あとがき

■あとがき

 私の墓地への関心は、一九七九年の茨城県久慈郡里美村での調査に遡る。この調査のテーマは、姉家督相続慣行(最初に生まれた子どもが女子であったとき、その女子に養子をとって相続をおこなう慣行)であったが、たまたま村の草分け的な存在のS家の墓をみる機会があった。ムラの共同墓地のなかで、S家の墓地区画はほぼ中央にあり、その区画の中央に本家の墓があり、左右に分家の墓が並んでいたCさらに、その区画の一段低い場所に、誰のものかわからない数基の墓碑が建てられていた。その墓は、長い間S家で働き、帰るべき家をもたない奉公人の墓であり、S家で祀っていた。同族集団が一つの墓地を占有し、また墓地区画の一角を占めることは、同族結合が強いムラでは、一般的にみられる現象である。そして、その奉公人が同族集団のなかに組み込まれている。ここには、伝統的な社会構造の一つの形態がある。

 (墓地のなかに社会がある)という認識は、これ以降、徐々に私のなかでつくられていった。伊豆半島(静岡県賀茂郡河津町逆川)での調査では、墓地はまったく異なった構造をとっていた。ここでは、明治以前の墓地は田畑の畔にあり、ムラの共同墓地は明治初年に設けられたものであると伝えられていた。そして墓地区画は、当時そのムラを構成していた家々で抽選によって分けたという。このムラでは、同族的な親族の結合は希薄であり、ムラの構成員ほ比較的平等な権利義務をもってムラを構成していたのである。

 それから十年の時が経過して、私は一九九〇年四月から一年間、ウィーンに滞在する機会を得た‥この期問を利用して、ヨーロッパ各地の墓地をみて歩いた‥ここで私がみたものは、予想外に(家族墓)が多いことであり、その慰霊形態が変貌しようとしていることであり、そして「死者の都市」「死者の村」と比喩される墓地の構成であった。

 特に、(家族墓)については考えさせられる問題が多かった。ヨーロッパで家族史研究の中心的役割を果たしているウィーン大学のミッテラウア一教授にお会いしたとき、なぜヨーロッパで(家族墓)が形成されたかについて質問をした。彼は、P・アリエスの話をしながら、決して「祖先祭祀」的観念が復活したわけではないことを強調し、キリスト教の受容とともに祖先祭祀の機能が家族から解除されたヨーロッパの家族(ヨーロッパ的家族の展開)についての説明を受けた。それは、祖先祭祀の観念が欠如したヨーロッパ的家族と、国家体制のなかで祖先祭祀の観念が強調された日本的家族という「比較」の問題を問いかけるものであった。本書のなかで、ヨーロッパとの比較において祖先祭祀の問題に言及したのも、ミソテラウア一教授の影響が大きいといえるであろう。

 本書は、墓をつうじて何がみえてくるのか、その間題提示の書と考えていただけるとありがたい=しかし、まだ残された問題は多いこ字bくこれからも墓や葬送をテーマにした多くの研究が登場するであろう(表のあり方や重症の自由」についての思想は、新たな展開をはじめたばかりである。

 また、本書は、墓をめぐるきわめて学際的な内容になつているこその評価は別にしても、私の専門領域とする分野以外の内容に言及できたのは、専門分野が異なる研究者によって志された比較家族史学会のおかげであるここの学会をつうじて知ることができ毒筆の諸先生や友人たちの学恩はきわめて大きい。

 最後に、本書の馨を薦めてくださった高木侃品東短期大学教授や講談社の堀越雅晴氏、そしてたた.鈴木章亘小田野秀子氏にもお礼毒し1げなければならない=特に、鈴木氏には何度も原稿を読んでいただいたこ本書が多少なりとも読みやすいものになつているとすれば、それは鈴木氏の功績である。

1993年4月15日      森 謙二

〇『葬送墓制研究集成』(全五巻)名著出版、一九七九年

〇葬送墓制に関してのこの時期までに刊行された研究論文を集めたもの〔占本史や民俗学の主要な文献はほとんどこのなかに収められている。

〇田中久夫『祖先祭祀の研究』弘文堂、一九七八年

〇民俗学研究者である著者が、葬送墓制および祖先祭祀の歴史研究に取り組んだ好孝一氏の研究は歴史学における葬送墓制研究に大きな影響を与えた。

〇大林太良『葬制の起源」一角川書店、一九七七年

〇社会人類学の立場から葬制を問題とした古典的名著。

〇森浩一編 「墓地・・・日本古代文化の探求」杢社会思想社、一九七五年

〇芳賀登『葬儀の歴塁雄山間、一九七〇年

〇葬儀の歴史について、体系的に書かれた本二葬儀についての先覚的研究。