写真技術の発明
絵画がひたすら実際に見える世界の再現を求めていた時代において、写真技術(フォトグラフィー)の発明は画期的なものだったと言えよう。写真技術といっても、「遠近法絵画のための補助器具(光学機器)」の項でも述べたように、16世紀頃から、カメラ・オブスクーラ(暗箱カメラ)や、カメラ・ルシダ(1806年)などの光学機器が次々に発明され、針穴やレンズを通して3次元の風景を2次元のピント面に投影する仕組みについては十分研究されていた。むずかしかったのは、こうした光学機器による作画像を、ガラスなどに塗った化学物質に感光させ、それを固定させる技術である。つまり、それまでは、カメラ・オブスクーラなどによる作画像を、人間がいちいち写し取る(トレースする)作業が必要だったわけだが、写真技術はこの作業を機械が代行してくれるのである。
基本的な技術は、1725年(論文発表は1727年)に、アルトドルフ大学で解剖学の教授をしていたヨハン・ハインリッヒ・シュルツェが硝酸銀の感光性(光 があたると黒くなる性質)を発見したことに始まるが、この発見をもとに具体的な写真技術の開発が進められていくのは1795年頃からである。この頃、光学 画像を化学的に固定して残そうとする試みは、様々に行なわれたようだが、この研究を初めて発表したのは、イギリスのウェッジウッドである(1802年)。 ただ、当時は、目の前に広がる風景を固定することよりも、感光紙(ウェッジウッドの場合は、硝酸銀水溶液を塗った紙を使用)に版画を重ねて太陽光にあてる ことにより、版画を複写する研究が先行していた。当時の感光剤は感光性が低く(つまり、かなり長時間、光にあてなければ像が写らない)、レンズも暗かった からだと推察される。ちなみに、感光剤に光をあてるプロセスを「露光」という。版画の白い部分は光を通すので、感光紙を黒変させ、結果として、元の版画とは白黒が反転したいわゆる陰画(ネガ)が 得られる。ウェッジウッドは光学画像を感光紙の上に一時的に固定することには成功したが、でき上がった作品を明るい所に出すと、感光しては困る部分までも が黒くなってしまうため、せいぜいロウソクの光でしか鑑賞することができない。ウェッジウッドは、作品を繰り返し水で洗い、未変化の硝酸銀を取り除く試み もしたが、成功しなかった。
それ以上感光しては具合の悪い部分の感光剤を取り除いて、得られた画像を永久に保存できる状態にする工程を「定着」というが、この定着に世界で初めて成功したのは、フランスのジョセフ・ニエプスで ある。ニエプスの場合も、感光性の物質上に版画を複写する研究が先行しており、1814年に塩化銀紙を用いて実験を開始している。塩化鉄、二酸化マンガ ン、リンなど様々な感光剤を試す中で、1822~24年頃、アスファルトを感光剤に用いて、初めて像の定着に成功している。このときニエプスは、ユダヤ・ アスファルトの粉末をラベンダ油(後に、ディッペル骨油に改良)に溶かしたものを、よく磨いたピューター板(鉛とスズの合金、後に、銀メッキした金属板に 改良)の表面に薄く塗り広げて赤色の膜を形成し、これを感光剤として使用した。感光板に版画を重ねて(あるいはカメラ・オブスクーラにセットして)露光す ると、アスファルトは光があたると硬化して白くなる性質があるので、像を記録することができる。光があたった部分が白くなるのだから、ニエプスの得たもの は陰画(ネガ)ではなく、陽画(ポジ)である。光があたらない部分は硬化しないので、これを石油とラベンダ油の混合液で洗い流すことにより、この部分が溶け出し、「定着」が可能になったというわけである。ニエプスはこの方法を、太陽光により露光することから「ヘリオグラフィー(太 陽画法)」と名づけた。ギリシア語の「ヘリオス(太陽)」と「グラフ(描く)」から作った造語である。ニエプスのヘリオグラフィーは世界最初の写真技術と 言えなくもないが、日中の屋外でも8~12時間の露光時間を要し、さらに、微妙な色調(階調)を再現することができず、ほとんどシルエットのような画像し か得られないなど、まだまだ実用的なものではなかった。
ジョセフ・ニエプス「グラの家の窓から撮った景色」(1826年)
ニエプスが、ヘリオグラフィーの技術を用いて自宅の窓から見える風景を撮影したものである。
イギリスの科学者・言語学者であるタルボットが「格子窓」の撮影に成功している。タルボットが開発した方法は次の通りである。硝酸銀の水溶液をしみこませた紙をヨウ化カリウム(または食塩)で処理して、紙上にヨウ化銀(または塩化銀) を生成する。これが感光剤である。この感光紙をカメラ・オブスクーラにセットして露光すると、光があたった部分は、ヨウ化銀(塩化銀)が分解して銀粒子に 変わることにより像が記録される。しかし、この段階ではできた銀が微量のため、まだ記録された像を見ることができない。これを硝酸銀・酢酸・没食子酸の混 合溶液で処理して初めて像(印像)が浮かび上がってくる(目に見えない潜像を目に見える状態にする工程を「現像」という)。最後に、臭化カリウム(後に、チオ硫酸ナトリウムに改良)の水溶液で処理して、像の「定着」を行なう。この方法で得られるものは、光のあたった部分が黒くなるので、陰画(ネガ)である。さらに、タルボットの方法が画期的だったのは、でき上がったネガを原画にして、これを塩化銀紙(印画紙)に密着して再び露光(焼き付け)することにより、ネガの白黒が再度反転し、陽画(ポジ)が得られる点である。このことは1枚のネガからいくらでも複製(焼き増し)を作ることができることを意味し、写真が持っているこの特長は、以後の科学の発展に大きく貢献していくことになる。タルボットが発明したこの方法は「カロタイプ」(ギリシア語の「カロス(美)」から命名、タルボタイプともいう)と呼ばれ、現在のネガ・ポジ法の始まりとなる。 開発当初(1835年)は、30~60分の露光時間を必要としたが、タルボットが特許を取得した1841年頃には1分程度に短縮され、十分実用に足るもの となった。ただ、画質(画像の鮮明さ)の点では後述するダゲールの方法に及ばず、さらにタルボットは製法を秘密にしていたため、写真技術発明の名誉をダ ゲールに奪われることになる。
フランスで、パノラマ画家の助手を経て、1822年にはパリに、翌1823年にはロンドンにもジオラマ館を開設し、大衆の人気を博していたダゲール(元々 は画家志望)は、パノラマやジオラマでは正確な遠近法で描かれた風景画が要求されるため、遠近法絵画の補助手段として、1824年頃から独自に写真技術の 研究に着手する。1829年には、先行しているニエプスと共同研究の契約を結ぶが、1833年にニエプスが死亡し、再びダゲール独自の研究によって 1837年に完成された写真技術がダゲレオタイプである。
ダゲレオタイプの概要は次の通りである。薄 く銀メッキした銅板の表面を、少量の希硝酸で湿らせた軽石の粉末をつけて磨き上げ、この銀板をヨウ素の蒸気にあてて(ヨウ素は常温で気化する)、表面に黄 金色の均一なヨウ化銀の膜を形成する。ヨウ化銀を感光剤とするこのアイデアは、1831年に、ニエプスの実験ノートにヒントを得て思いついたものである が、ニエプス自身はこの方法に挫折している。この感光板をカメラ・オブスクーラにセットして露光すると、光があたった部分はヨウ化銀が分解して銀粒子に変 わる。この段階では銀粒子が微量であるために、記録された像を見ることができないのはカロタイプと同様であるが、これを「現像」するために水銀蒸気(アル コールランプで水銀を60℃に加熱する)を使用するというのが、1835年にダゲールが発見した画期的な現像方法である。
水銀蒸気が銀粒子と反応して水銀 アマルガムを形成するために、感光した部分が白い像となって浮かび上がるというのがその原理であるが、光が当たった部分が白くなるのだから、得られる像は陽画(ポジ)で ある。最後に、現像の終わった銀板を加熱した飽和食塩水(後に、常温のチオ硫酸ナトリウム水溶液に改良)で洗浄することによって像を「定着」させる方法を 1837年に発見し、ダゲレオタイプの完成となる。1839年8月19日、ダゲレオタイプはフランス学士院で発表され、公式には、この1839年が写真の始まりの年と されている。ダゲレオタイプの特長は、拡大すると、肉眼では見えないくらい遠方にある文字までもが判読できるほどの圧倒的な画像の精緻さである。
1839 年には、晴天の屋外でも10~20分の露光時間を必要としたため、肖像写真の撮影は困難であったが、翌1840年には、銀板をヨウ素蒸気にさらす際に臭素 も加えるゴッダード法が開発されて感度が飛躍的に向上し、さらに明るいレンズの開発とも相まって、露光時間も1~2分程度に短縮されている。ただ、ダゲレ オタイプは1回の撮影で1枚のポジ画像しか得られない(つまり、ネガ・ポジ法のような複製を作ることができない)、感光面側から像を鑑賞する形になるた め、撮影画像が実景とは左右逆の鏡像になる、水銀アマルガムは摩擦に弱く、はがれやすい(作品をガ ラスなどで覆って保護する対策が必要)、などの欠点がある。なお、食塩水の代わりに定着液として使われることになるチオ硫酸ナトリウムの水溶液が、難溶性 の銀塩をたやすく溶かすことを発見したのはイギリスの天文学者ハーシェルで、「photography」という述語を初めて使ったのもハーシェルである。
ちなみに、写真技術が日本に初めて伝わったのは1848年で、ダゲレオタイプが「銀板写真」の名で日本に広まっていく。当時は「絞り」のことを「暗み」と言っていた。また、写真技術が伝わってしばらくの間は、同じくヨーロッパから渡来したカメラ・オブスクーラ(日本では写真鏡と呼ばれた)が隆盛を誇っていたので、写真機と写真鏡が混同して紹介されることも多かったようである。
この頃、ダゲールは、自分が発明した写真技術の宣伝も兼ねて、カメラ、研磨台、ヨウ素槽、水銀現像槽を合わせると50kgもある器材を手押し車に載せて、 パリ市内の著名な建造物や橋などの風景を撮影して回っている。露光に時間がかかるため、ほとんど静止している靴磨きは写っているが、往来する馬車や歩行者 は写っていない。
露光時間の短縮によって、それまで貴族や富裕階級だけの専有物であった肖像画が、写真という形で庶民の手に届くようになると、ダゲレオタイプは爆発的に流行して、パリ、ロンドン、ニューヨークなどの目抜き通りに次々に肖像写真館が立ち並ぶようになる。
しかし、ダゲレオタイプの全盛時代は1856年頃までで、1851年に、イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーがダゲレオタイプとカロタイプの双方の長所を合わせもったような「コロジオン法」 を発表すると、操作が容易、露光時間も10秒程度に短縮、左右正像で焼き増しができるなどの点でダゲレオタイプを圧倒し、写真の主流はコロジオン法に移っ ていく。コロジオン法は、ガラス板上にヨード剤を加えたコロジオン溶液(コロジオン乳剤ともいう)を引いたものを使うことからこの名があるのだが、コロジ オンというのは、ニトロセルロースをエタノールとジエチルエーテルの混合液で溶解したものである。
ヨードコロジオン溶液を引いたガラス板(ガラス板上に ヨードコロジオンの膜ができた状態)を硝酸銀水溶液に浸して感光板を作ってやる。これをカメラにセットして露光(撮影)し、硫酸第一鉄を主成分とする溶液 を露光済みの感光板に流しかけてやることにより現像を行なう。定着、つまり未感光のヨウ化銀を除去する作業は、感光板をチオ硫酸ナトリウムと青酸カリの水 溶液に浸すことにより行なう。感光板にガラスを用いることで、感光板が紙だったカロタイプの欠点を一掃し、ダゲレオタイプに匹敵する鮮明な画像が得られる ようになった。
こうして金属板を用いる銀板写真に代わってガラス写真の時代が始まることになるのだが、現在の写真に比べれば、まだまだ手軽とは言いがたいものだった。コロジオン法の最大の難点は、別名「湿板法」 と呼ばれたことからも分かるように、ヨードコロジオン膜が硝酸銀水溶液で濡れた状態、つまり、これが乾かないうちに撮影、現像を行なわなければならないと いう点にある。
ヨードコロジオンを引いたガラス板自体は事前に準備しておくことが可能で、何日間かの保存は可能であったが、これを硝酸銀水溶液に浸して感 光性を与える作業は、撮影のたびにその場でやらなければならないのである。そのため、野外へ撮影に出かけるとなると、硝酸銀や青酸カリといった、取り扱い に注意を要する薬品類だけでなく、暗室用のテントまで持ち歩かなければならず、まるでキャンプか登山にでも行くかのような装備が必要だった。撮影そのもの の動作も、シャッターを押すだけというような手軽さでは決してない。
そもそも、カメラにシャッターが搭載されるようになったのは、露光時間(露出ともい う)が100分の1秒レベルを切るような瞬間写真が実現してからのことで、コロジオン法が発表された当初のカメラにシャッターなど付いていない。ではどう するのかと言うと、手でレンズキャップを開き、適当な時間の経過(露光時間)を見計らって、再びキャップを閉じるのである。被写体に集中しながらキャップ の開閉を行なうのは結構難しい。もちろん、露光時間もカメラが自動で計算してくれるわけではなく、撮影者が現場の明るさを判断して、勘と経験を頼りに決定 するのである。また、この頃は、まだ写真を引き伸ばす技術が開発されておらず、感光板の大きさがそのまま写真のサイズだったので、カメラも大型である。
こうしたコロジオン法の欠点を補うべく次に登場するのは、1871年にイギリスの医師リチャード・リーチ・マドックスによって発明された「臭化銀ゼラチン法」である。臭化銀ゼラチン法は、その後の幾度かの改良を経て、1881年に(改良の段階に応じて、もう少し早い年代をあげている文献もある)、きわめて感光度が高く、取り扱いも容易な臭化銀ゼラチン乾板が 商品化されるに至ってから、急速に普及していった。臭化銀ゼラチン乾板は、簡単に言えば、ガラス板に臭化銀粒子を散乱させたゼラチン乳剤を塗布したもので あるが、乾板の名が示す通り、乾いた状態で使用できるのを最大の特長としている。
これによって人々は撮影現場でいちいち感光板を手作りしなければならない 煩わしさから解放されて、屋外撮影がきわめて手軽に行なえるようになったのである。数分の有効時間しかないコロジオン湿板と異なり、長い年月にわたって保 存が可能な臭化銀ゼラチン乾板は、工場での大量生産を可能にし、感光度の高さから瞬間写真が当たり前になっ た乾板用のカメラでは、露出計によって適正な露光時間が自動で割り出されるようになった。もはや特別の知識を持たないアマチュアでも、シャッターを押すだ けで簡単に写真が撮影できる時代が到来したのである。乾板の発明以来、ベースとなる素材の上に、ゼラチンで感光成分であるハロゲン化銀(臭化銀など)を保 持するというスタイルは、現在でも変わっていない。
化学産業を巻きこんで、今や巨大産業に生まれ変わろうとしていた写真業界に次なる変革をもたらしたのは、ロールフィルムの 登場である。ロールフィルムのアイデア自体は、1854年に、A.J.メリッシュとJ.B.スペンサーによって考案されていたのだが、これを世界中に普及 させたのは、写真産業の未来を見据えた1人の起業家の才覚によるものである。1880年に乾板を生産する工場を作ったアメリカのジョージ・イーストマン は、1枚撮影するたびにいちいちガラス製の乾板をセットし直さなければならない不便さに目をつけ、1884年にロールフィルムの生産を目的とした会社を設 立した。
そして、1888年にイーストマンが「コダック」という名で売り出したカメラは、フィルム を入れ替えることなく100枚のネガを撮影することができ、アマチュア写真家が行なう動作は、カメラを構えること、シャッターを押すこと、フィルムを巻く こと、この3点に限られることになったのである。コダックのカメラが大ヒット商品となったのは言うまでもないが、ロールフィルムは、動く写真、つまり映画 の発明のためにもなくてはならない存在だったのである(映画については「映画の発明」の項を参照)。
ちなみに、カラーフィルムは、フィルムの上に赤、緑、青のそれぞれの光にのみ反応する感光剤を塗り重ねて作られている。このフィルムを現像すると、赤の光 に感光した部分はシアンに、緑の部分はマゼンタに、青の部分はイエローにと、元の色の補色が現れるようになっている(ネガなので)。このようなカラー写真 の原理を最初に発見したのはスコットランドの物理学者ジェームス・クラーク・マクスウェルで、マクスウェルは1861年、3原色に分解した3枚のスライド をスクリーンに投影して、世界初のカラー映像を得ることに成功している。
タルボット「静物」(1840年) ダゲールの肖像写真(1844年)
ダゲレオタイプで撮影されているため、ダゲールの顔が左右逆像で写っている。
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