中山 岩太

 中山岩太なかやま いわた、1895年8月3日 – 1949年1月20日)は、戦前の日本の新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。1918年に東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)すると、農商務省の派遣で、アメリカのカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地 東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイや未来派のエンリコ・プランポリーニと知り合う。

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 1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブをハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。1932年には、野島康三、木村伊兵衛と雑誌『光画』を創刊。日本の戦前において、福原信三と並んで、海外の同時代の写真を、自分の身をもって体験した数少ない写真家の1人で、海外の前衛的な写真動向を的確に理解・ 消化し、帰国後、自作を持って、広く紹介した。フォトグラム、フォトモンタージュなど、高度な技術をも駆使して、スタジオ内で作り上げられた華麗な作品群 は、単なるヨーロッパの前衛写真の物まねにとどまらず、中山独自の美意識を十分に表現したものとなっており、戦前の日本の写真の1つの到達点として、高く 評価できる。

ポートレイト作品群

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風景写真群

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光画(こうが、光畫)とは、日本戦前期の写真に関する雑誌。

 1932年に、写真家である、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人として刊行。第2号から、写真評論家である伊奈信男が同人として参加。1933年まで、全18号が刊行されている。発行元は、当初は、聚楽社、1933年に入ると、光画社となっている。資金的には、野島個人がかなりの負担をしていたという。

 この雑誌は、新興写真を 代表するような傾向の作品を多く紹介し、また論文としても、海外の状況を含めて、写真に関する新しい動向を紹介している。特に、第1号に掲載された伊奈信 男による論文「写真に帰れ」は、新興写真を対象とした代表的な論文である。以上のようなことから、短命に終わったとはいえ、日本写真史において、重要な位置を占める雑誌ということができる。

ただ、1930年代当時に、写真家の桑原甲子雄がその存在を知らなかったという事実があるように、この雑誌が、発行当時に、写真関係者(プロ・アマチュアを含む)の間でまんべんなく知れ渡っていたとは考えにくい。

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