5. 十七条憲法とは

■十七条憲法とは

東野治之  

▶︎十七条憲法と冠位十二階

▶︎十七条憲法は誰が作った? 

 太子の実際の地位を考える糸口としてまず取り上げたいのは、「日本書紀」に太子が一人で行ったと明記される施策で、主なものは次の二つです。

○B 十七条憲法の作成(推古十二年四月条)
○C 仏典の講義と注釈(推古十四年条)

 このほかになお二つ、太子主導の小さな施策が見えますが、それらはBに関連して後でふれましょう。

 太子単独の主な仕事が二つでは少なすぎる、明記されていなくても、多くの推古朝の施策がそうだったのだという考え方もあるでしょう。しかしそれなら太子主導と明記された先の二つは何だったのか、この二つだけについて、とくに断る理由もないように思います。『日本書紀』がそれらに限って太子の事績であると書いたのには、それなりの事情があったはずです。そこで二つを個別に検討してみようと思いますが、その前にこれらの施策の内容や意義を簡単に振り返っておきます。

 Bの十七条憲法は、推古12年(604)に太子が作ったというもので、日本の法律の始まりとして有名ですが、国家の基本法というような性格はありません。実際は朝廷に仕える人々を対象にした十七箇条から成る心得です。勤務時間などにふれた条文もありますが重点は心構えを説くところにあります。次に挙げる各条の主文だけを見ても、それがわかるでしょう。


 功過を明察し、賞罰は必ず当てよ。国司・国造は、百姓を赦ること勿れ。諸の官に任ずる者は、同に職掌を知れ。群臣百寮は、嫉妬有ること無かれ。私に背き公に向かうは、走れ臣の道なり。民を使うに時を以てするは、古の良典なり。夫れ事は独断すべからず。

 この憲法については、用語の中に「国司」というような後代の語が見えることや(第二条)、豪族割拠の時代にふさわしくない天皇絶対の思想が反映されていることから(第三条)、太子の作であることを疑う意見が古くからありました。近年では言い回しに正統の漢文ではない表現があるのは、『日本書紀』の執筆者に特徴的な「倭習」(日本風の訛り)だとして、『日本書紀」編纂が行われた七世紀後半以降の作とする見解も出されています。

▶︎仏教尊重の時代ならではの憲法

 しかし私は、そういう説を支持することに疑問を感じざるをえません。というのは、憲法二条に「篤く三宝を敬え」(仏教をあつく信仰しなさい)とあり、続く第三条に「詔を承りては必ず謹め」(天皇の命令には必ず従いなさい)という文が置かれているからです。律令制が整ってくる七世紀後半以降には、仏教は尊崇(そんすう)されるものの、これを国家の管理下に置く体制も整えられ、何ものも超える権威とは見なされませんでした。701年の大宝令(たいほうりょう)では、その中に僧尼令(そうにりょう)という章が立てられ、僧尼や寺院ははっきりと朝廷の管理するところとなります。

 ところが憲法の第二条では、仏と法(仏の教え)と僧の三宝をあつく信仰するようにと言って、それを詔勅(しょうちょく)に従うことに優先させているのです。もちろん天皇も崇拝する仏や仏の教えが天皇より上に来ていいのですが、日本の律令制のたてまえでは、天皇や朝廷があってこその存在だったはずですし、僧にはある程度自治が認められていても、朝廷の統制を受ける立場でした。朝廷に仕える人々に示すなら、当然第三条が第二条の前に置かれてしかるべきでしょ−つ。

 なぜこうなったかと言えば、それはこの憲法が、前に述べた「法興の世」に作られたからに違いないと思われます。稀に見る仏教尊重の時代であったからこそ、こういう構成の憲法がありえたので、『日本書紀』の編纂が進行する時代に作られた憲法だったら、二条と三条が入れ換わっていたはずです。これは、憲法が七世紀後半以降のものでない証拠になると思います。

和習(わしゅう)または和臭(倭臭)とは日本人漢文を作る時に、日本語の影響によっておかす独特な癖や用法。江戸時代荻生徂徠によって指摘された。これが最も著しいものが漢字のみで書かれた日本語文の候文である。

 文章に正式な漢文とは異なる訛(なま)りがあるという問題は、決定的な要素とはできないでしょう。倭習というのは便利な言葉ですが、その判断には危うさがあることを忘れてはなりません。文法的にまちがっているから倭習とというのは便利な言葉ですが、文法的に間違っているから倭習といってしまえば簡単ですが、いつの時代、の地域でも言葉が文法どおりに書かれたり話されていないことは明らかでしょう。倭習と思われた表現や用語が、中国の文献から見つかるかも知れないし、見つかっても不思議ではないのです。ですから格にはずれた箇所があるからといって、時代や作成地を判断する決め手とすることには、私は慎重でありたいと思います。

 この憲法が第二条に仏教崇拝を掲げていることは、飛鳥時代に仏教が盛んだったことを知る我々には、異様さが目立ちません。しかし江戸時代までの儒学者や神職などは、その仏教偏重に敏感でした。その反応が『聖徳太子五憲法」で改訂されたもっともらしい「通蒙(つうもう)憲法」に表れていることは、序章で明らかにしたとおりです。中世から近世の知識人にとって、仏教偏重への第二条はなんとも落ちつきの悪い条文だったのです。これは仏教への管理が強まり、律令制の枠内に取り込まれた七、八世紀の人々にも同じだったでしょう律令の背景にある根本理念が儒教であってみれば、違和感は強かったはずです。それにもかかわらず、『日本書紀」のような形で憲法が載せられているのは、たとえ細部の用語などに編者の手が加わっているにしても、大筋は飛鳥時代のものだったことを示していると思います。

 確かにこの憲法には、当時としてはありえないような君主絶対の理念や体制が説かれています。ただこうした規定を漢文で作ろうとすれば、中国風の作文技法にのっとらざるをえません。それはさまざまな中国古典に基づく語句を組み合わせ、習合わせていくやり方です。上から下に説き聞かせるという文章の性格からすれば、現実離れした表現が優勢になるのも、やむをえなかったでしょう。

■ 三 外交における役割

▶︎遣隋使と太子 

 ところで政治家としての太子と言えば、帖帽との外交にふれないわけにはいかないでしょう。太子は外国に門戸を開き、先進文化を積極的に受け入れたというイメージもよく語られます。しかし、ほんとうに太子は練達の外交官だったと信じていいでしょうか。気がかりなのは、太子が外一父に関わった形跡が、まったくないことです。

 たとえば推古朝には、隋に外交使節が派遣されます。その最初は推古八年(六〇〇)のことと考えられます。長い間分裂していた中国の南北の王朝が、隋によって統一されるのが五八九年、それを受けての倭の対応が、約一二〇年ぶりのこの外交使節派遣でした。その後、推古十五年に小野妹子を大使とする第二回の遣隋使があり、翌年隋便、襲世清とともに帰国します。襲世清を送るため、妹子はもう一度、その年に隋に渡航します。太子との関係でとくに注目されるのが、妹子が最初に帰ってきた推古十六年の時の状況です。

 襲世情らが随行してきたこともあって、朝廷は盛大な歓迎で出迎え、小治田宮で外交儀礼 とが執り行われるわけですが、それを詳しく記述した 『日本書紀』 の中に、太子はそれとわかる形で姿を見せていません(小治田宮は『日本書紀」一では小墾田宮と書かれていますが、本書では一般的な表記に従います)。小治田宮での儀礼では、宮の前庭で襲世情が隋の国書を奏上し、それを阿倍臣が受け取って、宮の正殿(中心の建物)前の門まで出てきた大伴醤連に渡し、筈は門の前の机にこれを置いて天皇に奏上し、終わって退出しています。この時「皇子・諸王・諸臣」らの着けた華麗な装束のことが記されているので、皇子や臣下たちが列席していたことは確かでしょう。天皇と襲世清が直接対面しなかったのも、八世紀以前では当たり前のことといえます。

 ただ、同じミコノミコトの称を持っていた、のちの中大兄は、野明二年(六三〇)にやはり送使として来日した唐の使い高表仁と面会しています。〒日本書紀」一にはまったく記されていませんが、中国の歴史書である一「旧唐書」一倭国伝では、高表仁が「王子と礼を争い、朝命を宣べずして」還ったとあります。この「王子」が中大兄だった可能性は、これまで言われ90第2章 太子はどんな政治をしたのかているように少なくないでしょう。倭を臣下扱いしようとする高表仁に対し、中大兄は、膏と対等の立場を主張して争ったと見られます。しかし推古十六年の場合、聖徳太子は諸皇子の一人として列席していたに過ぎず、表立った役割を演ずることはなかったと見るべきです。

▶︎見えない太子の足跡

 ではこの時の外交折衝を主導していたのは誰かと言えば、やはり蘇我馬子に他ならないでしょう。国書の取り次ぎに当たった大伴富は、かつて馬子が政敵の物部守屋を征討したとき、馬子方に就いた有力者の一人です。外交にも堪能で、この二年後の推古十八年十月、新羅と任那の使節が来日した折には、蘇我蝦夷・坂本糠手・阿倍馬子の四人で両国の使節の奏上を聞き、それを竹節我馬子に伝える役目を演じました。この時の次第は、天皇が参加していないだけに、かえって外」父の実態がよく現れています。これより先、推十口朝には、九年(六〇一)から十一年二ハ〇三)にかけて、新羅を征討しようという動きが具体化し、聖徳太子の弟の来目皇子や当麻皇子が、征討将軍になって九州まで軍を動かしたことがありました。これを、聖徳太子が外交を主導していた証拠と見る考えもあります。しかし、馬子がミコノミコトの弟を将軍に指名したとしても不思議はありません。

これまで『日本書紀』から聖徳太子と外交の関係を見てきましたが、ほかの伝記史料からも同じことは言えるのでしょうか。実は伝記史料として信頼度の高い『法王帝説』には、太子の外交への関与を裏付けるような記述はまったくありません。歴史の世界に限りませんが、何か記事があると人は注目するのですが、反対に記事がない場合、その重要さに気づかれないことがあります。この場合、まさにその例に数えてもいいのではないかと思います。『法王帝説」一の内容は、『日本書紀」一から考えたことを補強してくれそうです。

 聖徳太子と外交の関わりをほのめかすように見えるのは、『異本上宮太子伝』以下、奈良時代の後半以降に成立してくる多くの太子伝です。これらの中では、太子は小野妹子を遣隋使として派遣した、その当事者になっています。しかしこれは明らかに史実ではありません。太子は中国の高僧が日本に生まれ変わったので、中国にいた「」ろ持っていた甘華経を妹子に命じて持ち帰らせようと、遣隋使を派遣したというのです。この伝説に関する詳しいことは、最後の章で取り上げることにして、ここでは省略しますが、太子と外交について語る材料にならないことは言うまでもないでしょう。ただ、この話は後世広く普及し事実と信じられたので、対隋外交を推進した太子というイメージにかなり影響しているかもしれません。

▶︎「日出ずる処」と書いたのは誰?

 また関連してふれておかねばならないのは、遣隋使が隋に持っていった国書の筆者を太子と考える風潮が見られることです。中国の歴史書である肩書』倭国伝によると、大業三年(六〇七年、推古十五年)に隋に来た使いがもたらした国書に、

 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。憲無きや。

 とあったと言います。これは隋に対して対等の立場を表明したもので、いかにも太子らしいというのです。しかしこれが太子の書いた物であるとする格別の根拠があるわけではありません。太子が外交を主導していたなら、当然太子の息のかかった文章となるでしょうが、これまで見たところからはそういう立場ではないでしょう。

 しかし、十七条憲法のことを思い出してみれば、外交の実権は馬子が握っていても、太子それに協力して国書の作成に知恵を貸したり、文案を作ったりすることは考えていいと思います。この国書の「日出ずる処」や「日没する処」という表現からは、その作成者が仏典に深い知識を持っていたことがわかるからです。 この表現は、それぞれ東と西に対応し、倭と隋を表していることは言うまでもありませんが、もとはと言えば仏典の 『大智度論』から出た言葉です。『大智度論』巻十には四方の言い方として「日出ずる処」「日没する処」「日行く処」「日行か不る処」を挙げ、それぞれ東方、西方、南方、北方だとしています。東や西と言ったのでは当たり前過ぎるので、漢文としておもしろいよう『大智度論』の言い回しを借りたのです。当時こういうことができたのは、たとえ慧慈など側近の渡来僧などからの助言があったとしても、やはり太子だったと見るのが、むしろ自然のように思います。太子はここでも外交の現場からは一歩引いた形で、馬子の方針に賛成し協力していたのでしょう。

 なお、「隋書」ではこの国書を見た隋の腸帝が、こんな無礼な国書は取り次ぐな、と怒ったと言います。今もまちがった解釈をよく見かけるので付け加えますが、その理由が「日出ずる処」や「日没する処」という表現にあったのだというのは俗説です。倭国を日の出の勢いを持つ国とし、隋を衰えてゆく国と腔めたように見えるかもしれませんが、もとになった『大智度論」の表現は単に東西南北の別称で、お互いの間に優劣の区別はありません。倭国としては、中国が世界の真ん中にあるとする中国古来の考えに、異議を唱える意味を含めていたかもしれませんが、熱心な仏教信者として、父の文帝と同じように菩薩戒を授かっていたほどの腸帝ですから、「日出ずる処」「日没する処」という表現が『大智度論』から借りたものであることは、お見通しで、倭人もなかなか隅に置けないと思ったはずです。むしろ楊帝が怒ったのは、中国の伝統思想からすると、全世界に一人しかいないはずの「天子」を、東方の野蛮人の国である倭の君主が名乗った点にあったと見るべきです。