人と動物の昭和誌

■人と動物の昭和誌

 人は長い歴史を通じ、生活のあらゆる場面で動物を利用し、動物とともに暮らしてきました。この暮らしから私たちが遠ぎかったのは、歴史的に見ればつい最近のことで、農耕牛馬が農村から急速に姿を消していったのは農耕の機械化が進んだ昭和30年代から40年代のことでした。時を同じくして、近世以来盛んに行われてきた養蚕も衰退していきます。昭和という時代を経て、山梨を例に日本全国の農村や、人と動物との関わりは大きく変化していったのです。

 「人と動物」というテーマのもとに山梨県の昭和初期から40年代までの写真を展示し、人と動物の暮らしを概観しています。写真からは、私たちがたどってきた歴史の一面を見ることができるとともに、わずか数十年の間に人の暮らしがいかに動物や自然から遠ぎかってしまったのかを痛感させられます

▶︎信仰される動物たち

丸尾依子(山梨県立博物館学芸員)

 動物の中でも狼や狐、鹿、蛇、猿、鳥などの野生動物は、しばしば信仰の対象となってきた。彼らは神そのものと見なされることもあれば、三峯山(みつみねさん)や御嶽山(みたけさん)の狼のように神の使いと見なされることもあった。

 一方、昔話では人を化かす動物として狐や狸が多く登場するほか、「舌切雀」や「鼠浄土」、「花咲爺」などに描かれるように、動物は人が良い行いをすればそれに恩返しという形で福を授けたり、人を援助して富や幸をもたらしたり、逆に感心できない行いの者には罰や困難を与えることがあり、霊力のある存在として描かれる。さらに、鳥の鳴き声を人としての前世での行いに結びつけたり恨みを抱いて死んだ人間が虫になって復讐したりするという昔話もある。例えば、市川三郷町(旧六郷町)に伝わる話として、「平四郎虫」という話があるので、あらすじを紹介する。

 昔、葛籠沢村(つづらさわむら・旧六郷町葛籠沢地区)に、加藤弥兵衛という物持ちがいた。この家に盗賊が入ったが、どうやって中に入ったのかがわからなかった。村人たちがそれを考えていると、平四郎という男がその謎を解いてしまった。それが災いして、うわき「盗みに入ったのは平四郎だ」という噂が次第に広まり、平四郎は捕らえられた。平四郎は無実を主張したが聞き入れられることはなく、村人への恨みの言葉を残して死罪となった。その翌年、平四郎の村や近隣の村の大豆畑に見たこともない虫が現れ、大豆は残らず枯れてしまった。村人たちは平四郎の崇りだとして、その虫を「平四郎虫」と呼び、お堂を建てて平四郎を祀り、霊を慰めたという。

 こうした信仰や昔話からは、動物が人と対等か、場合によっては人以上の存在と見なされてきたことがわかる。人と動物とは、精神的・信仰的な面でも人間世界と深い関わりを持ってきたのである

▶︎遺跡からたどる牛馬の歴史

植月学 

 牛馬は移動手段や、農耕、運搬などの労働力として、我々にもっともなじみの深い家畜である。ともに大陸からもたらされた家畜で、古墳時代以降本格的に普及したと考えられている。しかし、山梨県内において両種は異なる歴史をたどってきた。

 甲斐国とウマの関わりの探さを示す事物は数多い。古くは甲府市塩部遺跡における国内最古級の歯の出土に始まり、古墳への馬具の副葬、古代には甲斐の黒駒伝説、朝廷直轄の御牧(みまき)などがあり、やがて武田の騎馬隊につながる。ウマは権威の象徴、軍事力の源として、常に甲斐の歴史の表舞台に立ってきたといえる。

 一方のウシについては記録が少ない。近年の集成によれば、ウマが確認された遺跡28に対し、ウシはわずか4遺跡である。県内最古の出土例は、現在のところ南アルプス市百々(どうどう)遺跡のものである。最古のウマに遅れること約400年、9世紀に属する。動物骨がまとまって出土した遺跡で牛馬の比率を調べると、百々遺跡は時期が近い同市の大師東丹保(だいしひがしたんぼ)遺跡や、二本柳遺跡に比べてウシが多いのが特徴である(下図)

 百々遺跡は4頭のウマが並んで埋葬された土坑の発見でも有名だが、こうした埋葬例はまれで、ウシの埋葬は未発見である。牛馬ともに出土品の大多数は遊離した歯や骨格の一部で、しかも散在して発見されている。牛馬の頭は疫病除けや雨乞いの儀式に用いられるので、歯は犠牲になった牛馬の頭骨に由来するのかもしれないこしかし、遺構に伴わない部分骨の多くは何らかの形で消費された残りであると考えられる。

 奈良時代以降、仏教の影響で殺生肉食は禁止される。しかし、「養老令(ようろうりょう)」の中には任務途上の牛馬が死んだ場合、その地方で解体し、皮と宍・しし(肉)を売り、代金を役所に納めよとの記述があることから、実際には肉食が行われていたことがわかる。百々遺跡の牛馬も死後は解体され、食用と別、皮や牛角、一部の骨は加工される場合が多かったのではないだろうか。御勅使(みだい)川の旧流路にはさまれた立地は、皮革生産に適した広い空間と水の流れの確保という条件を備えている。

 百々は平安時代になって大規模に開発された集落である。平安期の遺跡としては県内屈指の規模で、役人の装身具、錘(おもり)、鏡など中央との結びつきを示す遺物も出土している。また、大量の鉄滓(てっさい)やフイゴ羽口などの出土から、製鉄鍛冶に関わる集団の存在も想定される。さらに、多くの牛馬骨の出土から、中世の八田牧(八田荘)との関連が指摘されている。延喜式には甲斐国からの頁進物(ご進物)として(牛乳を煮詰め固めたもの)や牛皮が見える。百々のウシは、これらを納め、あるいは皮革(ひかく)骨角製品を生産するために、百々の開発に際して職人や飼育技術とともに計画的に導入されたのではないだろうか。

 実はこうした地域性は近世にも引き継がれる可能性を今福利恵氏が「甲斐国志」の分析から明らかにしている。それによれば、甲斐国全体では圧倒的にウマが多いものの、百々遺跡周辺の御勅使川扇状地や、北杜市白州町・武川町、茅ヶ岳山麓などの限られた地域ではウシが多い。平安時代以来の地域性が近世まで脈々と受け継がれていたとすれば興味深いが、間をつなぐ中世資料の増加が望まれる。

 ちなみに、時は下り、戦後になると、肉用・乳用としてウシが急速に増加する。現在ではウマとの比率は逆転し、大きく突き放している。

 ▶︎生きものがもたらした脅威とたたかい

 地方病(日本住血吸虫病)平成8年(1996)2月、山梨県では「地方病終息宣言」が出された〇地方病の原因となる日本住血吸虫は、水路や水田に生息するミヤイガイ(宮入貝)を中間宿主とし、そこから宿主である人や牛馬、犬などに侵入し寄生する。人の場合、感染後1〜2年で頭痛やけんたいかんかんこうへん倦怠感、肝硬変、章識障害、様々な発作など多様な症状が現れる。症状が進めば肝牌肥大や肝硬変によって腹水が溜まり死亡することもあり、かつては死に至る病として恐れられた。

 地方病は、感染した人や動物の排出する糞便から日本住血吸虫の卵が排出され、それがミヤイリガイの生息する水田や水路などに入ることで病原虫が維持される。病気の蔓延には人だけでなく動物も大きく関わっていたため、地方病撲滅対策や治療には人だけでなく動物に対しても様々な方策が取られた。特に、感染率の高かった農耕牛に対しては多くの対策が取られた。(馬は感染しても糞便中への虫卵排出はほとんど見られないために、大きな問題にならなかったようである。山梨ではもともと馬による農耕が中心であったが、昭和10年代以降牛が増加した)例えば、耕作への牛使用禁止(昭和8年(1933))や牛の罹病検査患牛に対する治療(昭和19年(1944、牛の飼い方に関する小冊子の作成(昭和17年(1942))などである。さらに、放し飼いが一般的だった犬や山羊については、ミヤイリガイの活動期にあたる5月から9月にかけて、紐などにつないでおくことが義務付けられた

 

 また、野ネズミの一斉駆除の推奨や、水路への殺貝剤の散布(これによりミヤイリガイだけでなく水路の魚も毒死してしまう)、感染ミヤイリガイが多く生息した臼井沼の埋め立てなど、地方病撲滅対策は野生動物や自然環境に対しても行われた。特に、昭和51年(1976)の臼井沼の埋め立てについては、この地が日本有数の野鳥飛来地であることから、自然保護と地方病撲滅のそれぞれの立場から激しい論争が持ち上がった。

 こうした対策や、水路のコンクリート化によってミヤイリガイの生息環境を無くしたことにより、山梨県における地方病は終息した。ミヤイリガイと人との関係は、自然の生きものが意図せず人に脅威を与えただけでなく、人がその脅威を振り払うために、自然や生きものに対して多大な働きかけをした例と言えるだろう。

▶︎鰍沢河岸跡から出土したニワトリ

 ニワトリは東南アジアに生息するセキショクヤケイという野生種から生み出されたという説が有力である。日本には弥生時代以降、農耕とともにもたらされ、弥生時代遺跡からの骨の出土や、古墳時代の埴輪の出土例が知られる。「古事記」や「日本書紀」には天照大神が天岩戸にこもってしまった際に、長鳴鶏(ながなきどり)を集めて鳴かせたという記事がある。

 平安時代に遣唐便が中国から持ち帰ったとされる品種が「小国」である。闘争心があることから、闘鶏に用いられるとともに、長鳴きで定刻に鳴くので、時を知らせるためにも使われた。時を告げるニワトリは、古来光や太陽のシンボルとして崇拝され、闘鶏は神意を探る神事であった。

しかし、奈良時代には仏教思想に基づき「牛・馬・犬・猿・鶏の宍(しし・肉)を食うこと莫れ」天武天皇674年)という禁令が出されていることから、逆にこの時代にはすでにニワトリを食べる習慣があったことがわかる。神聖な動物であったニワトリに、食用としての利用が広がっていったことが窺える。江戸時代になると、さらに闘鶏用の軍鶏(しゃも)、長鳴きの唐丸(とうまる)、小型で愛玩用のチャボ、烏骨鶏(うこっけい)などがもたらされ、それらを交配させて新たな品種が多く作られた。

 

 鰍沢河岸(かじかざわきし)は江戸時代から明治時代にかけて、富士川水運の拠点として栄えた港である。近年発掘されたその跡地では、マグロなどの魚類、イルカ、シカ、ウマなどの哺乳類の骨が多く出土した。中でももっとも多く出土したのがニワトリで、700点近く、少なくとも約60羽分の骨が出土したこ時期が明らかな資料は少ないが、江戸時代後期の下層から近現代の上層まで各時期の層から出土している。

大きさを調べるために骨の計測をした結果、さまざまなサイズのものが見られた()。もっとも小形のグループ土佐地鶏に近いサイズであり、大形のものはシヤモ程度の大きさである。複数の品種が利用されていたのだろう。ただ、江戸時代には多くの品種が存在したことから、これらがどの品種に相当するか特定することは難しい。

 鰍沢河岸(かじかざわきし)のニワトリの大きさは、仙台藩伊達家の上屋敷跡である汐留遺跡(港区)から出土したニワトリ(注)と比べると、小形にかたよる。大名屋敷ではシャモのような見栄えの良い種が好まれ、鰍沢(かじかさわ)では食用の小形地鶏類が主に消費されたのだろうか。

 中には、十数羽分がまとまって出土した遺構もあり、自家消費の結果というよりは、料理屋や加工・販売業者の存在を思わせる。鰍沢河岸(かじかざわきし)には江戸時代後期や明治時代以降の絵図・地割図が伝わっており、発掘成果との照合が進んでいる。いずれニワトリ出土状況の意味も明らかにできるかもしれない。

 山梨県内ではニワトリがまとまって出土した遺跡は他にない。骨の出土自体が少ないこともあるが、牛馬などとの比率で見ても、百々遺跡、大師東丹保遺跡、二本柳遺跡(南アルブス市)など古代から中世までの遺跡では非常に少ない。東京都内の江戸時代では多くのニワトリが出土し、江戸時代以降さかんに食されていたことが明らかになってきている。鰍沢河岸跡の調査成果は江戸書代以降、甲州でもニワトリがさかんに食されていたことを示している。

▶︎養蚕に関わる信仰と動物

 養蚕には馬と結びついた伝承が多く、馬は養蚕の神であるコノハナサクヤヒメノミコトの乗物と言われたり、「オカイコの背には馬の蹄の跡がある」と蚕の背の模様と結びつけられたり、「午年(うまどし)の午の日に蚕がハケる(孵化する・卵に帰る)とアタル(繭が豊作になる)」と豊凶に結びつけて伝承されたりしている。これは、蚕の始まりを説く説話に馬が関わっていることに由来するものである。

この話は全国的に伝承されている馬と人の娘の悲恋物語で、「馬と娘が恋におちる。父親が怒って馬を殺しその皮を剥ぐと、娘は悲しんで馬の皮を被り、天に昇ってしまう。その後、蚕が現れ、それが養蚕の始まりとなった。」といった内容のものである。

 このような伝承があるため、養蚕用具には馬の絵が描かれることが少なくない。養蚕の飼育時に蚕室の防寒に用いる紙帳(しちょう)の袋や、蚕の卵が産み付けられた種紙の袋には、「大當(おおあたり)」などのめでたい言葉のほか、馬の絵が描かれていることがある。また、桑の葉を摘む桑爪(くわつめ)には「馬」の文字が彫り込まれているものもある。いずれも、馬を蚕の守護神もしくはその使いの動物とみなし、養蚕のアタリを願って施されたものであろう。

 また、蚕はネズミに食われることがあるため、養蚕農家ではネズミ除けに猫を飼うことがよくあったという。それだけでなく、ネズミの捕食者である猫の絵が描かれたお札が、養蚕のお札として信仰されることもあった。

 笛吹市御坂町二之宮では、お猫さんのお札を受けてくるとお蚕がアタルとか、蚕室に貼っておけばネズミ除けの呪いになるといった。「お猫さん」とは三峠山のことで、二之宮付近から見た山の形が、猫がしゃがんでいる姿や寝ている姿に見えるためそのように呼ばれた。お猫さんのお札は、現在でも三峠山の東麓の登山口である南都留郡西桂町下暮地の神職郷田氏が出している。

■おわりに

 人は暮らしていくために動物を必要とし、なりわいのパートナーとしてきた。また、人とともに暮らす動物たちは、人間社会の出来事や変化の影響を直接的に受けてきた。そのため、例えば農耕馬から軍馬への転身やその影響による牛耕の増加、食糧自給のための山羊の飼育、食糧増産のための酪農、化学繊維の台頭による養蚕の衰退、畜力のための農機具の開発強化や機械化による農耕牛馬の減少などのように、動物と人との関わりの背景には私たちがたどってきた歴史の一面を見ることができる。

 一方、動力を動物に求め作物の肥料には刈草や人と動物の排泄物を利用し、野生動物の動きや鳴き声を農耕時期や自然の変化を知る目安としていた生活からは、かつて、人が循環する生態系の一部として暮らしていたことを再認識させられる。また、このような自然と対峙した暮らしは豊かな伝承の世界を育む基盤となった

 人と動物との長い歴史は、昭和という時代を経て大きく変わり、便利さや豊かさの向上と反比例するように、家族さながらに共に暮らした動物の姿は生活の中から消えていった。それと同時に、動物と暮らすことで育まれてきた精神的な文化、動物や自然に対する畏れと愛情人の生と動物の死に関わる葛藤などは、失われつつあるが、大きく形をゆがませてきているように思われる。

 かつての人と動物との関係の良し要しに関する議論は別の機会に譲るとしても、人と動物ひいては人と自然との関係は、過去から将来に向けて、今一度考えてみる価値はあるのではないだろうか。