越境の古代史

■渡来の技能者と渡来系氏族

田中史生

▶︎ 渡来する技能者の身体

 渡来の文物や技術は倭人社会の生産の問題と直結したから、これが倭人を国際社会へ引つ張り込む吸引力となり、またそれをめぐって倭国の歴史も動いたことは、すでにみた。そして、こうした文物・技術を列島にもたらす中心的な役割を担った人々こそ、渡来人である。前述のように知識や技術はそのままでは運べず、彼らの身体はそれらを運ぶ〝箱”としても機能した。

 だから渡来人を、辞書や教科書の説明にしたがい朝鮮半島や中国大陸から最新の技能を持って移住・定住した人々だと理解してしまうと、倭国の時代に盛んな技能者渡来の本質が見えにくくなる。倭人の首長たちは、渡来技能者が身体を介し伝える知識や技術に強い関心を示すが、彼らの身体そのものが列島に定着するか否かにはあまりこだわりがない。その役割を終えて帰国する渡来の技能者たちも少なくなかったとみられる。それどころか、赴任先の倭で我が子を得ながら、その子らを残して帰国する渡来人もあった。渡来系氏族の祖ですら、列島へ移住・定住した渡来人だと推断できないのである。実は『書紀』が伝える倭王に仕えた多くの渡来系氏族の祖たちも、何処に葬られたかがはとんどわからない。

5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。

◉東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。

 一方、倭人の首長たちにとっては、こうしたかたちで渡来の知識・技術を移入することが、国際社会と継続的な交流を持たねばならぬ条件を与えてもいた。身体化された姿で渡来する技能には人の寿命がつきまとっていたからである。当時、渡来の技能者の工房では、渡来人の指導のもと、倭人たちもその作業に分業的に参加していたとみられる。しかし、最新の技能が渡来人の手を離れて列島に定着するには多くの時間を要したことからみると、渡来人の技能の総体を、倭人たちはそう簡単に習得できなかったようだ朝鮮半島から高度な生産技術が渡来したばかりの時期、おそらく倭人たちは渡来技能者に言われるがまま、決められた作業を行うのが精一杯だったのだろう。だからもしその渡来の技能者を失えば、倭人の首長は、それに代わる新たな身体を、国際社会に求めねばならない。そしてそのためには、国際紛争に間断なく関与することが必要であった。

 しかし5世紀の複雑な国際情勢にあって、これを一地域の首長が独自に担い続けるのは大変なことである。すでにみたように、各地の首長たちは、緊迫した朝鮮半島情勢に対応するため、軍事王権としての性格を強めた倭王の外交・対外戦争に結集・参与することで、朝鮮半島、なかでも加耶南部諸地域と独自の関係を深めるチャンスをつかみ、そこから技能者たちを呼び込んだ

 ところがそこで築かれた独自の関係を維持するために、朝鮮半島情勢へ独自の関与を開始すると、吉備(きび)・葛城(かつらぎ)の首長のように、朝鮮半島の複雑な諸関係に引きずられ、次第に倭王権の外交・対外戦争から離れて、新たな紛争を抱え込むことにもなってしまう。渡来工人を招き独自に操業開始した各地の須恵器窯の多くが、5世紀中葉までその姿を消すとか、加耶系渡来人の関与で5世紀前半鉄器作りを始めた吉備の窪木(くぼき)薬師遺跡(岡山県総社市)5世紀後半に一時衰退するとされるのは、倭人の首長たちが朝鮮半島の複雑な情勢に翻弄され様々な対立を引き起こした時期と重なる。結局、この厳しい対立・分裂を乗り越えられない首長は、力を弱め、彼らの保持した渡来系の生産技術も絶え絶えとなったということなのであろう。

▶︎ 王権の工房

 こうしたなか、大覧沿岸部に置かれていた王権の工房だけは状況が違っていた。この王権の工房が、列島各地への影響力を次第に増していったのである。

 例えば5世紀の後半河内では鍛冶工房が増大し、なかでも「畿内最大」の鍛冶集落と評される大阪府大県(おおあがた)遺跡が、鉄器の生産量を急激に伸ばし、鉄素材の生産さえ開始させた可能性が指摘されている。須恵器でも、5世紀後半から、今の大阪府泉北(せんぽく)丘陵にあった陶邑(すえむら)の窯の直接的な影響を受けた須恵器窯が、列島各地に新たな広がりをみせる

 ところで、陶邑の須恵器窯といえば、5世紀の早い時期に加耶南部の工人を迎えて開窯されたとされる著名な王権の工房だが、陶邑の須恵器窯が各地に影響力を強める直前、窯の持つ国際ネットワークに変化があったようだ。陶邑の須恵器生産に、5世紀中葉前後から百済と関係を持つ朝鮮半島南西部栄山江(ヨンサンガン)流域の工人が加わったというのである。

陶邑窯跡群(すえむらようせきぐん/すえむらかまあとぐん)は、大阪府南部に分布する古墳時代から平安時代初頭にかけての須恵器の窯跡。日本三大古窯の1つに数えられている。

 後に前方後円墳墓も登場するこの栄山江流域は、倭・百済間の交流において結節点となるべき地理的位置にあるだけでなく、倭王の遣宋使船も、おそらくここを経由し中国山東半島に至ったとみられる。済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の各王は、百済との連携強化と宋朝の支持を背景に、有力首長を抑え込みながら、倭王が持ちうる対外的優位性を、より直接的に渡来系技術・文化の集中・編成・再生産に使うようになっていったらしい。

 一方、これら王権の工房が配置された大阪湾沿岸部も、王権が瀬戸内海と通じるための重要な港があったところで、王権と西日本・朝鮮半島とを結ぶ結節点にあたっていた。したがって5世紀の王権は、多くの渡来人を投入し、積極的にこの地を開発し続けた。なかで5世紀後半頃、淀川河口部に広がる河内湖周辺の治水と、河内湖の水を大阪湾に流す「堀江」の掘削に成功した意味は大きく、近畿の諸地域は、諸河川伝いに「堀江」付近に設けられた港(難波津)を通って、瀬戸内海へ出ることが容易となった。したがって、王権が国際社会の協力も得ながら渡来系技能者を集約し、またその生産物を倭の首長層に分配する場合にも、あるいは生産されたものを朝鮮半島に運ぶ場合にも、ここ大阪湾沿岸部は地政学的要地となりえたのである。

 こうして、各地の持つ国際ネットワークが混乱するなか、各首長層の対外的能力を示す財は、大阪湾沿岸部中心に、その集約に成功した倭王権によって分配・供給される体制が、5世紀に段階的に整備されていったと想定される。王権外交のもとで独自の加耶ネットワークを駆使した大首長のいくつかがその蛇取りを誤り勢力を弱める一方大王へ結集する動きを強める首長層は増え続けていったのである。5世紀後半の王権が倭国混迷を切り抜け、むしろその影響力を伸ばしえた背景には、こうした事情も横たわっていたとみられる。そしてこれ以後、大和だけでなく王権の工房の集中する河内にも拠点を築いた物部氏や大伴氏などが、急成長を開始することとなる

▶︎渡来系氏族の誕生

 大阪湾沿岸部の王権の工房が急成長を開始して間豊く、渡来系の生産技術には、早くも新しい動きが加わった。渡来系氏族の登場である。すなわち秦氏や漢氏といった渡来系氏族組織が、5世紀後半から6世紀中葉に成立する。

 渡来系氏族の登場ほ、倭国の渡来系生産技術の保持に新たな道を開くものであった。例えば『日本後記』弘仁2年(811)5月丙辰条は、東漢(やまとのあや)出身の坂上(さかのうえ)氏に関し、「家世武を尚(たっと)び鷹を調して馬を相(み)る。子孫業を伝えて、相次いで絶えず」と記す。坂上氏は、征夷大将軍の田村麻呂に代表されるように武人を輩出した古代の名族だが、彼らの武人としての性格を支える弓・馬・魔の技能は、いずれも東漢氏が管掌した渡来の技能をその子孫が引き継いだ結果としてあった。要するに渡来系氏族は、氏族という血縁を紐帯(ちゅうたい・二つのものを結びつけて、つながりを持たせる、大切なもの)とした社会関係を利用し、渡来の技能・知識を次世代へと伝える組織として機能していた。渡来の技能を身体化した人々を再生産する組織が、倭国に登場したのである。

 その背景には、前述の王権の工房の成長だけでなく、厳しい国際環境のなか、倭王権により自立的・安定的な技能者確保が必要となっていたことも影響したとみられる。倭王権と友好関係にある百済475年の高句麗からの攻撃で衰弱し、倭王の外交を支持する宋朝も479年に滅亡した。しかも、古くから倭との関係を保ってきた加耶地域に対する新羅の影響力は次第に強まり6世紀になるとそれは決定的となっていた。渡来系生生産組織の再編を大規模にすすめる倭王権にとっても、それを新来の渡来人だけに頼って拡大・維持するというのでは、あまりに不安定で息が続かない。何より国際情勢がそれを許してくれない。

 また渡来系氏族は、政治的に編成された氏族組織だったから、そこには、必要に応じて実際は血縁関係にない技能者も組み込まれることがあった。例えば、もともと有力首長の配下にあって、その首長の衰退とともに漢氏や秦氏に組み込まれた渡来系技能者たちがいた。あるいは漢氏の場合は、基本的な氏族形成を終えた6世紀以後も、新たに渡来した技能者たちを今来漢(いまきのあや)と呼んで、漢氏の枝氏(えだうじ)に組み込んでいった。

漢氏 (あやうじ)は東漢氏(倭漢氏、やまとのあや)と西漢氏(河内漢氏、かわちのあやうじ)の両系にわかれる。西漢氏は王仁の後裔を称し、東漢氏とは同族であるが、氏は異なる。その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)も加えられる

 こうして倭王権は、5世紀後半から6世紀、氏族組織を用いた技能者の再生産を積極的にはかり、これによって自立的安定的・量的に技能者を確保し宮廷工房充実させた。また6世紀以降、その氏族組織と生産拠点を倭の各地にも配置し、これらを主にミヤケと呼ばれる王権と結びついた経営組織体によって運営した。しか主権は、各地のミヤケの実質的管理者に現地の首長をあてる。各地首長層の力を取り込んで、生産・分業における王権を核とした列島規模の巨大ネットワークを築き上げたのである。一方、各地首長層もこの王権ネットワークに参加することで、混乱のなかで傷ついた地域生産・流通の核としての地位を取り戻し、その権威を回復していく。

屯倉(みやけ)は、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

「ヤケ」には「貢納奉仕の拠点」という一般的な性格を前提に,いくつかの重要な要素があり,なかでも重要なのは「支配」,「経営」,そして「所有・相続」の拠点・単位という大きくは3つの役割があると考えられる。これらが相互に関連しながら未分化なかたちで存在するところに「ヤケ」の多様性がある。これらの要素のうち「支配」の要素を強調すれば,官家(ミヤケ)から評家・郡家(コホリノミヤケ)へと特化することとなり,「経営」の要素を強調すれば,屯倉(ミヤケ)から屯田・官田(ミタ)へという経営体としての側面が顕在化することとなる。従来のミヤケ制の議論は「支配」と「経営」の要素を互いに排他的に主張することに特色があった。しかし後述するように那津官家と表現された官衙的なミヤケにおいても筑紫・肥・豊三国のミヤケの穀が運搬され,集積する倉庫が造られているように,他の要素を完全に否定することは困難で,結局のところ二つの要素は強弱を問題にしなければ,どのレベルのミヤケにも必ず存在するので,異質な要素を補完的に承認せざるを得なかったという問題点を抱えていたのである。王族層が居住した特殊なヤケである「宮」においても,上宮王家の斑鳩宮や高市皇子の香具山宮の例では,屯倉のような農業経営の拠点であるとともに,「ツカサ」が配された官衙的な支配の拠点としても機能していたことが確認されている。

■ 漢字文化と政治的身体

▶︎ 五経博士の政治的身体

 倭国の大改革で、倭人の生産活動には、倭王権の影響力が増す一方、朝鮮半島の影響力は相対的に低下したようにもみえる。確かに、倭の生産活動に氏族とミヤケ重要な役割を果たすなか、「技術革新の時代」以来の渡来系技術を用いた生産物に、渡来の要素は急激に薄れていく。しかしその倭国には、こうした巨大組織や王権ネットワークを矛盾なく動かす新たなノウハウが必要であった。そしてそれを、結局、朝鮮半島からもたらされる知識に頼ったのである。実際、宮廷工房の充実やミヤケ経営などでは、百済の制も大いに参考とされている。またその巨大組織のなかで、王と臣たちの権威を飾り立てる文物、例えば金銀なども相変わらず朝鮮半島からもたらされていた。一方、朝鮮諸国も倭国に対し人と生産物を組み合わせた軍事力を依然強く期待していた。

 このなかで、6世紀になると、倭王権の渡来人への関心は、政治・軍事・家政などとかかわる最新の知識、すなわち広い意味で政治力と直結する漢字文化を持つ人々に強く傾いていく。こうして倭国では五経博士と呼ばれる新たな渡来人も受容されるようになった。

五経博士(ごきょうはかせ、ごきょうはくし)は、古代中国の官職の一つ。 前漢時代、太常の属官に置かれた。 儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった。

五経とは厳密にいうと、『詩経』『書経(尚書)』『礼記』『周易(易経)』『春秋』のことを指します。『詩経』とは、戦国諸国の国風歌謡や、貴族・朝廷の宴席、祭祀などで用いられた歌謡が収められています。かつては孔子が編纂したものとされ、各歌の背景には教訓、道徳や倫理の起源となる事実が存在すると考えられていました。『春秋』も同じで、春秋時代の歴史書ですが、簡易な文体の背景には歴史を貫く含意があるとみられていました。『書経』は戦国時代に至る政道の書、『礼記』は王侯士大夫の守るべき礼儀、『周易』は箴言の込められた卜占の書であり、いずれも変転する時代のなかで王権・国家を維持・発展させるために必須の思想とされました。そうしてこれらにいかに通じているかが、中華世界における王侯士大夫の教養として重要であり、夷狄とは異なる扱いを受けるうえで大切だったのです。しかし、いずれも思想的、文章的に難解であったため、それらに習熟し解説してくれる五経博士の存在はなくてはならないものでした。一口に儒教の伝来といっても、文字、文芸、その背景にある思想、礼儀・儀礼、中国史の知識とそれに対する洞察、卜占など、極めて多様で高度な文化の需要を意味したのです。

 五経博士とはもともと儒教の五つの基本経典を講ずる学者たちのことを指し、中国の前漢武帝が初めて置いたとされている。この五経博士の倭国への渡来は、『書紀』継体7年(513)6月条に百済から五経博士の段楊爾(だんように)が貢じられたとする記事が初見である。当時、中国では、南朝梁(りょう)武帝が505年に五経館を開設してから、教学を重んじた仕官や書物の収集が積極的に行われていた。一方、前述のように五世紀後半に高句魔の攻撃などで存亡の危機にあった百済は、6世紀初頭に武寧王(ぶねいおう)が即位して以後は国力を盛り返し、この梁へも度々使節を送っている。その百済の梁との交流の成果が、五経博士の渡来となって同盟国の倭へもたらされたのである。

 しかもそれは五経の諸博士にとどまらず、医・暦などの諸博士を含み、後にはこれに僧侶も加わる。そこにはもちろん、百済側の、百済支援を続ける倭に対する見返りとしての意味が強く込められていた。こうして渡来した彼らは、倭国において支配層のブレーンとして活躍した。

漢高安茂(あやのこうあんも、かんのこうあんも、生没年不詳)とは、継体天皇の在位中である西暦516年に、朝鮮半島の百済から派遣されたとされる古墳時代後期の五経博士である。先に来日していた段楊爾の交換要員として百済から派遣されたとされる

段楊爾(だんように、生没年不詳)は、継体天皇の在位中である西暦513年に、朝鮮半島の百済から来日したとされる古墳時代後期の五経博士である。穂積押山が百済から帰国するときに同行したとされる。

穂積 押山(ほづみ の おしやま)は、古墳時代後期の6世紀前半頃の人物。カバネは臣。『日本書紀』では「穂積臣押山(ほづみのおみ おしやま)」と表記されるほか、同書割注によると『百済本記』では「委意斯移麻岐彌(わのおしやまきみ)」と表記されるという(原文は散逸)。『古事記』に記載はない。継体天皇(第26代)の時における任那の哆唎国守(たりのくにのみこともち)または下哆唎国守(あるしたりのくにのみこともち)で、百済への任那4県割譲(支配承認)で活躍した人物とされる。

 またこの諸博士らは、百済から後任者が渡来すると、百済へ戻ることも少なくなかった。っまり彼らは、百済から交替で渡来し、倭へ提供する知識を頻繁に更新していたのである。しかし、それは単に知識だけの更新にとどまらない。政治的諸関係も継続・更新しようとしていたのである。諸博士のなかには百済の官位を帯びる者がみえるように、彼らは百済王の官制組織とかかわりを持つ人々でもあり、その本国での政治的立場を保ったまま倭国で支配層の諮問(しもん・意見を尋ね求めること)に答え、倭国の政策に影響を与えていた。彼らは文化的身体とともに、百済側の政治的意図を背負う政治的身体を併せ持った人々だったのである。

▶︎ 漢字文化を運んだ人々

 しかしそれにしても、この段階の倭国は、百済が導入したばかりの南朝梁の最新文化を、百済経由ですぐさま受容できたのであるから、五経博士に示される中国大陸➡️朝鮮半島➡️日本列島をたどる文化伝播のスピードは、以前と比べて随分早くなったものである。そして倭国が本格的な漢字文化の時代を迎えるのも、この6世紀からであった。

 こうした6世紀にはじまる倭国の文化現象を、本書の最初に紹介した西鳴定生(にしじま さだお・1919– 1998年)の東アジア世界論から理解しょうとすると、何かすっきりとしない。繰り返すが、西鳴の東アジア世界論とは、中国王朝を軸とした冊封体制が、漢字文化を東アジア共有の文化へと押し広げたと説くものである。ところが、倭国の場合、漢字文化が深化する6世紀中国王朝とは断絶といってもよいほど直接交渉がないのである。

親魏倭王(しんぎわおう)とは、魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年(239年説もある)に与えられたとされる封号のこと。『三国志』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)に記述されている。

 もちろん、列島における漢字文化の受容が、通説のいうように、外交、なかでも中国王朝との交渉と深く関係していたことは、ある程度認められる。「親魏倭王・238年」の卑弥呼は、対中外交のなかですでに漢字を使っていた可能性があるし、宋朝の冊封を受けた倭の五王の場合も、例えば『宋書』に収録された倭王武(5世紀後半(古墳時代中期)の倭王)の宋皇帝への上表文が、中国の史書・古典を豊富に練り込んだハイレヴェルな漢文知識をひけらかす。ただし、倭王を除くと、列島でこうした高度な漢字文化を駆使できた勢力は見あたらない。これらは倭王が、他の倭人たちに先んじて、かなり高度な漢字文化を先駆的に身にまとっていたことを裏付けている

5世紀後半(古墳時代中期)の

 中国王朝の対外関係は、建前上は、皇帝と諸外国の王との中華的な君臣関係として結ばれることになっていたから、倭国の外交を主導した倭王は、結果的に対中関係を独占することになり、しかもそこでの交渉が漢字漢語で行われたため、倭王は倭人のなかで真っ先に漢字文化に接近する必要があった。

 たださすがに、倭王はたった一人でこれほど高度な漢字文化を使いこなしていたわけではない。彼は漢字文化を熟知する渡来人を近くに置き、ブレーンとしていたのである。ここで列島における漢字文化の実際の担い手をみると、卑弥呼の漢字文化を政権内の誰が担ったかは、残念ながらよくわからない。おそらくごく一部の渡来人たちだったのだろうと推測される程度である。しかし、倭の五王の漢字文化を担った人々については、倭王武が宋朝に提出した上表文を分析することで、その輪郭がおぼろげながらつかめる。上表文のなかの漢文表現に、上表文作成者の持つ漢字文化の系譜が刻印されているからである。

 それによると上表文作成者のルーツは、漢人を中心とした中国系の人々だったと推測される。彼らの先祖たちは、上表文作成の百年以上前、漢族政権の中国晋王朝と関係を持ち、華北や朝鮮半島北方の楽浪郡・帯方郡などで活躍していた。ところが四世紀初頭になって、華北の非漢族を中心とした諸族が晋を江南に追い払い、楽浪郡・帯方郡も滅亡するなど、当地は大混乱に見舞われることとなった。そしてこの晋の華北撤退で、華北や朝鮮半島北部に取り残された中国系の人々の一部が、高句麗や百済へ流入したのである高句麗・百済にたどりついた彼らは、晋朝時代に身につけた漢字文化を駆使し、各王権の政治・外交に深く関与するようになっていく。四世紀に高句麗・百済が急成長した背景には、こうした中国系の人々の貢献があった。

 そしてその系譜を引く人々が、5世紀、倭と同盟関係にある百済から倭王に贈られて列島へも渡来した。その彼らを倭王は、上表文作成などに関与させたのである。だから、この時代の倭・百済・高句麗は、対中外交で使った漢文の表現が驚くほどよく似ている。

 このように、倭の五王が宋との冊封関係で用いた漢字文化は、華北の争乱に巻き込まれて移動した中国系の人々が朝鮮諸王権のもとに運んだ文化を基礎としていた。倭王は、この晋代の漢字文化を引き継ぐ彼らを、緊迫した朝鮮半島情勢に関与することで入手できたのである。こうして5世紀の朝鮮半島・日本列島の諸王権には、対立関係か同盟関係かにかかわらず、同じ漢字文化を共有する基盤が出来上がっていった。中国王朝と冊封関係を持たない6世紀の倭国が、朝鮮半島を介し東アジア最新の漢字文化を素早く受容し理解できたのも、5世紀に作られたこの文化的素地があったからに他ならない。

▶︎文字と地域と支配 

 そしてちょうどこの頃から、漢字文化が機能する舞台も、対中外交だけではなくなっていく。そのことは5世紀の古墳から出土する銘文入りの刀剣類が端的に示している

 例えば教科書でおなじみの埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣熊本県江田船山古墳出土大刀の銘文からは、倭王武の時代の地域首長が、大王周辺の渡来系文字技術者の力を借り、大王との強い結びつきを文字で示しながら、それを地域政治の場に利用しょうとしていた様子が読み取れる。銘文には、中空朝中心の中華的世界観とは別の、倭王を軸とした「天下」観までが記されていた。また近年、5世紀中葉の千葉県稲荷台一号から、「王賜」以下−二の文字が刻まれた鉄剣も出土している。当時、大王が首長に下賜した刀には、「王賜」で始まる定型的な字句を刻むことも行われていたらしい。

【江田船山古墳出土大刀銘】(上図)

(治)(天) □□下獲□□□歯大王世奉事典曹人名元利呈八月中用大口釜口井四尺蓬刀八十練 (六) (措)    (利)       (寿) □十□三寸上好□刀服此刀者長□子孫注々得三恩也不失共所統作刀著名伊太加書者 張安也

【稲荷山古墳出土鉄剣銘】(下図)

園 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖意富此垢其児多加利足尼其児名主己加利獲居其児名加 披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半量比国共児名加差披余其児名乎獲居臣世々為枚刀人首奉事来至今 獲加多支歯大王寺在斯鬼 宮時吾左治天下令作此百錬利刀記吾奉事故原也

【「王賜」銘鉄剣銘】(上図)

園一王賜□□敬口圏 此廷□□□ 5世紀の刀剣類銘文

 ことはいずれも、5世紀中葉以降の倭王権が、漢字文化を、大王を軸とした政治世界をつなぐものとして、またその世界を正当化し表現する道具として使いはじめていたことを示している。6世紀の倭王権が、対中外交と離れたところで漢字文化の受容本格化させたのは、まさにこの文字の持つ支配の側面に注目したからであった。漢字文化が中国王朝と結びつくためではなく、支配力強化という、支配層にとってはもっと普遍的で主体的な政治的価値からとらえられるようになったとき、その受容は一気に加速したのである。

 このように、漢字文化の越境性は、中国王朝が持つ圧倒的な政治力だけが支えたのではない。漢字文化には、それ自体が包み込む普遍的価値を、容者が主体的に引き出し用いることを許容する、汎用性の高さがあったことが重要である。

 だから先の刀剣類の銘文にも、冊封関係というより、東アジア各地で積み重ねられた地域的変容の歴史が表現されることになる。例えば稲荷山鉄剣銘には、秦・漢代の記録体に起源する楽浪文化ともいうべきものと、古韓音の文字用例と、さらには東国方言による人名表記までが編み込まれていたことが指摘されている。それは、漢字文化の伝播の過程で塗り重ねられた、地域複合の文化ともいうべきものである。倭国の漢字文化を担った身体には、緊迫する東アジアを越境し駆けめぐった人たちと、それを受容した人々の歴史が、折り重なるように刻み込まれていたのである。

■ 王辰爾 (おうじんに)の戦略

▶︎ 王辰爾の渡来

 ここで列島に漢字文化をもたらした渡来人の、政治的かつ越境的な身体を具体的に示す例として、6世紀の王辰爾を取り上げてみょう。

 王辰爾(おうじんに)は、後世の奈良貴族たちの間でも、歴史的著名人であった。天平勝宝3年(751)成立の漢詩集「懐風藻」は、その序を日本の文字文化導入における渡来人の活躍の紹介から書き起こす。そのなかに「辰爾終に教えを訳田(おさだ)に敷く」という一文がみえる。8世紀の日本貴族は、王辰爾を日本の漢字文化創世を偉大な人物の一人と高く評価していたのである。

『懐風藻』の序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」と表現されている。

 その王辰爾は、『書紀』にょると、6世紀半ばから後半の欽明(きんめい)・敏達(びだつ)両王権に仕えた渡来人でいたのである。来系の人で、船氏の祖として登場する。しかし残念ながら、倭王権に仕える以前の辰爾がどこにあったのかを伝える史料はない。ただ後世の辰爾系氏族の系譜伝承が、辰爾を百済王族の血を引く渡来人の五世孫とするのみである。けれどもこれら後世の辰爾系氏族の系譜は、同じ渡来系の西文(かわちのふみ)氏系の氏族系譜を利用して意図的に古く遡(さかのば)らせていることが明白で、信じがたい。むしろ辰爾が王姓のまま活動していること、辰爾系氏族が百済出自を称していることなどからみて、辰爾は6世紀の半ばに新たに百済から渡来した人物であったとみるのが一般的である。

宮原氏(みやはらし)は、日本の高家のひとつ。本姓は源氏。家系は清和源氏の一族である河内源氏の流れを汲む足利氏の分流で、室町時代に初代鎌倉公方となった足利基氏(足利尊氏の四男)の系統である。

菅野氏(すがのうじ)は、「菅野」を氏の名とする氏族。日本古代の帰化人系氏族(諸蕃)である。百済の王家から別れたといい、姓は朝臣(菅野朝臣)。

 なお、辰爾を祖とする船氏に関しては、墓誌では現存最古の戊辰年(668)の年紀を持つ王後(おうご)墓誌も参考となろう。これは「惟(これ)船氏故王後首(おうごのおびと)は、是船氏の中祖王智仁首(おうちじんのおびと)の児那沖故首(なはこのおびと)の子也」という文言で始まる墓誌である。それによると王後は、敏達大王(びだつてんのう・538年?〈宣化天皇3年?〉 – 585年?)の時代、王智仁、すなわち王辰爾の孫として生まれ、推古・舒明(じょめい)両大王に仕えて、641年に没した。そして、668年、王後は彼の長兄刀羅古首(とらこのおびと)の墓の近くに夫人とともに合葬されたという。『書紀』によれば辰爾は敏達(びたつ)大王にも仕えていたから、王後(おうご)が生まれた時、辰爾ほまだ生きていたかもしれない。王辰爾は確かに実在の人物なのである。

中興の祖(ちゅうこうのそ)とは、一般に「名君」と称される君主または統治者のうち、長期王朝、長期政権の中途、かつ危機的状況後に政権を担当して危機からの回復を達成し、政権の安定化や維持に多大な功績があったと歴史的評価を受ける者をいう。

 ただ、墓誌は王智仁を船氏の「中祖(なかそ)」としていて、これを「中興の祖」と理解すると、7世紀後半には辰爾を遡る系譜がすでに成立していたことになってしまう。しかしこの「中祖」も、義江明子(よしえ あきこ、1948年10月 – )は、日本の歴史学者。帝京大学名誉教授。専門は日本古代史・女性史)が指摘するように、大王奉仕伝承の確実な始点となる現実的始祖を指すとすべきだろう。船氏の実際はやはり辰爾の渡来に始まったとみてよいと考える。

▶︎ 樟勾宮(くすのまがりのみや)行幸

 この辰爾の渡来後の活動を伝える最初は『書紀』欽明14年(553)7月甲子条である。それにょると、樟勾宮に行幸した欽明大王は、大臣の蘇我稲目に命じて王辰爾に「船賦(ふねのみつき)」を数え記録させた。その功績にょり、大王は辰爾を「船長(ふねのつかさ)」とし、「船史(ふねのふびと)」のを与えた。

 ここで辰爾の数え録した「船賦(フネノミツキ)」と読まれたことから、船からの貢納物の意と理解するのが一般的である。また、辰爾が「船賦(フネノミツキ)」を数え記録した行為は、樟勾宮へ行幸した欽明大王が蘇我稲目に命じて行われているので、「船賦(フネノミツキ)」も欽明の樟勾宮行幸と何らかの関連を持っていたと推定される。そこで「書紀』の他の欽明大王の行幸記事をみていくと、それはどれも対外関係と結びついて伝えられている。ならば樟勾宮行幸時も、欽明大王が外交上の大きな案件を抱えていたことが留意されてよい。

 すなわちその直前、百済は新羅の協力でかつての王都漢城か高句麗を追い出すことに成功していたが、その支配権をめぐり新羅との対立を先鋭化させてもいた。552年、新羅の勢いにおされた百済の聖明王は、倭王欽明に援軍を要請する。それは樟勾宮行幸の前の年のことであった。

 この百済からの援軍要請を検討した欽明は、翌年6月、これに応じることを決意する。すなわち百済へ使者を派遣し、良馬二匹・同船(もろきふね)二隻・弓50張・箭(や)50張を贈って、援軍派遣の見返りに、医博士・易博士・暦博士の交替と卜書・暦本・薬などを要求したのである。この時欽明が百済に提供した僅かな量の馬・船・弓箭は、彼が援軍要請に応える意志を百済に示したものに過ぎない。だから以後、百済は、約束の援軍派遣を急ぐよう倭王に迫り、またその準備状況を確認するため、頻繁に遣倭使を送っている。樟勾宮行幸は、その欽明が百済に援軍派遣の意志を表明した翌月のことであった。行幸の時期、欽明の最大の関心事が百済へ派遣する援軍の準備にあったことは間違いない。

 一方その「樟勾宮」は、クス(樟・楠)と、川の屈曲を意味する「勾」から名付けられた宮で、今の大阪府枚方市楠葉付近の、淀川の川津近くにあったと考えられる。そこはかって、欽明の父継体大王が即位した樟葉宮(くすばのみや)があった。このすぐ北側は琵琶湖から注ぎ出る宇治川と木津川・桂川が合流するまさに水上交通の要衝で、継体は即位に際しこの水系で結ばれた首長たちの支援を受けている。そしておそらく、これら宮の名称に含まれる「」はその水系を利用して運搬されたクスノキと関係している。8世紀、淀川水系の材木運搬ルートは盛んであったが、『書紀』欽明14年5月朔条には和泉灘(大阪湾の別称)に浮く立派なクスノキで仏像を造ったという吉野寺の伝承も掲げられているように、当時もクス材が大阪湾へ注ぐ川を下っていたことは確かであろう。樟勾宮は、切り出されたクスノキの運搬が臨める河川交通の要地にあったと考えられるのである。

 そしてそのクスノキは、古代において船材として多用されていた。例えば『書紀』神代上にはスサノヲノミコト杉と樟の用途を造船用と定めたとする神話が掲載されているし、『播磨国風土記』逸文にも「楠を伐りて舟に造る」とあるなど、クスノキは古代船の代表的用材であった。ならば、援軍の準備をすすめた欽明が、行幸の10ケ月後、多くの兵馬とともに船40隻を百済に送ったことが注目されるだろう(『書紀』)。百済支援を決した欽明王権が、クスを切り出させ船を準備したことほ間違いないからである。

 以上のことから、百済の要請に応じて軍事援助を決心した欽明の、直後の樟勾宮行幸は、造船用材などそれに必要な軍事物資の調達とかかわるものであった可能性が高い。樟勾宮付近の河川屈曲部には、淀川水系を利用し運ばれたクス材が貯木されていたのではあるまいか。文字技術者の王辰爾は、これら淀川水系を利用し周辺首長が貢納する物資を、宮近くの津で計算・記録したのだろう。

▶︎ 辰と外交

 樟勾宮行幸の際の王辰爾の活躍を上のように理解するならば、彼が百済からの渡来者とみられることがより重要な意味を持つことになる。彼の渡来は、その活動内容からみても、百済の倭に対する軍事要請と深くかかわっていたはずだからである。そしてそれは、倭の軍事援助を引き出し、またそれを最新の知識・技能で支えるために百済から渡来した、諸博士たちの役割に似る。この点で、辰爾が王姓を冠したことはやはり積極的に評価されるべきと考える。王姓は、倭が軍事援助を行う見返りに百済が倭へ贈与した諸博士らに多い姓でもあった。王辰爾が、他の諸博士と同様、中国系百済人であったことも疑われて良い

 したがって、その後の辰爾が倭の外交政策に直接関与するようになったことも、百済の戦略的意図とのかかわりからとらえる必要があろう。それは、『書紀』敏達元年(572)5月丙辰条が掲載する、著名な高句麗の「烏羽(からすのは)の表」にまつわる問題である。

黒羽を湯気で蒸し絹布に押しっけて文字を転写し、ようやく解読に成功

又高麗上表疏書于烏羽。字随羽黒既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣。以帛印羽。悉冩其字。

高句麗から上奏された国書は烏の羽に書かれていた。文字が黒い羽にあるため誰も読むことができなかった。辰爾は、羽を飯の湯気にあてて蒸し、柔らかくした絹に羽を押しあて、すべての文字を写し取った。

 これは欽明31年(570)4月の越(こし)からの高句麗使人漂着報告に始まる、高句歴使をめぐる一連の記事の一つで、高句麗が倭国に正式な使者を派遣したのはこの時が最初であった。高句麗は、成長する新羅に対処するため、敵国であり続けた倭への接近を読みたのである高句歴使到来の報を受けた欽明は、直ちに山城の相楽郡(さからのこおり)に客館を建て、飾り船を送って彼らを新設の客館に招き入れた。ところがその直後欽明が没する。次の敏達大王(びだつてんのう、538年?〈宣化天皇3年?〉 – 585年)は、即位するとすぐ、群臣らを相楽の館に派遣し、高句麗の「調物(みつきもの)」を検録し、それを大王宮に送らせた。辰爾がすでに「船賦(ふねのみつき)」の数録で認められた存在であることを考慮すれば、この時の高句麗の「調物」の検録にも彼の関与があった可能性は高い。実際の検録作業には渡来系で文筆業務を専門とするフミヒトと呼ばれる人々があたっていたはずだからである。船史(ふねのふびと)姓を与えられた辰爾もまた、そのフミヒトの一人であった。

  そしてここで検録された「調物」とともに大王のもとにもたらされた高句麗の国書をめぐって、問題は発生した。すなわちそれは烏の黒い羽に書かれていたため、フミヒトらが誰も読めなかったというのである。そのなかでただ辰爾だけが、その黒羽を湯気で蒸し絹布に押しっけて文字を転写し、ようやく解読に成功した。これに喜んだ敏達(びだつ王)は辰爾に宮殿での大王近侍(きんじ・おそば近くつかえること)を命じる。

 右の話のうち、高句麗の正式な国書が細工をせねば読めない烏の羽に書かれていたというのは、やはり信じがたい。高句麗は独特の漢文様式を持っていたから、それに初めて接した当時のフミヒトらがこの解読に苦しんだことが、右の逸話の背景にあるという説があるが、私もそう考えた方が良いと思う。そして辰爾にそれが読めたというのなら、彼の身体化された技能には最初から高句麗漢文の知識が含まれていたことになろう。ならば百済は、最初から倭・・高句麗関係もにらんで、この辰爾を送り込んでいた可能性が高い。

 しかも当時、百済と高句麗は、新羅という共通の警戒すべき相手を抱えながら、敵対的関係が解けていなかった。だから、辰爾の敏達大王へ近侍(きんじ・おそば近くつかえること)がはじまると、せっかく始まった倭・高句麗の関係がギクシャクすることになる。高句麗の遣倭使は、570年、573年、574年と続くが、最初の遣使は、内部分裂から大使が副使らに暗殺され、二度目にいたってほ疑念を抱く倭から饗応もされないまま帰国を促される。しかもその道中で高句麗使人二人が倭の送使に殺害されるという事件まで起こった。三度目の使者は、その殺害された二人の消息を尋ねる目的の来航だったという。当初、飾船・客館まで備えて高句麗使を迎え入れた倭に、高句魔の意図とは逆の強い不信の空気が高まっていったことは間違いない。そこにも、大王から近侍を命じられ百済の戦略的意図を代弁する辰爾の、倭国外交への影響力が窺えるのである。

 以上のように、6世紀、百済関係を重視する倭王権への百済王権からの見返り・返礼として贈られる技能者には、渡来後も自らの技能と引き替えに本国の思惑を継続的に倭王権へ訴えかける、駐在官としての役割が看取される。

 辰爾も、こうした双方の意図の絡み合う王権間交通のなかに活躍の場を与えられた技能者であった。けれど後の律令貴族が抱く辰爾像に、その緊張感は伝わらない。ただ、日本の漢字文化創世を支えた偉人としての姿だけが、誇張されて残ったようである。