写真の起源

■写真の起源

ラリー・J・シャープ  

 

 新たな視覚1839年1月にパリの興行主として活躍していたルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787−1851)がカメラ・オブスクラで映し出された一瞬の画像を保存する方法を発見したと発表した時、写真芸術・科学は公のものとなった。洗練されたプロセスは、銀メッキされた鋼板にたったひとつの水銀の画像を形成した。この画像は色調と精細さで人々の心をとらえ、この上なく珍重された。ダゲレオタイプは1840年代に風景写真において一世を風摩したが、この方式の唯一性(1回の撮影で得られるのは1枚の画像のみ)および鋼板を支持体とする不便さが証明されるに至った。これに代わって、写真の主要な方向性は英国の科学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(Talbot、1800~1877)によって明示されることとなった。

  タルボットは、1833年にイタリアのコモ湖を訪れた際、カメラ・ルシーダを使って試みたスケッチの出来が納得いくものではなかったことを、ダゲレオタイプの発表への反応の中で初めて明らかにした。タルボットカメラ・オブスクラを使って何年も前に写し取った風景について、考えを巡らせるようになったのである。「このことから、私はカメラのガラスレンズが焦点を結んで紙上に映し出す自然風景の本質的な美しさに気付かされることとなった。

カメラ・オブスクラは、写真の原理による投影像を得る装置で、実用的な用途としてはもっぱら素描などのために使われた。写真術の歴史においても重要で、写真機を「カメラ」と呼ぶのはカメラ・オブスクラに由来する。最初に「カメラ・オブスクラ」という言葉を用いたのはヨハネス・ケプラーとされる。

 それは、一瞬のうちに生まれ、そしてたちまち消え去ることを運命付けられた優美な絵なのであった。そんな思いにふけっていた時、次のような考えが私の頭をよぎったのだ。もし自然みずからがその姿を描き出し、永久に紙面に留まることができたらどんなに素晴らしいだろう!

水溶液ハロゲン化銀銀塩写真の感光剤)の結晶を溶解するので、写真定着剤として使用される。生成物は銀イオン錯塩のビス(チオスルファト)銀(I)酸ナトリウムである。この性質は、イギリスジョン・ハーシェルによって発見された。

 タルボットは、自然の色調は太陽光量の違いであり、光の作用で反応した化学物質によって保存できるのではないかと推測した。彼はレイコック・アビーの自宅の研究室にもどり、1834年の春までに、紙に銀化合物を染み込ませて作ったネガ像フォトジェニック・ドローイングの制作に成功した。まず、紙を食塩水に浸す。これに硝酸銀溶液を塗布すると、感光性のある塩化銀紙となる。これをカメラの中もしくはフレームの中で物質の下に配置すると、光があたった場所に銀が沈殿した。そして、その出来上がったプリントをより多くの食塩水またはチオ硫酸ナトリウムを使って定着させた。現像液など使うことなく、画像はもっばら太陽光に露出することで仕上げられたため、焼出し印画プロセスと呼ばれた。これが1839年1月のダゲールによる発表に応じてクルポットが明らかにしたフォトジェニック・ドローイングの内容である。

 1840年9月、タルボットは潜像を現像するプロセスを発見した。これは、露光で薬品は反応しているが、まだ見ることのできない像を現像液によって可視化することである。この発見によって、露光時間は短縮し、撮影可能な被写体は大幅に増加した。1841年、これをカロタイプ(のちにタルボタイプとも呼ばれる)と名付けて特許を取得し、この技術を公開した。

 通常、単塩紙と呼ばれた彼のフォトジェニック・ドローイング印画紙を使って1枚のネガから複数のプリントが制作された。これは軽便かつ色調がよいことが理由だった。

 タルボットの飛躍的進歩に触発されたジョン・ハーシェル卿(1792−1871)は、自身の光に対する強い関心を一連の詳細な実験に発展させた。これはタルボットによる銀化合物とは異なるアプローチだった。彼は、通常、学術性を優先し、実用性は重視しなかったが、1842年の鉄印画であるサイアノタイプ(青写真)プロセスは例外であった。この方法は鮮やかな青系の色調を自然に生み出す方式であった。

 初期の写真家の多くは、新たな技術の発明に関する記録を残していない。例えば、1984年、ある一つのアルバムから抜き出された初期のフォトジェニック・ドローイング6枚は、東インド商のヘンリー・ブライト(Henry・Bright、1784−1869によるものと漫然とみなされ、サザビーズで競りにかけられた。後の調査で、それらはクリフトン・ブリッジ周辺(ブリストル)のカメラ・オブスクラのオペレーターでもあり画家でもあったウィリアム・ウェスト(william west、1801−1861)によって制作され、販売された感光紙であることがわかった。写真は、サラ・アン・ブライトSarah Ann Bright 1793−1866)によって撮影されたものだった。サラについては、ブリストル郊外のハム・ハウスの科学者リチャード・ブライト(生没不詳)の未婚の娘の一人であるということ以外は知られていない」。この感光紙の発明が誰によるものかは判然としていないのである。

 初期の写真家のうち何人かは、タルボットの友人だったが、ほとんどは彼を知らなかった。スケッチと水彩画を得意とするウェールズのカルバート・ジョーンズ牧師(1804−1877)は、もともとダゲレオタイプに興味をもっていたが、ほどなく彼に適した手段としてタルボットのカロタイプに移行した。

 1840年代に制作されたすべての写真の中で、スコットランドのロバート・アダムソン(1821−1848)とデイヴイッド・ヒル(1802−1870)によって制作された一連の作品はもっとも際立っている。アダムソンはもともとエンジニアとしてのキャリアを望んでいたが、健康上の理由により断念した。故郷のセントアンドリューズにて、ディヴイッド・ブリュースター卿(1781−1S68)などを通して、タルボットの新しい技術に親しむようになった。

 この最初の10年間において、プロフェッショナルよりもかえってアマチュアたちが最も影響力のある写真を制作した。その一例がスコットランドの貴族令嬢であり、クレメンテイナ・へイワーデン子爵夫人としても知られているクレメンティーナ・モウド、旧姓エルフィストン・フレミング(1822−1865)によって制作された作品集である。

 最初に知られることとなった彼女の写真は、1857年から1858年にアイルランドで撮影したネガを使って鶏卵紙にプリントされたものである。彼女は、ほぼ800枚の写真を撮ったことで知られており、鶏卵紙の四隅がすべて乱雑に破れている特徴からアルバムに貼られていた写真であることがわかる。1939年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に寄贈されたその写真は、主に彼女の娘をサウス・ケンジントンにある彼女のスタジオで写したものである。これらの背景は、家具の大部分が一時的に取り除かれ、幻想的な雰囲気をかもしだしている。

 

 タルボットはプリントの方式をごく初期の頃からさまざまに試みており、彼の研究ノートには、その創作アイデアが多く記録されている。いずれの方式も現在まで継続的に使用されていないが、エディンバラの石版画家で印刷業者のウィリアム・フォレスター(1797−1871)による同時代の写真石版画が現存していることは、私たちにとって幸運である。1839年4月18日のロイヤル・スコティツシュ・ソサイアテイ・オブ・アートでの発表を受けて、フォレスターが、油性インクと結合あるいは反発する感光性物質を特定したのではないかと推測することができる。プリントによる刊行物の最初の実用例は、科学的な参考書であった。

 タルボットの友人アンナ・アトキンス(Anna Atkins  Children、1799−1871)が1843年から1853年にハーシェル卿のサイアノタイプ・プロセスを使って制作した『英国の藻類:サイアノタイプの出版がそれに当たる。25人程度の植物学仲間に配布されたと考えられ、最終版は400種以上の写真、数千枚に及ぶ手製のプリントで構成されていた。ある時期からアトキンスは、幼なじみで姉妹同然のアン・デイクソン(Anne Dixon、1799−1877)と、植物やレース、その他の平面を用いたプリントを共同で制作する方向へ進んだ。これらの作品は科学的参考というより、彼女たちの視覚表現の探求であるかに感じられる。同じ頃、タルボットは50枚の図版を12冊にまとめる『自然の鉛筆』の出版を計画していた。これは新しい写真方式の多様性を実際のプリントによって明示する試みであった。各々の図版は実際の単塩紙を使用したため、タルボットの想定よりも遥かに困難な作業であることがすぐに明らかになった。最終的に発行された図版24点全6冊の製作中、ドローイングルームを暖める石炭を使った暖炉から出る硫黄化合物などの汚染物質からプリントを保護できないという障害に、タルボットは見舞われた。図版が色あせ始めたのである。

■日本への伝来

 1839年に写真が発表される以前から約2世紀にわたって日本は鎖国状態にあった。この間、公式にはヨーロッパ諸国のうちオランダのみが長崎を通して独占的な貿易協定を結んでいた。このため、1848年に至ってようやく日本にダゲレオタイプ・カメラが初めてもたらされたことは驚愕に値しない。日本人初の写真家が登場するまでには、この時から更に10年に近い時間が必要であった。イギリス人外交官ウイリアム・ナソー・ジョスリン(1832−1892)は、日本で最初に鶏卵紙を使ったプリントを制作した人物と考えられ、1858年に日本の外国奉行たちの集合写真を撮っている。また、

 コルフ島(現キルケラ島)出身のイギリス人のフェリーチェ・ベアト(1834~1909)は、肖像写真や風俗写真制作の拠点となった横浜の居留地にスタジオを設立した。時代は江戸から明治へと移り、外国からの影響を日本が受け入れ、後に写真撮影と写真機材製造の両面から繁栄する日本の写真業界につながる地盤作りが行われた。