日本写真史における初期イギリス写真の意義

■日本写真史における初期イギリス写真の意義

  高橋則英(日本大学芸術学部写真学科)

 日本の写真史は、幕末の1848(嘉永元)年、欧米諸国では唯一通商を行っていたオランダ船によってダゲレオタイプー式が長崎にもたらされたことに始まる

 いうまでもなくダゲレオタイプは、フランス人ダゲール(Louis Jacques Mande daguerre、1787−1851)の考案した世界初の実用的写真術である。1839(天保10)年にパリで公表された後、政府が特許を買い上げ、技術を公開したので、ダゲレオタイプは実用的な写真として瞬く間に欧米の社会に広がっていくのである。

 しかし幕藩体制という中世的な封建社会で鎖国下にあった日本では、状況が全く異なっていた。渡来した写真は実用的な技術ではなく、蘭学研究の一環として、あるいは欧米の近代科学技術の受容と実用化を目指した事業の中の一項目として研究実験が行われたのである。

 当時このような西洋科学技術の実用化に最も熱心であった薩摩藩では、集成館事業の中で写真研究も本格的に行い、1857(安政4)年にダゲレオタイプによる島津斉彬(1809−1858)の肖像撮影に成功する。これは現存するものとしては、日本人による最初の写真撮影であり、日本人の手になる唯一のダゲレオタイプである。

 薩摩藩でこの撮影に成功した1857年、イギリスの写真家レイランダー(Oscar Gustar Rejlander、1813−1875)は写真史上に名高い合成写真による絵画的な大作《人生二つの途≫を制作している。ヨーロッパでは視覚表象芸術として長い伝統をもつ絵画との関係から写真の芸術性が早くから議論されてきた。レイランダーの作品は、写真を高尚な芸術の領域に高めようとした初期の大胆な試みであるが、この絵画模倣による写真表現はロビンソン(1830−1901)に受け継がれ、それに異を唱えたエマーソン(1856−1936)の自然主義写真を経て、19世紀末にイギリスから世界に伝播するピクトリアリズムの動きに繋がっていく。

 日本の写真表現が大きく変わっていくきっかけとなったイギリスのピクトリアル写真の紹介は、後年の1893(明治26)年のことである。

 薩摩藩で写真研究を強力に推し進めた島津斉彬は研究に携わった家臣に

「此術ハ遊戯翫物ノ如ク思フモノアランガ、父母ノ姿ヲ百載ノ後二残ス貴重ノ術ナリ、尚ホ厚ク研究シテ術ヲ極ムベシ…」

と述べたと言われている。

 この言葉は特に肖像写真の分野で大きく発展したダゲレオタイプについて言及したものと考えられるが、フランスの国会議員でもあった天文学者アラゴー(1786−1853)は、1839年7月の議会下院での法案審議に際し、1798年のナポレオンのエジプト遠征に言及し演説を行った。

 「エジプトに旅し、遺跡に画かれた何百万というヒエログリフを記録するには、何十年という時間と多くの人手を要するであろう。ダゲレオタイプなら、一人の人間がこれをわずかの時間に、しかも正確に描写できる」と述べたのである

 ダゲレオタイプに対するこれら初期の言及は、いずれも写真の正確な記録性と画像の永続性を認めたものであった。

 一方、ダゲールとほぼ同時期にダゲレオタイプとは異なる紙支持体の写真撮影術カロタイプを考案したイギリスのタルボット(willliam Henry Fox Talbot、1800−1877)は写真の正確な再現性だけでなく、表現手段としての可能性も予見していたのではないかと考えられる。タル-ボットが1840年に考案したカロタイプの技術は、その後19世紀から20世紀を通じて写真プロセスの主流となるネガ・ポジ方式の嚆矢(こうし・物事のはじめ)であった。1枚のネガから数に制限なくポジ像の印画が作れるという利点を活かして、タルボットは1844年には世界初の写真を挿絵に使った『自然の鉛筆』を刊行している。この本の序文でタルポットは以下のように述べている。

 「写真は自然の手で描かれるといっても完全である訳ではない。完全さに近づくためには、何よりもより良い写真をつくることを心がけて経験を積むことである。写真がピクトリアルなものとして将来どうなるのか、はっきり予測できないが、ディテールの完成度と遠近法の正確さの両面に於いて、必ず役に立つ領域となるであろう」。

 タルボットの写真制作の姿勢をよく示すのが初期の作品《ティータイムのテーブル》(1841年頃)である。ティーカップなどほとんどの食器はテーブル中央のサモワールより手前に置かれている。タルボットはごく初期から写実的な画面構成を整えることに注意を払っていたのである。建築を対象とする際にも、レンズのライズができない初期のシンプルなカメラによる撮影だからであろう、カメラ位置を高くして建物の形が歪まないよう写すことに留意していたと思われる写真も散見される。

 またタルボットのカロタイプを嚆矢とするネガ・ポジ方式の写真は、ネガ制作の段階や印画制作の段階でのマニピュレーションの大きな可能性をもっていた。それが絵画主義写真や写真のピクトリアリズムにおける表現の技術的な基盤ともなっていくのである。タルボットが考案したカロタイプは、これまで長く日本での普及はなかったと言われてきた。ただし鹿児島には「紙写真」と通称される、鶴丸城の一部が写されたネガ像の写真が伝来している。タルボットのカロタイプネガということが想像されるが、これまでカロタイプ研究の記録が見つからなかったために、単に紙写真あるいは“紙写し”と呼ばれていた画像である。しかし近年、東京大学史料編纂所に所蔵される島津家文書のなかに『感光紙製法』と題された写本が発見された

 「光輝二感ジ易キ紙ヲ製スル法ハ『ウェドグオード』及ヒ『ダーヒ』氏ノ匠意ナレトモ其后『タルボット』氏大二其法ヲ改正シ某紙ヲ名テ『カロチぺ』ト称セリ(後略)」

とあり、カロタイプが鹿児島で研究されていたことが窺われる。したがって、この画像は正しくカロタイプ・ネガと言うことができるであろう。

 詳細な熟覧調査により、この作例には最初に蠟を塗布したような痕跡が観察されることから、フランスで改良された蠟引き紙写真技法(ワックス・ペーパー・プロセス)が使われたのではないかとの説もある。

 しかし、いずれにしてもイギリスを発祥の地とする紙支持体の写真プロセスは日本へ伝来していたのであり、またその先駆けをなすウェッジウッド(1771−1805)やデーヴィー(1778−1829)ら、イギリスにおける初期写真研究の経緯も知られるところとなっていたのである。

 さて日本における写真の実用化は、ダゲレオタイプに引き続いて導入された湿板写真(コロデイオン湿板方式)によって始まる。ダゲレオタイプ同様、各地におけるしばらくの研究実験の時期を経て、鵜飼玉川(1807−1887)、上野彦馬(1838−1904)、下岡蓮杖(1823−1911)らが、安政末の開国後に来日した外国人から実際の技術を学び、文久年間に最初の職業写真師として開業した。

 ここに日本の写真は実用化の段階を迎えることになるのである。

 湿板写真は1851年にイギリスのアーチャーFrederic Scott archer、1813−1857)が発表した技術で世界的に19世紀後半の30年以上にわたり標準的な撮影技法として使用された

 これはいわば、紙の繊維のため焼き付け画像の鮮明さを欠くカロタイプ・ネガの短所を改良すべく考案された、透明なガラス板を支持体とした撮影技法である。感光物質の媒体としてコロディオン(硝化綿をアルコールとエーテルの混合液に溶かしたもの)を用いるもので、撮影場所で自製した感光板が硝酸銀液で濡れているうちに撮影と現像処理を行うところから、日本では湿板写真と通称されている。

 湿板写真は安政年間に日本に導入されたのであるが、とくに開国の翌1855(安政2)年幕府がオランダから教授陣を招いて長崎に開設した海軍伝習所有力な湿板写真の導入ルートとされている。

 最初の職業写真師の一人である上野彦馬は、海軍伝習所でオランダ軍医官ボンベ・フアン・メールデルフォールト(J.L.C.PomPe van meerdervoort、1829−1908)に師事して湿板写真の知識得た。その後、津藩校有造館で舎密学を教授するとともに、その講義のため1862(文久2)年、原書から訳出した『舎密局必携前編全三巻』を刊行し、第三巻の巻末には「附録 撮形術ポトガラヒー」として湿板写真の技術を中心に解説している。

 『舎密局必携』には9冊の参考書が使われているが、うち8冊はオランダ語の書物でドイツ語やフランス語の原書からの蘭訳である。残り1冊は1859年にフランスで出版された図版入りの機材カタログとでもいうべき書物である。これらが示すように初期には湿板写真の技術は、オランダ語やフランス語の文献などを通じて日本に入ってきたのである。

 また「附録 撮形術ポトガラヒー」では「積極紙製法」として、湿板写真によるネガから印画を作る方法を述べている。興味深いのは、この印画接が鶏卵紙ではなく、それ以前の単塩紙(単純塩化銀紙、Plain Salted paper)を「パピール・サーレ(papier sale)」として解説していることである。欧米では、ごく初期を除いて、湿板ネガの印画には、湿板写真とほぼ同時期にフランスで考案された鶏卵紙を使用することが普通である。湿板ネガと鶏卵紙は一対のようなものであるが、『舎密局必携』では何故かコロデイオン湿板方式単塩紙が解説されている。この疑問については以前から専門家が指摘をしているところでもある。

 ただしこの湿板写真による撮影と単塩紙による印画は、クリミア戦争に従軍した最初の戦争写真家として知られるフェントン(Roger・Fenton、1819−1869)の作例に見ることができるのである。この組み合わせはイギリスの初期写真に特徴的なものともいえる。

 上野彦馬は海軍伝習所でボンベに学んで写真研究を行った後、1859(安政6)年に、ロンドンのネグレツテイ・アンド・ザンブラ社から派遣され長崎を訪れたスイス国籍写真家ロシエ(pierre Rossier・1829−1886)に学び実技に上達したとされる。ロシエはイギリスとも関係の深い写真家であり、また実際にコロデイオン湿板方式と鶏卵紙だけでなく単塩紙を使用している。『舎密局必携』に見られる上野彦馬の技術解説はこのような影響とも考えられるのである。

 1863(文久3)年春に来日し、横浜にスタジオを開設して、日本人の撮らなかった幕末や明治初年の貴重な記録を精力的に行ったベアト(Felice Beato,1834?~1909)もまたイギリスと関係の深い写真家である。

 コルフ島(現キルケラ島)の出身であるが、イギリス人写真家ロバートソン(James Robertson、1813−1888)の助手として、フェントン後のクリミア戦争の記録に関わっている1858年にはインドにおけるイギリス軍の公式写真家となってセポイの反乱の戦跡を撮影した後、1860年にはイギリス軍と共に中国へ渡りアロー号事件に端を発した第二次アへン戦争の最後の段階を撮影している。

 ベアトは中国で、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の特派画家兼通信員ワーグマン(Charles wargman、1832−1891)と出会い活動を共にし、1861年に日本へ移ったワーグマンの後を追って来日したのである。

 二人はベアトアンド・ワーグマン商会を設立して写真及び絵の販売を行い、それらをイラストレイテットロンドン・ニュースにも送っている。ベアトが日本でスタジオを経営したのは1877(明治10)年までであるが、このような報道系ともいえる活動が日本人写真家たちに与えた影響は、高橋由一(1828~1894)や五姓田義松(1855ー1915)ら洋画を目指した黎明期の日本人絵師たちにワーグマンが与えた影響と共に大きなものがあったと考えられるのである。

 この後、日本においては1887(明治20)年頃を境にして写真の撮影技術は高感度のガラス乾板へと変わっていく。この技術もまたイギリスで考案され発展したものであった。その最初は、1871年にマドックス(Richard leach maddox (1816−1902)が発表した臭化銀ゼラチン乳剤乾板で、1878年にはベネット(charles Harper Bennett、1840−1927)が乳剤を熟成して感光度を高める方法を発表し、まもなくスワン(Joseph wilson swan 1828−1914)などにより高感度のガラス乾板工業的に大量生産されるようになった。ガラス乾板はその後の写真フイルムの先駆ともなった実に近代的な写真感光材料であり、19世紀から20世紀にかけての写真技術の基盤となったものである。この乾板の製造から発して写真工業が大きく発展することにもなったのである。

 また使用が簡便で高感度の乾板の出現はアマチュア写真家の出現も促した。そしてこれらアマチュア写真家たちが関わって芸術的な写真表現への志向が大きく高まっていくのである。前述したエマーリンがロビンソンらの絵画を模倣した写真を否定し、写真家は科学的な認識に基づき自らの目に写る自然そのものを模倣すべきであると主張して、自然主義写真を提唱したのは1886年のことである。その後エマーソンの賛同者たちは、次第にエマーリンの意図していなかったソフトフォーカスによる写真の印象主義ともいえる表現を指向するようになり、ピクトリアル写真の指導的な団体となったリンクトリング(Linked Ring、つながった輪)1892年に結成する。そしてこれらの動きの背景には近代的な感光材料ガラス乾板と、アマチュア写真家の存在があったのである。

 日本における最初のアマチュア写真団体は1889(明治22)年に発足した「日本写真会」である。会長は榎本武揚(1856−1908)で、写真を趣味とする上流階級層の多分に親睦的な団体であった。その指導に中心的にあたったのが、帝国大学の雇教師で熱心なアマチュア写真家でもあったエジンバラ出身のバートン(バルトンと表記される場合もある)(1856−1899)である。

 そして1893(明治26)年には、バートンの斡旋により、ロンドン・カメラクラブから296点に上る作品が招来され、上野公園第三回内国勧業博覧会の旧五号館を会場にして「外国写真展覧会」が開催される。そこにはロビンソン、エマーソン、キヤメロン(julia  margaret  Cameron )らをはじめとしたイギリスの写真家の作品が展覧され、当時の日本人写真家たちに大きな驚きをもって迎えられたのである。

 同年にピクトリアル写真の研究団体として鹿島清兵衛(1866−1924)小倉倹司(1861~1946?)らにより「大日本写真品評会」が結成されるのも、この展覧会の影響であった。しかし日本においてピクトリアリズム(芸術写真)への本格的な動きが始まるのは日露戦争期以降のことである。日本の芸術写真の原点ともいわれる小研究団体「ゆふつゞ社」が『写真月報』誌の編集者の秋山轍輔(1880~1944)らによって結成されるのは1904(明治37)年のことであった。

 この後、日本においては大正期を中心としてピクトリアリズムが全盛期を迎えることになる。そして昭和期に入ると、カメラや感光材料など写真のメカニズムに立脚した近代的な写真表現、新興写真が導入され写真表現は再び大きく変わっていくことになる。日本に大きく影響したのはドイツを中心としたヨーロッパの新興写真であり、さらに第二次世界大戦以後の日本の写真はアメリカとの関係やその影響が強いものとなっていくのである。

「新興写真」とは、1930年前後の日本で盛んになった、カメラやレンズによる機械性を生かし、写真でしかできないような表現を目指した動向のこと。 ドイツの新即物主義(ノイエザッハリヒカイト)やシュルレアリスムなどの影響を受け、それまでのピクトリアリズム(絵画主義写真)とは異なる動きとして注目を集めた

 このようなことから、とくに戦後はイギリスの写真の影響は限定的なものとなって、あまり顧みられることはなかったように思われる。しかし日本の初期写真史を振り返ってみると、技術的に写真芸術の上でもイギリスの影響が大きく、その意義を改めて評価することができるのである。