神仏習合

■神仏習合美術に関する覚書

谷口耕生

 慶事や法事、祈願など、事あるごとに神社や寺院に参拝する日本人は多い。こうした「神さま仏さま」どちらにも祈るという日本人の宗教感覚は、江戸時代まで日本各地に根付いていた「神仏習合」という信仰形態が育んだものと言っていい。現代の日本人にとって、神社の中に寺院があったり、逆に寺院の鎮守として神社が附属していたり、ましてや神社に寺院の僧侶が参拝して読経をあげるという姿はなかなか想像しにくいものがあるが、江戸時代まではむしろそうした状態がごく当たり前に続いてきた。こうした「神仏習合」を背景に生み出された宗教美術の多くは、威厳に満ちながらも、単独の信仰では見ることのできない豊かさや寛容さをもっているのである。

 奈良国立博物館ではすでに「神仏習合」の美術をテーマとして、昭和37年(1962)に特別展「神仏融合美術」を開催している。しかし近年、日本の神祇信仰に対する関心の高まりとともに、地元の神社に関わる神仏習合の美術をテーマとした展覧会が各地の美術館・博物館で開催され、考古学、歴史学、国文学、美術史学など各分野の研究者による新出資料の紹介も相次ぐようになった。このような成果を踏まえつつ、同時代において神社や地域を越えて共有された神仏習合のあり方に光を当て数多くの造形遺品とともに、古代から中世末期までのおおよその歴史的な流れに意を配りながら構成したものである。

 本稿では主に、神仏習合の重要な端緒となつた神宮寺成立期と、日本における神仏習合の最終的に完成した姿といえる本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の成立期を中心に取り上げ、わが国における神仏習合の歴史と美術の特色についておおよその見通しを述べてみたい。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

▶︎神仏習合前史

 わが国では太古より、生活の程となる大いなる恵みを与えてくれる一方、時として甚大な災害をも引き起こすあらゆる自然現象の中に、人知を超えた偉大な力を見いだし、これを神と呼んで畏怖・崇拝してきた。本来目に見えない霊的な存在と考えられた神は、木や岩、山、河などの自然物に宿るものとされ、特に人びとの目を引く秀麗な姿の山や、人を威圧するような巨大な岩は、神の依代(よりしろ)として崇められ、祭祀の対象とされたのである。大神神社(おおみわじんじゃ)の神体山として神奈備山の美称に相応しい山容を現在も誇る三輪山【下図右】は、弥生時代から神の住む山として信仰され、その山頂や山麓からは多くの磐座祭祀の遺跡が発見されている。

 こうした特定の土地に結びついた神々に対する祭祀は、その地域の首長を中心に行われ、共同体を結束させるための重要な支となつていたと考えられる。現在でも全国津々浦々に神社があり、そこで行われる祭りがその地域の精神的支柱になっている場合が多い。このように、在地の神々に対する信仰は、現在に至るまで長らく日本人の宗教観念の基層を形成してきたと言っても過言ではない。

 さて、わが国に仏教が伝来したのは六世紀前後と考えられるが、それ以前の古墳時代には、文様などの形ですでに仏像の姿が日本人の目に触れていたことが三角縁三仏三獣鏡(上図)の存在からうかがえる。ここでは中国の神仙(仙人また神仙、真人、仙女は、中国本来の神々や修行後、神に近い存在になった者たちの総称)とともに頭光(頭部の後ろにある円光)を持った如来形が表されており、この鏡の原型が成立した中国において、仏教の尊格が中国の神々の信仰体系のなかに取り込まれながら受け入れられていた状況うかがわせる資料として興味深い。

古代中国は日本と同じように多くの神々がいる多神教。時代が下がるにしたがって、道教の要素、儒教の要素、その他土着の神々など多くのものが取り込まれていく。また、日本と同じように人が死後になって神として崇められる。

 日本人も仏教伝来の当初は仏を神と同列にみなしていたようで、仏教公伝を伝える『日本書紀』巻第十九(下図左) 欽明天皇13年(552)によれば、百済の聖明王が使いをつかわして「釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻」を奉ったところ、人びとは仏を「蕃神(あだしくのかみ)」すなわち外国の神と呼んだという。

 この記事で注目しておきたいのは、仏教が、伝来の当初から神々への信仰と密接に関連づけて受け入れられていることであり、ことに仏像を神の姿と見る観念は、神仏習合が本格的に進展していく奈良時代以降も基本的に受け継がれていったと考えられるのである。あるいは、日本人が初めて受け入れた仏像は、すでに大陸において神仏習合の洗礼を受けていたものがそのまま伝わったとみなすこともできるかもしれない。

 仏教の受け入れをめぐつては、推進派の蘇我氏と、反対派の物部氏の対立などを生んだが、蘇我馬子による飛鳥寺聖徳太子による法隆寺の建立に象徴されるように、国家の主導によって次第に定着していくことになる。そして渡来憎がもたらした最新の知識によって仏教教学への理解も深まっていく中、神々を仏教経典に説かれる世界観の中で位置づけるという試みも行われていった。飛鳥石神遺跡出土の須弥山石(下図)は、そうした状況下で生み出された巨大モニュメントとして注目すべき存在である。

 石神遺跡(上図右・動画)は、飛鳥寺の西北隅に隣接する7世紀半ばの斉明朝(斉明天皇/舒明天皇の皇后で、天智天皇間人皇女孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母)の遺構とみられ、このうち須弥山石が出土したとされる一角は、『日本書紀』斉明天皇3年(657)7月辛丑条などに見える須弥山(しゅみせん)の園地に相当すると考えられる。

この園地は、仏教経典において世界の中心にそびえると説かれる須弥山(しゅみせん)をかたどったこの巨大構築物を中心に、仏教の世界観を具現化した聖域なしていたと考えられ、ここで蝦夷や隼人(はやと・古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々)などの夷狄(いてき・未開の民。外国人)が天皇に服属することを誓約するための儀礼がたびたび行われたという。

 朝貢してきた夷狄(いてき・野蛮人・外国人)服属儀礼は、中央集権国家の建設を進める朝廷にとって極めて重要な意味を持っており、その儀札内容は神々の前での誓約を伴う神聖なものだった。例えば、天武・持続朝には飛鳥寺の西にある神聖な槻木(つきのき・ケヤキの木)の下が服属儀礼の場になったことが知られ、また『日本書紀』敏達天皇十年(581)閏二月条によれば、蝦夷は泊瀬川に下りて潔斎を行った後、神山である「三諸山」すなわち三輪山に向かって服属を誓約し、その誓約に違った場合には天地の諸神天皇霊(天皇が持っているとされる霊的な威力)によって罰せられることを宣言したという。このような儀式を須弥山石の前で行ったことの意義を考えてみよう。

 そもそも須弥山(しゅみせん)は、山頂に帝釈天を筆頭とする三十三天、中腹には四天王という、仏教において天部に位置づけられたインドの神々が住むとされる聖山である。しかし、それをかたどった須弥山石の前で行われた誓約は、インドの神々に対してではなく、三輪の神などあくまで在地に神々だったろう。ここには、神仏習合の展開の中で一貫してみられる日本の神々の位置づけ、すなわち

①神々を仏教の天部と同じ位相で捉える、
②神は誓約の場に勧請されてそれを監視する、

という二点がすでに明確に現れている点で大変興味深い。

▶︎神宮寺の成立

 飛鳥時代にすでにその萌芽が見られた神仏習合は、奈良時代に大きく開花することになる。この時期の神仏習合の様相を最もよく伝えるのが、各地に建立された「神宮寺」の存在である。神宮寺は神社に附属する寺院のことで、奈良時代には気比神宮寺や若狭比古神願寺、宇佐八幡弥勤寺などの存在が確認できる。中でも伊勢国のを多度神宮寺については、『多度神宮寺伽藍縁起井資財帳7(以下、『多度神宮寺資財帳』)という現存唯一の奈良時代にさかのぼる縁起資財帳の存在によって、その実態を具体的にうかがい知ることができる点で極めて重要である。

 『多度神宮寺資財帳』によれば、天平宝字7年(763)満願禅師が多度神社の東に道場を建立し、丈六の阿弥陀如来像を安置して居住していたところ、神が託宣(神が人に憑 (かか) り,その意志を述べることをいう (→神憑り ) )して次のように告げたという。

「我は多度の神である。長い間罪業を重ねてきたため、神道の報いを受けてきたが、願わくは永く神の身を離れるために、三宝に帰依したい。」

 この託宣(神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること)を受けた満願は、神体山の南辺を伐採して小堂と「神御像」を造立し、以後、多度大菩薩と称したという。その後、在地の豪族たちの施入によって銅鐘や鐘楼をはじめとする伽藍の整備が進められ、大僧都(だいそうず・僧綱の一で、僧都の最上位)賢璟(けんきょう)によって三重塔が造立されたというのである。

 さて、『多度神宮寺資財帳』は、これまでも神仏習合を語るうえで欠かすことのできない史料として、数多くの研究者によってさまざまな角度から考察が加えられてきた。ここでは差しあたり、満願が造立した「神御像」とは何か、という問題に焦点を絞って考えてみたい。この点については従来、神の姿を具体的に表した像、すなわち「神像」の初見史料としての観点から、彫刻史を中心に関心が払われてきた重要な箇所である。

 そこで注目したいのが、奈良時代の神仏習合を常に先頭に立って推進した八幡神の動向である。八幡神はもともと豊前国(ぶぜんのくに・現在の大分県)宇佐(うさ)地方の神だったが、大隅国(鹿児島県)の隼人の反乱を鎮圧するなどして中央の注目するところとなり、国家鎮護の神として篤く信仰されるようになった。天平勝宝元年(749)に東大寺大仏造立を助力し、その後に「八幡大菩薩」という称号を得るなど、八幡神は中央に進出する以前にすでに神仏習合を成し遂げており、その後も八幡神を中心に神仏習合が展開することになるのである。八幡神がこうした神仏習合を推し進める切っ掛けになったのが、宇佐八幡宮の最も重要な神事とされた放生会(ほうじょうえ)の成立と、それに伴って建立された神宮寺である弥勤寺の存在だった。

 東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に本地垂迹ほんじすいじゃく・仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである)においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている。平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。

 放生会の成立に関する最も古い記録は、鎌倉時代末期の正和2年(1313)に成立した『八幡宇佐宮御託宣集』(以下、『御託宣集』)第五巻Ⅵで、そこに見える経緯は以下のとおりである。

 神亀元年(724)、八幡神は、隼人(はやと古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々)の鎮圧に伴って人を多く殺めたことに報いるために、年二度放生会(ほうしぜょうえ)に奉仕しよう、と託宣した。法蓮という僧が、罪障を懺悔するために、八幡神および法蓮以下五人が同心して放生会を修し始めた。八幡神は和間の濱(はま)の頓宮(仮の宮)に入って放生会に姿を顕し、その夜に「六根懺悔之行法」と「伝戒乞戒之儀式」が行われ、その翌日には法蓮ら導師たちに「放生陀羅尼」と「大乗経文」を読誦させて、海に魚貝類を放った。八幡神は弥勤菩薩、法蓮以下四人の僧はそれぞれ虚空蔵菩如意輪菩薩薬王菩薩薬師如来を崇め奉って寺院を建立し、各々の寺に「仮堂」を造って「本仏影像」を安置した、という。弥勤寺の建立についてはさらに、同じ『御託宣集』第六巻に、八幡神は神亀二年(725)正月27日に託宣して、未来悪世の衆生を導くために、薬師・弥勤の二仏を以て自らの本尊と為すと告げたので、勅定によって寺を追って仏像を安置し、弥勤之禅院と号して、八幡大菩薩を願主とした、とある。

 以上の経緯を踏まえると、『多度神宮寺資財帳』に記載される「神御像」が何を指すのは明らかだろう。前述したように、「神御像」についてはこれまで「神像」の初見とする見解がなされてきた。しかし奈良時代に建立された神宮寺に関する史料に、神像の造立を具体的に示すものは他に知られず、「神身離脱」を願う神は、必ず仏堂と仏像の造立、すなわち神宮寺の建立を請うた。

 例えば、若狭比古神願寺の建立経緯を伝える『類聚国史』第百八十(上図)にも、仏教修行者だった赤麿が若狭比古神のために「道場」と「仏像」を追って「神願寺」と号したという宇佐八幡宮の神宮寺である弥勤寺の建立もほぼ同じ経過をたどり、「弥勤菩薩」を崇め奉る八幡神のために寺院を建立し、ここに「仮堂」を造り「本仏影像」を安置して弥勤之禅院と号し、八幡神を願主としていた。

 つまり仏法に帰依しようとする神々のために建立される神宮寺にはあくまで仏像が安置されたと考えるべきである。多度神宮寺に安置された「神御像」も本来は「神の御像」と読むべきものが、それは「神の姿を表した像」という意味ではなく、「神のために造られた像」あるいは「神が発願した像」という意味に取るべきで、具体的には仏像だったと考えるべきだろう。

 このように考えるとき、「神御像」を『多度神宮寺資財帳』記載の「金泥弥勤像」がこれに相当するという田中意氏の指摘は大変興味深い。宇佐八幡のために造られた「弥勤寺」は前後の記述から弥勧菩薩を本尊とする寺院だったと考えられるが、このような他に先駆けて神仏習合を推進した宇佐八幡の神宮寺が、他の神宮寺における本尊の選択にも影響を与えることもあった可能性がある。

 例えば、奈良時代後半に活躍した興福寺の賢璟(けんきょう)(705~793)が創建した室生寺は、室生山の龍穴に住むとされる龍神を祀った龍穴神社の神宮寺として建立されたと考えられるが、現在、室生寺には賢璟(けんきょう)の時代にさかのぼると考えられる弥軌菩薩立像(上図右)が弥勤堂の本尊として伝来しており、龍神の「神御像」として神宮寺の当初の本尊だった可能性を想像したくなる。特に興福寺僧だった賢璟(けんきょう)は、前述のとおり多度神宮寺の造立にも関与しており、二つの神宮寺の当初の本尊がともに法相宗において重要な尊格である弥勤菩薩像だった可能性は高いように思われる。

 奈良時代に突如として各地の神社内に建立されるよぅになった「神宮寺」では、神のために造立された「仏像」が安置され、その前で「悔過(けか・仏教において、三宝に対して自ら犯した罪や過ちを悔い改めること)」や「読経」などの仏教儀礼が行われたと考えられる。そして多度神宮寺の建立挿図2 薬師如来坐像 岩手・黒石寺に際しては、大僧都賢操という中央の有力な官僧が関与する一方、これに伊勢・美濃・尾張主心摩の四国の人びとが結線していることからもうかがえるように、神宮寺の建立を通じて神々を信奉した在地の人びとを国家仏教に結線・帰依させることで、神への祭祀を核に形成されていた地域の共同体を中央集権的な国家体制に帰属させようとする政府の意志が垣間見えるのではないだろうか。

 その辺りの事情を具体的にうかがわせるのが、貞観4年(862)12月という現存最古の紀年銘をもつ岩手県水沢市黒石寺の本尊・薬師如来坐像【上図左】の造像経緯である。黒石寺は陸奥国の鎮守府からごく近くに立地し、本尊薬師如来坐像も奈良・新薬師寺本尊薬師如来坐像に見られるような中央仏の形式を受け継ぐ雄渾な像であることから、造像に鎮守府の関与が想像される。

 その一方、胎内銘には地元の蝦夷の人びと名前が記されており、在地の人びとも結線する形で造像がなされたことが知られる。このわずか半年前に当たる貞観4年(867)6月15日には「陸奥鎮守府正六位右手堰神」を官社に列しており(『日本三代実録』)、この岩手堰(い)神社(上図)が黒石寺から二キロほどというごく近い位置に鎮座することから、二つの出来事は密接な関連があることが指摘されている。

 すなわち、もともとは蝦夷の人びとが信奉していた北上川の神だったと考えられる右手堰神の神宮寺として黒石寺が建立され、鎮守府の主導により在地の蝦夷の民が結線する形で「神御像」としての薬師如来坐像が安置されたと考えられないだろうか。

 そして右手堰神は鎮守府の官社として正六位の神位が与えられるに至ったのだろう。陸奥国に仏教が本格的に流布するのはここに見るように九世紀に入ってからのことと考えられるが、奈良時代からすでに同様の過程を通じて神宮寺が建立され、各地の神々およびそれを信奉する在地の人びとは律令国家体制の中に組み込まれていったと考えられる。

 現在、奈良時代に建立された神宮寺の伽藍はその大半が失われたが、奈良・大神神社(おおみやじんじゃ)の神宮寺として建立された大神寺の遺構を受け継ぐ旧大御輪寺本堂の建物(現在、大神神社摂社大直禰子神社・下図)が現存するほか、若狭比古神願寺の法灯を受け継ぐ若狭神宮寺(上図左)は、現在でも本堂(室町時代建立)の堂内に仏像と神が一緒に祀られており、神仏習合寺院としての伝統を厳格に伝えている。

 さらに、劔(つるぎ)神社(福井)に伝来する梵鐘(上図右)は、銘文により神護景雲4年(770)に鋳造され、神社の神宮寺である劔御子寺に安置されたものあることが判明し、初期の神宮寺の什物(じゅうもつ・代々伝わる宝物)である明証をもつ唯一の遺例として比類なき価値を有しているのである。

▶︎神仏習合儀礼としての悔過

 前節において、神宮寺において神のために仏像が造られ、その前で「悔過(けか・とは仏教において、三宝に対して自ら犯した罪や過ちを悔い改めること)」や「読経」が行われたであろうことを指摘した。特に「悔過」については、神仏習合を推し進める上で重要な役割を果たした仏教儀礼だったと考えられるので、改めて以下に詳しく見ていくことにしよう。

 悔過とは、僧侶が仏に自らが犯した罪過を懺悔し、その功徳によって除災招福を祈る法会であり、仏像に対する最も基本的な礼拝の形式としてすでに中国において確立していたものである。わが国でも薬師如来を本尊として行われる薬師悔過吉祥天を本尊とする吉祥悔過などが諸大寺や諸国の国分寺で行われたことが知られる。

 奈良に春を告げる行事として全国的に有名な「お水取り」すなわち東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は(動画)、十一面観音像を本尊とする十一面悔過として、わが国における悔過行法の最も古い姿を伝えている。注目すべきは、十四日間の行法において毎日行われる最初の作法として、日本各地の神々の名を列挙した神名帳(下図)を独特の節を付けながら読み上げるという次第が東大寺二月堂修二会組み込まれている点である。これは全国の神々を二月堂に勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)し、道場の守護と法会の成満(じょうまん・一切が完成、成就すること)を願うために行われるもので、神仏習合儀礼としての悔過(けか)の性格を物語る重要な次第といえよう。

 奈良時代の悔過においてこのような神名帳の読み上げや、諸神の勧請が行われたことを示す直接の文献史料は残念ながら知られていない。しかし、梵天・帝釈天・四天王などの天部の神々が奈良時代の悔過(けか)の場において果たした役割は、四天王が六斎日に人びとの戒律の受持を観察・記録し、それを帝釈天に報告するという経典の記述から、これらの神々が悔過を行う前提となる戒律の受持を観察するというものだったという指摘が長岡龍作氏によってなされている。また同氏は、四天王の観察・記録・帝釈天への報告という役割を前提として、筆と墨をもつ広目天像や、巻子 (かんす・まきもの)を持つ帝釈天像が生み出されたことも併せて指摘している。つまり、悔過(けか)という罪障の懺悔と戒律の受持を誓約する場において、これら天部(てんぶ・仏教の守護神のことをあらわす言葉。 仏像の中では、毘沙門天・帝釈天のような天像の総称)の神々はそのおこないを観察し、その誓約に違った場合には罰を与えるという役割が与えられていたというのである。

 以上のような悔過(けか)の場における天部の神々の役割は、神々の住まう須弥山(しゅみせん)をかたどった石の前で蝦夷に服属の誓約をさせたのと全く同じであり、日本の神々に対しても同じように、誓約の観察とその違約に対する懲罰を行う役割が期待されたことが分かる。つまり懺悔・持戒を誓約する仏教儀礼である悔過の場において、日本の神々が天部の神々と同様に観察という役割を期待されて勧請されることは何ら不思議ではないだろう。

 さて、ここで悔過儀礼の場に勧請された神々の姿を具体的に描いたと考えられる画像を取り上げてみたい。奈良・室生寺の金堂内陣後方の壁面に描かれる平安時代初期の名画、国宝・伝帝釈天曼荼羅図である(上図左)。室生寺金堂は平安時代初期にさかのぼる山寺遺構として現存唯一のもので、本尊は薬師如来(伝釈迦如来)であることから、この堂が当初から薬師悔過(けか)の道場として建立された可能性が高い。この薬師如来立像が立つ背後の壁面中央に、伝帝釈天曼荼羅図は描かれている。図は宝冠を戴き独鈷杵を執る帝釈天の坐像を中央にひときわ大きく描き、その左右には帝釈天に巻子(かんす)を捧げる天部、および塔鏡を捧げる天部、さらにこの三尊を取り囲むように、多数の小さな姿の天部の神々が鼻茶羅的に整然と縦横に配されている。これらの小天部像は、宝冠に鰭袖の衣を着ける姿が中尊の帝釈天とほぼ同一であることから、全て帝釈天とみなすことも可能であるが、それぞれの持物は帝釈天と同じ独鈷杵(どっこしゅ・槍状の刃が柄の上下に1本ずつ付いているものを指す)を持つものの他、巻子・紙・筆を持った天部が多く描かれることに気づく。悔過(けか)の場において誓約を観察・記録・報告する四天王や帝釈天の役割に基づいて、筆や準巻子などを持物とする天部像が造立されたという前述の長岡氏の指摘は、本図に描かれる天部の持物を説明するのに極めて有効であると考えられる。

 そこで注目したいのは、これら小天部像の中に両手で(しゃく・官位のある者がもつ細長い板)を執るものが含まれていることである【上図左】。従来、日本の神像であることを示す象徴的な持物として(しゃく・下図左)の存在が注目されてきた。笏は朝廷や神に仕える者の持物とされるというのがその理由である。しかし伝帝釈天曼荼羅図における他の天部が、巻子や筆を持つことによって観察・記録・伝達を象徴していたことを踏まえるとき、第が本来は備忘のために板の裏に紙を貼って書き付けに用いたものであることから、を持つ天部はやはり記録の意味を持つ像容(像の形式やデザインのこと)として表されていることが理解される。

 笏を執ることで知られる大阪・勝尾寺の天部形の男神立像【挿図7】は、平安初期にさかのぼる作例として著名なものであるが、伝帝釈天曼荼羅に描かれる笏を執る天部像とは、坐像か立像かの違いはあるにせよ、着衣なども含めて像容がほぼ同一であることは明らかだろう。ここで笏を執る天部形像を「神像」と認めることが可能ならば、他の伝帝釈天曼荼羅図に描かれる天部形の諸尊を全て「神像」と理解することも可能なように思われる。千仏図(上図右)のように数多く規則的配された諸尊は、悔過の場に神名帳を読み1げながら勧請される神々の姿であることを強く示唆する。室生山寺は龍神を祀る龍穴神社の神宮寺として発展してきたが、特に本図が描かれた平安時代初期修円(771〜835)が活躍した時期に当たり、彼ら山中修行僧が悔過(けか)という熱心な誓いを本尊の薬師如来立像に対して行うに際し、受戒を含む全てのおこないが、本尊の背後に勧請された神々によって観察・保証されたのだろう。

 この伝帝釈天曼荼羅図の例に見られるような仏像を本尊として行われる悔過(けか)の場に勧請された神々(天部の神々、日本の神々)は、「神像」という形で悔過の儀礼空間の中に安置されるようになったと考えられるが、さらにわが国では「神像」そのものを本尊とする悔過が広く行われるに至ったと考えられる。すなわち、宮中や諸国の国分寺で行われたという吉祥悔過である。

『続日本紀』神膏雲完年(七六七)正月己未条には、「勅。畿内七道諸国二七日間。各於国分金光明寺。行 吉祥天悔過之法。因此功徳。天下太平。風雨順時。五穀成熟。兆民快楽。十方有情。同宿此福。」

と見え、諸国国分寺において「吉祥悔過」が行われたことが知られる。吉祥悔過は奈良時代に最も重視された護国経典の一つである『金光明最勝王経(上図)』の「大吉祥天女品」「大吉祥天女増長財物品」を所依の経典とする悔過であり、吉祥天像(おもに画像)を本尊に天下太平、五穀成熟などの功徳を祈願するというものだった。吉祥悔過は、もともと中国の天台大師智顗(ちぎ)が始めたといわれる「金光明懺法(下図)」にその手本があると考えられるが(『国清百録』巻第一)、「吉祥天」という天部の神の名を冠した悔過が全国的に施行されたことは、神々の像が仏教儀礼の本尊となりうる素地を生む重要なきっかけとなったのではないだろうか。

 この諸国国分寺の吉祥悔過が初めて行われた半年後に出された神護景雲改元の詔(みことのり・召して、文書をもって命ずる)によれば、伊勢神宮の外宮(げぐう・伊勢神宮の一つ)の上空などに突如現れた七色の瑞雲(虹)は、正月に諸大寺において『金光明最勝王経』の講読と吉祥悔過を行ったことなどを「三宝・諸天・天地の神々」が喜んで瑞雲を表したものであり、この瑞雲の示現をもって「神護景雲」と改元したというのである。こうして伊勢の大神をはじめとする天地の神々に祝福された吉祥悔過が全国で行われるのと前後して、伊勢太神宮寺八幡比売神宮寺など、各地の社で神宮寺の建立が急増するのも偶然ではなく、吉祥悔過が神仏習合を推し進める重要な役割を果たしたことがうかがえるのである。

 天平絵画の名品の誉れ高い薬師寺の吉祥天像(下図)は、宝亀3年(772)に始められたという薬師寺の吉祥悔過の本尊像として制作されたものと考えられるが、明治初年までは同寺の鎮守八幡宮に安置されていた。薬師寺では江戸時代まで八幡宮において、このインドの神を描いた像を本尊とする悔過が行われていたことが知られ(『黒草紙』)、神仏習合儀礼としての吉祥悔過の伝統を知ることができる希有な事例となっている。

 日本の「神像」には帝釈天あるいは吉祥天によく似た天部形のものが少なくないが、そこには神仏習合儀礼としての吉祥悔過の伝統も色濃く投影されているのだろう。