鬼が撮った日本-1

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■永安左衛門

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 1971年 実業家、茶人電力などを設立した「電力王」あり、「耳庵」の号を持つ大茶人、土門の撮影ぶりに「いやいや、けたよ。電力の鬼が写真の鬼に負た。すごい情熱だもの、君」と嘆た。このカットは、西伊豆・堂ケの一角にある別荘で海水浴を楽しんだときの一場面。

■柳田国男22-1

 1951年5月5日1875〜1962年 民俗学者1943年に雑誌『写真文化』の座談会「民俗と写真」で、柳田は「一切の作為と演出を排して、相手が知らぬ間に撮った写真でなければ価値がない」と発言し、それは「絶対非演出の絶対スナップ」の方法論だったと土門は思い起こしている。東京・世田管区成城の自宅で。孫を相手にすると、民俗学の巨人もすっかり好々爺という表情である。

■三島由紀夫

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 1925~70年 小説家 雑誌・文芸の連載 30歳の肖像 ユニークな素顔

■内灘闘争・団結小屋での座り込み1953年

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 1952年、石川県河北郡内灘村(現・内灘町)の砂丘地にアメリカ軍の内灘試射場の設置が決まり、地元住民による激しい反対闘争が行われた。すメラとモチーフの直結という‥とはレンズの機械的反射を意味しません。モチーフヘビタリと向けられたカメラの背後に作者の主観、その思想的感覚意欲は火となって燃えていなければ意味ないです。(『カメラ』アルス一九五〇年三月号)

■砂川闘争・座り込み

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 1955年東京都砂川町(現・立川市)で強行された米軍基地拡張のための測量を阻止するため住民が反対運動を展開。座り込みをする住民の真上を、米軍機が横切る。

■躍動するこどもたち

 跳ねる、走る、泣く、笑う。‥どもたちが全身で発するエネルギーに、土門のシャッターも弾ける。こどもたちの動くスピードに抜群のタイミングで迫り、ともに遊ぶように撮る。土門にとって、こどもは素晴らしいモチーフであり、時代と社会を映す縮図として、ジャーナリスティックな視点から追求し続けたテーマでもあった。

■鮎つく子ら 伊豆1936年

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■永遠を生きる仏像

 見るものに迫る、クローズアップの尖鋭描写による実在感。気に入った仏像は徹底的に研究し、何度でも振り直した。その集大成が十三年をかけて完成した『古寺巡礼』(美術出版社一九六三〜七五年)である。一切の妥協を許さない精神力で、仏像と相対し凝視した末に、気迫もろともシャッターを切る。土門にとって終わりのない美の世界の追求であった。それらの仏像の良さを捉えようとする時、じーっと見ていると、胸をついてくるあるものがある。それを両手で抱えて、そのものを丸ごと端的に表わす‥とを心掛ける‥とが必要だ。(『フォトアート』一九七四年四月号)

■中宮寺 観音菩薩半伽像頭部1961年

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 「すべてに写実的比例を保ちながらも、官能的と云えるほど、やわらかくしなやかな表現を与えられている。ぼくはこの観音像ぐらい女、それもゆたかな母性を感じさせる仏像を他に知らない」と土門にいわしめた観音像。飛鳥時代を代表する仏像であり、アルカイックスマイルの典型としてもよく知られている。

■唐招提寺金堂 千手観音菩薩右脇千手詳細

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■こうして土門の仏像写真は生まれた

藤森 武

 私の弟子時代は土門先生の仏像撮影全盛期で脳出血で倒れられた一度目と二度目の間の時期である。幸運にも『古寺巡礼』第一集(昭和三十人年)の後半の撮影から第五集(昭和五十年)まで、すべての集で撮影助手を務めることができた。完結まで十二年に及ぷライフワークであった。

 仏像撮影のコツとか、技術的なことは何も教えてくれない。普段でも寡黙な先生は、撮影に入ると一段と無口になる。何か質問すると「愚問だ」で終わり。弟子は先を読んで行動し、すべて見て盗む以外にないのである。

 土門撮影は長いといわれている。写すべき仏像をまず拝観し、次にジッと見て、最後に一番長い時間をかけて凝視する。そこで写すべきカットが決まる。「仏像写真イコール報道写真」が持論である。被写体に対する「シャッター以前」が長いのであって、撮影に入ると早い。全身から少しずつアップヘと近づいていき、次から次へ料理してゆく。土門美学の頂点ともいえるクローズアップ、その最後の一枚に向かっていくのに躊躇はない。自然光による仏像撮影 仏像における土門写真の撮影法に自然光による撮影がある。一般的に「土門カラー」と呼ばれる写真である。仏像の安置されている雰囲気を損なわないように、また見たままの感動を大切にするために、自然光のままの撮影方法である。お堂の中は真っ暗に近い。わずかな光が連子窓から差し込むだけである。このような状況でも、深いピントがほしいのでギリギリまで放り込む。当然、適正露光を与えるには長時間露光が必要となる。一時間ぐらいシャッターを開け放しの時もある。露出計では計りようがない。勘である。なお仏像とレンズの問に介在物があると出来上がった写真が濁ると言ってフィルターによる色補正など一切なしである。そのため、フィルムは長時間露光で相反則不軌(そうはんそこふき)を起こし、カラーバランスは崩れる。その結果、緑昧を帯びた発色で味わい深い作品となり、独特の「土門カラー」と呼ばれる写真が生まれるのである。何といっても「勘」撮影である。成功率は三割ぐらい。撮影で熱中すると、昼食も忘れて撮り続ける。古寺巡礼の撮影は昼食抜きが多かった。二十代前半の食欲旺盛な年頃、かなり耐えたものである。薄暮、昼食抜きの長時間露光の撮影をしていた時、見るに見かねた側近の人がおにぎりを差し入れてくれた。露光中することもないので、ありがたく二個頂きシャッターを閉じた。現像が上がってきた結果、見事にオーバーの写真となっていた。「おにぎり一個にしておけばよかったものを、二個も喰ったからだ」と  こっぴどく怒られたものである。

■ライティングによる仏像撮影

 仏像が安置されているところには電気が通じていない。現在のようにストロボのない時代ということもあるが、閃光電球というフラッシュバルブを使用してのライティングである。仏像は仏師が造った彫刻である。土門写真は仏像彫刻をさらに彫刻することによって映像化する。「さらに彫刻化する写真」とは、閃光電球によるライティングに秘密がある。仏像を長い時間凝視して自分なりに消化した後、本番撮影に入る。助手が懐中電灯で仏像を照らし、先生がファインダーで構図を決める。次にライティングである。長い竹竿の先に直径十五センチほどの昔の電気スタンドの丸い笠を付け(笠のなかには閃光電球が一つ付いている)、竹竿の尻の方を先生自ら持って、トップライト、サイドライト、フロントライトと順々に仏像のまわりを一発ずつ発光していくのである。このとき、十五センチの笠より発する光は面とはならず、線となって仏像の一部を直撃する。何発も続けて、あちこちから発する点で一枚の写真が出来上がる。要するに、一点一点の光を仏像に掘り刻むライティングなのである。

 カメラの方は助手が操作する。レンズはオープンバルブで一発たくごとにシャッターを閉じる。たき終わった球は助手が素早く新しい球と取り換える。次のライティング設定ができると、先生の「オウゥ」という気合とともにシャッターを開ける。フラッシュをたく、と同時にシャッターを閉じる。この繰り返しを、先生の「よしー」という声が出るまで続けられ、一枚の写真が生まれるのである。一枚の写真を創り出すのに、等身大の仏像一体で八発から十発の閃光電球が使われる。撮影中は振動が許されないので皆シーンとして続けられる。あうんの呼吸だけの大変な緊張感である。ライティングは先生一人で、竹竿を持って走り回り、助手がやることは絶対にない。このライティング方法により、独特の奥行きのある立体造形としての仏像写真が生み出される。それ故に、いま流行のストロボによる発光体では、光が面となって仏像に照らされてしまい、土門拳の仏像写真は成立しないのである。土門独自な撮影法により日本人のメンタリティを秘めた土門拳の仏像写真は永久に生き続けるのである。鬼がつく「いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真が出来る」と本人が言っているように、失敗を成功に結び付けることを、土門先生は「鬼が手伝った写真」とか「鬼がついた」とよく口にしていた。事実、私が助手をして失敗をした結果、見事な作品になった例もある。聖林寺十一面観音立像がそれである。

 カラー写真の場合、ブルーのカラー撮影用閃光電球(フラッシュバルブ)22Bを使用するのであるが、この撮影の時は、うっかり22のモノクロ用閃光電球だけを持っていってしまった。京都伏見の常宿まで22Bを取りに往復していたら、それだけで一日が終わってしまった。

 窮余の一策として考えついたのは、モノクロ用22の白色電球にブルーのマジックインキを塗布することであった。このとき同行した助手は五人、うち三人がマジックインキを電球一面に、手の平で塗りたくる作業についた。私の、ミスで大変迷惑をかけてしまった。しかし、その甲斐があったのである。

 結果オーライどころか、塗りムラがよかったのか、ロングもアップも全部パーフェクトに、いままでにない素晴らしい発色の原板が出来上がったのである。先生も上機嫌であった。まさに「鬼がついた」のである。(ふじもり たけし 写真家・土門拳内弟子)

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