ダダ運動年表史-2-1919-1922

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・・・,12月。ツァラは,チューリッヒを後にパリへ向かう。

ハノーフア,8月。クルト・シュヴイツタースがメルツ詩「アンナ・ブルーメに」を発表。

シャビッタース・ダダ宣言

・・・,12月8日・・1920年1月12日。ケストナー協会にてシュヴイツタースの最初のコラージュ展ベルリンでシュヴイツタースはハウスマンと知合う。(ベルリンの人々は,シュビッタースが余りに「ブルジョワ的」「芸術家的」であるとして,彼をクラブ・ダダに入れるのを拒否する。)

シュビッタース1919-1 1919-シュビッタース-2 1919-シュビッタース-3

ローザンヌ,2月。ピカビアの詩集「ポエジー・ロン・ロン」出版。ピカビアは2月8日にチューリッヒを後にして,同月22日にはローザン」に着いている。

ワイマール。建築家のヴァルター・グロピウスが,近代美術,近代工芸の学校を設立,バウハウスと名付ける。「近代精神の聖堂」を説いた宣言と綱領を発表。ヴァン・デ・ヴェルデの「手工芸」原理を出発点としながら,バウハウスは芸術と近代技術の総合を果たし,「近代的建築物」(イメージとしてではなく,実現されたものとしての建築)を目標とする。

WalterGropius-1919 Bauhaus_in_Dessau

ニューヨーク,3月。アドン・ラクロワ,スーポー,アレンズバーグ,シーラー,ドーソンの協力を得て,マン・レイが,「爆発性雑誌TNT」の唯一の号を出版。マルセル・デュシャンによれば「マン・レイは,無政府主義者ということで監獄にいたことのあるアドルフ・ヴオルフという彫刻家と一緒に,あの雑誌をやっていた」(ピエール・キャパンヌ「デュシャンとの対話』)。

モスクワ,5月。「オブモフ」(青年芸術家同盟)のグループの第1回展覧会。目録はなし。装飾的なタイプの作品群。町の壁や展覧会場の窓に「アクティヴィスト的」(つまりダダイスト的なタイプの)スローガンの入った挑発的なポスターを貼る。参加者は,デニソフスキー,ザムシュキン,コマラデンコフ,ウラジーミルとゲオルギーのステンペルク兄弟,ヤクロフなど。

・・・,夏。マレーヴィッチは,絵画制作の放棄を予告,以後はもっぱら理論に没頭すると発表する。このことは,ロトチエンコの「反=絵画主義」の反動と彼の「線条主義」の様式を生むことになる。マレーヴイツチはネムチノフカ(妻の夏の別荘のある場所)で最初の彼の理論書「新しい美術のシステム』を執筆。

・・・,秋。第10回国営展:無対象創造とシュプレマティズム。芸術家たちの発言と作品リストを含む目録発行。参加者は,アガルイン(ステパーノワ),ヴェスニーン,ダヴイドーワ,クリューン,マレーヴイツチ,メニコフ,ポポーワ,ロトチエンコ,ローザノワなど。は多数の作品を出品。そのなかには,マレーヴイツチの「白の上の白」に対抗する「黒の上の黒」のコンポジションが含まれていた。目録の中でマレーヴイツチは,かつての盟友たちから攻撃される。この時以降,シュプレマティズム構成主義の立場は,公然と敵対するようになる。

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・・・。第11回国営展:カラー・ダイナミズムと構築的プリミティヴイズム。目録は,A.グリチエンコとA.シェフチエンコの2編のエッセーおよびマニフェストその他を含む。

・・・,10月。ディミトロフスカ街のサロンで第19回国営展。参加者は,カンディンスキー,クリンスキー,ラドフスキー,ステパーノワ,シェフチエンコなど,ロトチエンコはまたも多数の作品を出品,まるで彼の回顧展をやろうとしているかのようであった(ロトチエンコの生前では唯一の機会)。

・・・,秋。「ニチェヴォーキ」グループ結成(「ニチェーヴォ」とは「無」という意味)。彼らは,ダダイスト的な活動を目指した。この「無主義」のグループには,ルリーク・ロク,V.ゼメンコフ,E.ニコライエワ,A.ラボフその他が参加,定期的に私的な住宅などで集会を開く。

・・・,12月。高等芸術技術工房(ヴフテマス)創立。その目指した方向は,バウハウスと,全く同一ではないにせよきわめて近かった。初めの噴(1920−22年)は,無対象美術のテーゼが,この学校の予備過程(初めの2年)のカリキュラムに大幅に取人れられていた。

bw_uploads_103 img_8・・・,1919-20年の冬。マレーヴイツチの初めての個展が開かれ初期の印象主義的な作品からシュプレマテイズムにいたるまでの作品が展示される。マレーヴイツチの絵画創造を,歴史のひきだしに閉じ込めようとしたこの展覧会は,批評家のあいだでは,全く反響を呼ばなかった。

チフリス。クルチョーヌイフは「41度」グループを結成。「未来派」を称するこのグループは,本当のところは,ダダイスト的な志向を持っていた。参加したのは,キリール兄弟,イリヤー・ズダネーヴィッチ,テレチェフほか。

ヴィテブスク,秋。「第1回モスクワ地方画家絵画展」。目録序文,A.ロム。参加者は,アリトマン,ダヴィートブルリューク,グリチェンコ,カンディンスキー,レントゥーロフ,リシツキーマレーヴイツチ,メイエルソン,ロトチエンコ,ストシュミンスキ,ヒデケリ,シャガール,シェフチエンコ,エクステル,クリューンほか。

・・・,11月。マレーヴィッチがヴィテブスク美術学校の自由工房で教鞭をとりはじめる。シュプレマテイズムのグループウノヴィス結成。このグループの活動の一環として,無対象美術の系統だった教育がはじめて組織される。この状況に直面し,モスクワからマレーヴイツチの罷免を得ようとして成功しなかったシャガールは,ヴイテブスク美術学校を去る。マレーヴイツチのシュプレマティストのグループは,直ちに,主導権を握り.同校を無対象美術を教える最初の教育機関にした。教育者としてのマレーヴイツチの最初の仕事は,理論書「新しい芸術のシステム』の出版であった。

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ブダペスト,4月。共産党の括導者ベラ・クーンは,雑誌「MA』を「ブルジョワ的,類廃的」と攻撃。

・・・,6月。ロヨシュ・コシャークの断固とした反論「芸術の名によるベラ・クーンにたいする手紙」が発表される。「いったい,われわれの全歴史は,ブルジョワ的退廃の最後の陶酔にみちた痙攣に過ぎないのであろうか。親愛なる同志クーン,もしあなたが御存知ないならば申し上げよう。あなたがロシアの兄弟たちとならんで闘争に身を投じていた頃,われわれはすでに(……)共産主義のために闘っていたのだ。新しい芸術は,人間精神のもっとも奥深いところにあるものに形を与え,(…)世界のダイナミックスに総合をもたらすのである」。

・・・,7月。用紙不足を口実にして,雑誌『MA』が発行禁止になる。

ポーランド,後期=表現主義の画家・作家・理論家スタニスラフ・イグナチ・ヴィトキェヴィッチが,理論書『絵画の新しい形式とそこから生じた誤解』を出版。この書の中で,造形形態の新しい哲学的解釈の基礎が据えられた。ヴィトキェヴィッチは,写実的な芸術も抽象的な芸術もともに拒否して,もっと高い次元の形而上的なリアリティを握唱する。ヴィトキェヴィッチの公的な活動は,典型的にダダイスト的なものであった。


■1920

「デ・ステイル」の理念を広めるために,フアン・ドゥースブルフがヨーロッパ巡業,ブリュッセル,ワイマールのバウハウスで講演,ベルリンではハンス・リヒター,ヴィキング・エッゲリングと接触,またヴァルター・グロピウスとも会っている。彼は,ボンセットの偽名のもとに最初のダダイズム的な詩を書く。ファン・ドゥースブルフのダダ的傾向は彼の論文「今日,普遍的な造形概念は可能か?」のなかで定義されている。彼の著書「クラシック・・・バロック・・・モダーン』がパリとアントウェルペンで出版される。

パリ。モンドリアンは,自分のパリのアトリエを,新造形主義の抽象的な環境芸術に改築しようと考える。彼はまた,フランス語で『新造形主義』という小冊子を発行するが,フランスでは全く反響を得られなかった。

・・・,1月。ピカビアの住まいで,ピカビアとブルトンが初めて出会う。トリスタン・ツァラはパリに着き,ピカビアのもとに滞在。

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・・・,2月。ポール・エリュアール編集の月刊リーフレット『プロヴェルプ(ことわざ)』第1号発行(同紙は6号まで発刊)。アポリネール,ポーラン,ツアラ,スーポー,サド,ピカビア,ブルトン,レイナルらの作品を掲載。オー・サン・バレイユ社からピカビアの「ユニーク・ユヌーク」がツアラの序文をつけて出版される。

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・・・。シャンゼリゼのグラン・パレにおけるアンデパンダン展でダダ運動のマチネ(午前)。4ページのプログラムが,雑誌「ダダ」6号,「ダダ報告」となっていた。ツアラは報道陣に対して,チャップリンの参加,「ベルクソン,ダヌンツィオ,モナコ王子のダダヘの改宗」を告げる。同じプログラムは,パリ郊外ビュトーの使われていない礼拝堂を転用した,レオ・ポルデス経営のフォープール・クラブで,また19日には,フォーブール・サン・タントワーヌの民衆大学でも行われた。クロズリー・デ・リラで開かれた宴々しい集会の際に,ダダイストたちは,アルベール・グレーズ率いる「セクション・ドール」のキュビストたちに排除される。

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・・・,3月。「ダダフォーン」7号発行。「デカルト主義ダダイスト」を称するポール・デルメー編集の極小な雑誌『z』の唯一の号発行ジョルジュ・リブモン=デセーニュの「錏のカナリヤ」がウーヴル座で上演される。これは,ダダ運動の4回目の大威示集会の一部をなすもので,パリで最初のダダのパォーマンスであった。

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・・・,4月。オーサン・バレイユ画廊でピカビア展。雑誌「カニバル(人食い人種)第1号発行(この雑誌は2号まで)。これは,ピカビアが「全世界のダダイストの協力を得て」編集した月刊のエッセー集である173

・・・,5月。雑誌「リテラテュール」が「ダダ運動23の宣言」の特別号発行。ピカビアとツアラの喧嘩。ラ・ボエシー街の演奏会場サル・ガボーでダダ・フェスティヴァル。これはダダの威示集会として最大のもので,19の発言からなるプログラムのなかには,リブモン=デセーニュの「招かれざる臍」,ピカビアの「老眼マニフェスト・フェスティヴァル」,ブルトンとスーポーの「君はぼくをわすれるさ」,ツアラの「ワセリン交響楽」(20人で上演)など。オー・サン・バレイユ画廊でリブモン・デセーニュ展(「極小心臓病的な煙草の養殖と電気的登山術の講義」)。オーサン・バレイユ社からブルトン、スーポーの「磁場」出版。

・・・,6月。ツアラの詩集『抽象的心臓のカレンダー=映画。家」が,アルプの19点の木版画をつけて出版される。これは単独の出版物ではあったが,「コレクション・ダダ」という看板は掲げてあった。

・・・.8月。ツアラは,7月から10月にかけてチューリッヒ,ブカレスト,アテネ,コンスタンチノープル,ナポリそしてふたたびチューリッヒヘと大旅行。

・・・、8月。オー・サン・バレイユ社は,ピカビアの「山師イエス・キリスト』の出版について,ピカビアの自費出版であったにもかかわらず,利益分配率の修正がなければと,ためらいを示す。雑誌「ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ(NRF)」(ガリマール書店刊)が,アンドレ・ブルトンの「ダダのために」と,同誌編集長ジャック・リヴィエールの「ダダに謝す」を掲載。

・・・、10月。ゼルナーがパリに短期滞在、彼はブルトンに会うために来たが,ブルトンのもとに間違った住所を残す。ツアラがふたたびピカビアのもとに滞在。ポール・デルメー,オザンフアン,ジャンヌレ(ル・コルビュジェ)編集の「国際美学雑誌」,「エスプリ・ヌーヴオー」の第1号発行。

・・・,11月。ギャルリー・ラ・シーブルでピカビア展(のちにこの西廊はその所有者の名前をとってポヴォロフスキーとなる。ここで1920年代のダダイズム,構成主義の展覧会の大半が開かれる)。この画廊でツアラは「弱い愛と苦い愛についての宣言」および「どうやって私は魅力的で,好感がもてて,気持ちのいい人になったか」のふたつのテクストを朗読。ライデン4月雑誌「デ・ステイル」のふたつめの文学についての宣言。フアン・ドゥースブルフ,モンドリアン,コックが著名。「本の製造業者どもが,我々に,長さあたりいくら,重さあたりいくらで売りつけてくる言葉でできた自然主義的な決まり文句や感動的な映画などには(……)我々の生活にとって斬新な新機軸は(……)全く含まれていない(・…‥)。我々の周囲に,我々を貫くように,さまぎまな事象を,文字通り作り上げるためには,ことばを作り直すことが必要なのだ,概念にしたがってと同様に音にしたがって」。

ブリュッセル,5月。クレマン・パンセールの「ニグロの襟の尻にパン,パン」出版。

・・・,11月。パンセールが提案したダダ威示集会の企画が,主として1920年の夏にツアラが居なかったことが原因で,実現しない。この時点においてツァラは,ヨーロッパ全体のダダの行動のかなめとなる人物であった(実際,パンセールはこの企画について,主にピカビアと話しあっていた)。

ジュネーブ,2月。サロン・ネリでシャートのレリーフの展覧会。

・・・,3月。ゼルナ一博士主催の大ダダ舞踏会。

チューリッヒ,10月。アルプチューリッヒを後にしてベルリンに向かう

ウィーン,1月ハンガリーのソヴュト共和国崩壊後,敵対的な言論活動を行ったかどで逮捕されていたコシャークが,釈放され ウィーンに亡命するハンガリーの前衛的なアクティヴイストの多くが,同じようにウィーンへ移動,ウィーンはその後しばらくの間,構成主義とダダイズムの中心地となる

・・・,10月。ベーラ・ユイツの展覧会。ユイツとウマンスキーが出会う(ロシア人ジャーナリストのウマンスキーは,ドイツの美術界に,最近のロシア近代美術の発達について情報を与える)。

ドイツ,1月。バーターハウスマンヒュルゼンべックによるダダ巡業大旅行(ドレスデンとハンブルク)。このダダ巡業旅行のつづきは、ライプツィヒ(2月24日),テブリッツ=シューナウ(2月訪日),プラハ(3月1−2日),カールスパード(3月5日)にもまわる。

ケルン,4月。マックス・エルンストとヨハネスリマールゲルトによる「ディー・シャマード」(「降伏」の合図の意。意図的に「敗北主義的な」題名にしたとエルンストは言っている)。

ワイマールパウル・クレーとオスカー・シュレンマーがバウハウス教官となる。 paulklee image

ベルリンゲイキング・エッゲリシグとハンス・リヒターは,協力して,運動する抽象的=幾何学的シークエンスの制作を進める。ここから,彼らの最初の抽象映画である「水平的・垂直的」が生れる。

・・・。この年のうちにヒュルゼンべックは,「ダダ年鑑」と題したアンソロジーをまとめる。この出版は,最初のダダイズム解釈をなすものであったが,ヒュルゼンペックの日和見主義のために,客観性に欠け,妥協的だった真のダダイズムは,バーダー,ハウスマンというベルリン急進派にこそあったが,このカムフラージュの試みとの関係で相対的に後景に退いたままとなる。フランスにおいて,これと同じくダダの「文化的死刑執行人」の役割をはたすことになったのが,アンドレ・ブルトンであった。ブルトンは,シュルレアリスムのために,ということでこの役割をはたした。

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・・・。オットー・フラーケが「然りと否」を出版(フィッシャー書店)

・・・。2月。ヒュルゼンべックの「幻想的な祈り』増補新版が,グロッスの挿絵をつけて,マリク書店から出版される。

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・・・,4月。ロッス,ハートフィールド,ハウスマンの手で,アンソロジーの「デア・ダダ」第3号が,マリク書店より刊行される。

デア・ダダ

・・・,6月。ブルヒャルト画廊で「第1回国際ダダ見本市」開催。ベルリンにおけるダダイズムの頂点のひとつであった。グロッス,ハウスマン,へッヒ,バーダー,その他の人々の,数多くのコラージュ,アッサンブラージュが展示された。その中にはバーダーの巨大なコンストラクション「ドイツの偉大と没落」もあったが,それはシュヴイツタースのメルツバウを予告するアッサンブラージュであった。「ダダ見本市」のインスタレーション(展示設営)は,20世紀の美術の中に「環境(芸術)」の伝統を創始したのであり,まもなくして1930年代にシュルレアリストたちはフランスとアメリカでこの伝統を活用することになる

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マントヴァ(イタリア北部),6月。ダダイスト寄りの雑誌「ブルー』第1号が,未来派のジュリオ・エヴォーラとジーノ・カンタレッリ,アルド・フィオツィによって発刊される(後の二人は雑誌「ポルチェラリア」から来た)。

マドリッド(スペイン中央),12月。「ウルトライスト」のギレルモ・デ・トレが中心となった雑誌「レフレクトール』第1号に,ホルへ=ルイス・ボルヘスの「垂直宣言」が発表される。

ニューヨーク,1月。ジョイスの「ユリシーズ』のキュクロペの挿話を掲載した「リトルルヴュー』の号が,アメリカの郵便局で押収され焼却される。雑誌はわいせつということで訴追される。

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・・・,4月。キャサリン・ドライアー,デュシャン,マン・レイが「ソシュテ・アノニム」設立証書に署名(この名称を考えたのはマン・レイ)。「ソシエテ・アノニム」は,アメリカ大陸において初めての,近代美術に関する,美術館的性格の大事業となった。その計画は,初めはダダと抽象美術(構成主義)に優先的に集中した

・・・。マン・レイとアドン・ラクロワが別れる。

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モスクワ,1月。カジミール・マレーヴイツチの大回顧展が開かれ(出品作153点,目録なし),またこれに合わせて「シュプレマテイズム」(ヴィテプスク,1920年,34点のデッサン掲載)と「セザンヌからシュプレマテイズムまで」(モスクワ,1920年)という小冊子が発行された。

モスクワ,スモレンスク,5月。マレーヴイツチの講演が行われる。スモレンスクには「ウノヴィス(新芸術確立者達盟)」の系列組織がつくられ その長に,以前モスクワでタトリンの弟子だったポーランド人画家ワジスワフ・ストシュミンスキがなった。コプロ(後に彼の妻となる)と共に,ストシェミンスキは,シュプレマテイズムの工房を組織した。この他にも「ウノヴイス」の傾倒組織が,地方都市に数多く組織された。

モスクワ,「インフク(芸術文化研究所)」が創設され その編成は,初めの頃,カンディンスキーに委託される。この研究棟開のプログラムの一環として,諸芸術の綜合の原理を発展させるということがあった。カンディンスキーが起草したこの新しいタイプの「美術アカデミー」の最初のプログラムは,「言語」芸術,音楽,造形芸術,建築,芸術理論をともにふくむ多領域的な研究調査を提唱していた。しかし,1920年末には,構成主義のグループ(ロトチエンコ,ガン,ポポーワ,ヴェスニーンはか)が拾頭カンディンスキーはまもなくロシアを離れて,1922年バウハウスに参加することになる。

ヴィテブスク,2月。ヴィテブスクのウノヴィス」におけるシュプレマテイズム教育の一環として,マレーヴイツチは学生たちと共に,1913年に初演した未来派オペラ「太陽の征服」と「シュプレマテイズムのバレエ」(抽象)を上演する。後者の舞台装置はニーナ・コーガンが制作した。こうした作品や「ウノヴィス」の社会的,理論的な活動の成果は年鑑「ウノヴィス』第1号にまとめられたが,資金不足のため印刷にまわすことができなかった。5部が作られたこの年鑑の中には,マレーヴイツチ,リシツキー,コーガンその他の理論的なテクスト,様々な出来事の報告欄および多数の挿図が含まれていた。

「シュプレマティズムを提唱したマレーヴィチがバウハウスから出版した論文。
抽象芸術の極北とも言える“黒の正方形”がどのような考えのもとに描かれたのかが説明されている。マレーヴィチは、写実的な絵画のような従来の芸術を、具象としての自然を単に模写したものとして斥け、芸術はそれ自体が自然から独立したものであるべきだと唱えた。“黒の正方形”のような極度に抽象的な絵画は、それが参照する具体的対象物を所与の自然の中に一切持っていない。すなわち「無対象」の絵画である。彼が自然の代わりに主題としたのは感覚そのものであって、抽象図形の構成がそのような純粋な感覚を表現し得ると考えた。」

「シュプレマティズムでは、美の絶対性を疑う視点は見られず、人間の「感覚」も自明のものとして扱われている。デュシャン以降の美術が常に自らを成立させるものへの懐疑を伴って展開してきたことを考えるならば、「近代」と「現代」を分かつ線がどこに引かれるかが見えてくるように思う。」

ウィーン,1920年初頭,政治的債券が原因で(ハンガリーの社会主義革命の終焉)。「MA」のグループの芸術家たちはウィーンヘの亡命を余儀なくされる。亡命先における「MA」第1号は,ウィーンで5月に発行された。この号にはとりわけ「万国の芸術家たちに」という宣言がのっていた。

・・・,11月13日。「MA」のグループが組織した夜会のひとつとして,ロシア人ジャーナリストのコンスタンチン・ウマンスキーがロシア「進歩派」美術の紹介を行う(彼は構成主義,シュプレマテイズム,未来主義について話すが十分な見識は持っていなかった。そのため,ドイツ語で出た彼の記事のひとつのせいで,ベルリンのダダイストたちが名高い「ダダ見本市」の際にタトリン芸術の「機械論的」な解釈を持つことになってしまった)。

・・・,11月20日。「MA」主催のダダの夕べ。

モスクワ。「ニチェヴォーキ」の最初のアンソロジー「ナム(我々自身に)』発行。

・・・,5月。親・構成主義的なグループ「オブモク」の第2回展覧会。目録なし。汎ロシア学生会議の際にヴイテプスクの「ウノヴィス」グループによる作品の展示。革命劇場においてメイエルホリドが,

 ヴュラーレンの戯曲「夜明け」を演出。舞台装置は若い構成主義の美術家ウラジーミル・ドミトリエフこの演出の造形的な言語はタトリンの無対象レリーフから影響をうけたものだった。

メイエルホリド The play "The Magnanimous Cuuckold" directed by Vsevolod Meyerhold

・・・,8月。ガボ,ペヴズネル(ペヴスナー),クルツイスの絵と彫刻の野外展覧会(トヴュルスコイ大通りの野外音楽堂にて)。二次元,三次元の作品はポスト=キュビスム的な性格のものであった。目録はなし。ガボとペヴズネルは「リアリズム宣言」を発表し,それを自分たち自身の手でモスクワの街角に貼ってまわった。(この宣言の題は,政治的に時宜(じぎ・適当な時期)を得ているという理由で選ばれたもの。実際には構成主義の宣言で,イタリア未来派のキネティツクな造形という理論と新しいロシア無対象美術の「テクスチュア(素材の質感)」の理論とを結びつけるポスト未来主義的な議論に基づいていた。)

ヴィテブスク(ベラルーシ),春。「ウノヴィス」の学生の作品を校内で展示。目録なし。(エッセー資料集「ウノヴィス」第1号,ヴィテブスク,1920年に写真記録資料。キュビスト的,抽象的な性格の教育的な仕事が主流)

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ベトログラード,11月。11月8日から12月1日までタトリンの「第ニインターナシナヨルのためのモニュメンり模型を展示(美術学校,タトリン工房にて)。後に構成主義の運動の国際的なシンボルにもなるこの企画は大きな関心をよび大衆的な議論がひきおこされた。N.ブーニンの小冊子「第三インターナショナルのためのモニュメント」(ペトログラード,1920年,4ページ,図版入り)発行。1921年初頭にはこれと同じ模型をモスクワでも展示する(労働組合会鮨)。

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ポーランド,4月。詩人ブルーノ・ヤセンスキが「生活を直ちに未来化することについてのポーランF人民に向けた宣言」を発表。

ワルシヤワ,6月。美術アカデミーのホールでシチュ加柵ての展覧会。音声通りの綴り字による日毎(未来兼の手法)。展覧会終了後,作者は作品を保存しようにもそうする賛材的な手段がないため,件品を放棄してしまう。

・・・,秋 ミュチスワフ・シチュカ,へンルイク・スタジェフスキ,エFムントミレールの展覧会。ポーランドの軒舌に対し,抽象美術の作品が初めて展示された。クラクフで「未来派」(ダダイスト)のグループが形成され七声蓋的な奄名「グガGga」をつけた宣言が発表される


■1921

ライデン(オランダ)。アルド・カミーニという色名を使ってテオ・フアン・ドゥースブルフは雑誌「デ・スティル」にダダイスト的な文章を発表する

・・・,3月。「デ・ステイル」にラウール・ハウスマンの文章「ダダはダダ以上のもの」が掲載されろ。

・・・,5月。フアン・ドゥースブルフはワイマールを訪れ、新造形主義美術について何度か講演する。

・・・,夏。フアン・ドゥースブルフは、アルプ、シュヴイツタースと出会い,彼らと共にオラン国内をダダ巡業することを企画。

・・・,8月。「デ・ステイル」の3番目の宣言「世界の再構成に向けて」発表。 

・・・。リシツキーがフアン・ドゥースブルフと出会う。リシツキーはこの時から「デ・ステイル」誌への寄稿を始める。同誌はロシア芸術家たちのロシア無対象美術に関する文章,とりわけシュプレマテイズムについての文章を次々に発表することになる。

パリ,1月。ウーヴル座で行われたイタリア未来派の指導者マリネッティの触覚主義についての講演に反対する1月12日付のちらし「ダダはすべてをかき立てる」が出る。またピカビアは『コメディア』に次のような抗議を発表「触覚芸術は1916年ニューヨークでクリフォード=ウィリアムズ嬢によって発明された(……)マリネッティがこの斬新な探求を知らなかったということは絶対に有りえない(……)彼はすべての生みの親であるとうぬぼれているが,実のところは想像妊娠にすぎないと私は確信している」イタリア(およびロシア)のアヴァンギャルドが未来主義の伝統を支持したのに対し,フランスのダダイストはこの伝統と一線を画そうとしていた。

・・・,3月。オー・サン・バレイユ杜のコレクション・ダダの一冊としてジョルジュ・リブモン=デセーニュの「シナの皇帝」またそれに続いて「唖のカナリヤ』)が出版される。ガリマール書店からはアラゴンの「小説。アニセあるいはパノラマ」が出版される(3月と記載されているが実際には1920年の最後の三カ月に出た)。「リテラテユール』誌に粛清=アンケートが出る。

・・・,4月。ベルギー人ダダイスト,パンセールがパリに居を定める。「ダダの大シーズン」開幕をつげるちらしが出る。「見学会,サロン・ダダ,会議,記念祭,オペラ,住民投票,論告,起訴,判決」。一連のダダ小旅行と見学会のひとつとして,サン・ジュリアンリレ・ポーヴル教会を見学。

・・・,4月訪日。札入れ事件。バー・セルタで発見された,カフェのウェイターが忘れていった札入れを囲んで討論。クレマン・パンセールは,主としてブルトンに対する反対から,ダダの「暗殺」を進める。続いて数日後には,ピカビアとも絶縁。シャートからピカビアに宛てた手紙の中で,ツアラが「ダダ宣言1918」で表明した考えの生みの親はゼルナーであり,「ダダ」ということばの生みの親はヒュルゼンべックとパルであるという主張がなされる。(この件については本年表の1918年3月ベルリンおよび1916年2月チューリッヒの項を参照されたい。)

・・・,5月。マルセル・デュシャン到着。オー・サン・バレイユ社でダダ・マックス・エルンスト展開会。ピカビアの書いた「ピカピアはダダから別れる」という記事が「コメディア」に掲載される。

・・・,5月13日。のちにツアラが「ダダイズムのヴェルダン」と評した「パレス裁判」が行われる。この「裁判」は,アンドレ・ブルトンが扇動して,ダダイストたちが,愛国主義の文学者モーリス・パレスを「告訴」,「裁判」したもので,ダントン街のソシュテ・サヴアントのホールで行われた。「証人」の役だったツアラはこの企画をお笑い草に仕立てて,ブルトンの姿勢からひきおこされた反ダダ的なくそまじめな性格から企画を守った。この企てはパリのダダイストたちのイデオロギー的な一貫性のなさを暴露したもので,ベルリンのダダイストたちとは反対に,彼らは,社会的=哲学的に統一のとれた基盤を形成できなかったのである。ミシェル劇場でエリック・サティの「メドゥーサの罠」上演

・・・,6月。シャンゼリゼ劇場の上にあったギャルリー・モンテーニュで「サロン・タダ」が開催される。これに参加するよう招待されたマルセル・デュシャンは.ジャン・クロッテイに電報で「Pode Bal(俗語Peau de Balle 何もなし,の語呂合わせ)」と答える。このサロンのダダ・オペラの夕べでは,トリスタン・ツァラの「ガスで動く心臓が.ソニヤ・ドローネーの衣裳で上演される。ギャルリー・モンテーニュの経営者は,気分をそこねて.18日に予定されていたダダのマチネーを待たずに,何の予告もなく,サロン・ダダを閉めてしまう。18日には,ジャン・コクトーの「エッフェル塔の花むこ,花嫁」の総稽古のあとで「シェ・フランシス」で夜会が開かれた。パンセール,ディアギレフ,カゼッラ(「コメディア」紙社長),ダダイストたち全員がこれに出席した(1921年7月の「391」に掲載されたピエール・ド・マソの「深夜切符」を見よ)。

・・・,7月。パンジャマン・ベレの「大西洋横断航路の船客」出版。「ル・ピラウ=ティバウ」という宙をつけた「391」の特別号発行。

・・・,10月。ジャン・クロッテイとシュザンヌ・デュシャンが「タブー宣言」を発表。サロン・ドートンヌのオープンに合わせて,ピカビアが「ファニー・ガイ」というびら=宣言を発行。

・・・,11月。クルヴュル編集の「アヴァンチュール」誌第1号が,バロン,ランブール,ヴィトラックらの文章をのせて出版される。アンケート「ユーモアの終り?」。フルケのデッサン。

・・・,12月。ローウェンダル通りのリプレリー・シス(フィリップ・スーポーとミック・ズーポー所有の書店)でマン・レイ展。F「ヴァンチュール」第2号にジャン・デュビュッフェのデッサン

フランス。ロシア人ダダイスト,シャルシューヌの「不動の群衆』出版。

アントウェルペン(ベルギー),6月15月。スフォールとペイネンブルクの構成主義的,ダダイズム的傾向の社誌「ヘット・オーヴァージフト」創刊。

・・・,11月。パンセールがまとめた「サ・イラ(うまくいくだろう)」の特別号「ダダ,その誕生と生涯と死」発行。

ブリュッセル(ベルギー),2月。クレマン・パンセールの「バール・ニカノール」出版。パンセールのちらしによれば「汎ダダの書,ダダそれはパンセール。.タダのパンセール万歳。ダダなんて大したことない。ダダのパンセールくたばれ。バール・ニカノールを読まれよ,そうすれば万歳とくたばれのあいだで誰がタダか,ダダとは何かがおわかりになろう」。

ウィーン,1月。雑誌「MA」の最初のダダ号。コシャークの視覚詩などを含む。なおコシャークは,構成主義のマニフェスト「映像=建築」も著している。

・・・,3月。雑誌「MA」が.コシャークの構成主義の木版画,アルプ,ヒュルゼンべック.サンドラールスの詩,モホイ=ナジの作品写真などを掲載。

・・・,8月。ブルトンがフロイトを訪問。ブルトン,ツアラ,アルプ,エルンスト、エリュアールは休暇をオーストリアで過ごし,チロルでおちあう。彼らは「野外のダダ」をまとめるが,これはとくにピカビアに対立したものであった。タダイストと未来のシュルレアリストとの境界はすでに明らかだった

・・・,9月。「MA」の詩のタべ。ツアラ,サンドール・バルタ,ロヨシュ・コシャークらの作品の朗読。

ベルリン.1月。これまでよりもいっそうはげしくダダの活動を読けていたラウール・ハウスマンの「コガネ!ゝシよとべ!  ありうる可能性すべての宣言」発表。ハウスマンは,ヨハネス・バーダーに(追い越されこそしなかったが)助けられていた。

・・・,2月。ラウール・ハウスマンは「プレ・ゼンティスムス,ドイツ的魂のプフ・カイスムスに反対して」という宣言を起草。この宣言は,1921年9月の「デ・ステイル」に再録される。イワン・プニーは,シュトゥルム画廊での個展にシュプレマテイズムの作品を含めて出品

・・・,7月。超ダダのバーダーが「フライラント・ダダ」の唯一の号を発行。

・・・,10月。ラウール・ハウスマン,ハンス・アルプ,プニー,モホイ=ナジが,宣言「エレメンタリズムの美術に向けてのアピール」を発表

ドイツ。ハンス・プリンツホルンの「精神病者のイメージ」出版。ダダイストたちのおかげで既に大きく広がっていた文化的表現の領域は(バーダーは狂気を熱烈に礼賛する文章を書き,何度かにわたって社会的=文化的な「武器」として利用していた)、新たな次元を獲得する。プリンツホルンは,さらに1926年には,囚人たちの絵画的表現についての本,「囚人たちのイメージ」(ベルリン)を出版する。

マドリッド,4月。ウイドブロが雑誌「クレアチオン(創造)」を創刊。同誌のふたつの号はパリで発行される。ラディゲ,デルメー,ヴイルフ,ゴル,シェーンベルク,セッティメッリ,ジュリエット・ロッシュ=グレーズらの文章,グリス,グレーズ,ピカソ,ブラック,リプシッツの作品図版。

・・・,5月。雑誌「グレシア」にホルへ=ルイス・ボルヘスの「わがウルトラの解剖」発表。

ニューヨーク,4月。マルセル・デュシャンとマン・レイが「ニューヨーク・ダダ」の唯一の号発行。

パリ。パリに到着してまもないグルジア出身の画家,ダヴィート・カカバーゼ(1889-1952),シェーン・ヴェール書店から,「構成的な絵画について』という宣言を出鹿。この文章の抜粋は,「ビュルタン・ド・レフォール・モデルヌ」の1924年第2号にフランス語訳で満載される。

モスクワ。芸術文化研究所における活動の一環として,ロトチエンコは,「線」という文章を執筆。この文章は,マニフェスト的な性格を持っていた。構成主義者たちは,絵画における具象的表現の拒否を,制作の原理にまで高めていたが,同時に彼らは「純粋芸術」を作ることも否定した。

・・・,5月。「オブモフ(青年芸術家連盟」の第3回の展覧会。目録なし。ロトチエンコ(吊り下げ彫刻),イオガンソン,ウラジーミルとゲオルギーのステンべルク兄弟,メドゥネツキイ.プルサコフ.スヴェトロフ,ナウモフ,その他が参加。これが初めての大規模な一般への紹介であった,無対象の構成が優位であった。この展覧会の写真がドイツに出まわったため,同展は文字通り国際的な反響を生んだ。なかんずく,この展覧会は,ロトチエンコの作品,とくに彫刻的な構成主義に対して,モホイ=ナジが関心をもつきっかけとなった(彼のバウハウスにおける「予備課程」をみよ)。

ヴィテブスク(ベラルーシ),3月28日。「ウノヴイス」グループの展覧会。カタログなし。

レーニンが新経済政策(NEP)を発表。これはアヴァンギャルドの芸術家の活動にブレーキをかけるものとなった。

モスクワ,9月。詩人連盟クラブにおいて「5×5=25 絵画展」。カタログにはタイプした目録とオリジナルの挿図。ヴァルスト(Ⅴ.ステパーノワ),ヴュスニーン,ポポーワ,ロトチエンコ,エクステルの5人が,各人5点の作品を出品。ロトチエンコは.青,黄,赤の3つのモノクローム絵画によって「純粋な色彩を主張」。これは,「分析的」構成主義のもっとも重要な・・・そして最後の・・・展覧会だった。そこには既に,政府公認の展覧会のシステムとは離れた,私的な展示という性格があった。時代のイデオロギー的基調はいまや無対象美術に対してあからさまに敵対的となり,流行おくれとなった無対象美術は,ただ芸術家のアトリエの中に閉じこもらぎるをえなくなったのである

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・・・。評論家のタラブーキンは,芸術文化研究所において,ロトチエンコのモノクローム絵画について発表,「最後の絵画は描かれた」を朗読。このテクストは,ロシア無対象美術の発展に関する最初の,もっとも的確な理解を含んでいる

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・・・,11月24日。「インフク(芸術文化研究所)」の25人の画家が,「生産主義」の批評家オーシプ・ブリークの提案した決議を採択。「純粋形態の創造をやめて,実用的な品々のモデルの「生産』のみに専念する」と発表。ここに「生産主義」が公的に主張されるようになる。ガボ,ペヴスナー,カンディンスキーを含む何人かのロシアの無対象美術の作家が,西ヨーロッパに亡命する

・・・。「ニチェヴォーキ」は年鑑と宣言「犬の箱」を発行。また「ニチェヴォーキの発明事務所」をモスクワ,ハリコフ,ロストフその他の都市に開設。イリヤ・ズダネーヴィツチはパリに亡命。彼はパリでロシアのダダイズムを宣伝する。彼の活動によって,パリの美術界に初めて,ロシア未来派の第2のタイプ(チフリスにおけるタダイスト的な変種)とフレーブニコフの超意味言語による詩が紹介された。しかしながら,それらはこの時点ではもはやパリでは関心を呼ばなかった。こうしてロシア・アヴァンギャルドが発見されるのは何十年か後のこととなるのである

ザグレブ(クロアチア),2月。リュボミール・ミチチが,美術および文化についての国際誌「ツェニート」第1号を発行。

「ツェニート主義」の宣言に署名したのは,ミチチ,イヴァン・ゴル,ボスコ・トーキン。「ツェニートクラブ」が創設されるが,その主なメンバーは,ミチチを除くと,彼の兄弟フランコ・ヴェ・ポリャンスキイとドラガン・アレクシクであった。この雑誌には,国際的な構成主義の諸傾向(ファン・ドゥースブルフ),ロシア・アヴァンギャルド(リシツキー),バウハウス(モホイ=ナジ),ダダが,大きくあつかわれていた。

クラクフ・ザコバネ(ポーランド)。「未来派」(ダダイスト)のグループが「腹にナイフを突き立てろ」という宣言を発表。この主題,攻撃性は、ベルリで流行のテーマを連想させる(たとえば,ハンナ・へッヒの有名なコラージュ「ほうちょうでひと切り」・‥・・・)。「純粋形態」の形而上学者スタニスワフ・ヴィトキェヴィッチは,ダダイスト的な宣言「リトマスペーパー」を発表。ダダイストの,自分にアイロニカルな態度は,近代性に不可欠の条件として示される。この態度はヴィトキェヴィッチの署名でも確認される。それはマルセル・デュシャンの名前のパラフレーズである。ヴィトキェヴィッチの芸術が開花するのは,1920年代,30年代の芝居の中であった。彼は,絵画では,麻酔薬の意識的な探究を発展させた。麻酔薬の作用を彼は,最大の主観主義に達する一種の形式的な手法とみなしていたのである。この全く驚異的な思想家のゆたかな哲学的広がりが,両大戦間のポーランド美術の発展をみる概念の枠組を描き出している。そのふたつの極はストシェミンスキの「ウニスム」と,ヴィトキェヴィッチのいわゆる「不条理演劇」と呼ばれているものである(本当のところその起源はサンボリスト的=超越論的,ダダイスト的なものである)。