臼杵磨崖仏・保存修理

■臼杵磨崖仏

鷲塚 泰光  

 大分県は石仏の富庫である。その中でも臼杵磨崖仏は規模の雄大さ、巨像の多さ、彫刻としての完成度の高さで群を抜いている。磨崖仏とは文字通り自然の岩壁に刻まれた仏であり、常に自然の苛酷な環境下に晒されており、造像後千年近くを過ごした仏には劣化・損傷等の被害が大きい

 豊後磨崖仏本格修理に取り組むに当り、最も苛酷な条件下におかれていた豊後高田市高田の能州野磨崖仏から着手するのが妥当であろうと判断した。この磨崖仏は昭和三十年に元宮磨崖仏および鍋山磨崖仏を附(つけたり・文章本体に添え参考として付け加えたもの)として国の史跡に指定され、昭和39年に美術工芸品の重要文化財となった。平地の胎蔵寺から百段近い、鬼が一夜にして造ったと伝えられる厳しい石段を昇った山の中腹にある平地に面して刻まれている。向って右側が頭上にわずかな庇を持ち光背上に三面の梵字曼荼羅を表す大日如来像と称される如来形坐像で、左側には像高807.3㎝の二童子立像を従える不動明王坐像が刻まれている。平安時代末の造像と考えられるが以降特段の保存処置が施された形跡もなく、大日如来像は庇から滴る水のせいで鼻先が損耗し、胸から両足にかけてはほぼ原形を留めない状況であり、不動明王二童子像もほぼ同様で特に童子像は元の存在が確かめられるのみの状態であった。像下方には苔や草木が生い茂っていた。

 この保存修理事業は昭和51年から始まり同54年まで続いた。植生の除去は当然のことながら、母岩風化防止と固化にはアルキルシリコン系樹脂SS101アクリル系樹脂リカレジンを用いた。本像はもちろん溶結凝灰岩であるが、その中にかなり大きい極めて硬質の石が含まれており中には既に落下しているものも多いが、損傷移行のおそれがある処はエポキシ樹脂(3003A、CY232)を充填緊結し周囲をリカレジンを用いた凝岩で充項補修し、周囲との調和をはかった。

 主題の臼杵磨崖仏は市中心部から西方に約4km程行った杵川の南方に奥まる深田の里の山裾に広く展開している。この地は昭和9年に国の史跡に指定され、同27年堂ケ迫と呼ばれる丘上の日吉塔(石造五輪塔二基)を附として特別史跡となり、昭和37年には美術工芸品の重要文化財、更には平成7年に国宝指定となった。

 磨崖仏群は半ば土中に埋った石造鳥居から近い平地のホキ石仏(指定名称ホキ石仏第一群)二龕(がん)二十五躯、堂ケ迫石仏(指定名称ホキ石仏第二群)四龕二十五躯、山王山石仏三躯、古園石仏十三躯からなる(挿図1)。いずれも平安〜鎌倉時代に造像されたもので古園の中尊大日如来坐像は像高270㎝、ホキ石仏の阿弥陀如来坐像は像高279.0㎝を量る巨像である。

 

 これら石仏群は昭和27年の特別史跡指定以来文化財保護委員会記念物課によって保存処理が講ぜられ、ホキ石仏では後壁上部に配水のための溝(向かって右に流す)と第一・二龕の土壇下の排水パイプ、山王石仏土壇の排水パイプ、古園石仏背面の排水設備とホキ・堂ケ迫・古園石仏上方のあまり大きくない庇が設けられ特に水抜に対する配慮がなされた様である。

 文化庁文化財保護部美術工芸課に所属していた筆者は昭和50年代初めから雪の降る酷寒期・夏の猛暑期など気象条件の特に厳しい時期に現地を何度も訪れ掛け替えの無い臼杵磨崖仏をいかにして守るべきか検討を重ねた。地下水や苔・雑草の除去は当然のことながら特に冬場の放射冷却による像表面の凍結と融解に伴う植生ごとの像表面崩壊・脱落が損傷・劣化の大きい原因であることに気付いた。

 美術工芸課による保存修理は昭和53年、当時頭部が江戸時代の地震のために落下し本躰前面の土壇の上に置かれた大日如来坐像の硬化処理であった。頭部は割損部はもちろんの事、離れていた両足部・本鉢の亀裂部をこれ以上損傷が進まないよう熊野磨崖仏のところで述べた合成樹脂等を用いて保存処理を講じた。

 全体に対する保存修理が本格化したのは昭和55年以降で平成5年の完成まで15年近くの歳月を要した。先ず手を付けたのは山王山石仏である。ここだけは珍しく桟瓦茸切妻造りの木造覆屋がかかっていた。堂内に刻まれた三躯の如来坐像は向かって右から左下にかけて崩壊が甚だしく向かって右の像は膝以下がほとんど崩落し本鉢は多いものでは数十箇に割れる状態で、安置する土段の下からは発掘調査によって数十の断片が見つかり欠損部の石膏型を取って現状に復していった。土段前面は稚拙なコンクリート擁壁で、これを除去し、中にあった排水パイプも現状用をなしていないので取り除き前面を更に深く掘って旧状に復した。覆屋の向かって右側は日吉神社の谷から雨水が流れ込む状態であったので外側にコンクリートの擁壁を造り排水が効率的にできるよう処置した。

 次いで着手したのがホキ石仏である。向かって左側の阿弥陀三尊像は頭部の割損が甚だしく、コンクリートによる接着を取り除きステンレスやグラスファイバーの雇柄(やといほぞ)を用いて樹脂による接着を行い、仕上面は凝岩で養生した。又左脇侍像の台座はコンクリートの丸柱で見苦しかったので取り除き凝灰岩性のもので補った。第二真の諸尊も亀裂が多く同様の仕様で補修を行った。土壇からの排水は新たに埋め直し中央に集中溝を設け前面の谷に排水することとした。

 ホキ石仏は仏後壁の母岩の亀裂・剥離が目立ちコンクリートによる補修を除去の上、母岩にコアを切ってアンカーボルトを打ち込み、仕上げはコアを凝岩で接合した。 第三番目に着手したのが堂ケ迫石仏である。この石仏群は本鉢の損傷はそれ程著しくないが台座等の石材欠失を補うと共に第三・四金瓶の仏後壁のアンカーボルト固定を行った。 最後が古園十三石仏である。ここは記念物課による仏後壁奥に排水溝が設けられており、それに加えて諸尊土壇の地下水除去の排水工事を行った。

 問題は中尊大日如来像の首をもどすか否かである(挿図2)。人々の中には頭部が間近にあってそこに風情も感じられ現状のままとすべきであるという意見も聞かれた。しかし何と言っても地元をはじめとする尊い信仰の対象である仏様の頭が地に落ちているのは忍びないという判断で復原を決定した。高さ1メートル余りの頭部であるが熔結凝灰岩という素材の由もあって六人位で意外に軽く持ち上った様に記憶している。お首に据えて見るとやはり堂々とした優美さがあふれ、この判断は間違っていなかったと確信している。余談であるが修理完成後臼杵市長がこの大日様を拝めば 〝首がつながる〟という話をされた様で以後勤労者の参拝増加したと聞いている (挿図3)

 他の十二躯の像は腹以下を失っているものも多いが清掃の上復原できる部分は出来るだけ元の位置にもどした事は当然である。

 四ケ所の磨崖仏共一々は述べなかったが、合成樹脂による材質強化はもとより補修部分の凝岩による表面処理を施したことは言うまでもない。特に古園の大日如来像は修理中に錫箔(三ミクロン)を置いてシリコンゴムにより型取りを行い、その後樹脂で成形・著色をして今、宇佐市にある大分県立歴史博物館のロビーに県の代表的名品として展示されている事を申し添えたい。

 なお劣化の重大要因として放射冷却の事を先に述べたが、ホキ・堂ケ迫・古園共周囲こそ吹き放ちであるが大きい屋根をかけその効果は大いに上がっている(挿図4)。又特に古園石仏では屋根からの照明も考慮して参拝者の便をはかっている

(わしづか ひろみつ 前奈良国立博物館長)