映画の発明

ソーマトロープ フィトン、パリス(1825年)

 円盤の表と裏に異なる絵を描いておき、両端に取り付けてあるひもや輪ゴムを軸にしてくるくる回転させると、視覚の残像効果で 2つの絵が重なり合って1つに見えてくるというもの。たとえば、表に鳥かごを描き、裏には上下を逆さまにして今度は鳥だけを描いておく。これを回転させる と、鳥がかごの中にいるように見える。1825年、イギリスの地質学者W.H.フィトンとイギリスの医師J.A.パリスによって発明された。ソーマトロー プは2つの画像を高速に入れ替えながら提示するわけだが、この装置において重要なのは、画像を入れ替える過程で絵が見えない時間があるということ。円盤の 側面が目の正面に来たときが、その闇の時間に相当する。この闇の時間に、前の絵が残像として残り、次の瞬間に別の絵が入りこんでくるので、結果的に2つの像が重なって見えるのである。なお、ソーマトロープの語源は、ギリシア語の「thauma(驚き)」と「tropos(回転)」である。

フェナキスティスコープ 円盤部分プラトー(1832年)

 映画やアニメーションの出発点ともいうべき重要な発明である。ソーマトロープは画像が2コマしかない ので、2つの像が重なって見えるだけで、絵が動くような効果は得られないが、画像のコマ数を増やすことで、絵が動いているような錯覚を作り出すのがベル ギーの数学者ジョゼフ・プラトーが1832年に考案したフェナキスティスコープである。少しずつ動作の違う絵を10コマほど円盤の周囲に等間隔に描いてお き、絵の内側に、絵のコマ数と同じ数のスリットをあけておく(このイラストでは絵の内側にスリットがあるが、絵と絵の間にスリットをあけてもかまわな い)。円盤の反対側は真っ黒に塗っておく。この円盤の、絵が描いてある面を鏡に向けて回転させ、真っ黒に塗った面の側から鏡に映った像をスリットごしに眺 めると、あたかも絵が動いているように(このイラストの図柄の場合だと、馬が走っているように)見える。絵を回転させてそのまま眺めても、流れたように見 えるだけで、絵が動いているようには見えない。フェナキスティスコープでは、スリットが重要な働きをしている。スリットがあることで、私たちにはスリット が目の前を通過する瞬間しか画像が見えない。スリットの幅が狭いため、ほとんど瞬間的にしか見えない画像は静止画に近いものである。

 つまり、スリットが、動きのある世界から瞬間的な静止画を切り出す高速シャッターの役割を果たしている。スリットの役割はこれだけではない。スリットから次のスリットが目の前に来るまでの間隔が、画像の見えない闇の時間を作り出している。次の静止画が提示されるまでの、この闇の時間に残像効果が 作用し、2つの画像が比較的類似しているために、その間の動きを埋めるような錯覚が生まれ、結果として絵が動いているように見えるというわけである。円盤 を逆回転させると、人が後ろに走るなど現実にはあり得ない曲芸さえ見られるわけで、当時は熱狂的な人気を博した。フェナキスティスコープは日本にも伝わっ て、驚き盤と呼ばれている。なお、フェナキスティスコープの語源は、ギリシア語の「phenax(人を欺く者)」と「scopein(見る)」である。

ヘリオシネグラフ1 

 フェナキスティスコープの改良版として現れたもの。絵を描いた円盤とスリットをあけた円盤を別々に用意しておく。この2枚 の円盤を互いに反対方向に同じ速度で回転させながら、スリットのあけてある円盤の外側(やはり真っ黒に塗っておく)から対面する円盤の絵を眺めることに よって、鏡に映したときと同じように、動く絵を観察することができるのである。鏡が不要なので見る場所を選ばず、人々にも好評だったようである。文献に は、2枚の円盤を反対方向に回転させたとあるが、絵が1コマ移動する間にスリットも1つ移動するというふうに、両者の動きが同期すればよいわけで、従っ て、2枚の円盤の回転速度を同じに保つ必要はあるが、回転方向は同じでも全く問題はなく、装置自体もそのほうがはるかに作りやすいのではないかと思われ る。

ゾートロープ1 ホーナー(1834年)

1834年にイギリスの数学者ウィリアム・ジョージ・ホーナーによって発明された改良版。フェナキスティスコープにおいて円周上に配置されていた絵やス リットを直線上に並びかえ、これをくるっと巻くことによって円筒にしようというアイデアである。スリットのあけてある円筒の内側に、アニメーションの元に なる絵の帯を丸めてセットし、円筒を回転させながら、円筒の外側(やはり真っ黒に塗っておく)からスリットごしに眺めると、動く絵が楽しめるというわけ だ。ゾートロープはまわりから覗きこむ方式なので、一度に何人もの人が同時に楽しめるし、絵も帯状になっているので交換も容易になった(原理的には絵と絵 の間にスリットをあけてもかまわないが、このイラストのような構造にしておくほうが、絵の交換が楽である)。また、絵が帯状になって、映画のフィルムに一 歩近づいたとも言える。もちろん、1回転すれば同じ絵に戻ってしまうので、ダンス、曲芸、ピエレットなど周期的に反復可能な単純な動きを再現するにすぎな かったが、広く普及した。絵だけでなく、立体的な人形を並べて動かすようなことも試みられたようである。

 なお、ゾートロープ(ゾーアトロープ、ゾーイト ロープなどとも呼ばれ、語源はギリシア語の「zoon(動物)」と「tropos(回転)」)は、後に商品化されたときに付けられた名称で、発明者のホー ナー自身は、古代クレタの工芸家ダイダロスが人間や動物の像を、あたかも動いているように作り上げたという伝説にちなんで、ディーダリウムと命名してい る。

キノーラ1 

より手軽にアニメーションを楽しめるものに、パラパラマンガ(フリップブック)がある。要するに、少しずつ動作の違う絵を本のようにとじておいて、パラパラとめくると絵が動いて見えるという単純なものである。画像の切り替え時に、スリットが作り出すような完全な闇が得られないの で、フェナキスティスコープやゾートロープに比べれば動きがぎこちないが、手軽に試せることもあって、残像現象やアニメーションの説明になると、いまだに 引き合いに出されることが多い。かつては、ページをハンドルを回してめくり、絵が動く部分をルーペで覗いて見る、キノーラと呼ばれる大仕掛けな装置も作ら れた。

投影式フェナキスティスコープ(リンク画像はありません)ウハティウス(1853年)

ヘリオシネグラフの絵の描かれた円盤を、ガラス板に絵を描いた円盤に取り替え、その背後から強い光線をあてることで、アニメーションをスクリーン上に映し 出すように工夫したもの。光源の目の前にきた絵は、前にあるスリットと、さらにその前に置かれた1枚のレンズを通してスクリーンに投影される。フェナキスティスコープと幻燈機の技術を統合したものだが、17世紀以来、幾つかの幻燈機は、画像を素早く入れ替えるために、ガラス製の円盤に環状に配置された絵をすでに利用してきていたので(「幻燈機、ファンタスマゴリア」の項を参照)、このようなアイデアが生まれるのは自然の成り行きとも言える。フェナキスティスコープのスリットは幅が狭いので、光が出ている時間よりも、画像切り替えのための闇の時間のほうが長く、結果として、小さくて暗い映像を得るのがせいぜいだったが、それでも、動画をスクリーン上に投影する装置としては世界初で、オーストリアのフランツ・フォン・ウハティウスが1853年に発明したものである。ゾージャイロスコープの名で呼ばれることもある。

プラクシノスコープレイノー(1876年)

円筒の内側の壁にそって絵の帯がはめこまれている点はゾートロープと似ているが、プラクシノスコープにはゾートロープにあったようなスリットが存在しな い。スリットを使用しない代わりに、中心部の円筒に、絵と向き合う格好で、ぐるりと鏡が張りつけられている。たとえば12コマの絵から成るプラクシノス コープでは、回転軸の部分が正12角柱の鏡の面からできていて、1枚1枚の鏡が外側を取り囲む絵の1コマ1コマと平行になるように配置されている。絵と鏡 は同時に回転するようになっていて、自分にいちばん近い位置にある鏡を見つめながら円筒を回転させると、動く絵が楽しめるというわけだ。

 角柱型に配置され た鏡がスリットと同じ役割を果たしているのはお分かりだろうか。鏡の角度の関係で、画像が見えるの は、鏡がちょうど自分の目の前、つまり自分と平行になる位置に来た瞬間だけである。1枚目の鏡が目の前を通過してから、次の鏡が再び自分と平行になる位置 に来るまでの間は、鏡に絵が映らないので、静止画と静止画の間の闇の時間を提供することになる。プ ラクシノスコープは、自然科学の公開講座を担当していたフランスのエミール・レイノーが、フェナキスティスコープからヒントを得て1876年に製作したも のだが(1877年に特許を取得)、デッサンの才能とともに機械技師の才能にも恵まれていたレイノーは、これを機に、現代の映画やアニメーションにつなが る本格的な発明品を次々に生み出していくことになる。なお、この写真にあるような照明は、画像がより明るくはっきり見えるように、後の改良で加えられたも ので、初期のプラクシノスコープはこのような照明を備えていない。

プラクシノスコープ劇場1 レイノー(1879年)

プラクシノスコープに覗き窓を付け、動画とは別に、紙に描いた背景画を用意することで、舞台仕立てにしたもの。背景画(舞台装置)はもちろん取り替え可能 である。この時点では、まだ学習ノートほどの大きさのミニチュア劇場にすぎなかったが、これが後に、テアトル・オプティックと呼ばれる本格的な見世物に発 展していくことになる。

投影式プラクシノスコープ1 

レイノー(1880年)
プラクシノスコープの映像をスクリーンに映し出すように改良したもので、投影のアイデアは投影式フェナキスティスコープと類似している。すなわち、絵の帯 を、絵を描いたガラス板を布製のリボンでつなぎ合わせたものに取り替え、その背後から強力な光線をあててやる。絵の帯のすぐ下に、傾いて設置されている ボックス状のものが、光源を納めてある部分である。光源の目の前に来たガラス板を透過した光は、その前にある鏡(ガラス板と平行な位置にある鏡)で反射さ れ、光源の真上に設置されているレンズを通してスクリーンに投影される。フェナキスティスコープ以来、この種の装置では、絵の描かれた円盤や絵の帯を一定の速度で動かしていくた め、静止画が見えている時間はほんの一瞬しかなく、静止画から次の静止画が見えるまでの長い時間は、闇に閉ざされている。このようなものをスクリーンに投 影しても、暗くて、ちらついたような映像しか得られないはずであるが、スリットを使用しないプラクシノスコープでは連続する採光のおかげで、画面のちらつ きもほとんどなく、良好な動画再生を実現することができた。加えて、良好な画面作りに一役買っていたと思われるのが、動画再生用とは別に用意されているも う1台のプロジェクター(幻燈機)である。動画用の光源とレンズの奥に見えている大きな箱状のものがそうである。

 「プラクシノスコープ劇場」では紙に描い た背景画を用いていたが、「投影式プラクシノスコープ」では背景の静止画も幻燈で投影する方式を導入している。動きのある人物などと背景画を重ね合わせて投影するために、動画用の絵のほうは、黒地に彩色された人物などが描いてある。動画でこのような重ね合わせを試みたのはレイノーが最初であるが、2台の幻燈機の画像をオーバーラップさせる際に一方の背景を黒地にしておくテクニックは、幽霊や骸骨をスクリーン上で自由に動かして見せたファンタスマゴリア(1798年以降)の時代からすでに使われていたものである(ファンタスマゴリアについては「幻燈機、ファンタスマゴリア」の項を参照)。

テアトル・オプティック ドラム部分レイノー(1888年)

フェナキスティスコープ以来、円盤や円筒では絵のコマ数に限度があるため、単純な動きしか再現できないというのが最大の問題点であった。ところが、投影式 プラクシノスコープをさらに発展させて完成したテアトル・オプティックでは、自転車のチェーンからヒントを得て、リールに巻かれたフィルム(絵の帯)を動 かすシステムを開発し、ストーリー性のある15分ほどの見世物を可能にしている。1888年10月、 レイノーは招待した幾人かの友人の前で処女作「うまい一杯のビール」の試写会を行ない(1889年に特許を取得)、1892年10月から1900年まで、 パリのグレヴァン博物館で「哀れなピエロ」「脱衣小屋の周りで」など多数の作品を上映し続けた。

 この間の観客動員数は50万人と言われている(イラストは 「哀れなピエロ」の上映風景。観客はスクリーンの裏側から眺める)。ただ、700コマほどの絵から 成る「うまい一杯のビール」が12~15分ほどの見世物を提供していたというから、1秒あたりのコマ数はさほど多くない計算になる。もっとも、映写技師と してもすぐれた才能を発揮したレイノーは、背景画像とオーバーラップさせながら、フィルムの同一部分を繰り返して再生したり、ストップモーションや逆転再 生を行なうなどテアトル・オプティックを自由自在に操ることができたので、こうした特殊再生部分を除く通常の映写速度は毎秒2~3コマ程度と推定されてい る。

 このような低速でも、良好な動画再生が実現できたのは、すでに述べたように、元々暗くなりにくいプラクシノスコープの構造による。劇場の大画面に光を 誘導するために2枚の補助鏡が加えられているが、基本的な光の流れは「投影式プラクシノスコープ」と同じである。動画再生用の光源はBで、ドラムの外周に 巻き付いているフィルムを透過した後、正面の鏡(中央のドラム)で反射される。「投影式プラクシノスコープ」ではこの反射光を直接レンズに通してスクリー ンに投影していたが、テアトル・オプティックでは、レンズCの下部に取り付けられた補助鏡で反射させてからレンズCに導き(レンズで像を拡大する)、さら にもう1枚の補助鏡Mを介してスクリーンEに投影されるようになっている。Dは、背景画用のもう1台のプロジェクターである。

テアトル・オプティックのフィルムを動かす仕組み

 「投影式プラクシノスコープ」では、フィルム(絵の帯)として、ガラス板を布製のリボンでつなぎ合わせたものを用いていた が、テアトル・オプティックでは、丈夫な布でできた幅広いリボンの中に、クリスタロイドという特殊なゼラチン板が等間隔にはめこまれているものを用いてい る。この透明なゼラチン板の上に、1コマごとの画像(=黒地に彩色された人物など)が描かれている。プラクシノスコープでは、1コマ1コマの絵が中央部の鏡と正確に平行を保って向き合っている必要があるわけだが、テアトル・オプティックでは、このような平行性を保ちながら、ドラムの外周に巻き付いているフィルムを1コマずつ送り出していく高度なメカニズムが 要求される。

 そのため、フィルムのほうには、コマとコマの間の布の部分に、フィルム送りのためのガイド穴を設け、ドラムの外周部分には、ガイド穴と同じ間 隔で小さな突起が突き出ている。リールを回してフィルムを動かすと、フィルムのガイド穴がドラムの突起にかみ合い、ちょうど自転車のチェーンがギアを動か すように、ドラムを回転させる仕組みになっている。このようなガイド穴は、それが開けられている位置などを別にすれば、現在のフィルムにも採用されている 重要な技術で、パーフォレーションと呼ばれている。映画フィルムの発明者というと、すぐにエジソンの名が浮かぶが、パーフォレーションのついた柔軟な帯を映写に利用した最初の人物はレイノーで あることを強調しておきたい。ただ、レイノーのフィルムは実写(写真)ではなく、すべてレイノー自身の手によって描かれたものである。レイノーは現実をあ りのままに再現する写真を好んでいなかった。そのため、まだカラー写真のなかった時代に、レイノーはカラーのアニメ作品(喜劇)を提供することができたの である。

テアトル・オプティック用のフィルム 1コマのみ 背景画の部分「脱衣小屋の周りで」

海水浴場における伊達男の災難を描いた物語で、636コマからなるフィルム(長さ45メートル)。上映時間は15分。連続瞬間写真マイブリッジ(1878~81年)

映画の発明のためには、写真を高速に、連続して何枚も撮影する技術が必要である。この実験が行なわれた1878年当時は、まだコロジオン湿板の時代である (臭化銀ゼラチン法の技術は1871年に開発されていたが、幾度かの改良を経て、実際にゼラチン乾板が商品化されたのは1881年である)。とは言え、 1878年には、コロジオン湿板もかなり進歩して、強い太陽光のもとで、露光時間(露出)100分の1秒の撮影が可能になっていた(コロジオン湿板時代の カメラは一般にシャッターを備えていなかったが、瞬間撮影が可能になるにつれて、シャッターを搭載する機種も現れ始めていた)。

 しかし、この時代、現在の ようなロールフィルムはまだなく(ロールフィルムの生産が始まったのは1884年)、1枚撮影するごとに、ガラスの感光板(コロジオン湿板、あるいはゼラ チン乾板)をカメラにセットし直すという作業が不可欠であった。そのため、このような連続写真を撮影するのは容易なことではなかった。アメリカの写真家エ ドワード・マイブリッジ(生まれはイギリス)は、写真史上初めて、全力で疾走する馬の連続瞬間写真の撮影に成功したのだが、彼はどのような方法を用いたのか。

物語は1872年に始まる。スタンフォード大学の創始者であり、カリフォルニア州の知事でもあった大富豪スタンフォードは、友人たちと1つの賭けをした。 馬が全力で疾走するとき、4本の脚が全部地上を離れる瞬間があるかどうかという賭けである。スタンフォードはあるほうに賭けた。しかし、肉眼でこれを見き わめるのは難しく、議論の末、写真という唯一の確実な証拠に頼ることになった。かくして、マイブリッジがその仕事を任されることになったのであるが、彼は 試行錯誤の果てに、カメラを1台だけ使うのではなく、何台ものカメラを1列に並べるという非常策を思いつく。馬を走らせる運動場に、 カメラの台数と同じ数の糸を等間隔に張っておく。走ってきた馬は、手前の糸から順に糸を引きちぎっていく。

 糸の先にはカメラがあり、糸が切れるとシャッ ターが切れるようにしておく。コロジオン湿板で100分の1秒という露出を確保するために、マイブリッジは黒い馬を選び、白壁の前を駆け抜けさせるという 配慮も忘れていない。この実験に初めて成功した1878年には12台のカメラを用いているが、年を経るごとにシャッタースピードもさらに高速化し、カメラ の台数も24台に増やしている。ここに掲載しているのは1881年に撮影されたものであるが、このような方法で撮影された連続瞬間写真には、4本の脚をす べて地上から離し、力強く疾走する馬の姿がはっきりと写っていた、というわけである。

1878年以来、マイブリッジの写真はヨーロッパでも大反響を巻き起こしていたが、そんな中で興味深いのは、マイブリッジがとらえた瞬間写真を手にした画 家たちが口々に「馬らしくない。見苦しい」という感想をもらしたことである。そこに写っていた馬の姿勢は、絵画アカデミーが定めている美の基準からあまり にもかけ離れているというのだ。しかし、1880年以来、マイブリッジは、投影式フェナキスティスコープの助けを借りて(後に投影式プラクシノスコープに変えている)動く写真の上映も成功さ せており、画家たちは、見苦しかったはずの写真がスクリーン上で動き始めたとき、そこに全く自然で正常な馬の動きを見ることになったのである。ただ、この ような映写を前提にするのであれば、何台ものカメラを1列に並べて撮影を行なうという彼の方法は、2つの重大な問題を含んでいる。1つは、走り方が一定し ていない馬によってシャッターが切られるので、各コマが一定の時間間隔で撮影されないこと、そしてもう1つは、1台のカメラで撮影していないので、各コマ の視点が統一されていないことである。視点がバラバラの画像を、強引に1つの動画画面にまとめてしまうのは、遠近法の原理に明らかに矛盾している。なお、フェナキスティスコープのところで紹介したイラストは、マイブリッジの写真をもとにしたものである。

写真銃 銃をかまえているところマレイ(1882年)

マイブリッジが残した問題点を解消するためには、1台のカメラで連続瞬間写真を撮影できるようにする必要がある。フランスの生理学者エティエンヌ・ジュー ル・マレイはカモメの飛翔システムを研究していた。空を飛ぶカモメに、馬のように糸を切らせるわけにもいかない。マイブリッジに触発されて、1882年に マレイが開発に成功した写真銃は、被写体に向けて狙いを定め、引き金ならぬシャッターを押してやれば、1秒間に12コマのスピードで連続瞬間写真が撮影できるというすぐれ物である。マレイの写真銃には、ヒントになるモデルがあった。金星の運行の様子を一定時間間隔で撮影するために、天文学者ピエール・ジュール・セザール・ジャンサンが1873年に製作したリヴォルヴァー式写真機で ある。

 リヴォルヴァーというのは、言うまでもなく、6連発ピストルの名称である。ジャンサンのリヴォルヴァー式写真機は、70秒おきに24枚の金星の写真 を撮影するという目的のために、感光板にダゲール式の銀板を用いていた。1873年にはゼラチン乾板はまだ商品化されていなかったし、約30分にわたって 作動し続けなければならない写真機に、有効時間が2、3分しかないコロジオン湿板を使用することは不可能だったからである。

 しかし、マレイが写真銃の開発 に取り組んだ1882年には、すでにゼラチン乾板が使用可能になっており、露出1000分の1秒レベルの瞬間写真を 撮影する上では何の問題もない時代に入っていた。ゼラチン乾板はダゲール式の銀板などに比べれば、はるかに軽く、扱いやすいものではあったが、それでもガ ラス製なので(当時、ロールフィルムはまだない)、円盤に何枚もの乾板を環状に配置するとなると、ある程度の重量を覚悟せざるを得ない。ジャンサンのリ ヴォルヴァー式写真機もそうだが、マレイの写真銃は、基本的に、ヘリオシネグラフの絵の描かれた円盤を、感光板を環状に配置した円盤に取り替えたような構 造になっている。ただ、70秒に1コマという超スローで作動するジャンサンの装置に比べて、マレイの写真銃は、その千倍近い速度で円盤を回転してやらなけ ればならない。メカ的な限界のため、通常の写真サイズを断念し、郵便切手ほどの大きさの乾板に甘んじなければならなかった。加えて、鳥の群れというのは、 多くの場合、明るい空をバックに逆光で黒いシルエットとなって撮影されるので、飛翔システムの研究など論外であった。

かくして、写真銃はマレイにとって満足のいくようなものではなかったが、映画の発明の歴史においては、見逃すことのできない重大な進歩がある。フェナキス ティスコープ以来、今までに述べてきた装置はいずれも円盤や絵の帯を一定の速度で動かしていたのである。これは、スリットを用いるにせよ、プラクシノス コープのように鏡を用いるにせよ、静止画がほんの一瞬しか切り出されず、長い闇の時間を作り出していることは今までに何度も述べてきた通りである。円盤や 絵の帯を一定の速さで回転させるのではなく、スリットや鏡が目の前に来た位置で瞬間的に停止させ、闇の時間だけ回転させる、つまり、少し回転させては止め、また回転させては止めるというリズミカルな動き(間欠運動と いう)にしたほうが望ましいのは言うまでもない。ジャンサンのリヴォルヴァー式写真機のように、超低速で作動する装置は、当然このような間欠的な動きを繰 り返すことになるが(ジャンサンは時計仕掛けで、間欠運動を作り出している)、1秒間に12コマという目にもとまらぬ速さでこのような動きを作り出すのは 口で言うほど容易なことではない。マレイはこの目的のために偏心カムを導入したのである。偏心カム自体は1877年頃にはすでに多くの機械技師に知られていたのが、この発見が、後にリュミエール兄弟によるシネマトグラフの完成につながるのである。

固定乾板式クロノフォトグラフによる多重露光撮影マレイ(1882年)

小さな画像しか得られない写真銃に見切りをつけたマレイは、同じ1882年に早くも、第2の撮影機「固定乾板式クロノフォトグラフ」を製作している。飛翔中のカモメの撮影も行なっているが、ここに掲載している「跳躍する人物」という作品は、1883年頃撮影されたものである。作品を見ても分かるように、1枚の感光板の上に時間の異なる複数の画像をとらえている。連続瞬間写真撮影のために、写真銃のように乾板を動かすのをやめ、乾板は固定したままにしておいて、スリットのあけてある円盤だけを回転させている。この回転する円盤が、高速で開いたり閉じたりするシャッターの役割を果たしている。多重露光に耐え得るよう、被写体の背後は、光を反射することのない奥深い暗黒の世界にしてある。

 深い闇をバックに、 被写体に照明をあてながら、この新しいカメラで撮影しようというわけである。もしマレイが、マイブリッジが用いたような白い背景を採用しようものなら、1 度目の露光で、白地に相当する部分がすべて感光してしまって、全く使いものにならなかっただろう。しかし、この斬新なアイデアも、マレイを十分満足させる 結果には至らなかった。1秒間のコマ数を増やそうとしたとき、仮にメカ部分の問題を克服できたとしても、同じ1枚の乾板上に連続画像を撮影するわけだか ら、ある限界を超えると、隣どうしの画像が重なり合って解読できなくなる問題が生じたのである。モデルに上から下まで1本の白い線が入った真っ黒のタイツ を着せて、身体の動きを白い折れ線の動きに単純化するという、生理学者ならではの工夫も試みたが、もとより、この方法を鳥に応用することはできない。かく してマレイは、第3の発明に向かうことになる。

フィルム式クロノフォトグラフマレイ(1888年)

臭化銀ゼラチン法は、薬品類や暗室テントを持ち歩き、1枚撮影するたびにその場で感光板を準備しなければならないコロジオン法に比べて、はるかに扱いやす いものだし(ゼラチン乾板を、あらかじめ工場で大量生産することが可能になった)、これによって露出1000分の1秒レベルの瞬間撮影も問題なく行なえる ようになったのであるが、乾板がガラス製であったことが、映画の発明のための大きな障害になっていたのは言うまでもない。マレイが写真銃を諦めなければな らなかったのも、このためであった。しかし、コダックの生みの親でもあるアメリカのジョージ・イーストマンが1884年に生産を開始したロールフィルム(臭 化銀ゼラチン乳剤をフィルムに塗布したもの)が、写真業界の著しい発展のためだけではなく、映画の発明のためになくてはならない存在として注目されるよう になった。

 もっとも、ロールフィルムと言っても、初期のものは紙製であったし(この時期は、ガラスの利点を生かしつつ、その弱点を補ってくれる新しい素材 を模索中であった)、1889年以降、紙に替わって使われていくことになるセルロイドも、当初は、すぐに濁り、ひび割れするような扱いにくい素材であっ た。ともあれ、ロールフィルムの登場が、少なくとも10人以上の研究者を映画発明の道に駆り立てていくことになる。マレイもその1人であった。

 マレイは、1888年、毎秒20コマのスピードで撮影できるカメラ「フィルム式クロノフォトグラフ」を完成させている。マレイは、写真銃の開発経験から、 この新しいカメラにおいても、フィルムとスリットを連動させながら(やはり、スリットのあけてある円盤形のシャッターを備えている)、これらを1コマ分動 かしては停止させ、また動かしては停止させるという間欠運動が不可欠であることを十分理解していた。 マレイは電磁石で動く鉄の爪が周期的に紙のフィルムを締め付け、それによってフィルムの周期的な瞬間停止が得られるように設計したのであるが、フィルムを 1コマずつ、空間的に正確な位置に送り出していくことには無頓着であった。実際、マレイのフィルムには、レイノーのそれにあったようなパーフォレーション (フィルム送りのためのガイド穴)もつけられていなかった。映写を前提にした場合、撮影フィルム上のわずかな画像位置のズレが、スクリーン上では鑑賞に耐 えないガタつきとなって再生されてしまうのである。

 しかし、マレイはこの重大な問題を欠点とは考えていなかった。というのも、生理学者であるマレイは、1 コマ1コマの画像が少々中心を外していたとしても、肉眼ではとらえられない動物の動きを連続瞬間写真に分解して研究できることに満足し、撮影したフィルム から出発して、元の動きを再構成することには関心がなかったからである。

キネトスコープ1  エジソン(1891年)

世界中の研究者がしのぎを削る中、初めて、商業利用に耐え得るような映写装置(手描きのデッサンではなく、実写映像を再生する装置)の発明に到達したのは アメリカのトーマス・エジソンである。この装置が商品化された1894年には、ニューヨークをはじめとする合衆国内の主要都市とパリ、ロンドンにキネトスコープパーラーもオープンし、大成功を収めている。イラストを見ても分かるように、キネトスコープは動画をスクリーン上に投影して見せる装置ではなく、内部に蛇腹状に折りたたまれているフィルム(17メートルのフィルムがループ状になっている)を、覗き穴から覗いて見る方式である。蓄音機による音声の再生もできるようになっていた。ただし、動画と音声を同調させる技術までには至っていない(パーラーの写真で、右に並んでいるのがキネトスコープ、左に見えるのがイヤフォーンつき蓄音機である)。
キネトスコープに先立って開発に成功したのが「キネトグラフ」と呼ばれる撮影機である(いずれも、特許を取得したのは1891年)。マレイの「フィルム式クロノフォトグラフ」と同様に、スリットのあけてある円盤形のシャッターを備え、間欠的な動きでフィルムを送り出していけるようになっていた(フィルムのスピードは毎秒46コマ)。ただ、マレイのカメラと違っていた点が2つある。1つは、セルロイドフィルムの 利点を理解し、積極的にこれを採用したこと。ペーパーフィルムは、現像処理の過程で、感光膜をそのベースである紙から引き離し、ガラス板上に移しかえる作 業が必要だったが、セルロイドフィルムではこの作業が不要なのである。2つ目は、フィルムを1コマずつ、空間的に正確な位置に送り出していくために欠かせ ないパーフォレーションを導入したことである。エジソンの場合、レイノーのテアトル・オプティックよ りもむしろ、自動電信機の紙テープ、あるいはオルゴールの楽譜ロールなどから着想を得たようだ。実験を重ねた末、フィルムの1コマごとに、その両側に4個 ずつのパーフォレーションをつけるという規格を決定した。エジソンがこのとき定めた規格は、フィルムの横幅(35ミリ)、1コマの縦横比(4対3)などと ともに、今日まで受け継がれている。

キネトスコープの開発にあたり、エジソンは当初、撮影機であるキネトグラフを映写用にも流用してお り、1889年には研究室でスクリーン上への投影も行なっている。にもかかわらず、最終的にスクリーン上への投影を放棄し、覗き眼鏡式の装置に屈服せざる を得ない結果になったのは、発明王エジソンの生涯中で最大の不覚だったかも知れない。というのも、キネトグラフの間欠運動は、十分な静止時間とほとんど瞬 間的なコマ移動という理想的なリズムで制御されていて、撮影用にも映写用にも全く問題なかったのであるが、シャッターを担当するスリット付き円盤に、わず かばかりの欠陥があったのである。スリットの幅が狭すぎたのだ。狭い幅のスリットは短い露出時間を生み出し、動きの速い被写体の撮影には向いているが (従って、飛翔するカモメを追わなければならないマレイは幅の狭いスリットを採用している)、これをそのまま映写用に利用すると、光が出ていない時間が長 くなるため、暗くて、ちらついた映像しか得られないのである。

 このときエジソンが、スリットの幅を広げるという、取るに足らないような修正を思いついてさ えいれば、映画発明の名誉は彼の手にあったことだろう。なお、キネトスコープ、キネトグラフの語源は、ギリシア語の「kinema(動き)」である。

シネマトグラフ 側面を開けたところ

リュミエール兄弟(1895年)
映画の撮影機と映写機の基本的な原理は似たようなものなので、エジソンのキネトグラフがそうであったように、撮影機にプロジェクター(幻燈機)を追加する ことで、映写機の役目を兼ねることが可能である。フランスのルイ・リュミエール、オーギュスト・リュミエールの兄弟が1895年に発明した(1894年に 試作機を完成させ、1895年に特許を取得している)シネマトグラフもそのような兼用タイプで、1台で撮影、映写、ポジの焼き付けの3役を こなし、しかも、操作が簡単、旅行カバンのような手軽さで携帯が可能と、同時代に製作された他のあらゆる装置に対して、比べようもないほど利点を持ったマ シンだった。シャッターの開口部(スリットの部分)は、撮影、映写の用途に応じて、その幅を狭めたり広げたりできるようになっている。映写の際は、レイ ノーのテアトル・オプティックと同様に、観客はスクリーンの裏側から眺める形になる。

マレイの写真銃以来、この種の装置において、画像を1コマ分動かしては停止させ、また動かしては停止させるという間欠運動が 重要な鍵を握っていることは何度も述べてきた通りである。2人の兄弟にとって、マレイの装置も、エジソンの装置さえも、満足のいくものではなかった。弟の ルイ・リュミエールは、ミシンの布押さえのシステムからヒントを得て、シネマトグラフの中枢部を担う間欠運動のメカニズムを作り上げた。リュミエールの方 式はフィルムに対する負担が大きく、当時のフィルム(横幅35ミリ、長さ17メートル)の強度を考慮すれば、フィルムのスピードを毎秒16コマに押さえ、 パーフォレーションも1コマごとに、その両側に1個ずつつけるのが限界だったようだが、スピードやパーフォレーションの数を別にして、このときリュミエー ルが発明したメカニズムは、今日の撮影機にもそのまま使用されている。ちなみに、今日のフィルムスピードは毎秒24コマ、パーフォレーションはエジソンの 規格が採用されている。

リュミエール兄弟は、幾度かの公開試写会を経た後、1895年12月にパリのグラン・カフェで最初の有料一般公開を行なった。リュミエール兄弟によって最初に撮影された作品「リュミエール工場の出口」をはじめ、「列車の到着」などの代表作が上映され、その輝かしい成功は世界中に響き渡り、以後、映画全盛の時代へと突入していくことになる。