朝倉文夫と建築

  朝倉彫塑館は朝倉文夫のアトリエと住居だった建物です。朝倉は東京美術学校を卒業した1907(明治40)年、24歳の時にここ谷中の地にアトリエと住居を構えました。当初は小さなものでしたが、その後増改築を繰り返し、1928(昭和3)年から7年の歳月をかけて手を入れたものが現在の朝倉彫塑館です。建物は朝倉が自ら設計し、細部に至るまで様々な工夫を凝らしており、こだわりを感じさせます。

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 朝倉はここを「朝倉彫塑塾」と命名し、教場として広く門戸を開放して弟子を育成しました。1967(昭和42)年に故人の遺志により自宅を朝倉彫塑館として公開、1986(昭和61)年に台東区に移管され、台東区立朝倉彫塑館となりました。その後、2001(平成13)年に建物が国指定有形文化財登録にされ、2008(平成20)年には敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定されました。2009(平成21)年から2013(平成25)年にかけて保存修復工事を行い、耐震補強を施し、朝倉生前の姿に近づけて文化財的な価値を高めています。

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朝倉文夫は、三十年近く住まった谷中天王寺町の住居を改築するにあたり、自らの文集「彫塑余滴」に「私のアトリエ」と題して、以下のように記しています。

  • 「アトリエは、これは木造では何としても梁と柱がとても求められそうになく、自分の考案になる彫刻を制作す るのに、自分が上の方に登ったり下りたりする不自由さを無くすために、作品の方を上下する機械装置の必要もあり、鉄筋コンクリートでやる事にした。この建 築は全部日本的に、外国の真似を一切しないで、自分の独創でやる方針で、技術とか材料はどんどん取り入れたが形式は全く自分の気儘な線を方眼紙の上に引い て出来上がったものである。それは外国からの日本を訪ねて来る文化方面に特に興味を持つ人々には喜んでアトリエに迎えたり、日本が国際的に何か美術家のア トリエなど利用する時があれば、そのために開放して利用してもらう事も考えに入れて、日本の文化が彫刻界にこうしたアトリエを持っているという一ツの誇り になければ、日本文化の水準を少しでも上げる事が出来るという考えもあって、必要以上に大きく、又手数のかかる細工をしたりしたのである。」(『彫塑余滴』「私のアトリエ」より)

文中から、朝倉文夫の創建時の矜持が窺えます。

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 朝倉を記念する施設として以前から公開されていましたが、2008年に国の名勝に指定されたことを 受け、耐震補強を含めた保存修復工事に着手。4年半をかけて、朝倉最晩年の昭和30年代当時の建物・庭園の姿に復原されました。館内に入ってすぐ左側にあ る、大きなアトリエ。床下には深さ7.3メートルの電動昇降制作台があり、今回の保存修復工事で実際に動かせるようになりました。

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 3階部分まで吹き抜けになっている天井までの高さは8.5m、床面積は175㎡。床下(7.3m)には電動昇降制作台(未公開)が格納されています。ここでは、「墓守」「時の流れ」「仔猫の群」「大隈重信侯像」などの彫塑作品を常設展示しています。

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 天井までの高さが約4mあるこの部屋は、書斎として使われました。南側の窓を広くとり三方の壁には天井まで和洋の書籍が並んでいます。洋書のほとんどは、朝倉の恩師である岩村透の蔵書です。また朝倉の遺品やコレクションも併せて展示しています。

 日本建築にとりこまれた“洋”の空間。海外からの来客をここでもてなしました。 中国の画人孫松はこの部屋に永く逗留し、多くの作品がこの部屋で制作されました。 現在は美術解剖学の講義に使用した骨格標本他、朝倉の遺品を展示しています。image_34 ピクチャ-2

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 朝倉彫塑館の建築の大きな特徴は、西洋建築と日本家屋が融合している事です。鉄筋コンクリートの打ちっぱなしであるアトリエ棟と、数寄屋造りの 住居部分が違和感なく調和しています。アトリエの奥に進むと、渡り廊下の左側には日本庭園「五典の水庭」が見えます。朝倉はこの庭に仁・義・礼・智・信の 五つの巨石を設置。自己反省の場として設計したとも伝えられています。庭園は自然の湧水を利用しています。建物は3階建て(アトリエは3層吹き抜け)。純日本風の居室からは、日本庭園が見下ろせます。no4

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 3階の和室「朝陽の間(ちょうようのま)」は応接の場として使われた和室です。赤味を帯びた壁は、細かく砕かれた天然石の瑪瑙(めのう)が塗ら れており、保存修復工事で瑪瑙を回収・洗浄し、再度塗り上げられました。2階から見下ろした日本庭園と、3階の和室「朝陽の間(ちょうようのま)」外部の 通路には、豚の顔を象った噴水が。こちらも保存修復工事で、口から水が出るようになりました。

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蘭の間から屋上へ続く踊り場には、屋上で収穫した野菜を洗っていたと伝わる水場があり、壁に設けられた弟子が制作したブロンズ像の口から水が供されるようになっています。

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 朝倉文夫は、園芸は芸術家の素養として不可欠のものと考えていました。そのため、彫塑塾の塾生には屋上で園芸実習を必修としていました。自著『彫塑余滴』にもエピソードを書き残しています。

  • 「私は、畑を屋上に持っている、というと何だか立派な屋上庭園でもありそうに思われるが、余り広くもない敷 地の中に一ばいに家を建てたので、一本の花を植える余地も、野菜の種を蒔く空地もないので、アトリエの屋上に土を持ち上げて、(中略) 又この畑が塾の者 に園芸を習わせる畑でもある。一週に一日園芸の専門家に来てもらって指導してもらっている。バラの接木から花の種の蒔き方や野菜の作り方まで教えられて、 今年頃は自分一人で苗を育てている者が出来て、赤ん坊なら一人歩きがよちよちながら出来るようになったのだ。(中略)

  •  私はその一坪園芸を利用して、子どもの勘を養う事もいい収穫だと思っている。むしろ立派な言葉が植物から 聞き取れるようになる。それを聞く耳が勘である。私の園芸を正科にしている目的の第一はこの勘が彫刻家に必要だからである。併し(しかし)勘は何の仕事に も必要なものであることは勿論である。」

 谷中を見晴らす屋上庭園は、朝倉文夫が生まれ育った大分県の自然を彷彿とさせ、また都会の街中である事を一時忘れる空間となっています。野菜の栽培、趣味の蘭を愛で、そして愛猫と戯れる朝倉文夫の姿が思い起こされます。