■教師論 課題 教員ヒヤリングと教師像
ある元教師のヒヤリングをもとに自分の考える理想的教師像を論じてみたい。 課題レポートの趣旨を踏まえて、ヒヤリングにより教師経験から得た貴重な意見をもとに自分の考える理想的教師像とを比較考察し、今後の教師としてのあるべき方向付けの指針としたい。
ヒヤリングの観点は次の通り、
1.教師になった動機について
2.教師としての生き方(生き甲斐)について
3.これからの教師になる人達に望むこと
4.ヒヤリング対象者:元教員M氏(福島県田村郡三春町内校長退職/生年月日:S17) 会津勤務2年田村郡36年勤務後退職 (インタビュー:H14.1.26M氏宅訪問による)
教職の道への直接的動機は、教員養成大学に入学し教員になる決意する。s25~S30年代前後までの小中学校生活の中で、楽しく毎日を過ごすことができたこと。特に、自分のやりたいことができるような学校の教育システムがあり、子供の願いを受け入れてくれるおおらかな対応を先生そして校長先生との対話があり、自分たちの要求するクラブ活動の新たな部の新設や学習方法に関する苦情も認め子供の納得のいく対応をしてくれたことが深く心に残っているという。
新米教師として山村僻地に赴任し、子供たちと共に広々とした大地の中で野外活動やスキーなど時間に拘束されることなく自由闊達にのびのびと心から触れあうことができ教えることの素晴らしさを味わい2年間がすぎた。子供との別れる日には、2年生の女子が涙を流して追いかけてくる姿を思い返すと自分が教師としての存在価値を改めて思い起こす契機にもなったという。
教師の生き方に影響された大きな転機は、元三春教育長武藤義男氏との出会いであった。当時知識偏重教育への疑問と一斉画一教育の中で、子供たちの荒れや不登校の最中にあってどう対応すべきか模索している時、三春の教育改革との出会いがあった。
三春町では、「生きる喜びを育てる教育の実現の確立」のための個性化教育を推進し、M氏もその一役を担ってきた。教育は生きる喜びを育てる仕事であり、困難を乗り越え新しいものを発見する喜び、仲間と共に励む喜び、自分と精一杯表現する喜びを勝ち取る過程の中で、子供たちは知性と情感と意志を鍛え、自分の中身を豊かにし、人間として生きる喜びを味わわせることこそ「自己実現」に繋がるのではないかとM氏の生き方に強い共感を覚える。
新しい時代になっても避けて通れない課題に対して常に前向きに取り組むことの大切さを実感するのである。教師に望みたいことは、どうしても教師の仕事をしていると大きな壁につきあたることが多い。学級内の問題、学校運営上の問題などではじめから不可能と決めず絶えず問題を解決しようとする前向きな態度が必要てある。
確かに悩みを自分の中に抱え込み挫折する状況に陥ることも多い。
特に、親との子育てについて理解が食い違い教育の進め方にギャップが生じた時は悔しい思いをする時もある。教育というものは、即時結果が表れるものでなく、空虚感を味わうこともあるが、時の経過と共に再び当時の親と再会し理解された時、教育者としてやってて良かったと感慨深く思うという。
以上のインタビューをまとめると、人との関わり、人との触れ合いの大切さが教師という仕事の重さを感じることができる。人を育てることの素晴らしさを実感できるような子どもとの出会いを通して、努力する使命があろう。
一人一人の人格を尊重し、子供の主体性を認め個性が発揮できる教育への実現を目指すことでもある。決して個性化教育は、三春町の教育が目指した改革が新しい考え方ではなく、教育基本法の理念にある思想を再度現場の教育に照らした時、その本質がここにあったと言える。
一人一人の個性を伸ばす教育の本質を見失わず教師の仕事に全うすることの大切さを説く。M氏がモットーとしている「いつも子供の笑顔に会いたくて」のスローガンは、私の心に何か強い印象を与えたのである。
個性化教育は、子供の目線に立ってその子の心を看取ることの大切さを重視した理念を持つ。教師自身教育に関わる資質や教育力を高める真摯な態度で絶えず新たな挑戦をする姿勢を忘れてはならないと考える。当然、一斉指導と個別指導の違いを十分理解し、各指導方法をいかに授業に生かし、子供たちがいかに主体的に活動できるかを自分に問い直し具現化しなければならないと言えよう。
教師は、人との関わりの難しさを抱えていて茨の道を歩む使命を負ってもいる。事務的な仕事であれば、時間を断ち切ってことが済むかもしれないが、教師の仕事には事務的な裁量で判断できない人の抱える課題がある。解決は、即見いだせないが、絶えず解決に立ち向かう使命を忘れてはならないと思う。
教師も子供も同様生涯学びにおいて自己研鑽する立場でもある。本当の自分を全面に出して、子供たちと共に学び合うこと、人間同士の関わりの中から人を育てる喜びや感動が生まれる。子供一人一人が生かされるよう教師である前に一人の人間としての資質向上への努力と人を愛する喜びを共に分かち合えるよう自己実現をしなければならないと考える。
参考文献
やればできる学校革命 武藤義男著 日本評論社 1998.6.25
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あるブログからの引用
武藤義男他『やればできる学校革命』に学ぶ(2)
–統合中学校の理念と構想(研究ノート5)–
この本を読んで驚いた。読み進むほどに「ああ、これはいい考えだ!こんな細かな点にまで配慮が行き届いている!」と思われる様々なアイディアが次々と湯水のごとく湧き出してくる。まさにサブタイトルの 「夢をはぐくむ教育実践記」である。
もし今は亡き武藤教育長とお会いして懇談したとすれば、お互いに「そうですねー!」と意気投合し、いつまでも話は尽きなかったに違いない。今となっては叶わぬことだが、尊敬すべき教育長、教育改革の先駆者である。
以下、ぼくの抜書き(摘要)であるが、これを読んだあと、実際に本を手にとって読んでくださることを、町内の両中学校はもとより小学校の先生にも期待する。
1、「子どもの夢、教師の夢がともに育つ学校を」を合言葉に、私たちは三春町の教育改革を進めてきました。
私(武藤教育長)は、①子どもの夢と教師の夢がともに育つ学校をつくりたいと思いました。②教師の心がひからびていては、子どもの夢も育つはずがありませ ん。③三春に住む人々が、三春に住んでよかったと思えるような心やさしい町をつくりたいと思いました。それを失ったら、豊かな町とはいえません。
《ぼくのコメント》
我が富士見町も「夢のある明るい統合中学校」を理念として掲げているが、
① がそれに相当する。「夢」という言葉は本書の随所に出てくるキーワードの一つである。
② 改革の重要な担い手は最終的にはやはり現場の教師である。教師にその気になって燃えてもらわないとどうにもならない。
③ 我が町の中学校統合の直接の動機は児童・生徒減にある。過疎化・少子化に起因する小規模校の問題、学校間の格差解消問題は、すぐれて町づくりの問題でもあ るとぼくは当初から考えてきた。再来年には複式学級が必死な状況の落合小の将来を考えるうえでも、欠かせない視点である。
2、三春町教育委員会は、①「生きる喜びを育む教育」を教育改革の中心課題に据えました。②教育立町です。
③教育委員会は町内の幼稚園・小・中学校の先生や、社会教育委員らとともに、それらのことについて議論を進めました。はじめは、改革という言葉自体に抵抗感をもつ人もいましたが、…時間をかけて語り合いました。実践をとおして学びあうことがとても大切でした。
《コメント》
①「生きる喜びを育む」とは、換言すれば生徒も先生もお互いの尊厳・人権を認め合う明るい笑顔に包まれた学校であるとぼくは考えている。画一的な教育をしている学校は硬い雰囲気になる。
②富士見町は歴史的にみて、教育を大事にして先生を仰ぐ教育風土が強かった。資源に乏しく産業が盛んとはいえない富士見町が生き残る道は子どもの教育=教育立町であろう。その自覚がぼくたち町民にはまだ弱い。
③時間をかけて議論を進め、実践をとおして学びあう。大事なことである。教育委員会の方針がぶれてはいけない。教育委員のみなさんには負担をおかけすることになるが、勉強会を開いて、教育改革の根本理念・将来ビジョンを時間をかけて話し合いたい。
3、教育改革の三つの目標
以上のような経過を経て改革の三つの目標を立てた。
1、①創造的教育観の確立と②教育内容・方法の改革
人間教育。子どもと教師の人間としての主体性の確立。①②教師自らの「画一主義教育」意識の打破。
人間としてのかけがえのない人格。子どもの権利。…教育の基本であり①日本国憲法・教育基本法の精神です。
②子どもの心、からだ、学力とは何かを明らかにする。教科書の知識や受験のための学力だけでは、人間として生きていく力にはなりません。
2、③新しい教育を支える施設・設備の改革。
教師と子ども、それを取り巻く学習空間の学習効果に及ぼす相関関係を新しい角度から見直す。従来型の4間×5間の教室空間は、画一教育には向いているが、すでにその歴史的使命は終わった。教育委員会が責任をもって、学校建築のリーダーシップをとらなければなりません。
3、④地域住民の教育参加。
授業・地域文化の伝承・学校開放と活用・学校建築構想づくり・施設設備充実等々あらゆる教育の機会への地域住民の積極的な参加がなければ、改革は成功しない。
《コメント》
①ぼくは富士見町の教育改革の根本に「子どもの権利条約」の実現を据えている。教育政策の一番目に「子どもの人権・最善の利益を尊重します」とうたったのは、そのためである。
教育の目的及び理念として日本国憲法と教育基本法を正面切って掲げていることは、当然のこととはいえ、そういう市町村教委はそれほど多くないのではないか。改めて教育基本法の前文(理念)、第1条(目的)を読み直してみたい。
(前文)
…個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
(第1条 教育の目的)
…教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。
毎日、テレビや新聞で暗澹たるモラルハザードのニュースにさらされているので、教育基本法がなんとも新鮮に映る。
②は今日のはやりの言葉で言えば「生きる力」である。古典的な言い方では「知育・徳育・体育」、信州教育の伝統用語で言えば「全人教育」である。どれが欠けても望ましい教育とはならない。
③は、後に子どもがくつろげるホームベース、オープンスペース、ホームルーム教室、教科型教室などという形で実現していく。「魅力的な建築空間がいのち」であるという。ぼくは認識を新たにした。
富士見高原中学校の設計担当者と連絡がついた。当時の記録が保存されていたら精読してみたい。どういう理念・コンセプトであのような校舎が設計されたのかは、ぼくにとっては新しい中学校を構想していくうえで大変重要なテーマとなってきた。
④三春町や新潟県聖篭中学校のように、思い切った学校開放、地域のみなさんと共に歩む学校経営を目指したい。
「学校活性化委員会」(仮称)を開校と同時に立ち上げたい。性格は第三者評価機関のようなものになるのかどうか未定だが、地域と学校とをつなぐ機関としたい。(このことについては、学校側との話し合いがまだ煮詰まっていないので、検討中の事項。)
もっと大胆に地域に根ざした学校・保育園のあり方があるかについて学校現場の先生や保育士のみなさんと探ってみたい。(以上33㌻まで。続く)