笹本 恒子

 笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 – )は、日本の写真家。一般に「女性報道写真家第一号」とされる[1]。肖像写真も得意とする。従来、1918年(9月1日)生まれとする文献があったが(例えば、下記「参考文献」欄記載の「日本写真家事典」)、2011年に刊行された「好奇心ガール、いま97歳」(下記「著書」を参照)により1914年生まれであることが明確にされた。

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来歴・人物

 東京品川区出身。高等専門学校の家政科に通うも、絵の勉強に専念したかったため中退。その後、絵の研究所(父親には内緒で)および洋裁学校に通った。戦前、女性報道写真家がいなかった頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵のアルバイト(社会面のカット)として活躍後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(笹本が子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、(1939年に仮入社し、母親の病気を理由とする10か月の休職ののち、1940年(昭和15年)4月に)財団法人・写真協会(新聞記者・写真家の林謙一(1906年-)を中心に設立された内閣情報部による国策機関。写真週報の編集なども担当)に入り、女性報道写真家第1号となる。「いろいろな賞状の授与式や除幕式などの催事、海外使節団の動向、著名人や文化人の活動などを海外に紹介する」仕事を行った。国内で起こった出来事を世界に配信したが、1941年のはじめに、兄からの厳しい反対および病気(脚気)のため同協会を退職する。

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 1941年9月に結婚。終戦後は離婚、写真家として復帰し、国内で起こった話題・事件の女性たちを撮り、数多くのグラフ雑誌に掲載したが、活動の場であった写真グラフ誌の多くが廃刊されてしまい活動を休止した。その活動は、編年的には以下のとおり。終戦後の1945年には千葉新聞に勤務。1946年には東京で婦人民主新聞の嘱託カメラマンとなる。1947年にはフリーとなり、フォトジャーナリストとして活動を継続。1950年には日本写真家協会の創立会員となる(2011年現在名誉会員)。約20年間の沈黙を破り、1985年に71歳で国内を代表する著名な女性有名人を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で再び写真家として復帰した。2001年には、第16回ダイヤモンドレディー賞受賞。2011年には吉川英治文化賞を受賞し、現役として活躍している。