラヴァンはK.O.負け。

・・・。アルベールとジュリエットグレーズ夫妻はバルセロナにむけてニューヨークを出発。

フランス,1月。ナントの病院にインターンとして勤めていたアンドレ・ブルトンが治療をうけていたジャック・ヴァシェに出会う。パリでは,ピエール・アルベール=ビロが雑誌「SIC」(音,観念,色彩,Sons Idees  Couleurs Formesの略)の創刊号を出版。

パリ,6月。雑誌「SIC」が,ごく短い宣言「ヌニスム」を発表(これは,ギリシャ語で,現在の,を意味する“nun’’に由来する)。

ハンス-アルプとハンス-リヒターにかつがれたトリスタン-ツァラ

チューリッヒ,2月。パルは,「マイチライ」においてエミー・ヘニングス(ダンサー),ハンス・アルプ(アルザスからの避難民),ゾフィー・トイバー=アルプ,そしてふたりのルーマニア人,画家マルセル・ヤンコ,詩人トリスタン・ツァラとともに「キャバレ・ヴォルテール」を創設。

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 アルプの(1921年の)言葉によれば「……1916年2月8日の夕方6時,ツァラは,ダダの語を発明した。ツァラが初めてこの名を口にしたとき,私は12人の悪童たちと一緒にそこに居合わせた。この名は我々のなかに正当な熱狂を呼び起こした。これが起こったのは,チューリッヒのカフェ・テラースでのことで,私は左の鼻孔にブリオシュ(バターと卵をたっぷり使った柔らかいパン)をつけていた。私は確信しているのだが,この言葉はまるで重要ではなく,その日付に興味をもつかもしれないのは間抜けな連中やスペインの教師くらいのものだ」。

 マックス・ジャコブ(パリ)とトリスタン・ツァラ(チューリッヒ)のあいだで文通。ヒュルゼンべック,ベルリンから到着。ダダは,国際的な広がりを追求し,直ちにそれを獲得するが,それというのもダダは普遍的であろうとする芸術だったからである。

・・・,3月。ヒュルゼンペック,ヤンコ,ツァラの同時詩(「隊長は貸家を捜してる」),黒人亭楽の太鼓伴奏による上演。

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・・・,5月。陣ヤバレ・ヴォルテール』誌の唯一の号がフランス語,ドイツ語ふたつの版で発行される。編集はフーゴー・バルアポリネール(かれの許可なしにその詩「木」を収録),カンジューロ,サンドラールス,ヘニングス,ヒュルゼンべック,カンディンスキー,マリネッテイ,モディリアーニ,ピカソ,ファン・レース,ツァラの寄稿や図版を載せる。編集記においてフーゴー・バルは,雑誌『ダダ』の発刊を予告。この時点で理解されていたダダイズムはその理想主義的=形而上的な目標を誇らしげに掲げ,挑発を武器(手法)として利用していた。

・・・,6月。キャバレ・ヴォルテールでフーゴー・バルは,その音声詩「カラヴァネ(隊商)」を朗読。「カラヴァネ」には基本要素的,形式的=創造的=無意識的な方向性が示されていた

・・・,7月。バルはその友人たちと最初の意見の相違をみた結果,この月の末テシン山中に行く。ツア・ヴァークのホールにおいて音楽,ダンス,理論, マニフェスト,詩,絵画,衣裳,仮面などを用いた第一回のダダの夕べが行われる。

 ・・・。コレクション・ダダ第1巻としてトリスタン・ツァラの「アンチピリン氏の最初の天上冒険」発行(マルセル・ヤンコの彩色木版画)。

・・・,9月。コレクション・ダダ第2巻としてリヒャルト・ヒュルゼンペックの「幻想的な祈り」発行。挿絵は,ハンス・アルプの7点の木版画で,彼の木のレリーフのいくつかのものの形を取ったものである。アルプの最初期の仕事に見られた表現主義的な形態は抽象的な詩的象徴へと変化していた。マニョリエン通りの6の4番地のゾフィー・トイバー=アルプの家で,ダダイスト的なダンスや仮面による「文学祭り」が行われる。

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・・・,10月。コレクション・ダダ第3巻としてヒュルゼンべックの「シャラーベン,シャロマイ,シャラメツォマイ」がアルプの挿絵で出版される。ハンス・リヒター到着。ヒュルゼンべックはドイツに戻りグライスヴァルト大学で医学の勉強を続けることを決心。

・・・,12月。アポリネールからツアラ宛ての初めての手紙(12月14日付)。ツァラは1916年4月(アポリネールが入院していた時期)以来彼と連絡を取ろうとしていた。「あなたにもっと早くお手紙を差上げなかったのは,今まであなたが戦いから超然としているのではないかと思っていたからです。それは,物質的,芸術的,道徳的進歩が脅威にさらされている時代において受入れがたい態度なのです……」。

ジュネーヴ,11月。画家クリスチャン・シャートがジュネーヴに居を定める。

ハノーファ,6月10日。「ケストナー協会」創設。この協会は現代美術の宣伝を目的とし,1920年代を通じて構成主義,ダダイズムの芸術の擁護に積極的に関わった。草創期においてこの協会を動かしたのはパウル・エーリッヒ・クッパースであった(彼の著書「立体主義」はライプツィヒで1920年に出版されている)。なおクッパースの娘は,リシツキーと結婚することになる。

ニューヨーク,1月。マリウス・デ・サヤス(Marius De Zayas)の主宰するモダーン・ギャラリーでピカビア展のオープニング。

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・・・,10月。おなじくモダーン・ギャラリーでブランクーシ展

・・・,11月。ツアラはチューリッヒから,マリウス・デ・サヤスに「アンチピリン氏の最初の天上冒険」を10部送り,ニューヨークとチューリッヒの結び付きが始まる。デュシャンと,アメリカにおける最も活動的なフランス現代美術の紹介者のひとりとなるアンリ・ピエール・ロシュが,出会う。

・・・,12月。ロバート・コーディの雑誌「地』発刊。ブエノスアイレス,11月。チリの詩人ヴィンセンテ・ウィドブロによる創造主義についての講演。翌年初め彼はパリに着く。以後ウイドプロはダダイズムの非常に独立した独創的な「道づれ」となる。

モスクワ,1月。ローザノワは詩人クルチョーヌイフの未来派的テクスト「世界戦争」の挿絵をなす最初の抽象的コラージュの連作を制作この作品の独創性,その制作を支配する詩的な精神は、この抽象美術の最初の傑作を,アルプのダダイスト的なひらめき,マレーヴイツチのシュプレマテイズムの独創性,カンディンスキーの「宇宙的」な抽象(1914年の「即興」)の形而上学的な精神の高揚などに匹敵する位置を与えている。

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・・・,3月。タトリンは,未来派の展覧会「店」を組織。彼の強い要請に従って,マレーヴイツチ,クリューン,ポポーワ,ウダリッオーワ,モルグノーフが,立体=未来主義的作品のみで参加したのにたいし,タトリンは「絵画的レリーフ」「コーナーレリーフ」を出品

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 またロトチェンコがこの時初めて前衛的な展覧会に参加,具象的作品,および「人の手の偶然性を避ける」ため「コンパスと定規を用いて描かれた」幾何学的=抽象的デッサンを出品した(このフォルマリズムの原型ともいうべき考え方は「機械主義的」な精神という点でピカビアの思想に近く,他のダダイストの作品を予告するものである)。

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・・・,11月。「ダイヤのジャック」グループの展覧会。マレーヴイツチはこの会の会長となる。この展覧会はモスクワにおける無対象絵画の初めての大規模な展示で,マレーヴイツチ(00点を出品),クリューン,ポポーワ,ローザノワ,ウダリツオーワらが出品。

・・・。カーメルヌイ劇場におけるアンネンスキー原作「ファミラ・キファレト」のA.タイーロフによる演出。とりわけアレクサンドラ・エクステルのダイナミックな無対象の舞台装置が注目に値する。純粋に「未来派的」(つまり前ダダイスト的)な衝動からクルチョーヌイブ,クリューン,マレーヴイツチは「中傷的」内容を持ったパンフレット「学士院会員諸兄の密かな悪徳」を発表。この時からクルチョーヌイフは基本的な芸術創造の方法として,典型的にダダイスト的な,この抗議の形式をとる。その指向は批判的であることを好み,とりわけ気にいり形式は短いパンフレットであった(その行動,性格においてクルチョーヌイフはヨハネス・バーダーとよく似ている)。

ぺトログラード,12月。ズダネーヴイツチによる「ザーウミ」(超意味言語)の劇詩「アルバニア人の王ヤンコ」が,ステファニー・エッセンのアトリエで上演される。検閲でこのテクストを印刷する許可はおりない。それは,ズダネーヴィツチが「アズラーブリッチァ」の名の下にまとめた5点の「dra」(滑稽芝居)の1点目であった。5つとは「アルバニアの王ヤンコ』「ろば貸します』「復活祭の島』「あたかもZga」「先導者ルダンテユ』。

ブダペスト,8月。雑誌「A Tett』の国際版が発行停止を受ける。

・・・,11月。「A Tett」の9月20日号がふたたび発行停止を受けた結果,「アクティヴィスト」のサークル「MA」(「今日の意)が結成され L.コシャークを編集責任者として雑誌「MA』の創刊号が出版される。

・・・,12月。ガリレオ・サークルでロヨシュ・コシャークの文学における近代性に関する講演。


 ■1917

デルフトテオ・ファン・ドゥースブルフが「絵画芸術の新しい諸運動』を出版。フアントンヘルローの最初の抽象彫刻。

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ライデン,10月。テオ・ファン・ドゥースブルフならびにピエト・モンドリアン,アントニー・コック,J.J.P.アウト,バルトフアン・デル・レックによって雑誌「デ・ステイル』創刊号が発行される。この当時グループになにより影響をあたえていたのはモンドリアンの作品であった。

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チューリッヒ,1月。コレイ画廊で最初のダダ展。アルプ,ファン・レース,ヘルピッヒ,ルテイ,リヒターおよび黒人美術。とくにコラージュとレリーフの作品。ヤンコとリヒターのポスター。ツアラの3回の講演。

・・・,3月。チューリッヒのダダ画廊で展覧会。カンペンドンク,カンディンスキー,クレー,メンゼが出品。表現主義,抽象美術,新しい芸術に関するツァラの講演。その中でダダは未来派,表現主義そして抽象美術の形而上学的な高揚さを源泉としていると主張。

・・・,4月。フーゴーリヤルのカンディンスキーについての講演。ダダ幽廊における「シュトゥルムの夕べ」。ツアラによる前口上につづいて,バルがマリネッテイ(未来派文学について)とカンディンスキーの文章を朗読,アポリネールの文章をF.グラウザーが朗読。ダダ画廊で新芸術の夕べ。シェーンベルク,フォン・ラパンの音楽。レオン・ブロワ,フーゴー・バルの文章(後者の「グラン・ホテル・メタフィジック」,仮装の散文)。マルセル・ヤンコ,エミー・へニングス,フーゴー・バル,トリスタン・ツアラ

ツァラの肖像

・・・,5月。ダダ画廊で版画,刺繍,レリーフの展覧会。黒人音楽とダンス。子供のデッサン。これについてツアラは雑誌「ダダ』第1号に「芸術につての18の覚え書き」を書いてこう述べている。「芸術は今ではそれ自体で完結する唯一の構築物である。それについてはもう何も言えない。それぽどにこの構築物は豊かさであり,活力,意味,英知である。理解すること,見ること」。「旧・新芸術」の夕べ。ツアラの朗読,訳で「黒人」詩。自分の理想主義的な方向に忠実だったフーゴー・バルは,ツアラとの強烈な衝突の後,チューリッヒのダダと絶縁する。5月末か6月初め,バルは,夏休みのためチューリッヒを後にして運動から完全に離脱。

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・・・,7月。無政府主義者の印刷屋ユリウス・ホイベルガーの戸口刷機で「文学・美編集成」「ダダ』第1号が出来上がる。トリスタン・ツアラ,フランチェスコ・メリアーノ,アルベルトサヴイーノ,ニコライ・モスカルデッリの文章。アルプ,ヤンコ,ルテイ,プランポリーニの作品図版。

・・・,12月。「ダダ2』の発行。アポリネールからツアラ宛ての手紙:「コピーをお送りしなかったのもこの雑誌のドイツにたいする在り方が十分には鮮明でないように思われたからです」(外国出身〔ポーランド〕という理由,とりわけ私生児であるということから,アポリネールには一種の「愛国的」コンプレックスがあって,未来派とダダについての彼の対応に大きく作用している)。

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ベルリン,2月。チューリッヒからヒュルゼンペック到着。

・・・,3月。ウィーランド・ヘルツフェルトが極左系の小出販社マリク書店を開く。この出版社でダダイスト系の数多くの文章が出版されることになる。

パリ,3月。ピエールリレヴェルディを主筆に,アポリネール,マックス・ジャコブ,ポール・デルメーの協力を得て「ノール=シュド』(Nord-Sud 1917-1919 – Pierre Reverdy)誌第1号が創刊される。同誌は1918年10月までに16号が出版された。ルヴェルディの初期の著作は第一次大戦後のひとつの偉大な精神を予告している。その全著作は,彼の死後(彼自身の意思に従って)未亡人の手で完全に破棄された。

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・・・,4月。アポリネールの仲介で,ツアラはチューリッヒから『ノール=シュド」に協力する。

・・・,6月。アポリネールの「超現実的演劇」である「ティレシアスの乳横」がモンマルトルのミシェル劇場でマチネーに上演される。フィリップ・スーポーはこの時プロンプターを務めた。ブルトンは同会場で,英国将校の制服を着たヴァシェに再会した。ヴァシェは「叙情的な調子と,舞台裳告とコスチュームにみられる立体派のむしかえし」(ロシア人両家セルジェ・フェラ,本名ヤストレプツォフの手になる)に腹をたて,拳銃を抜く。雑誌「シック』18号が「ティレシアスの乳房」を特集。

・・・、10月。ルイ・アラゴンとアンドレ・ブルトンが出会う

バルセロナ,1月。フランシス・ピカビアが雑誌「391」を創刊。

・・・,10月。ピカビアが「52の鏡」(1914年から1917年の間にかかれた詩をまとめたもの)を出版

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ニューヨーク,1月。アルテュール・クラヴァンがバルセロナから着く。マン・レイとアドン・ラクロワが「視覚的なことば,目にみえた音・・・思考,感じた,思考された感覚」を出版。

・・・,2月。マルセル・デュシャンが最初の「レディ・メイド」を制作。デュシャンはモット衛生設備商会で買った便器を上下さかさまにし,R.Mutt(リチャード・マッりと署名,「泉」と専名をつけて,ニューヨークのインデペンデント展に出品しようとした。この作品はしかし審査員に出品を拒否された。

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・・・,4月。ガブリエルとフランシス・ピカピア夫妻が,バルセロナで発行した暑初の4号の「391』を持ってニューヨークに到着。「ソサエティ・オブ・インデペンデントアーティスト・インコーポレイティド」の展覧会=「ザ・ブラインドマン』(「盲人」の意〉の創刊号(「インデペンデント展」特集)が発行される。誌「ローグ』主催の舞踏会。

・・・,5月。第2号の「ザ・ブラインド・マン」(今度は2語で綴られる)は数ページを「リチャード・マット事件」,つまりインデペンデント展が、R・マット(デュシャン)の「泉」を出品拒否した事件に充てている雑誌「391』と『ザ・ブラインド・マン」の間のライバル意識からピカビアとアンリ・ピエール・ロシュの間でチェスによる決闘が行われる。「ブラインド・マン」の舞踏会。

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・・・,6月。アルテユール・クラヴァンの講演会。彼は演壇上で服をぬぎはじめる。醜酎していた彼は,逮捕され 8日間拘置された後コレクターのアレンズバーグが保釈金を積んでようやく自由の身となる。

・・・,7月。デュシャン,ロシュ,ベアトリス・ウッドによる雑誌「ロングロング』(「最悪」の意)の唯一の号発行。ミス・クリフォード・ウイリアムスの触覚的作品(「デ・サヤス宅での手触り用石膏」)。

・・・,8月。F391』の第7号発行。

ロシア,2月。革命勃発以来,前衛芸術家たち、とりわけタトリンマレーヴイツチは新しい美術制度の組織化に参画する。

モスクワ,4月。フレーブニコフは「地球の大統領たちの宣言」を起草。この宣言はベルリンのダダイスト,ヨハネス・バーダーの宣言と多くの点で似通っている。

・・・,10月9日。オスカー・ワイルド原作の芝居「サロメ」がカーメルヌイ劇場で初演。タイーロフの演出,アレクサンドラ・エクステルによる幾何学的(ポストキュビスト的,抽象的)衣裳と舞台装置。そこには既に,将来の構成主義絵画の基礎となるべきものが据えられていた。

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・・・,11月。マレーヴイツチが「ダイヤのジャック」協会の会長に選ばれるが,それは,1915年以来マレーヴイツチに敵対してきたタトリンの退会を招く。その後もこの対立はますます激しくなった。マレーヴイツチは更にクレムリンの美術品保護委員に任命される。「ダイヤのジャック」グループ(新組織)はその最後の展覧会に,マレーヴイツチを中心とするサークル「シュプレミュス」(マレーヴイツチ,ポポーワ,ウダリツオーワ,ローザノワ,クリューン,エクステル)に無対象作品を陳列。


■1918

モスクワ,6月15日。カジミール・マレーヴイツチは,白の宣言」として知られることになる「声明」を起草,その中で「色彩の超越」と,シュプレマテイズムから「純粋に無対象の創造」への移行を説いた。それはこの後,絵画制作そのものを乗越えることを招くものであった。マレーヴイツチの元の仲間のシュプレマティストたちは,無対象芸術の指導者が求める哲学的な厳しい要求におそれをなして,彼との連帯を解消する。以後,マレーヴイツチは無対象芸術の敵対者たちにひとりで立向かうことを余儀無くされることになる。

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オランダ。テオ・フアン・ドゥースブルフは,ダダイストとしての変名 I.Kボンセットを初めて用いる。

・・・,11月。美術雑誌デ・ステイル』の最初の宣言。

パリ,4月。アポリネールが,1913年から1918年にかけての視覚的な詩の選集「カリグラム』を出版。文字は空間的=図解的意味を得る。マラルメの作品(「賽の一投」1896)によって既に厳しい試練を経ていた,書くという行為の線的な論理は,このようにして打破られ そのことによってこれ以降,文字は音となり,その音声的自律性,への道が開かれることになった

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・・・,5月。ポール・デルメーとピエール・ルヴェルディが決裂。その理由というのがロザンベールの家でデルメーが行ったアポリネールとジャコブについての講演で,そのなかで,デルメーは言語的創作と精神錯乱を比較対照して論じたため

・・・,5月22日。アポリネール結婚

・・・,11月。戦争で負傷していたギヨーム・アポリネールが,さらにインフルエンザにかかり死去。フランス。アメデ・オザンフアン,シャルル・エドゥワール・ジャンヌレ(ル・コルビュジェ)『キュビスム以降』を出版。この近代の造形にたいする最初の「ピュリズム」的(形式主義的=還元主義的)解釈を発端に,一連の「懐古的」で擬似・近代主義的な逆行的解釈が現れる。それらは,主題の近代性を支持しながら新しい芸術概念の根本的な近代性,「モデル」の重荷から解放された新しい非模倣的な造形創造にたいしては反対の立場をとった

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ベルリン,1月。チューリッヒから戻ったヒュルゼンべックが,ノイマンの版画画廊でダダ・プロパガンダの夕べを組織

・・・,2月。ヨハネス・バーダーが「白い木馬の鞍に」またがって,みずから「超ダダイスト地球間国家連盟」総裁を宣言。

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−−−−,3月。ハウスマン,バーダーとともにヒュルゼンペックは「クラブ・ダダ」を設立。『ディ・フライエ・シュトラーセ』第7号として,「クラブ・ダダ」を発行。

・・・,4月。ベルリン・グループの主導権を握ろうとしてヒュルゼンペックは「マニフェストダダ」を起草。ヒュルゼンペック,ハウスマン,グロッスがベルリン分離派会館で大規模な会合を組織した。「生活と芸術におけるダダ」(ヒュルセンペック),「未来派とダダの詩」(エルゼリ、トヴイーガー),「シンコペーション,個人的な詩」(グロッス),「絵画の新しい素材」(ハウスマン)。ラウール・ハウスマンの証言によれば「(この会合の後)ヒュルゼンペックは一時姿を消し,9カ月間にわたりバーダーと私だけがダダの運動を支えた」(『ダダ通信j1958より)。

・・・,6月。クルトシュヴイツタースヘルヴァルト・ヴァルデンのシュトゥルム画廊抽象絵画をはじめて展示する。1918年2月のハノーファー分離派展で表現主義の絵画作品を展示した後、シュヴィッタースは表現主義を擁護する批評活動を行っていた芸術家ヘルヴァルト・ヴァルデン(Herwarth Walden)と知り合いになり、6月にはベルリンにあったヴァルデンの画廊デア・シュトゥルム」(Der Sturm、「嵐」)で2枚の抽象的な表現主義的風景画を展示した。これが、デア・シュトゥルム周辺に集まっていたベルリンのアヴァンギャルドのメンバーたち、ラウル・ハウスマンハンナ・ヘッヒハンス(ジャン)・アルプらとその秋に知り合うきっかけになった。

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・・・,夏。ハウスマンがフォトモンタージュを発明。−−,11月。ラウール・ハウスマンが,宣言「絵画,彫刻、建築の素材」を出版。

・・・。ヨハネス・バーダーは,ミサを妨害,キリストの教えをもっと尊重すると称して,次のような言葉で司祭を罵るという,一見冒瀆的な振るまいをする。「ちょっとまてよ。あんたのイエス・キリストとは何者だい。あんたはキリストをちっとも大事にしてないじゃないか……」

・・・。「11月グループ」創設。1920年代初頭,この「進歩的」グループは,ダダイストと構成主義者の活動の共同基盤となった。ラウール・ハウスマンはその中心的な活動家のひとりとなる。1922年には彼らは作品を匿名で展示することを提唱(マレーヴイツチを中心とするグループ「ウノヴイス」は1923年にこの姿勢を採用)。4月に最初の大規模な「ダダの夕べ」に参加。ベルリン・ダダの創立者の一人となる。同年の夏頃より、当時恋人であったハンナ・ヘッヒとともに、新たな表現手法としてフォトモンタージュの創作を開始。その革新性、表現としての力強さの虜となってゆく。ポスター用の木版活字を用いて、「ポスター詩」「文字詩」と呼ばれる作品群を発表。またそれらの詩を自ら吟じながら踊るというパフォーマンスも考案し、視聴覚の両面から訴える表現を追求した。

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・・・,12月。スパルタクス団の大規模なデモ。

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チューリッヒ。画家のヴィキング・エッゲリングが,トリスタン・ツアラハンス・リヒターと接触。

・・・,3月 ヴァルター・ゼルナーはルガノにひきこもり「宣言・・・最後の解体」を起草。

・・・,7月。ツァラの「25篇の詩』がアルプの木版画10点をつけて,コレクション・ダダの一冊として出版される。トリスタン・ツァラは自分の作品と「ダダ宣言1918」を「ツア・マイゼ」のホールで朗読。

・・・,夏。ツアラは回覧状を介してピカピアと接触。ツァラの送った回覧状はスイスのベクス・レバンにいたピカビアまで回送された。以前にはアポリネール,デュシャンの「オルフィツクな」(哲学的)志向を支持したピカビアは,この時点では,将来のフランスにおけるダダ運動を作りあげる主要人物と思われた

・・・,9月。ヴオルフスペルク画廊におけるルプ,リヒター,マックーシュ,バウマン,ヤンコの展覧会。 」

・・・,12月。「ダダ3』誌にツアラの「ダダ宣言1918」発表。表紙に「私以前に誰か人がいたかどうかなんてことは知りたくもない」(デカルトの言葉と伝えられる)。ルヴェルディ,ピカビア,アルベール=ビロ・スーポー,カミロ・スバルバロ,ツアラ,ポール・デルメー,サヴィーニオ,ウイドプロの文章。ヤンコ・アルプ,ゼーガル,プランポリーニ,リヒター,ピカピアの作品図版。

ローザンヌ,2月。ピカビアは,プランシュヴィラ一博士から神軽衰弱の治療を受けるため,パリをはなれローザンヌを訪れる

・・・,秋。ピカビアの「母親なしに生れた娘の詩とデッサン』発行。

・・・,12月。ピカビアの「5つの歌からなる詩」,「葬送行進の運動家がペグナンで出版される。一方,ローザンヌでは彼の「プラトニックな入れ歯」が出版される。

ブリュッセル,11月。ドイツの前衛的な批判家カール・アインシュタインがドイツ人兵士と労働者の上官にたいする蜂起で中心的な役割を果たす。彼は兵士,労働者たちの断固たる代弁者であった。ベルギーのダダイスト,パンセールも,友人のアインシュタインに援助されてスパルタクス団の反乱に積極的に参加する。convite_virtual11

・・・,12月。ジャック・ヴァシェ,ブリュッセルに滞在。アンドレ・ブルトン苑ての手紙に次のように書く。「今,ブリュッセルに居る。こんどもまた,朝の3時のタンゴとすばらしい工場という僕の大好きな雰囲気。それからストローを2本つけた恐ろしいカクテルに血塗れの微笑み」。

フランクフルト。何カ月か前から抽象絵画を描いてきた若い画家ヴァルター・ルットマンは,「時間の中で展開する(抽象)絵画」というアイデアを思いつく(その結果生れたのが,彼の映画「作品番号1」のための最初の試作であった。この作品は2年後に完成されることとなる。

マドリッド,秋。ウイドプロはマドリッドに居を定め,「ウルトライスト」のグループをまもなく形成することになる芸術家たちの中心メンバーと知合う。

メキシコ,2月。アルテエール・クラヴァンが詩人ミーナ・ロイと結婚。

・・・,秋。アルテユール・クラヴァン行方不明

ブダペスト,11月。雑誌「MA』がロシア革命を特集した特別号を出版

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クラクフ,夏。ポストエクスプレッショニスト的,ダダイスト的傾向のグループ「フォルミスト」が生れる。10月には彼らの雑誌『フチルミスオ』が出版され未来派クラブ「ガルカ・ムシュカトヴァ(ナツメグりんご)」が作られる。理論に特に強い関心を抱いたヴィトキェヴィッチ,フフィステックの二人が,この新しいポーランド絵画のもっとも独創性にあふれた芸術家として頭角をあらわす。

モスクワ,11月。「人生の未来派」を称したゴルトシュミットが,純然たるダダイスト的な行いとして「自分自身のためのモニュメント」を始める。この行動は,「あらゆる時代を通じての革命的英雄のモニュメント」をたてるためにコンクールを開いた人民委員の発議にたいして答えるものであった。(マレーヴイツチも,プロレタリアートの「新しい偶像」を大袈裟に賛美することを目的としたこのコンクールには強く反対した。) 

・・・。「第5回国営絵画展」。ドレヴィン,カンディンスキー,クリューン,モルグノーフ,ペステリポポーワ,ロトチエンコ,ステパーノワ,ウダリツオ ̄ワ,ファヴオルスキー,チェクルイギンほかが参加

・・・。ローザノワ死去。その葬儀は無対象絵画を擁護する大々的な大衆威示行動に形を変えた。オリガ・ローザノワの遺作展では,250点の絵画,エスキース,習作,デッサンが,ロジェストヴュンカ街のサロンで公開された。目録序文は画家の1.クリューンが書く。

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・・・,3月。「芸術の任務と芸術抑圧者の役割」(マレーヴイツチとならんでアレクセイ・ガン,モルグノーフが署名),「死せる杖」,「鉄筋コンクリートヘの平手打ちとしての建築」など,マレーヴイツチの7編の論文が,アナーキスト系の雑誌「アナルヒア』に掲載される。

・・・,6月15日,無対象主義のセミナー「シュプレミュス」解散マレーヴイツチは純粋の無対象についてのアピールを起草。のちに「白の宣言」とよばれることになるこの文章のなかで純粋の無対象の基本原理が明示される。すなわちシュプレマテイズム(絶対主義)が絵画の限界を超越し哲学の領域へ移行するという主張である(マレーヴイツチはのちに「純粋思考」という言い方をする)。

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・・・,秋。青年芸術家クラブでの最初の個展。

ペトロゲラード,11月。マヤコフスキーの戯曲「ミステリア・プッフ」初演。メイエルホリドの演出,マレーヴイツチの無対象の衣裳と舞台装置。観客の反応は賛否両論だった。

・・・,12月。週刊の「コミューンの芸術」創刊。編集者任者は批評家プーニン。同誌にはマレーヴイツチ,シクロフスキー,プリーク,クシネルほかが参加。この「政治参加的」,前・構成主義的雑誌の出版は,その「アクティヴィスム的」内容が秩序をみだすとして,1919年4月に中止される。


■1919

パリ。戦争のため久しくオランダに帰っていたモンドリアンがパリに戻る。フランス,1月。過度のアヘン服用のため,ジャック・ヴァシェ(23歳)と二人の青年がナントのオテル・ド・フランスにて死亡。

・・・,3月。アラゴン,ブルトン,スーポー編集,アドリエンヌ・モニエ委託の雑誌「リテラテュール(文学)』創刊号発行。ピカビアがフランスに帰国して,ジェルメーヌ・エヴェルランの家に居を定める。

・・・、4月。ジャン・クロッテイとシュザンヌ・デュシャンが結婚。マルセル・デュシャンは,幾何学の本を紐でバルコニーに吊るす「不幸なレディ・メイド」をプレゼントする。デュシャンの《 不幸なレディメイド 》では、「幾何学」の教科書が バルコニーに吊るされ、風に煽られ、日々損じて無に帰す。
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・・・,5月。1910年代にコレージュ・シャプタルでブルトンと同級生,親友だったイルスンが,「オー・サン・バレイユ」を作る。イルスンはコレージュ・シャプタルの時代にタイプ印刷で雑誌を出していたが,アンドレ・ブルトンの文章を初めて掲載したのはこの雑誌であった。「リテラテュール」誌の叢書売込みのため「オー・サン・パレイユ」は.バテルヌ・ペリションを通じて手にいれたランボーの未発表の詩ジャンヌ・マリーの手」を発表。

・・・,6月。アンドレ・ブルトンは、オー・サン・バレイユ社から「敬虔の山」を出版。ブルトンとスーポーは,自動筆記による文章「磁場」を執筆。ロシアの超意味言語(「ザーウミ」)の実践と同じく,このテクストによって芸術理論の新しい一章がきりひらかれ機械的な世界の「旧」論理にとどめの一撃が加えられた。

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・・・,8月。ジャック・ヴァシェの「戦場からの手紙」,サンドラールスの「19の柔軟詩編」,スーポーの「風の薔薇」,ピカビアの「ことばなしの思考」がフィギェール社から出版される。

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・・・、10月。ポール・モランが「アーク灯」を発表。

・・・、12月。ブルトンはピカビア宛てに手紙をおくり「リテラテュール』誌への協力を求める。ブルトンはイタリア未来派のマリネッティ逮捕に抗議する威示行動を計画する。11月18日の選挙戦敗北の後,マリネッティはムッソリーニ,ヴュッキならびに15名の「アルデンティ」とともに,国家の秩序を脅かし,武装集団を組織したかどで,21日間の拘置をうけたのである。「戦闘ファッショ」中央委員会のメンバーであったマリネッティはムッソリーニの候補者リストで第2位で,選挙に出馬した。(ファシズムの観念論的,単純幼稚なヴィジョンと,いささかイメージを掴みにくい近代主義との混同は,イタリア未来派の運動について大きな誤解をまねく原因になった。しかしながら,マリネッティは,一度として,ファシズムの本質的な教義に賛成することはなかったのである。)

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 アラゴンは,ピカソの挿絵で「喜びの火』を出版。ピカピアはツアラに対して,自分がパリの「セクション・ドール派」の会員に指名されたと知らせる。アドン・ラクロワ(後にマン・レイと結婚)のパンフレット「論理は殺す』がマン・レイのレイアウトで出版される。

ベルリン,2月。ラインゴールドのカイザーザールにおいて,ヨハネス・バーダーは,みずから「地球大統領」を宣言するヴィーラント・ヘルツフェルデによるパンフレット「みんな自分のフットボール」が,グロッス,ミノーナ,メーリングの協力、ハートフィールドのフォトモンタージュを得て出版される

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・・・,3月。宇宙論的かつダダイスト的な色彩をおびた神秘思想にうごかされたヨハネス・バーダーは「青い銀河クラブ」を設立。この時以降,このテーマは,ヨハネス・バーダーのダダイスト的象徴主義のライトモティフのひとつになる。

・・・,4月。ラウール・ハウスマンは,雑誌「デア・アインツィーゲ(唯一者)に政治的な性格の宣言「ワイマール的視点に反対して」を発表。66

・・・・,5月。大がかりなダダの夕べ。J・B・ノイマン版画画廊での最初のダダ展開会式に,ハウスマンの音声詩が朗読されゴリシェフの「反交響曲」が 演奏される

・・・,6月。ハウスマン,ヨハネス・バーダーによる雑誌「デア・ダダ」第1号出版。ツァラのテクスト。ブルヒャルト画廊で「大ダダ見本市」開催

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・・・,6月29日。シュトゥルム画廊にてシュヴィッタースの個展。この時に初めて「メルツ」の絵画とコラージュが公表される。7月、雑誌「デア・シュトゥルム」にシュヴィツタースは「メルツ絵画」宣言を発表。シュヴイツタースは「メルツ」という言葉を自分の創造の商標,略号として用いる。それは,全くダダイスト的な,擬声語にちかいものであった。

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・・・,7月。ヨハネス・バーダーのパンフレット「緑の死体」(「白いダダの馬の鞍にのった地球大統領」)がワイマールの国会で配られる。バーダーの社会的(政治的)活動にはつねに宇宙論的な性格がつきまとっていたが,そのことは同時にあらゆる芸術の政治化にたいする批判をなしていた。バーダーにとって芸術的なものは,社会的なものをつねに越えていた。Baader-Grandeur-et-decadence

・・・,9月。へクステール,フィルン,ハーゼ,ヒュルゼンべック,ハウスマン,メーリングらによる雑誌「デア・ブルーディゲ・エルンスト(くそまじめ)」第1号発行。この第1号は開業医の特集号。第2号のユダヤ人特集号は,反ユダヤ主義者にたいする挑戦であった。

・・・,12月。ハウスマン,「デア・ダダ」誌第2号発行

ケルン,11月。クンストフェライン(芸術協会)でダダ展。ヨハネス・バーダー,バールゲルト,エルンスト,オットー・フロイントリッヒが「ビュルタンD」を発行。チューリッヒ,1月。クンストハウスにおいて,アルプ,バウマン,アウグスト・ジャコメッティ,ヤンコ,ピカビア,リックリン,バイリー,ルテイ,モラクの展覧会。フラーケ,ツアラ,ヤンコの講演(ツアラはスライドを用いて「抽象美術」を論ずる)。ピカービアの選集が出版されると,ツァラは,ピカビアを招待,二人は1月22日に会う

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・・・,2月。雑誌「391』の第8号発行。「旅する雑誌」をうたう。ニューヨーク・・・パリ・・・チューリッヒ・・・バルセロナを結ぶ軸が形成される。2月22日には,ヴァルター・ゼルナーがチューリッヒに到着。

・・・,3月。プファウエン劇場にてマリー・ウィグマンの踊り。

・・・,4月。ツアラとヤンコの間で激しい意見の対立。恐らくこれが原因で,ヤンコは,5月4日付の「ノイエ・チューリッヒャー・ツァイトゥング(新チューリッヒ新開)」に出た「グルッペ・ノイエス・レーべン(新生集団)」宣言に著名。ハンス=ノヒターとヴィキング・エッゲリングは協同制作を始めるためにベルリンへ出発。クンストハウスにてアリス・バイリー展。ツア・カウフロイテンのホールで8回目のダダの夕べ。演出ゼルナー,曲芸師指導ツァラ。

・・・,5月「ダダ・アンソロジー」の「ダダ4-5」発行。ドイツ語版はゼルナーの宣言「最後の引緩」を掲載。

・・・6月。(新聞に予告を出して)アルプとツァラの間で虚構の決闘・・・「青あざのついた個人的勝利を祝うために」。

・・・,9月。9回目のダダの夕べ。

・・・,10月。ツァラによれば,当時,世界中の新聞雑誌には,ダダについて8590の記事が発表された。

・・・,11月。オットー・フラーケ,ヴァルター・ゼルナー,トリスタン・ツァラ編集の雑誌「デア・ツェルトヴェク」の唯一の号発行(チューリッヒで最後のダダの雑誌となる)。この出版には、シュヴイツタースそのほかが参加協力した。

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