Histry of TSUKUBA
2010.2.27
- 1.筑波山の概要(WIkipedia引用)(注:以下クリックすると開きます ます)
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筑波山の概要(WIkipedia引用)
筑波山(つくばさん)は、関東地方東部、つくば市北端にある標高877mの山。西側に位置する男体山(標高871m)と東側に位置する女体山 (標高877m)からなる。雅称は紫峰(しほう)。異称として、筑波嶺(つくばね)ともいう。 美しい姿から富士山とも対比され、「西の富士、東の筑波」と並び称される。茨城県の県西地方からの「眺めが美しい」と 平凡社の『世界大百科事典』に記載される[1]。古くは『万葉集』にも詠まれ、日本百名山、日本百景の一つに挙げられている。 百名山のなかでは最も標高が低く、開聞岳(標高924m)とともに1000m未満の山。独立峰と誤解されがちだが、 実際には八溝山地最南端の筑波山塊に位置している[2]。さらに山体の勾配が指数関数的なので火山と間違えられることがあるが、 筑波山は厳密には火山ではなく、深成岩(花崗岩)が隆起して風雨で削られたため現在のような形になったとされる。なお、 山頂部分は花崗岩ではなく斑れい岩からなる。
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- 2.国際科学技術博覧会(The International Exposition,Tsukuba,Japan)Wikipedia引用)
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国際科学技術博覧会(WIkipedia引用)
国際科学技術博覧会通称「つくば博」・「科学万博」・「つくば'85」・“TSUKUBA EXPO '85” など)は、主に茨城県つくば市御幸が丘(当時:筑波郡谷田部町御幸が丘)で、 1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にかけて行われた国際博覧会である。筑波研究学園都市のお披露目をかねており、 「TSUKUBA」の名を国内外に知らしめた。1981年4月22日に『「国際博覧会に関する条約」に基づく特別博覧会』として登録され開催が決定し、財団法人国際科学技術博覧会協会が 主催となって行われた。「人間・居住・環境と科学技術(Dwellings and Surroundings - Science and Techonology for Man at Home)」 を博覧会統一主題(いわゆる「テーマ」)とし、日本国を含む48カ国と37の国際機関が参加した。総入場者数は、2033万4727名で、 当時の特別博覧会史上最高入場者記録だった。会場面積は101.6ヘクタール。
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- 3.筑波研究学園都市(Wikipedia引用)
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筑波研究学園都市(WIkipedia引用)
筑波研究学園都市(つくばけんきゅうがくえんとし Tsukuba Science City)は約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3000人の研究者 (博士号取得者は約5600人)を擁する世界有数の学術・研究都市であり、田園都市である。1960年代以降に開発された。 地理的な範囲は行政的に茨城県つくば市と同じと定義され、「研究学園地区(約2,700ha)」と「周辺開発地区」で構成される。 1950年代、東京は急激な人口増加によって過密状態となっていた。このため政府は、1956年に首都圏整備委員会(以下、委員会)を設置し首都機能の一部を 移転することに関する検討を始めた。委員会は、都内のすべての大学を移転し70万人都市を建設する試案や都内のすべての官庁を移転し18万人 都市を建設する試案などを立案していった。
1961年9月、「都内の市街地になくても、機能上さしつかえない官庁(付属機関や国立学校を含む)の集団移転について、すみやかに検討する」とした 閣議決定がなされ具体的な検討が始まった。委員会は1963年に移転の候補地として富士山麓、赤城山麓、那須高原、筑波山麓の実地調査をし 同年9月に筑波山麓(注:現在のつくば市と牛久市)に4,000haの研究学園都市を建設することが閣議了解された。筑波山麓の利点として東京から 距離が離れすぎていないこと、霞ヶ浦から十分な水が採取できること(水質汚濁は1960年代以降)、地盤が安定した平坦地であることなどが挙げられる。 翌月、委員会は基本計画としてNVT(Nouvelle Ville de Tsukuba:筑波ニュータウン)案を提案するが激しい地元住民の反対にあった。その後、 田畑・人家をできるだけ避け赤松林を中心に造成するため南北に細長くし、計画面積を2,700haに縮小した案を提案、試行錯誤しながら建設の計画を進めた。
一方1967年9月、6省庁36機関(その後43機関に増加)を移転することを閣議了解、1968年10月に旧科学技術庁防災科学技術センターが着工した。 しかし多くの機関が工事に着工しなかったため1970年5月に筑波研究学園都市建設法が施行され、その後着実に都市建設と機関の移転が進み 1980年に機関の移転が終了した。並行して都市機能の整備が進められた。1985年には筑波の国内外における知名度の向上と民間企業の誘致のために 国際科学技術博覧会(通称「科学万博」)が開催され、この前後数年の間に中心部の商業施設や交通機関が特に大きく拡充された。その後も住環境の 都市化が進み、約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3000人の研究者を擁するに至る。 なお、計画面積の縮小に伴い最も影響を受けたことの一つが共同利用施設の計画縮小である。そのため、省庁の枠を超えた研究機関同士の交流や 産官学の連携は不十分なものになったが近年連携の強化が模索されている。
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