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木村伊兵衛
木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 – 1974年5月31日)は戦前・戦後を通じて活躍した
日本を代表する著名な写真家の一人。
報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、
土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。
■作風・人物像
ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ、和製ブレッソンと言われた。ブレッソンは写真に撮られることを極端に嫌ったが、木村はパリでそのブレッソンを居合い抜きのように一瞬のもとに撮ってしまった。
ポートレートにおいても、人物そのものを映し出し、自然なしぐさをも的確に撮っている。首相在任当時の池田勇人を撮る際、弟子に撮らせて自分がなかなか撮らず、池田夫人が池田の衣紋を直そうとした瞬間にさっと手持ちのライカで撮った、という逸話が残っている。
女優の高峰秀子は著書にて、「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している。
土門拳が深い被写界深度で女性のシワやシミなどもはっきりと写し出すため嫌われることが多かったのに対し、木村は浅い被写界深度でソフトに撮り、女性ポートレートの名手とうたわれた。
カメラにも精通しており、写真雑誌の対談にて江戸っ子らしくベランメェ口調でカメラや写真を語り、レンズに関しては「あらゆるレンズには必ず出っぱっているところと引っ込んでいるところがあり、平坦性が悪くピント位置が定まらない。ピント位置が少しでも移動すると中心が良くなったり、外側が良くなったりする。レンズは立体物を撮るのだから平面チャートで数値を問うだけではわかり得るものではない」という「デッコマ・ヒッコマ論」を説いたことでも知られる。晩年は「アサヒカメラ」誌(朝日新聞社)の「ニューフェース診断室」の実写担当ドクターも務めた。
色々なカメラを使ったが一番愛用したのはライカであり、ライカを愛用した写真家として筆頭に上げられることが多い。「ライカの神様」と呼ばれることもあった。ニコンFの発表会に招かれての挨拶でも「私はライカがあればそれで充分です」と言って笑ったという。
■日本の街角 戦前~戦中 1933~44
■1940~41
■1945~47
■1948~53
■1954~55
■1956~57
■1964
■1971
■戦前の顔
■戦後の顔
■新・人国記・職人
■旅の記憶
■秋田 農村に体当たり
一九五二年、秋田県稔合美術展の写真審査に赴いた木村を、審査の後、秋田在住の写真愛好家たちが県内の象潟や横手、湯沢の農村に案内した。農村は田植えの季節で女性たちが激しく働いていた。そんな姿を目のあたりにして感動した木村は、農民の真の姿を捉えたい、ここには日本社会の縮図がある、自分が探し求めていたテーマがあると直感し、秋田農村の撮影行脚が始まった。その時木村は五十一歳、写真人生として脂の乗り切った時であった。直接尋ねてはいないが、この時の木村の脳裏には一九三六年に撮影した出世作「沖縄」のイメージが重なっていたのではなかったかと私は推察すノる。
一九五二年から五四年の間に五回通い、35ミリフィルムで百二十本撮影している。その中には後に名作といわれる「板塀」「青年」、渡し場の「冬」など十数点が含まれている。いかに燃えて撮ったかが推察できる。しかし、一回目に撮った田植えの写真は単なる風俗写真にすぎない、もっと農民の真の姿をつかみたい。二回酢は書件の刈入れを写すが、これも働いている農民の表面しか撮れていない。生活の奥まで突っ込んでゆくことにより、はじめて農民の生活が写し出せる、その意味では失敗ではある。三年目でようやく真実をつかめるようになったと木村伊兵衛自身が述べている。それは本当に思つたことなのか、下町っ子のテレからきた言葉なのか。私は後者ではないかと思っている。
木村は秋田の撮影にあたって「私は報道写真家として『自分の自由な意思』でこのテーマを選んだ」と述べている。また撮影理由として、封建的な世代とそれにあき足らない若い人々によって作られていく世代がこれからどういう農村を築くか、その有様を訴えたい、自分自身を体当たりさせるのだと力説している。 そして一九五二年から七一年までの二十年間に秋田を二十一回訪ね、三百十九本ものフィルムを撮影している。木村伊兵衛ほ本来の報道写真家のテーマとして秋田の農村に燃え、通い続けたのだ。いや、
それ以上に秋田の人々の人情に惚れていたのである
。
その影には秋田で活躍していた写真家たちの助力があったことは見逃せない。
地元民の彼らの案内により農民の生活の中に溶け込むことができ、また彼らの真の生活、嫁、姑、主たちのおりなす人間ドラマまでを捉えることができたのである。秋田に出かける時の木村伊兵衛は嬉々としていたことをいょも記憶している。
(
田沼武能 写真家
)
■東京・昔日・東京の下町・自宅から
■報道写真家への道
一九三二年五月に創刊された写真雑誌『光画』(衆楽社、のちに光画社刊)は、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛の三人を同人としてスタートし、第二号からは伊奈信男が加わる。伊奈信男が創刊号に発表した論文「写真に帰れ」は、二〇年代後半にドイツ、フランス、ロシアなどで勃興した新しい写真に対する考え方をベースとしながら独自のヴィジョンを示した、日本における近代写真のマニフェストといわれるものである。
現代の如き大工業的、技術的様相を持つ社会に於て、写真こそは、最もこの社会生活と自然とを記録し、報道し、解釈し、批判するに適した芸術である。(中略)彼が社会と遊離したときこそ、写真芸術は、「現代の年代記作者」たる光輝ある資格を 棄てゝ再び無意味なる唯美的傾向を採り始めて、他の芸術と同様なる衰滅の道をたどるであろう。吾々が写真芸術によつて「現代」に最高の表現を与へるためには「カメラを持つ人」は、何よりもまづ最も高き意味の社会的人間たらねばならぬのである。(伊奈信男「写真に帰れ」より)
「写真に帰れ」の最後はこう結ばれている。ここでいう「社会的人間」とは、単に個人の意識の問題ではなく、社会のなかで何をどう撮りどう伝えるかという実践の課題として語られている。その課題をになう存在がプロフェッショナルとしての写真家であり、その形式としての報道写真が、伊奈が指し示そうとした日本の近代写真の方途であった。そして伊奈にとって、彼の理念を実現する実践者とは木村伊兵衛に他ならなかった。
『光画』に発表した木村伊兵衛の作品は、なるほど「現代の年代記作者」として、都市の生活断面を見事に切りとり、時代の息づかい、生活の息づかいを見る者に伝えてやまない。また『光画』 の終刊号(一九三三年十二月号)に掲載されたライカによる文芸家のポートレートは、それまでの肖像写真の手法では写しとれなかった近代的な個人の生き生きとした姿を示すものであった。
この作品によって構成された「ライカによる文芸家肖像写真展」は、一九三三年八月、ドイツから帰国した
報道写真家名取洋之助
を中心にして、木村、伊奈、岡田桑三、原弘らによって結成された「日本工房」の第一回展として企画主催されたものである。この写真展は、文人たちの普段着の姿を写しとめたものとして好評を博し、単に写真界という枠を超えて、幅広い評価を獲得した。と同時に、旧来の営業写真的な技巧主義の枠のなかでしか考えられなかったポートレートに新しい形式を与えたのであった。
そして翌三四年に、同じ「日本工房」の主催で名取と共に「報道写真展」を開催する‥ととなる。‥の写真展は「ルポルターゲ・フォト」を「報道写真」という言葉に初めて対応させたという意味でも、写真史上注目されるものであった。
だがその直後、「日本工房」は分裂、名取を残して伊奈、原、デザイナー疋田三郎、そして木村は、三四年五月、「中央工房」を結成する。さらに八月、伊奈、原に林謙一、光吉夏弥、岡田、渡辺義雄らを加えて、海外へ向けての写真配信組織として「国際報道写真協会」を結成し、木村は自ら会長となった。一方、名取は第二次「日本工房」を再建し、日本の文化を海外に紹介する目的でグラフ雑誌『NIPPON』 (日本工房、一九三四年十月)を創刊する。それは三四年四月に結成された「国際文化振興会」が掲げた、民間外交戦略にシンクロさせようと寸ノるものであると同時に、「報道写真」実践の場を確立しょうとするものでもあった。
それに対して木村らの「国際報道写真協会」は、直接にメディアをつくる:とはしなかったが、AP通信社やPIX通信社などへの海外写真配信と対外観光宣伝グラフ雑誌『TRAくELHNJAPAN』(鉄道省国際観光局、一九三五年五月創刊、光吉夏弥編集)や「国際文化振興会」の写真ライブラリーヘの写真提供など、独自のネットワークを駆使して「報道写真」を実践してゆくのであった。
その中で木村は最初の写真集『lAPANESE SCHOOL LIFE THEOUGH THE CAMERA』(国際文化振興会、一九三七年)を刊行する。このスパイラル綴りのモダンな装丁の写真集は三七年八月に開催された「第七回世界教育会議」(東京・一橋教育会館)を記念して出版されたものである。続いて、同年十一月に開催された「日本を知らせる写真展」(国際報道写真協会主催、外務省文化事業部後援)をもとにして『JAPAN THROUGH A LEICA』(三省堂、一九三八年)を刊行した。
これらはいうまでもなく日本の文化を外国にわかりやすく紹介するという目的を持つものである。その目的に沿って、極めて具体的な内容と編集のベクトルを持っているにもかかわらず、木村の写真には特別に視覚的な強調を見ることはできない。写真のレイアウトも、一枚一枚の写真をストレートに見せることだけを心がけているようである。言い方を変えれは、報道写真、それも対外宣伝という目的意識から当然求められるシンプルで強いメッセージ性が、ここにはうかがわれない。一枚の写真のなかに実に多くのことが写し込まれ、現実のディテールの豊かさが写真的に再現されているばかりのように思えるのだ。
だがいずれにせよ、日本の「報道写真」の高みが、日本を外国に紹介するという枠組みの中で実践されていったという点ほ重要なところであろう。そして一九三七年七月七日、慮溝橋における日中両軍の衝突にょって、日本は一挙に戦争という状況にのみこまれてゆく。木村伊兵衛や名取洋之助らが実践していた「報道写真」は、例外であるどころか、文字通りの国家宣伝の中心的なメディアとして位置づけられたのであった。
木村は戦争という状況のなかでのプロフェッショナルである「報道写真家」として活発に写真を撮り、発表していった。そしてその延長線上で、対外戦争宣伝グラフ雑誌『FRONT』(東方社、一九四二年創刊)に、写真部長として関わってゆくのである。東方社は、四一年四月、陸軍参謀本部の意向を受けた岡田桑三によって設立され、原弘、太田英茂、中島健蔵らなど、木村がライカを持つことになってから関わってきた重要人物が結集した組織で上のった。
『FRONT』は、多色グラビア印刷による大判のグラフ雑誌で、戦時中としては極めて豪華な雑誌であり、創刊号は16カ国語版で刊行されている。原弘による、ロシア構成主義を彷彿とさせるダイナミックなフォトモンタージュのグラフ構成は、三〇年代に達成された日本の視覚伝達デザインの一大成果として、近年、国際的にも注目されている。それは河野鷹思、亀倉雄策らのデザイン、土門拳、藤本四人らをスタッフとした『NIPPON』と双璧をなすものであろう。
この『FRONT』で木村伊兵衛の写真は、原弘にょって自在に切りきざまれて駆使され、明快なメッセージを発してゆく。一枚の写真がもつ豊かなディテールが素材として提供されたとき、優れたデザイナーの技術にとってそれは豊かな可能性としてあったに違いない。原と木村のコンビは、「戦争がどうなろうと技術は技術である」として、写真の可能性を追求していったのである。と同時に、満州に取材した写真集『王道楽土』(アルス、一九些二年)が、その主題にもかかわらず、メッセージ性よりは大陸の人々の生活風景が豊かなディテールをもって措かれていることを見過ごしてはならない。この編集を行ったのも原なのである。
一九四五(昭和二十)年四月、
空襲で日暮里の自宅が灰燼(かいじん)に帰し、木村は戦前に撮影したネガ、プリントのほとんどを失う。
そして七月には東方社を自主解散して八月十五日の終戦を迎えるのであった。
■古書市の棚の木村伊兵衛
北井一夫
写真はカメラの機械性とレンズの光学性、フィルム・印画紙・薬品などの化学、そして現実を新しい価値観でリアルに表現する芸術性などが複雑にからみ合った芸術である。しかしこれらが三拍子そろってすぐれた写真家はほとんどいない。カメラとレンズが好きでたくさん持っていて何でもよく知っているのだが、撮った写真はいただけないという人もいる。あるいは写真は良くてもカメラやレンズにまったく無知という写真家も多く、三拍子そろった写真家はなかなかいないものだ。そういう中でただ一人木村伊兵衛だけはどの部分をとり上げても超一流の写真家であった。
ライカから新しいレンズが売り出されると、当時販売店だったシュミット商会は、最初に木村に渡してレンズテストをしてもらっていた。木村のテスト撮影の対象はいつも決まっていた。昔の銀座四丁目のビルの屋上にあった森永キャラメルの球体広告塔と旧朝日新聞社前から日比谷方面へのびる直線道路を撮影する。あとは近接撮影での立体物と山手線鷺谷駅ホームを横から撮影した。現実を写すのに平面なんてありませんよ、ということだろうか平面のテスト撮りはしなかった。ということで木村のフィルムには森永キャラメルや鷺谷駅がやたらいっぱい出てくるのである。
「デッコマ、ヒッコマのあるレンズでなきや立体を写してもダメですよ」、「平面チャートでいくらレンズテストしても世の中に平面のものなんてありやしませんから」。木村がレンズについて語る時によく言っていた言葉だ。
木村のフィルム現像はほとんど撹拌しない静止現像で、肉のりの薄いネガだがエッジ効果で明瞭なネガになっている。引き伸ばしでやるおおい焼き。焼き込みは、神の手と誰かが言ったほどに絶妙であった。暗室での木村はていねいなフィルム静止現像を心がけていた。現像液の撹拌をカチャカチャとやらずに、ゆっくりと液を移動するだけの方法で、薄い乳剤面でありながらエッジ効果でプリントがやりやすくなるのである。この十年間、私も生前の木村から教えてもらったやり方でフィルム現像をしているが、見た目でもすぐに分かるほどグレーのグラデーションが豊かになった。
しかし、そこまで情熱を注ぎ込んで作り上げたプリントでも、
木村は写真をオリジナルプリントとして芸術作品のように売り買いすることに反対であった。
写真は印刷物になってはじめて作品になるのであって、プリントは途中の工程にすぎない。雑誌や写真集などの印刷物で安価に流通するものが写真だと、木村は自身の写真を考えていた。木村は、自身のプリントはグラビア印刷のための製版原稿であって最終作品ではないと言っていた。そのことから木村が残した写真をオリジナルプリント作品ということは出来ないかも知れないが、それにしても見事なオリジナルプリントである。一九七〇年頃までの雑誌の写真印刷は、原稿はネガ出しで製版の参考にプリントを付けて提出していた。ということもあって印刷所での使用後にプリントを紛失したり、今では考えられないことだがネガフィルムもどこかへ行って分からないことが多くあった。
木村は江戸っ子のせいか、
写真家たちが真似したくても出来ないほどのオリジナルプリントを後世に残すことを恥じるという気質があって、自宅の庭で山のように積み上げたプリント印画紙を誰にも知らせることなく久子夫人と二人で全て焼却してしまった
。木村伊兵衛最晩年のことであった。その翌日だが 私はそのことを何も知らずに、編集構成が仕上がった写真集『パリ』の校正刷りを持って訪問すると「ああ、せいせいしましたよ」と笑っている木村の顔があった。私もただ笑うしかなかった。 木村のオリジナルプリントは大変貴重なものである。現存するものは百点あるかないかというほどである。神田神保町の古書市の棚で小宮山書店の小宮山慶太と柳澤秋桜の二人が発掘した木村の四十点のプリントは、写真界の重大ニュースであり、木村伊兵衛生誕百十年にふさわしい快挙である。
木村の時代の出版業界は活発で、雑誌が若い写真家を次々に生み出していた。いま写真史に残る写真家たちはその時代の雑誌で活躍していたのである。しかし今の時代の若い写真家たちに雑誌は開かれていない。
雑誌編集の主張は後退して、企画ページは広告ページを盛り上げるための準広告ページに成り下がっている
。雑誌掲載をあきらめた若い写真家たちは、自主ギャラリーを運営して自分たちのオリジナルプリントを発表作品として販売するようになった。
私事ながら、写真を仕事にして四十五年になるが、一九八五年までの写真売り上げ収入の八十パーセントは雑誌掲載と広告撮影の原稿料収入であった。その後の八〇年代末頃から雑誌広告収入はどんどん減少して、今はオリジナルプリントの売り上げ収入が八十パーセントを越している。写真家は雑誌の原稿料収入では生活出来なくなっているのだ。
天国にいる木村がこの現実を見たら何と思うだろうか。それでも写真は印刷物ですよと言うだろうか。(きたい・かずお 写真家)
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