ナウム・ガボ

■ナウム・ガボ(1890−1977)

グラハム・R・ウィリアムズ

 ガボの全芸術は、生涯にわたる空間におけるイメージ探究のたまものである。彼の構成彫刻においては、空間と時間は、彫刻の素材である金属やガラス、石、プラスチックと同様に重要な要素である。ガボの全ての作品は空間を探究しているのだ。小さな空間ではあるが、無限の空間でもある。作品が回転するにつれて、また我々が作品の回りを動くにつれて時間は、我々の作品体験の一部となるのである。時間は空間と同様に、彫像の必須の要素として我々の目の前に具現するのだ

 「ローズ色の大理石による空間のなかの構成」(ConstructioninSpacewithRoseMarbleCarving)では、ガボは彫刻された石を宙に浮かせた。彫刻は密度の高い結晶大理石であるが、光を通す。空間は彫刻の形により描写され、光がくっきりと大理石の中に入ることにより、より多くの空間を包含する。石は地表に付帯する重い素材であるが、この彫刻された大理石は重量を失い空間を漂うのだ。

 ガボは繊細で半透明な「空間のなかの構成、サスペンデイツド」(Construction in Space:Suspended)をブロンズの架台に浮遊させた。この作品を見ていると、全体の形以上のものが見えてくる。作品の最も手前表面と同時に、作品の中心深くまで見透かすことができ、むこう側までつき抜ける。この構成は、何もない空間の中に支えられているので、その回りに空間が得られる。空間は構成の中で探究されるので、我々はこの彫刻の回りを歩いてみる必要がある。そうすれば、目前に展開される内なる、或は外なる形を確認できるだろう。

 ガボの芸術家としての長い経歴は、1915年、ノルウェーで彼が25歳の時に始まる。後に、第一次世界大戦勃発と同時に彼はノルウェーを去った。ロシア人として生まれた彼は1915年に先だつこと4年間、ミュンヘンで当初は医学を学び、次に自然科学と土木工学を学んだが、その間、芸術に対する興味も育っていった。あとからフランスヘやって来て定住した、彼の兄であるアントワーヌ・ぺヴスナー(1886年- 1962年)29歳は、その時すでに芸術家として活動していた。

 ガボは他の兄弟たちと共に、1917年27歳ロシア革命をきっかけとして、生まれ故郷であるロシアへ戻っている。しかし、ガボは革命自体は受け入れたが、実際にそれによって引き起こされることは好まなかった。芸術が政治的ドグマの中に水没してしまったからである。彼は、1922年32歳ベルリンヘ去り、それから1932年42歳パリヘ行き、1936年46歳ロンドンへ移った。1946年56歳、最後に彼はアメリカに渡り、ニューイングランド片田舎で残りの人生を過ごすことになる。そして、1977年(87歳・コネチカット)に没した。

 この放浪の全生涯を通じて、彼の芸術には、自らが書き、1920年にモスクワで彼の兄、アントワーヌと共に出版したリアリスト宣言(Realistic Manifesto)が活きていた。彼は詩的な言葉で、芸術の古い考えや、新しくも短命的なキュビズムフューチャリズムのような理論への拒絶を主張したのだ。「空間と時間は、今、我々の前に生まれ変わる」と宣言している。新世界にとっての新しい芸術は、空間や時間、大気の力の物体の持つリズム、すなわち単に表面だけではなく奥深いところまで関わりを持った、「物事の最も奥深い本質」(“the inner most essence of a thing”)を常に探究しているものでなければならなかった。

現実的宣言は、構成主義の重要なテキストです。ナウム・ガボによって書かれ、彼の兄弟であるアントワーヌ・ペブスナーによって署名されたマニフェストは、彼らの芸術的表現の理論を、構成主義的実践の5つの「基本原則」の形で示した。 宣言は、線の使用、色、体積、質量などの慣習から芸術を離婚することに主に焦点を合わせました テキストでは、ガボとペブスナーは、現代美術の連続したスタイルの革新を単なる幻想( 印象派から始まり、 キュービズムと未来派を含む)として拒否し、代わりに空間と時間の物質的現実に基づいた芸術を唱えています。空間と時間という形での世界の世界は、私たちの絵画と造形の唯一の目的です。」

 構成派の芸術家たちは20世紀彫刻の概念をすっかり変えてしまった。これは、袋小路の空論などではなく、今日まで理解され、受け入れられ続ける前進への確かな道であった。

 1950年60歳に、ガボは版画の制作を始め、しまいには確信をもって版画を作るようになった。それからの25年間、彼は紙上にイメージを産み出し続けた。これは、彼がいくつもの巨大な彫刻を作った、彼の経歴の中でも最も生産的な時期であった。ヨーロッパやアメリカで数多くの展覧会が開かれ、前衛芸術家として認められるようになり、約半世紀の間に世界的な絶賛を得たのである。しばしば彼は海外旅行から帰ってきた時とか、静かな時に、スタジオにこもり、線彫りした木のブロックから版画を制作したものだ

 モノプリントにおいても、ガボは引き続き空間を探究した。繰彫りされた木のブロックを基に幻想を作り出したがイメージは版画制作の過程でブロックに紙をあてて色調が出るまでは、はっきりとはしなかった。

 ガボにとっての版画制作への手始めは、伝統的なヨーロッパの木版画法であった。つまり、銅版画を彫るのに使うのと似たような道具で、つげ材の木目表面を彫り、図像を刻むやり方である。しかし、ガボの芸術は伝統をくつがえすものであり、彼が木のブロックからイメージを産み出すことに彼独自の方法を見い出したのは少しも驚きには値しない。

 モノプリントに使われた着想のいくつかは、以前に素描として産み出されたものに端を発している。それらの素描は彫刻家としての彼が、紙に描きとめたものであり、彫刻に姿を変える目を待っていたのである

 「大きな楕円形(Large Oval Form)」の7ごめの素描には、ガボがヨーロッパに滞在していた時の日付があり、彼はそれを30年以上後に、恐らく1950年代に、彫刻よりも版画に使用している。数々の素描がある限り、モノプリントのための着想には事欠かなかったのである。また、いくつかのモノプリントの図案は直接ブロックの上に描かれた。実際、「作品11(Opus Eleven) (下図左)」には下絵は存在しない。ガボはこの図案を彫刻刀で描き、直接木に、彫りつけたのであろう。

 

 「作品9(OpusNine)(上図右)」のためには、ガボは一本の線を何枚にもわたって描き、最後の一枚を注意深くブロックに写しとり、大変シンプルに彫っている。

ガボはよくプラスチックを素材に選んだ(上図右例)。彼は彫刻のアイディアを考えるためにプラスチックを切り、後に大きく作り直すつもりで、しばしば小型の模型を作った。「作品8(OpusEight)(上図)」は初めはいくつかのプラスチック片であったが、彼はそれらを組み合わせて型にしてまわりをなぞったのである。最後にブロックの上に写しとり、単純な線で図案を彫りつけたのだ。

 ガボのモノプリント創作は、木のブロックから版画に印刷された時点で、出来あがる。ブロックは基礎の構想であり、刻まれたイメージの骨格である。この、イメージを探究する過程において、ガポは全く同じようなエディションは産み出さなかった。どの版画もそれぞれに個性的な創造であり、しばしば同じ坂から刷られたとはとても思えないものもある。

 ガボはブロックにインクを塗るのにローラーを使い、印刷には機械は全々使用しなかった。彼はインクのついたブロックの上に指で紙を押しつけ、強くこすりたい部分にはつめや小さなスプーンや滑らかな棒のような道具を使った。彼は通常、印刷にはうすい和紙を選んだ。和紙はインクのついたブロックの上に置いた時、イメージが透けて見える。そこで彼は、暗くしたい部分を上から選ぶことができ7ご。強くこすることで、ブロックからより多くのインクを紙に移しとったのである。同時に、ほとんどこすらないでおいて、わずかなインクのみ紙に吸わせ、うっすらとした描出にする部分も識別できたのである。

 ガボはすぐに多くの版画技術のレパートリーを開発したがそれらはすべて自分の手を使うものだった。たとえばいくつかの作品において、彼は、紙をブロックの上にのせた時に、紙の下に空気のかたまりを残したままにしておいた。空気はインクが紙に染みるのを妨げる。次に彼は紙を持ち上げ、ブロックの上にまたのせるのである。時々、ガボはローラーでブロックにインクを塗る時に出来た模様をそのままにしておいたり、また時にはブロックから紙をひき離した後に、絵の具を加え7ごりもし7ご。ガポの技術は全て、インクのついたブロックや紙を使った手仕事を必要とするもの7ごった。

 ガボは創造したイメージすべてにおいて、空間の幻想を探し求めたのである。版画における色彩は、ただ飾り立てるものではない。イメージのうわべのみを飾るのではなく、色調やテクスチェアを伝える手段である。それぞれの版画にはそれぞれの独立した世界がある。彫刻の場合と同様に、個々の空間幻想を見つめ、夢を分かちあいたい。                             (ガボ研究家)