乾漆像と塑像

■乾漆像と塑像

 乾漆像の起原は、黒川博士は漆器種類の弁に、唐の義浄三蔵著『南海寄帰伝』を引用して仏像を造る材料中に、金、銀、銅、鉄、泥、漆、甎石(せんせき・ 粘土に砂をまぜて練りあわせ、長方形の型に入れて乾燥させ、窯で焼いたもの。煉瓦)或は沙雪を聚めて造るとあれば、漆で仏像を造るということは、印度に起り中国を経て、我国に伝来したものであろう云々。

 平子鐸嶺著『夾紆像考』に、乾漆像は支那の発明にして、印度西域等より伝来したるものとは思はれない。その理由のひとつは印度及び西域には漆の生産することを聞かざるによる。

 乾漆像は遠く飛鳥時代に起り天平時代に至り非常の発達を遂げた。天平時代の文献によれば、塞像(そくぞう)、壇像、或は即像または爽貯像とも称された。その製作法にほ脱活乾漆と木心乾漆の二種あり、当時また塑像の製作も盛んに行われ、乾漆像の進歩発達と共に、天平時代における造像の黄金時代を形成した。而してなお今日に至るも奈良の諸寺院には、多数現存してその数は数十躯に及んで概ね国宝であり、後世の標範となっている。

▶︎脱活乾漆

 乾漆とは、生漆を主要な材料としてこれに、瓦を粉末としたる地の粉を混合した地、砥の粉の如き粘土を混合したる錆(さび)、麦漆末香(まっこう・のひとつで粉末状のをいう。 かつては、沈香やセンダン(栴檀)などが用いられたが、現在は主にシキミ(樒)の樹皮と葉を乾燥して、粉末にしたものが用いられる)を混合したる木屎(こくそ・木の粉や繊維くずなどを漆にまぜたもの。漆塗りの素地(きじ)の合わせ目・損傷部などを埋めるために用い、また乾漆像などの細部の肉付けにも用いる)、および紵布(ちょふからむし繊維の布)を使用して実質を強靭となす造形技術にして、奈良時代には専ら仏像および伎楽面の製作に応用され後世の標本となる多数の逸品が現存している。

▶︎木屎の作り方

 これによって見ても当時の盛況が偲ばれる。然るにかくまで優勢を極めた乾漆像の製作は奈良時代を頂点として、次ぎの平安時代には乾漆像と塑像の製作は次第に廃(すた)れて専ら木像となったその理由としては経済的事情によると言われている

◉紵(カラムシ・下図左 麻糸・福島県昭和村・畑栽培 )紵布(カラムシの布)

 乾漆の製作法は、先ず粘土にて原型を造りこれより更に雌型原型を作製し、その表面に剥離剤として雲母粉末を塗付し、次に最初は細かなる漆下地即ち錆を、その上には粗らき漆下地を数回塗付して予定の厚さに達したるときは、更に紵(カラムシ)布を麦漆にて貼着して乾かし雌型より離脱する。なお形状の大小に応じて実質の厚薄は下地付けの回数によって自由に調節する。また急速に厚層となす場合には、樒(しきみ)の葉と皮を乾かして粉末にした抹香(シキミの葉・皮を粉にして作った香)麦漆に混合して木屎(こくそ)となしこれを塗付する、厚層となるに従って紆布の数を増加して堅牢ならしめる。而して雌型より剥離した乾漆はその表面に漆を塗り金薄(箔)をおき、或ほ顔料にて彩色したるもので伎楽面(ぎがくめん)はこの方法により製作されたものである。(下図)

 別法としてほ、塑造または適宜の方法にて大体の原型を作り、その上に紆布を数枚乃至十数枚を麦漆にて貼り重ね十分に乾かしたる後、要部より切断し更に(たて)に切開して塑型より離脱し、これを心柱の上に接合密着して成形したるもので、即ち張り抜き像であり塞像である、さらに細部の肉合は木尾と地および錆にて補修整形し、次に彩色しまたは漆を塗り金薄を施して完成する。或はまた粘土にて原型を作り、原型に従ってその上に適当なる竹をもって編み籠骨となし、籠骨の上には布を着せ下地を施して実質を作成し、次に細部の肉合は木屎にて作りこれに彫刻を加えて形態を修整したる後、原型の粘土を脱却する。以上の工程により製作したるものを脱活乾漆または脱乾漆と称する。東大寺三月堂の不空清索観世音菩薩像法隆寺夢殿の行信僧都の肖像は脱乾漆像として有名である。

因みに脱活乾漆の名称に閲し『輟耕録』精塑仏像の条下に、至元七年 世祖建大護国仁王寺厳設梵天仏像酎所謂持換老漫吊土偶上而髭之己 而去其土髭南備然像也昔人嘗為之至元尤妙掃九又日脱活京師(北京)語如此

『輟耕録』(てっこうろく)は、末の1366年に書かれた陶宗儀の随筆。30巻。正式な題名は『南村輟耕録』(なんそんてっこうろく)という(南村は陶宗儀の号)。主に元の時代のさまざまな事柄を詳しく記している。

▶︎木心乾漆

 木材を荒彫りして大体の形を作り木心となし、手指、天衣の如き細部には銅線を用い、その上に紆布を麦漆にて貼着し、さらに木屎にて細部の肉合を塑造し、乾燥した後彫刻を加えて肉合を修整する、その他の加飾は脱乾漆と同一である。なお木心の架構を知る上に奈良博物館所蔵の秋篠寺菩薩の心柱は最もよき標本である。

 因に『道東寺司告朔解』に捻菩薩四藤木屎巧九人、錯平磨塗菩薩四  躯巧廿六人、壇菩薩天衣四具巧六人、壇同菩薩四具花形井磨塗巧六 十五人春飾巧十一人

▶︎塑 像

 塑像は、木骨を組んだ心柱の上に藁、縄などをまとい、次に粘土と籾殻を混合したるものにて大体の形を造り、その上に紙の寸紗を混合したる塑土にて塑造し、更に精選したる塑土を以て肉合を精細に作成し乾燥したる後、雲母粉末を精土と混合して上塗りをなし、最後に彩色を施したるものである。東大寺三月堂の日光菩薩、月光菩薩像は塑像として有名である。また法隆寺五重塔の一重に塑壁を背景とする群像がある。東面には維摩居士と文殊菩薩と問答の状景、西面にほ釈迦の仏舎利を得んとする争いを、南面には弥勒菩薩の浄土を、北面には釈尊の臨終の場面を、殊にその中の俗に泣仏と呼ばれている慟哭(どうこく・声をあげて激しく嘆き泣くこと)の羅漢像の如きは、真に逼り写実的妙味を遺憾なく発揮している。

▶︎夾紵像

 夾紵(きょうちょ)像とは、乾漆像の別名にして即ち塞(そく)である。平子鐸嶺氏は『夾紆像』を著して、従来不明なりし乾漆像の由来名称および製作法に閲しその典拠を挙げて闡明(せんめい・あきらかに)し、斯道を稗益(ひえき・助けとなり、役立つこと)する所多くその要旨を抄録(しょうろく・原文から要点を書きぬくこと)すれば、

 乾漆の名称 漆に粉末の香料または木屎の類を混じ苧(からむし)と合せて優に作りたるものを乾漆と呼ぶは、古名を無視したるものである。古来中国においてほ乾漆像を夾紆像という正名がある。

夾紵技法はおそらく中国で始まり,すでに漢代には山西省陽高県出土の前漢の夾紵棺,楽浪出土の後漢建武21年(45)の夾紵耳杯などさまざまな容器や飲食器の遺例がある。夾紵像の文献上の初見は東晋395年以前に,招隠寺に夾紵行像五軀が作られたという(《法苑珠林》ほか)。その後造像を伝える文献は多く,唐代628年には終南山竜田寺に高祖の等身夾紵像六軀が作られたという

▶︎脱沙夾紵像(だっさきょうちょぞう)

 これは先ず泥沙 (どろすな)をもって像型を捻揑(ねんねつ)し置き、その上に細かき籠骨 (こめぼね・普通よりも骨の本数の多いもの)をわたし紆布(からむし)を着せ次第に漆にて塗り固め、而して元の泥沙素型を脱ぎ取るよりの名称である。

 『千歳伝霊像篇』に、以レ寵造レ之以こ布及漆一重キ三返

 『続高僧伝』唐沙門道宜撰に、京師西北有こ廃凝観寺一有二爽紆立釈迦一挙高丈六儀相起異、屡放二光明」隋開皇三年寺僧法慶所造捻塑繰了、未レ加こ漆布一而慶忽終 『西域記』明蔵本註に、雀薩旦那国条寒山致、爽紆今称脱沙

 『南京』に妖貢漆縁蕨貢漆某とあるは紆布を漆にて塗り固めたることを知るべく、後世爽紆像の法は是等の手工に捻塑像(泥沙像)の法を加えて案出したるものならん。

 また我国における夾紵像唐と交通の後に此の法を伝えたるものにして、その最古のものは推古天皇時代の製作と見ゆる法隆寺金堂の菩薩像で、腰上半身には厚く漆を混合したる材料を塗附して過痩を補ってある。次に法隆寺夢殿の行信僧都坐像脱沙夾紵像である。

 夾紵像に関する確実なる記録は、飛鳥朝の天智天皇が作らしめ給いし丈六紆仏像並に同四天王像にして天平十九年(七四七)牒上の『大安寺縁起資材帳』に載せてある。

 合仏像玖具、壱拾漆躯、丈六即像弐具、右淡海大津宮御宇、天皇奉造講座老耶 即像とは夾紵像のことなり、我朝の古記悉く爽紆像と称して即像、紆像、窓像と記してあるをもって見るも明かである。

 『東大寺要録』に、記載されている三月堂の不空羂索観世音像、梵天、四天王、二力士はいずれも丈に余る夾紵像である。また東大寺伽藍の創立に当り天平十九年光明皇后の御願として、大講堂の脇侍虚空蔵菩薩、地蔵菩薩、二躯並に文殊菩薩、維摩居士二躯を夾紵にて造り始め給いまた天平勝宝七年講堂本尊二丈五尺の爽紆千手観世音菩薩を造らしめらる。堪千手菩薩像一姫立高二丈五尺在講堂、また大仏殿内庭舎郡仏の脇侍観自在菩薩、虚空蔵菩薩は講堂本革にさらに五尺を加えたる大居像で空前絶後の大巨像なりしも、治承の兵焚に空しくなれるは実に惜みても余りあることである。

▶︎木骨夾紵

 夾紵は脱沙を本作法とすれども別に胎内に簡単なる木製の枠を構えて骨柱となしたるものは、即ち木骨夾紵像である。興福寺の十大弟子はこの類である。

▶︎夾紵像

 これは既にの本意を滅却したる或意味において謂わば堕落したる作法である。木材をもって粗雑なる形体の大略を作りこれに(カラムシ)と漆とを厚く塗り固めて作り上げたるものである云々。

 『夾紵像考』の出版は大正3年にしてこれより後(おく)るること数年にして、朝鮮楽浪郡祉の古墳より漢代製作の日用漆器が多数発掘された。その中の夾紵製には左の銘文が明記されてある。「建武二十一年広漠郡工官造乗輿髭泊木爽紆杯容二升二合素工伯髭工魚」。建武21年は後漢光武帝の時代即ち我が垂仁天皇の74年である。なお右の発掘漆器中最古のものである羽觴(うしょう・)には夾紵とは明記してないが、矢張り爽紆乾漆製である。その銘文に「始元二年、葛西工長広成垂何故、護工卒史勝守令史母弟薔夫索菩、佐勝髭工当画工文造」とある。始元二年は前漠昭帝の時代で我が崇神天皇の十三年である。されば夾紵の製造法は漢代に広く行われて日用漆器の製造に応用されたことは明かである(一故に或は夾紵像の製作は夾紵漆器の後に起りしものにあらざるか、なお研究の余地を存すると思う。漆孟楽浪郡祉よりの発掘品である。

 因みに楽浪郡祉は朝鮮平壌を去る八キロ大同江に沿い、漠の武帝に征服され楽浪郡を置かれし所である。而して当時漢の官吏等の墳墓が今も千有余の多数存在している。この古墳より東京大学および朝鮮総督府によって数回に亘り多数の埋蔵品が発掘されたのである。その中漆関係の主なるものは、漆孟、漆盤、漆棺羽觴盆、案(つくえ)卓、箱および化粧用具等である。これ等発掘品の修理に当局者ほ多大の苦心を払い復原して保存されてある。著者はその修理中に東大考古学教室において観覧したことがある。その際に最も注意を深くしたことは木製漆塗の丸盆が、素地と漆塗りの皮膜が全く分離して漆の皮膜が殆んど異状なくわずかに光沢を失ったのに反し、素地は挽物でなく指物製で円盤は数個に分裂して容積は約二分一に収縮し、恰も枯葉の如き感を呈してあり、いまさら漆の堅牢度に驚嘆せざるを得なかった。