岡本 喜八(映画監督)

kihachi kihachi2 mrkihachi いま、若い世代を中心に一人の映画監督に注目が集まっている。没後10年を迎えた岡本喜八。戦時下に生きる人々の生きざまを描くことにこだわり続け『肉弾』や『独立愚連隊』が、1960年代若い世代に圧倒的な支持を受けた。今年、各地で、岡本を特集した上映会が開催され、明治大学では学生が自主上映会を主催するなどの動きが広がっている。

 「声高に反戦を訴えずに、静かにユーモアを交えながら描いていることがリアル」などと若者は受け止めている。

 こうした中、ことし自宅から、未公開手記が発見された。空襲によって同僚の兵士が目の前で死ぬ姿を目の当たりにした岡本が、“庶民の目線”で戦争を描くことを決意した原点が記されていた。軍幹部や政治家の終戦に至る日々を描いて大ヒットした『日本の一番長い日』(1967年)が「庶民の出てこない“大作”だった」と自省し『肉弾』制作を決意。“青年は二度とそんな小銃弾になってはならない”“青春の色は多彩な色でなければならない”と若者が兵士として駆り出される戦争の理不尽さを訴えようとしていたのだ。若者たちから再び注目される岡本喜八と現代へのメッセージをひもとく。

 岡本 喜八(おかもと きはち、1924年2月17日 – 2005年2月19日)は日本の映画監督。本名は岡本 喜八郎(おかもと きはちろう)。

■経歴

 鳥取県米子市四日市町出身。米子商蚕学校(現米子南高校)卒業後上京し、明治大学専門部商科卒業後、1943年に東宝に入社し助監督となる。しかし戦局の悪化に伴い招集され、松戸の陸軍工兵学校に入隊、豊橋第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争に対する大きな憤りを抱く。

 復員後に東宝へ復帰し、マキノ雅弘や谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事して修行を積む。1957年に東宝が石原慎太郎に自作『若い獣』を監督させると発表したことに助監督たちが反発、シナリオ選考で一人監督に昇進させることが決まり、岡本が『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオで認められて昇進した。1958年、『結婚のすべて』で初メガホンを取る。岡本のオリジナルシナリオによる、日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』(1959年)で、一躍若手監督の有望格として注目を浴び、以降、『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)、『侍』(1965年)、『日本のいちばん長い日』(1967年)、『肉弾』(1968年)など、幅広い分野の作品を監督。

 特に『江分利満氏の優雅な生活』や『肉弾』は、岡本と同年代の戦中派の心境を独特のシニカルな視点とコミカルな要素を交えて描いた作品として現在まで高い評価を得ており、生前に岡本自身も好きな作品として挙げている。特に『肉弾』は、キネマ旬報ベストテン2位ながら、三十数名の全選考委員満票であり(読者投票女性部門のみ選外)、かつて『二十四の瞳』や『キクとイサム』などの名作に例があるものの、現在のところ絶後の栄誉となっている。

 東宝退社後の1970年代後半からは、『ダイナマイトどんどん』(1978年)、『近頃なぜかチャールストン』(1981年)、『ジャズ大名』(1986年)などを監督。『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)では日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品が多くなっていく。

 1995年『East Meets West』で初の米国ロケ中に言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断される。その後も軽い脳梗塞などを起こし、言語が不明瞭であった。『助太刀屋助六』では主演の真田広之が伝令など補佐役を務めた(舞台挨拶などでも傍につき、会場の反応などを伝えていた)。ただし、インタビューや講演などではかなり古い作品についても答えており、制作意欲も依然旺盛であった。『助太刀屋助六』の舞台挨拶では、張りのある「ヨーイ、スタート!」の声を披露している。

 2005年2月19日、食道がんのため神奈川県川崎市多摩区の自宅で死去。享年81。墓所は鳥取県米子市の西念寺、川崎市多摩区春秋苑。2001年制作の時代劇「助太刀屋助六」が最後の作品となった。

 亡くなる直前まで、最新作として山田風太郎作の『幻燈辻馬車』の映画化を構想し、配役は仲代達矢、真田広之、緒形拳ら、音楽は山下洋輔と決まり、シナリオを練っていたが、果たせなかった。