民家からのレスキュー
―民家からのレスキューをめぐって―
国立歴史民俗博物館 小 池 淳 一
はじめに―
本稿の目的本稿は国立歴史民俗博物館(以下、歴博)が2011年4月から行ってきた文化財レスキューの過程とそれによって見出された課題について述べ、人間文化研究の情報資源に対する認識と研究方法についての提言を試みるものである。
ここでは最初に歴博の文化財レスキューとそれを支えた基礎的な認識について述べ、ついで、これまで民俗文化財と総称されてきたモノが内包する問題について確認する。さらに具体的なレスキュー事業のなかから見出された研究上の視点についても述べて、最後に人間文化研究の資源となる情報についての現時点での考え方を提示したい。
1 歴博の文化財レスキューの過程とその基盤
2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う津波(以下、震災)によって気仙沼市をはじめとする三陸沿岸諸地域では多くの人命が失われ、甚大な被害を被った。それにより、地域生活のなかで育まれ、伝えられてきた人間文化に関する諸資料はもちろん、地域の生活と文化そのものが大きな危機に瀕したのである。歴博は4月以降、気仙沼市小々汐地区の尾形健家(地元では大本家の意でオーイと呼ばれる)を中心に文化財レスキュー事業に取り組んできている。まず、その概要と経緯について述べておこう。
尾形家はこの地域の同族団の核と認識されてきた旧家であり、建物自体も文化(1810)年の建築が関連史料等から確認される古民家[宮城県教育委員会 1974:65-67]で、さらに家族が実際に生活を営んでいた、いわば生きた民俗的生活文化の舞台であった。
歴博は、沿岸部には珍しい古民家であること、またこの民家における生活が、同族結合の表出として小々汐集落全体とも深く関わっていることから、民俗調査を震災前から実施してきた。震災後、比較的早い時点でレスキュー活動を開始するに到ったのは、そうした蓄積に基づく。つまり、ここでのレスキュー事業は、文化庁が震災後主導した博物館・資料館等をアクセスポイントとし、登録され、資料台帳に記載された文化財のレスキューとは根本的に異なる生活丸ごとのレスキューであった。その点に最大の特徴と、この事業の特殊性を見出すことができる。そこからは、震災前に蓄積されてきた歴博のみならず、尾形家に関連するさまざまな調査成果がレスキューにあたっては意識され、参照されることとなった。
まず、戦後の早い時期に水産省の水産研究所月島分室の事業として借用された漁業・漁村関係の史料群が念頭にあった。これは長期間の借用ののち、整理が行われ、文書類は1993年に尾形家に返却されていた[網野 1999:119-131]が、今回の震災と津波によってそれらの行方が懸念されたのである。また気仙沼市の市史編さん事業や郷土史研究の先達の努力によって、尾形家で行われてきた行事や儀礼の多くは、集落の同族組織と深く関わり、東北日本における村落類型の典型的な姿を呈していることも確認されていた[小山 1961、気仙沼市市史編さん委員会編 1994など]。
それに加えて歴博が実施してきた民俗調査では、多様な家の神の祭祀、仏壇や神棚を軸とした日常的祭祀、土間や座敷で展開されてきた年中行事が注目されていた。これらは、直接、モノのかたちで存在するのではなく、モノやそれらが置かれた空間、そしてそこに関わる人びとの行動や想念によって構成されているものである。
レスキューにあたってはこうしたモノや空間、生活の構成要素を意識し、救出することが課題となった。実際の救出作業は図に示したように尾形家のあった谷間に広く散乱した遺物の発見がその中心となった。海辺にあったにもかかわらず、津波によって200年にわたる生活文化、人間文化の蓄積が谷奥へ向けてばらまかれるように移動し、瓦礫と化していたのである。それは広く震災後の三陸沿岸を見渡すならば、どこでも見られた景色であり、様相でもあった。
2 文化財レスキューにおける問題群
こうした景色、様相に対して、文化財をレスキューするという点からは大きく分けて2つの疑問がわき上がるだろう。一つは、広い被災地域のなかから尾形家をことさら救済の対象とする意味や理由である。もう一つは、そこから見出される生活用具の数々は果たして文化財なのかどうかという疑念である。第一の疑問については、社会学や人類学におけるライフヒストリー研究における議論が参考になる。この領域ではある社会や文化をとらえるためには個人のライフヒストリーが有効であるとされるが、そこで問われるのがその個人が対象とする社会や文化の代表、あるいは典型であるのかという考え方である。
この問いは佐藤健二によれば、次のように捉え直される。「ライフヒストリーの試みが素朴に提起しているのは、いうならば、個人はそうした(社会という語に代表される―引用者注)関係が複雑に集積する〈場〉なのだという論点である。つまりライフヒストリーの方法における個人は有賀喜左衛門における荒沢村石神(村落社会学者である有賀の長年にわたる村落調査の舞台―引用者注)と同じく、フィールドである。」[佐藤 1995:19]このことを三陸沿岸という生活文化圏における尾形家にあてはめて考えるならば、三陸沿岸全体からすれば、ごく一部である尾形家であっても、そこには三陸沿岸と同じ社会的あるいは文化的な関係の集積が見出せるはずであり、それは典型とか代表といった一定の分析や作業の帰結によって仮設される概念ではなく、まず取り組むべき〈場〉、フィールドとして表れるということになろう。
このことは素朴かつ乱暴に、できるところから、情報があるところから着手すると素朴に言い換えてもよいのかもしれない。そしてそこで見いだせる問題群こそが、こうした文化財の救済の「方法」かつ「目的」になるのである。次に生活用具と文化財概念との関わりであるが、この問題はここ15年ほどの民俗学におけるトピックの一つである民俗文化財の創出や活用をめぐる論究[才津 1996、菊地1999ほか]が参考になるだろう。ごく大まかにいえば、文化財とは国家や地域のシステムのなかで創出され、その認定が社会的な意味を帯びるなかで変容を遂げざるを得ないという認識が共有されつつある。そして留意しておかねばならないのは、そのことの是非を問うことが重要なのではなく、少なくとも民俗文化財においては生活のなかから生み出され、継承され、利用されてきたという点が重要なのであって、美術や芸術という概念や唯一無二の造型といった捉え方とは一線を画する存在であるという認識であろう。
この点からすれば、文化財、とりわけ民俗文化財とは生活の文脈のなかにあること、その使用や利用の現場と接続していることで、その価値付けや意味の確認が可能になるということが重視されなくてはならない。津波に襲われ、散乱した生活用具は、その急激な無秩序化と直前までの生活の関係がはっきりしているからこそ、民俗文化財未満の、あるいは民俗文化財になりつつあるものとしてレスキューの対象になるのである。こうした問題群とそれに対する態度と関連して、尾形家をめぐるレスキュー活動に携わってきた葉山茂は、モノの救出は実はモノだけではなく、モノを通して見える生活世界、生活の記憶の救出であると述べている[小池・葉山 2012予定]。
その認識は文化財の損壊とその救出、保全、補修という負の状況の克服ではなく、瓦礫と向かい合うことが、三陸沿岸の生活とその記憶を問うことであるという姿勢あるいは覚悟につながっていると言えるだろう。そうした負の状態、状況からの回復ではなく、新たな生活文化の発見と了解の過程としての文化財レスキューという観点を確認した上で、次にレスキューを通して見えてきた生活の事実や記憶につながるエピソードを取りあげてみたい。
3 レスキューを通して見えてきたもの
瓦礫と化した小々汐地区のなかで、尾形家の箱階段が見出され、その中身を確認する機会があった。その引き出しの中には幕末から昭和にかけての置き薬が箱に収められたままで残されていた。震災直前までの尾形家の生活のなかではこの置き薬は、既に意識されてはいなかった。しかし、医療がそれほど整備されていない時代においては、こうした置き薬を常備することが、生活の知恵であり、かつ安心の源でもあった。類似の準備と心得とは旧家であればかなり広く見出すことができるものであっただろう。それが震災を契機に、津波によって汚損してはいるものの姿を表したのである。
注目したいのは、オーイの文書の中には、この置き薬に関連するものが確認されていたという点である。すなわち尾形家文書のうち、元治2(1865)年の「薬かし方覚帳」[気仙沼市市史編さん委員会編 1995:89-91]との対応が可能なモノがこの薬箱であったことが重要であろう。詳細は稿を改めて検討したいが、少なくとも記憶から失われていたモノが、再度発見され、文書記録との対応が確認されることで、この家の社会的文化的な位置づけをさらに深く考究できるようになったといえるのである。
あるいは、震災時に津波が襲ってくるまでの僅かの間に、尾形家の家族は家屋の雨戸を閉めてから避難するという行動をとった。それは「津波で逃げる時は雨戸を閉めていけ」という言い伝えに従っての行動であった。それと直接の因果関係ははっきりしないが、尾形家の家屋は津波によって百数十メートルもの距離を移動したにもかかわらず、茅葺き屋根はほぼ完全な姿を残し、さらにその下には居住空間の配置がそのまま保持されるかたちで生活用具が残されていたのである。
そうした事実によって、震災直前までの生活との連続性は尚更、明瞭に確認することができ、レスキューにあたっても意識することが可能になったのである。とすると上記の言い伝えは津波とそれがもたらす動産の混乱、家屋の損壊等を最小限に食い止める知恵であった可能性があろう。その本来の意味は忘れられていたが、言い伝え通りに行動したことで、その実効性が証明されたのかもしれない。また瓦礫のなかの一連の生活用具捜索の過程で、海からの強風に悩まされる場面が少なくなかったのだが、小々汐地区のなかでも尾形家の家屋、特に母屋が建っていたのは不思議に強風が当たらない場所であった。
これは地区のなかに家屋が密集している震災前の状態では容易に気づくことができないことであったろう。おそらくオーイが現在の小々汐地区に屋敷を構える際にはこうした小さな地形のなかの微気象が考慮され、計算に入れて土地が選定されたのではないか、という推測が成り立つ。これは小々汐地区の家屋が失われ、土地が集落形成以前の状態になったために、改めて感得される事実であった。おわりに─「丸ごと」の可能性以上述べてきた発見は決して幸福なことではない。
しかし、それらが喚起する事実は示唆に富んでいる。まさに尾形家は小々汐という三陸の一漁村の「蔵」であった[柴原 2011]。地域の時間が積み重なった空間でもあった。それが震災によって瓦礫と化した時、考え得る全ての史資料、即ち人間文化研究のあらゆる視点を動員して散乱や混沌の状態からの再生が図られねばならない。そして資料の残り方から暮らし=人間文化の集積過程を確認しつつ、生活の記憶を再び構築しなければならないのである。
こうした被災を契機に人間文化に関する資料の見え方が変わり、その結果として調査・保存・研究の方法は再度鍛え直されることになるだろう。それにはゴール(終わり)はなく、被災地とそこでの生活を見つめ続け、関わり続けることで新しい研究スタイルが生まれていくことになるだろう。それを現時点では「丸ごと」の可能性として登録し、伝承や文字資料、生活用具等を総体としてとらえていく姿勢が求められる。人間文化研究の資源として、こうした姿勢のもと、さまざまな情報をとらえていくことが、長期的に継続されなければならない。
[参考・引用文献]
網野善彦 1999『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣―』中央公論社[新書]
菊地暁 1999「民俗文化財の誕生─祝宮静と1975年文化財保護法改正をめぐって─」『歴史学研究』726:1-13,59
気仙沼市市史編さん委員会編 1994『気仙沼市史Ⅶ民俗・宗教編』気仙沼市
─1995
『気仙沼市史Ⅷ資料編』気仙沼市 小池淳一・葉山茂 2012刊行予定「民家からの民具・生活用具の救出活動―宮城県気仙沼市小々汐地区―」国立歴史民俗博物館編『被災地の博物館に聞く』吉川弘文館小山正平 1961「本家の仏拝みとオシラ拝み─気仙沼市小々汐─」『社会と伝承』5(1):40-41
才津祐美子 1996「「民俗文化財」創出のディスクール」『待兼山論叢』30(日本学篇):47-62
佐藤健二 1995「ライフヒストリー研究の位相」中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂:13-41
柴原聡子 2011「地域の蔵がなくなる 被災地の文化財の現在」『建築雑誌』1626:48-51
宮城県教育委員会 1974『宮城の古民家─宮城県民家緊急調査報告書─』宮城県教育委会
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