主要作家略歴

■相生垣秋津[あいおいがき・しゆうしん一八九六〜一九六七]

本名、三次。兵庫県高砂生まれ。生家は履物製造販売業を営む。川端画学校に学び、川合玉堂に師事。巽画会の研究会のメンバーでもあり、一九二〇年、第三回国画創作協会展に人選。同年、第一回未来派美術協会展に《療養院の庭》を出品。翌年、第一回赤人社展に参加出品。同年、新たに結成された第一作家同盟にも加わった。関東大震災を機に郷里の高砂に帰る。以後、父の業務を継ぐと同時に、俳句に専念し、「ホトトギス」 の同人となる。昭和以降は俳句と絵画を融合する旬画集を発刊した。

■秋田雨雀[あきた・うじゃく一八八三〜一九六二]

本名、徳三。秋田県南津軽郡[現黒石市]生まれ。一九〇二年、東京専門学校[現早稲田大学]に入学。一九一三年、島村抱月の芸術座の創立に参画。一九一四年、沢田正二郎らと美術劇場を結成、舞ムロ監督を務める。一九二三年、中村屋の相馬夫妻の土蔵を改造した小劇場を拠点として先駆座を立ち上げる。柳瀬正夢が装置を担当。一九二七年、招待によりモスクワに滞在。一九二八年、国際文化研究所を設立。一九三四年、村山知義らと新協劇団を結成。

■浅野孟府[あさの・もうふ一九〇〇〜一九八四]

本名、猛夫。東京生まれ。東京美術学校[現東京芸術大学]彫刻科中退。一九一人年、院展彫刻部に入選。一九二一年、彫刻家戸田海笛のもとで、岡村唐貴とともに学ぶ。第二回未来派美術協会展に出品。一九二二年、二科展に入選。「アクション」 に参加し、第一回展、第二回展に出品。大震災後、神戸に移り住み、岡本らと「DVL」を結成し、活動する。「三科」 に参加し、一九二五年、三科会員展、三科公募展に出品。「三科」解散後、「造型」に参加し、以後、プロレタリア芸術運動に加わった。

■飛鳥哲雄[あすか・てつお] [一八九五〜一九九七]

本名、高橋鉄雄。校図案科を卒業。と尖塔社を結成。金沢生まれ。一九一九年、東京美術学一九二〇年、二科展に入選。同期生ら一九二三年、関東大震災後、今和次郎・吉田謙苦らとバラック装飾社を設立。一九二五年、「造型」に参加。一九二七年、石川県立工業高校で教壇に立つ。一九三〇年、花王石鹸広告部に入社。

■阿部貞夫[あべ・さだお ] [一九一〇〜一九六九]

東京に生まれるが、生後すぐに北海道の留萌に移り住む。一九二五年、三科公募展に出品。一九二六年、アナーキストのグループ「野獣群」に参加、同グループの有泉譲らと「野獣群美術号」と銘打つ版画誌『構成派』を編集、創刊する。一九三五年頃から本格的に版画の制作を開始。戦後は一旦留萌に戻り、その後釧路に移り住んで木版画の制作を続けた。

■有泉譲[ありいずみ・ゆずる 生没年不詳]

後期「マヴォ」 の同人で、一九二四年十二月のマヴオ展に出品。一九二五年、三科公募展に出品する。同時期に東京の三田幼稚園で第一回個人展覧会を開催、さらに「旋律舞踊宣言」を発した。一九二六年、アナーキスト詩人らと雑誌『野獣群』を創刊、編集同人となる。また『野獣群』 の美術号として版画誌『構成派』を編集、創刊した。旋律舞踊発表会などを開いて舞踊を演じた。一九二八年、日本美術学校卒業。

■飯田三吉【いいだ・さんご]   [一九〇〇〜一九六五】

三重県四日市生まれ。一九一人年、上京して川端画学校に通う。一九二三年、「アクション」創立に加わり、第一回展、第二回展に出品。一九二五年、吉祥寺にアトリエを建設し制作を続けるが、発表はせず、のちに郷里に戻って実家の病院の経営に従事する。

■泉治作[いずみ・じさく]  [一八九三〜一九六四]

福井県生まれ。一九一九年、横浜美術協会展に出品するなど、横浜を中心に活動する。一九二二年、「アクション」に参加し、第一回展、第二回展に出品。解散後は横山潤之助らの「ヴエルム」に参加。一九二七年、二科展に人選、以後出品を続ける。

■伊藤順三[いとう・じゆんぞう]  [一八九〇〜一九三九】

雅号、桧嶺。東京生まれ。郁文館中学在学中に都田丹陵の門下となる。その後東京美術学校に入学し、結城素明に師事。一九一三年、同校卒業。美術学校在学中から文芸部の中心メンバーとして、詩や俳句を発表する。また当時の日本画の先鋭な動きに加わり、巽画会の若手として活躍しっつ、モザイク主催展、行樹社展、自由絵画展、黒耀社展、一月会展などに参加出品した。一九二〇年、未来派美術協会の結成に関わり、第一回展に出品するが、第二回展開催前に脱退した。大正半ばより、三越の図案部嘱託として活動したともみられる。

■井上富峰[いのうえ・ふほう 生没年不詳]

象徴主義や表現主義に影響された作風の木版画を制作し、一九二一年四月創刊の 『青美』 に寄せた。『育英』 が合併した雑誌『曙光』 に参加している井上毅と同一人物と考えられる。

■梅田穣[うめだ・みのる]  [一九〇五頃〜没年不詳]

一九二三年、岡村蚊象らと創宇社を結成、宣言文を書いたとされる。この年第一回展を開催し、その後も同展に出品した。一九二六年、「単位三科」 の結成に参加し、翌一九二七年、「単位三科」による三科形成芸術展に出口mした。

■海老原喜之助[えびはら・きのすけ]  [一九〇四〜一九七〇]

鹿児島県鹿児島生まれ。十代で村山税多の画文に熱中して画家を志し、一九二一年、上京し川端画学校に通う。一九二三年、中川紀元、横山潤之助ら、「アクション」のグループに接近する。当時の現存作品は、村山椀多、高閣華子などの影響を示して、表現主義的な傾向が認められる。同年、中央美術展に人選後、渡仏。藤田嗣治、高畠達四郎と出会う。一九二四年、パリにてサロン・ドートンヌに人選。以後、一九三四年に帰国するまでパリで活躍。一九三五年、独立美術協会会員となる。以後、同協会を中心に活躍。渡欧中に体調を崩し、パリで死去。

■大浦周蔵[おおうら・しゆうぞう]   [一八九〇〜一九二八]

東京生まれ。溜池洋画研究所に学ぶ。一九一三年十二月の 『美術週報』誌への寄稿から、当時すでに丸善に勤務していたことがわかる。一九二一年、第二回未来派美術協会展に出品。一九二三年、未来派美術協会習作展に参加した後、詩人洋画展に出品。「マヴォ」 の創立に参画するが、翌年脱退し、木下秀一郎の提唱によって具体化した 「三科」 の結成に際して会員となる。一九二四年五月、丸善画廊を開設。一九二五年、三科会員展、三科公募展に出品。一九二六年、「単位三科」に参加し、翌年の三科形成芸術展に出品。

■大島垂良[おおしま・しげよし]  [生年不詳〜一九九一]

一九二四年、卒業製作に《密陀応用図案》三点を提出して東京美術学校図案科を卒業。一九二五年、三科公募展に出品。一九二六年、「単位三科」結成に参加。一九二七年、「単位三科」 による三科形成芸術展に出品、また「劇場の三科」に参加した。

■大月源二[おおつき・げんじ]  [一九〇四〜一九七一]

函館生まれ。東京美術学校西洋画科を卒業後、一九二四年、小樽で太地社結成に参画、会名を考案する。一九二七年、プロレタリア美術運動に参加。第一回プロレタリア美術大展覧会から参加。翌年、雑誌『戦旗』所載の小林多喜二 『蟹工船』 の挿絵を提供するとともに、第二回展で歪口別[山宣葬]》を出品。一九四三年、一水会賞を受賞。戦後は日本アンデパンダン展、北海道生活派美術家集団等を発表の舞台とする。

■大場清泉[おおば・せいせん 生没年不詳]

本名、良治。秋田県生まれ。郷里を中心に活動した日本画家。一九二一年四月創刊の 『青美』 に木版画を寄せた。後藤忠光の友人で、関東大震災を機に後藤が秋田に帰省した際、後藤はじめ友人ら七名で第一回秋田美術展覧会を開催した。第二回展にも出品。その頃の『秋田魁新報』に、《満州スケッチ》や《満州風俗》などの挿絵をしばしば掲載した。

■尾形亀之助[おがた・かめのすけ]  [一九〇〇〜一九四二]

宮城県柴田郡生まれ。一九一一年、鎌倉で転地療養。一九一七年、仙台に戻る。一九二〇年、文芸同人誌『玄土』に参加。一九二一年、妻の叔父・木下秀一郎を知り、第二回未来派美術協会展に出品。一九二二年、未来派美術協会主催の三科インデペンデント展を運営する。一九二三年、未来派美術協会習作展に参加。同年五月、詩人洋画展に出品。未来派美術協会の解散をうけて、「マヴオ」の結成に参画。浅草伝法院と神田流逸荘におけるマヴオ展に出品。関東大震災後、市内各所で開催された第二回マヴオ展に参加するが、グループ活動から遠ざかる。一九二五年、詩集『色ガラスの街』 を出版。

■岡田龍夫[おかだ・たつお]  [一九〇四頃〜没年不詳]

北九州生まれか。一九二〇年頃、銀座の切抜通信社に勤務し、戸田達雄と知り合う。一九二二年、三科インデペンデント展に出品。一九二三年、「マヴオ」結成に対抗して、加藤正雄と二人展を開催。しかしその後「マヴオ」同人となつた。一九二五年、首都美術展、三科公募展に出品。この年、復刊した雑誌『マヴオ』 の編集、誌面構成を行うとともに、村山知義訳のエルンスト・トラー詩集『燕の書』、萩原恭次郎詩集『死刑宣告』 に鮮烈なリノカットを挿入、美術的 「本」 の制作に取り組んだ。「三科」解散後はアナーキストとなった。また一九二六年以降は、「マヴオ」運動の継続をはかって 「マヴオ大聯盟再興に就て」と題する声明文を発したり、牧寿雄らと関西で舞ムロ模型映画セット展覧会やマヴオ創作舞踊発表会などを開催してマヴォイストとしても活躍した。さらに街頭漫画屋としても活動。一九二八年、『形成画報』を創刊。一九三〇年代、満州に渡り、その後、京城でフリーの記者として活動したと思われる。

■岡村蚊象[おかむら・ぶんぞう]  [一九〇二〜一九七八]

本名、山口滝蔵。東京生まれ。岡村家の養子となり岡村文三となる。東京高等工業学校付属職工徒弟学校を卒業後、清水組を経て逓信省経理局に勤務。一九二二年頃から「蚊象」を名乗る。一九二三年、分離派建築会の会員に迎えられ、創宇社を結成。一九二四年、帝都復興創案展に参加。内務省復興局土木橋梁課技師となり清洲橋などの橋のデザインに関わる。一九二六年、「単位三科」の結成に参加。一九二七年、分離派建築会展に石本喜久治との合作を出品。一九三一年、渡独しグロピウスに師事。帰国後、山口蚊象建築設計事務所を開設。のちに新制作派協会の画家らとともに活動を展開。RIA建築総合建築所を設立。

■岡本唐貴[おかもと・とうき]  [一九〇三〜一九八六]

本名、登喜男。倉敷生まれ。東京美術学校彫刻科中退。一九二三年、二科展に油彩画が入選。翌一九二四年、第二回アクション展に参加。関東大震災後、拠点を神戸に移し、浅野孟府らと「DVL」を結成する。一九二五年、神戸の写真家淵上白陽の白陽社から一号限りの雑誌『造型』を創刊したり、写真雑誌『自陽』等に寄稿する。一方、一九二四年、「三科」 の創立に関わり、翌年の三科会員展、三科公募展に出品。「三科」解散後、上京し、矢部友衛、神原泰等と「造型」を結成する。一九二七年、新ロシヤ美術展の開催に奔走する。その後、プロレタリア美術運動に参加する。一九四六年、矢部友衛らと現実会を結成する。

■小川光三[おがわ・こうぞう]  [一九〇三頃〜没年不詳]

一九二三年、岡村蚊象らと創宇社を結成する。この年第一回展を開催、その後も出品した。一九二六年、「単位三科」 の結成に参加。一九二七年、「単位三科」 による三科形成芸術展に出品、また「劇場の三科」で「音響の三科」 に出演した。

■荻島安二[おぎしま・やすじ]  [一八九五〜一九三九]

横浜生まれ。暁星小学校卒業後、慶応大学予科に通うが、彫刻を志し、朝倉文夫に入門。一九一七年、《自像》で文展入選。以後、文展、帝展、東台彫塑会展に出品。一九二四年、吉川清作、村山知義設計の映画館「葵館」 の外壁レリーフを担当。一九二五年、島津良蔵が主宰する島津製作所[島津マネキン]のために島津と協力して、日本最初のマネキン原型を制作。ロダンの影響を払拭し、独自のモダl頁ムのスタイルを完成させる。一九二六年、女優《花柳はるみの像》を制作する。同年、帝展落選。翌年、二科展に発表し、また、淵上白陽主宰する写真雑誌『白陽』 に写真作品も発表する。一九三三年、構造社会員となる。

■小熊秀雄[おぐま・ひでお]  [一九〇一〜一九四〇]

北海道小樽生まれ。本名三木秀雄。母小能州マツは、父三木清次郎と入籍していなかった。一九一一年頃、三木家は樺太に移住する。一九一六年、樺太泊居町の高等小学校卒業後、さまざまな雑役に従事する。一九二一年、徴兵検査を機に、母の姓である「小能エを名乗るようになる。翌年、旭川新聞社の見習い記者となる。徐々にダダイズムに傾倒、文才と画才を発揮。一九二四年、旭川美術協会展に出品。一九二八年、上京、翌年豊島区長崎に住む。一九三一年、プロレタリア詩人として活動。一九三四年、周辺の画家との交遊を深め、自身、多くのデツサン、水彩、油彩を措く。一九四〇年、「池袋モンパルナス」と自ら命名した豊島区千早町の自室で病没。

■尾竹竹城[おだけ・ちくは]   [一八七八〜一九三六]

本名、染書。新潟県新潟生まれ。四歳にして笹田雲石に南画を学び、一人九五年、第四回内国勧業博覧会に出品。翌年に上京し、川端玉章に入門。小堀輌音、梶田半古にも師事し、大和絵を学ぶ。日本絵画協会展において早くから活躍し、一九〇六年、石井林響らと大同絵画会を設立。これが翌年の文展開設の際に国画王成会となるが、審査員選考をめぐり岡倉天心を批判し退会。その後文展に出品し、一九一〇年の第四回展、翌年の五回展で二等賞を受賞。一九一三年、兄越堂、弟国観とともに八華会を設立。さらに一九一九年、日本画の前衛グループ八火社を創立。晩年は帝展へ復帰し、無鑑査となつた。

■笠置季男[かさぎ・すえお]  [一九〇一〜一九六六]

兵庫県豊沢村生まれ。一九二一年、大阪府今宮中学校を卒業、この年、第二回未来派美術協会展に出品。翌年、川端画学校で学ぶ。一九二三年、東京美術学校彫刻科に入学し朝倉文夫のもとで学ぶ。一九二七年、二科に初入選、以降二科展を中心に発表した。一九二八年、東京美術学校彫刻科塑像部卒業。一九二九年、二科展で樗牛賞。一九三一年に二科賞を受賞、一九三六年に会員となった。

■加藤正雄[かとう・まさお]  [一八九ハ〜一九八七]

一九二二年、東京生まれ 早稲田大学建築学科卒業後、陸軍省に勤務。同年、三科インデペンデント展に出品。一九二三年、丸ビルのライオン歯磨のショールームで建築作品個展を開催。さらに、最初のマヴォ展と対抗するように、岡田龍夫と二人展を開催する。その後は「マヴオ」に加わり、一九二四年末、画廊九段におけるマヴオ展に出品する。後に建築家として活動する。

■門脇晋郎[かどわき・しんろう]  [生没年不詳]

門脇文ともいう。一九二二年、三科インデペンデント展に出品。尾形亀之助を知る。一九二三年、詩人洋画展に出品。第四回中央美術社展に入選。「マヴオ」 の創立同人となる。浅草伝法院における第一回展、つづく神田流逸荘における小品展に出品。二科落選歓迎移動展に際しては、楽器を調達したという。関東大震災後の第二回マヴオ展に参加。その後尾形とともに「マヴォ」から遠ざかる。一九二六年、尾形が創刊した『月曜』誌の編集協力者となる。

■河田憮[かわた・あつし]  [一九〇〇〜一九八八]

東京生まれ。一九二九年に染木姓を継ぐ。東京美術学校在学中の一九二五年、三科公募展に出品、また「牧神の会」 の展覧会に出品した。一九二六年、「単位三科」 の結成に参加。一九二七年、「単位三科」による三科形成芸術展に出品、「劇場の三科」で人形劇を上演した。この年、東京美術学校を卒業、同期生らと上社会を創立。一九二九年以降、戦前は上社会、税樹社、東光会、主線美術協会などの展覧会に出品。一九三四年、南洋群島を巡歴、写生と土俗品蒐集を行った。一九三九年、満蒙、北支を旅行。一九四二年、山西学術調査団、学士院の豪震調査団に参加、民族誌学調査を行った。戦後も上社会に出品した。

■川野徳恵[かわの・とくえ]  [生没年不詳]

茨城県生まれ。一九二三年、東京美術学校図案科第二部に入学。一九二七年、「単位三科」による三科形成芸術展に出品する。一九二八年、卒業製作に《集合住宅》を提出して、東京美術学校建築科を卒業。

■河辺旦日久[かわべ・まさひさ]  [一九〇一〜一九九〇]

新潟県五泉生まれ。日本歯科医学専門学校[硯日本歯科大学]卒業。同郷の画家、安宅安五郎の指導を受ける。一九二四年、母校経営者の子息でもある中原実が開設した画廊九段を拠点とした首都美術展の委員となる。「三科」や「単位三科」 の展覧会に出品。新潟を舞台として活動。

■神原泰[かんばら・たい]  [一八九八〜一九九七]

仙台市生まれ。一九一六年六月創刊の文芸誌『ワルト』の同人として詩を発表。一九一七年、二科展に人選。マリネッティの翻訳など、イタリア未来派の紹介に努める。一九二〇年、丸の内帝国鉄道協会で初個展を開催するとともに、『第一回神原泰宣言書』 を刊行。一九二二年、中川紀元、矢部友衛らと「アクション」を結成し、宣言書を起草。一九二四年、「三科」 の創立に参画。一九二五年、三科会員展に出品したが、内紛のために三科公募展には不出品。「三科」解散後は、矢部友衛らと「造型」を結成。プロレタリア美術運動とは一線を画して、『詩・現実』など文芸で活動。ピカソ研究にも傾注する。

■木下秀一郎【きのした・しゆういちろう]  [一八九六〜一九九一]

福井生まれ。一九一人年、名古屋で北光会展を立ち上げ、新傾向の画風による作品を展示。一九二〇年、日本医学専門学校[現日本医科大学]在学中に、第一回未来派美術協会展に出品。ブルリユークと交流する。一九二一年、第二回展を組織する。一九二二年、福井に移り、同県衛生課に勤務。土岡秀太郎とともに北荘画会を組織する。一九二三年、プルリユークと共著『未来派とは? 答へる』 を刊行。一九二四年、「三科」 の結成を提唱する。一九二五年、三科会員展、三科公募展に参加する。「三科」解散後は、美術運動から遠ざかる。

■久米民十郎[くめ・たみじゅうろう]   [一八九三〜一九二三]

東京生まれ。学習院に学ぶ。一九一四年、ロンドンに留学し、セント・ジョンズ・ウッド美術学校に学ぶ。詩人ユズラ・パウンドと交流。一九一人年、帰国し、文展・帝展に出品。一九二〇年、帝国ホテルで個展を開催。同年九月、渡米。一九二一年、ニューヨークで個展。その後渡欧し、ロンドンとパリを往復しながら制作。パウンド宅で個展。一九二三年、帰国。関東大震災により横浜で死去。

■古賀春江[こが・はるえ]  [一八九五〜一九三三]

本名、亀雄。学んだのち、福岡県久留米生まれ。太平洋画会研究所に日本水彩画会研究所で石井相亭に師事。一九一五年、僧籍に入り良昌と改名。春江と称する。一九一七年、二科展に初入選。一九二二年、二科賞を受賞。中川紀元らと交友し一九二三年、「アクション」結成に参加。第一回、第二回展に出品するが、「アクション」解散後は二科展を中心に発表。一九二六年、二科会会友、一九三〇年、同会会員。三三年、東郷育児らとアヴァン・ガルド研究所の創設を計画するが、病が悪化し同年に没。

■後藤忠光[ごとう・ただみつ]  [一八九六〜一九八六]

秋田県秋田生まれ。旧制秋田中学を卒業後上京、本郷洋画研究所で学ぶ。一九二〇年、第一回未来派美術協会展に出品。一九二一年、四月に版画と詩の雑誌『青美』を創刊、この年ロシア人画家パーヴュル・リユパルスキーに感化された版画を制作し、翌年の日本創作版画協会第四回展に出品した。大震災後、一時秋田に帰り、大場清泉らと秋田美術展覧会を開催、自作と『青美』 の仲間たちの作品を展示する展覧会も開いた。また『秋田魁新報』に直線を多用した挿絵をしばしば掲載した。一九二六年、再び上京し図案家として生計をたてながら版画も制作した。

■小松栄[こまっ・さかえ] [生年不詳〜一九六八]

山形県生まれ。一九二一年、東京美術学校図案科に入学。一九二六年、《劇用各種図案》を卒業制作として提出し、同校を卒業。この年、「単位三科」の結成に参加。一九二七年、「単位三科」による三科形成芸術展に出品、また「劇場の三科」で舞踊を自演した。

■今和次郎[こん・わじろう] [一八八八〜一九七三]

弘前生まれ。東京美術学枚図案科卒業。早稲田大学建築科助手となり、一九二〇年、教授。一九二二年、民家調査の成果である 『日本の民家』を出版。一九二三年、関東大震災後、吉田謙苦らとバラック装飾社を興す。年末から翌年春にかけて分離派建築会の滝沢真弓とバラック装飾論争を行う。一九二五年、考現学調査を始める。一九二七年、新宿紀伊国屋書店で「しらべもの展覧会」を開催。一九三〇年、吉田謙吉との共著『モデルノロデオ』を出版。

■コンチャロフスキー、ピョートル・ベトローヴィチ[一八七六〜一九五六]

ロシア、スラヴヤンカ生まれ。一人八八年、モスクワのストロガノフ美術工芸学枚に学んだ後、一人九七年、パリのアカデミー∴ンユリアン、さらに一人九人〜一九〇五年、サンクト・ペテルブルグの美術アカデミーに学ぶ。一九一〇年、「ダイヤのジャック」グループを結成。一九一一年、サンクト・ペテルプルグの青年同盟展に出品。セザニストとして活動。革命後は、芸術世界展、革命ロシア美術家同盟展に出品。

■佐藤日淋凡[さとう・にちぼん]   [一八九八〜一九九〇]

本名、秀郎。東京生まれ。小学校のころから今村紫紅、尾竹竹吸に絵の指導を受ける。一九一三年、尾竹三兄弟門下による八華会の結成に参加。一九一八年、太田聴雨、小林三季らが結成した青樹社へ真野満とともに参加し、第一回展へ出品。一九二〇年、竹坂門下による日本画前衛グループ八火社の結成に参加。一九二二年、青樹社の一員として第一作家同盟に参加するが、第一回展ののちに脱退。一九二三年、関東大震災のために右腕を負傷し、以後ハーモニカ奏者に転向。一九二七年、ドイツで開催された世界ハーモニカ百年祭コンテストに優勝。一九四二年、全日本ハーモニカ連盟の理事長に就任。一九七五年、久留島武彦文化賞を受賞。

■佐藤八郎[さとう・はちろう]  [一九〇五〜一九九二]

新潟県生まれ。幼少の頃家庭の都合で北海道小樽に移り住む。一九二六年、第二回道展に出品、この年、絵を学ぶために上京した。印刷工場やデザイン会社に勤めるかたわら、江東自由労働組合に参加した。一九二八年、北海道に帰り札幌に喫茶店「ネヴオ」を開業、また、小樽時代に知り合ったアナーキスト畠山清身が編集発行する『文芸ビルヂング』 の表紙を制作、十一月には造型舞踊会を開催して、北海道を訪れた岡田龍夫と舞踊を上演した。一九三〇年、日本プロレタリア美術家同盟中央委員となり、十月に札幌支部を設立。一九三六年、東京に移転し、翌年、東京日日新聞社に画家として入社、定年まで勤務した。

■沢青島[さわ・せいちょう 生没年不詳]

七卿落ちの沢宣嘉伯爵の孫といわれる。ロシア語を学び、作品にロシア語印刷物によるコラージュがある。一九二四年、「マヴオ」に参加、意識的構成主義の小品展と銘打った個展に続いて、意識的構成主義的連続展に参加。その後、ロシア語の能力を活かした通信社に勤務し、フォトモンタージュを制作したという。また、『グライダーの研究』[一九三四年]など、グライダーに関する著作を残している。

■重松宕苫[しげまつ・いわきち 生没年不詳]

アメリカ、ニューヨークのインデペンデント・スクール・オヴ・アートで絵を学んだという。未来派の影響を受ける。一九二〇年、帰国。一九二一年、二科展に人選するとともに、第二回未来派美術協会展に参加。一九二二年、未来派美術協会主催の三科インデペンデント展に出品するが、一九二三年の未来派美術協会習作展後に脱会する。その一方で、「アクション」 の創立に加わり、一九二三年の第一回展、翌年の第二回展に出品。一九二五年にはムロ湾で制作している。

■渋谷修[しぶや・おさむ]   [一九〇〇〜一九六三]

石川県生まれ。木下秀一郎の父の病院で書生をしていたという。一九二一年、第二回未来派美術協会展に出品。未来派賞受賞。翌年、三科インデペンデント展の開催のために尽力。一九二四年、「マヴオ」 の運動に関わる一方、木下が唱道して結成された「三科」の創立会員となる。首都美術展に出品。一九二五年、三科会員展、三科公募展に出品。「三科」解散後、峰岸義一らと主情派美術協会、さらに新興浪漫派などの運動に関わる。一九三〇年、峰岸や玉村善之助らと巴里東京新興美術同盟展開催の母胎となった第三形而同盟を結成する。

■城山吐峰[しろやま・とほう] [生没年不詳]

《カフェーの夜》や《踊り狂ふ群れ》などの版画を制作し、一九二一年四月創刊の 『青美』 に掲載。

■住谷磐根[すみや・いわね 一九〇二〜一九九七]

群馬県生まれ。群馬県立勢多農林学校卒業。一九二〇年、高崎創画研究会第一回展に出品。一九二三年、二科展にイワノフ・スミヤヴィツチ名で送った《工場に於ける愛の日課》が初入選するも、ロシア人名であるがゆえに人選したという非難を浴びせて撤回。関東大震災後、前橋で、意識的構成主義的個展を開催。翌年四月、戸田達雄と前橋で二人展。一九二五年、第二回無選首都展に出品。「三科」解散後は、「単位三科」に参加し、一九二七年、三科形成芸術展に出品。その後、税樹社展、一九三〇年協会展、独立展などに出品。

■須山計一[すやま・けいいち 一九〇五〜一九七五]

長野県飯田生まれ。一九二三年、飯田中学校卒業後、上京、谷中の太平洋画会研究所に通う。政治漫画を措き始める。一九二五年、東京美術学校西洋画科に入学。一九二七年頃、柳瀬正夢と知り合い、同年、日本漫画連盟第一回展に参加し、同機関紙『ユウモア』にも寄稿。桧山文雄の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に参加する。一九二八年、東北地方、北海道などで於山文雄と移動展、半折展を開催し、第一回プロレタリア美術大展覧会に「宇野圭」 の名前で出品。『無産者新聞』嘱託となり、「われらのプロ吉」を連載。その後、一九三三年に検挙されるまでプロレタリア美術運動の中枢部で活動。戦後、日本美術会の結成に参加。

■高木長葉[たかぎ・ちょうよう 一八八七〜一九三七]

本名、量[はかり]。三重県四日市生まれ。はじめ京都の今尾景年に入門するが、十人歳のとき上京し、梶田半古に師事。国画王成会に参加し、巽画会に出品。また写真にも興味をもち、東京写真研究会の会員となる。一九一三年、美術雑誌『スタディオ』[のちに『芸術家』と改称]を創刊する一方、画文社をおこし、美術出版も手がけた。一九二〇年、山内神斧らと蒼空邦画会を創立し、翌年から展覧会を開催。一九二二年、同会の一員として第一作家同盟に参加するが、第一回展ののち脱退。資生堂に入り、意匠部長をつとめ、大正末期の資生堂カラーの形成に尽力した。

■高見沢路直[たかみざわ・みちなお 一ハ九九〜一九八九]

本名、仲太郎。東京生まれ。一九二二年、日本美術学校図案科に入学。三科インデペンデント展に出品。一九二三年、関東大震災後、村山知義らとANTIISM展、さらに第二回マヴオ展に出品。以後、「マヴオ」最左派として活動。首都美術展、三科公募展に出品。「三科」解散後、岡田龍夫とともに、「マヴオ」の活動を続行。その後、落語作家から漫画家に転身。「のらくろ」の田河水泡として活躍。

■田口省吾[たぐち・しようご 一八九七〜一九四三]

秋田県角館生まれ。文学者であり、美術評論家であり、美術雑誌『中央美術』を創刊した出版者でもあった田口掬汀の三男。一九二一年、東京美術学校西洋画科卒業。同年、第二回中央美術展に入選。木版画も試みる。一九二三年、二科展に人選。以後、中央美術展、二科展を中心に出品する。一九二八年、二科会友となる。一九二九年から三二年まで渡仏。一九三二年、帰国。滞欧作を二科展に発表、会員となる。一九三四年、藤田嗣治とともに満州を旅行し、スケッチをする。一九四三年、父の死の五日後に没する。長男は小説家高井有一。

■田中時彦[たなか・ときひこ 生没年不詳]

一九二四年、浅野孟府、岡本唐貴が神戸で結成したグループ「DVL」に参加。一九二五年、「DVL・FORM」展に出品。この年七月、文芸雑誌『横顔』七号の表紙を構成派的幾何学形態で制作。十一月、神戸の芸術家たちによる「エスカアル生誕紀念 絵と詩の展覧会」に素描を出品。写真雑誌『自陽』 にも寄稿した。

■玉村幸之助[たまむら・ぜんのすけ 一八九三〜一九五一]

雅号、方久斗。京都生まれ。京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に進学して日本画を学ぶ。一九一五年、再興院展に初入選し、翌年上京。一九一人年、再興院展で樗牛賞を受賞。原会を結成。一九二二年、雑誌『エポック』を創刊。助を名乗る。一九二四年、一九二一年、村雲毅一らと高第一作家同盟の結成に参加し、前衛美術運動では本名の善之『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』 の発起人となり、「三科」の結成に参加。一九二五年、三科会員展に出品。一九二六年、「単位三科」の結成に参画。一九三〇年、方久斗社を創立。のちに新興美術家協会展を結成し活動した。

■寺島貞志郎[貞志][てらしま・さだしろう 一九〇五〜一九八三]

石川県生まれ。一九二一年、神戸に移り住み淵上白陽のもとで写真雑誌『自陽』を編集する。一九二四年、関東大震災後に神戸に移った岡本唐貴、浅野孟府らと「DVL」を結成。一九二五年、神戸の芸術家たちによる「エスカアル」結成に美術部の作家として参加、十一月開催の「絵と詩の展覧会」に出品。一九二六年、第一回造型展、第二回展に「同僚」に混じって「推薦」として出品、一九二七年の第三回展には「同僚」として出品。一九二八年、第一回造型美術家協会展、第一回プロレタリア美術大展覧会に出品。一九二九年、モスクワ経由で渡仏。翌年帰国、プロレタリア美術運動に参加した。戦後は、岡本らと現実会を結成した。

■東郷育児[とうごう・せいじ 一八九七〜一九七八]

本名、鉄春。鹿児島生まれ。青山学院中学部卒業。一九一四年、投書雑誌『文章世界』にコマ絵を投書。山田耕作の知遇を得る。一九一五年、日比谷美術館にて銀皿社主催により初個展。一九一六年、雑誌『ワルト』 の表紙絵を担当。有島生馬の勧めで二科展に輿パラソルさせる女》を出品し、二科賞を受賞。一九一人年、二科会友。一九二一年、渡欧。パリでダダイストやイタリア未来派と接触。読売新聞にしばしば通信を寄せる。一九二八年、帰国。以後、二科展を中心に活動。

■戸田達雄[とだ・たつお 一九〇四〜一九八八]

前橋生まれ。一九一七年、小林富次郎商店[後のライオン歯磨]に入社。丸ビルの同社ショールームでデザインを担当。一九二三年、未来派美術協会習作展に際して、尾形亀之助を知る。その後「マヴオ」に参加。一九二四年、同郷の住谷磐根とともに、前橋でマヴオ展を開催。同年、片柳忠男とオリオン社を設立し、その後広告業界で活動する。

■富永椰[とみなが・いく 生没年不詳]

一九二五年、『マヴォ』 五号に横械のシルエットを思わせる構成派のリノカットを掲載。萩原恭次郎詩集『死刑宣告』 に富永亥矩の名でそれと同じ版画が掲載された。また 『マヴォ』七号に、戯曲「群集=人間」を翻訳し掲載した。

■外山卯三郎[とやま:うさぶろう 一九〇二~一九八〇]

和歌山県南部町生まれ。北海道帝国大学予科在学中、北大美術クラブ黒百合会に参加。一九二五年、札幌詩学協会を結成するなど、東京の新興美術運動に関心を寄せ、それらを意識した活動を札幌で展開。一九二五年、三科公募展に出品。一九二六年、「単位三科」設立に名を連ねるものの、同年、京都帝国大学に進学。この頃から徐々に運動から離れ、以後、美術批評家として活躍。

■中川紀元【なかがわ・きげん 一八九二〜一九七二]

本名、有賀紀元次。長野県朝日村生まれ。一九一二年、東京美術学校彫刻科に入学するがひと月で退学。太平洋画会研究所と本郷洋画研究所で洋画を学ぶ。一九一五年、二科に初入選。一九一九から二一年までフランスに留学してマチスに師事。一九二二年、「アクション」創立に参加。一九二三年、二科会貞に推される。一九二三年の「アクション」解散後は、二科会を中心に発表。のちに二紀会の設立にも関わった。

■永田一脩[ながた・かずなが 一九〇三〜一九八八]

福岡県門司生まれ。川端画学校に学び、一九二〇年、第一回未来派美術協会展に出品。一九二二年、東京美術学校西洋画科に入学。一九二二年、在学中に帝展に入選。一九二七年、同校を卒業し、労農芸術連盟の分裂を機に、村山知義らと前衛美術家同盟結成に参加。機関紙『前衛』の表紙を担当。同年、第三回造型展に出品。一九二八年、第一回プロレタリア美術大展覧会に出品。一九三〇年、『プロレタリア絵画論』執筆刊行。投獄。その後写真を学び、東京日日新聞社にカメラマンとして入社。戦後は、日本美術会の組織に参加し、日本アンデパンダン展で活躍した。

■仲田定之助[なかだ・さだのすけ 一八八八〜一九七〇]

東京生まれ。美術評論の分野で活躍した勝之助の弟。錦城中学を中退後、高田商会に入社。一九二二年から二四年までドイツに留学。同船した建築家石本喜久治とともに、ベルリンを拠点として、バウハウスなどを訪れる。美術作品のコレクションにも手を染める。帰国後、首都美術展の委員となる。一九二五年、三科公募展に出品し、三科賞を受賞し、会員となる。一九二六年、「単位三科」の委員となり、翌年第一回展に参加。「劇場の三科」 では、山口文象[岡村蚊象]とともに、照明や音響による抽象的な舞台「ファリフォトン舞台形象」を上演。

■永野山方光[ながの・よしみつ 一九〇二〜一九六八]

兵庫県武庫郡[芦屋]生まれ。一九二一年、東郷育児の妻明代[実姉]とともに渡欧。翌年、ベルリンで村山知義、和達知男と行動を共にし、ノイマン画廊で開催された大未来派展やデュッセルドルフ国際美術展に出品。同年末、帰国の途につき、一九二三年、村山とともに「アウグスト・グルツペ」を結成。東京と新潟で展覧会を開催。一九二四年、神戸で個展。第二回無選首都展に出品。その後、映画に転じて、一九二九年、内田吐夢監督「生ける人形」 の美術を担当。

■中原実[なかはら・みのる 一八九二~一九九〇]

東京生まれ。父は東京歯科医学専門学校[現日本歯科大学]の創立者市五郎。同校卒業後、渡米しハーヴァード大学に学ぶ。その後、渡欧し、フランス陸軍に志願して歯科医として勤務。パリでアカデミー・ド:フ・グランド・ショーミュールに通う。青山熊治、広瀬勝平、中川紀元らを知る。西欧各地を遊学。一九二三年、帰国。同年、二科展に入選。一九二四年、第二回アクション展に出品。展評を執筆するなど、理論家としても注目される。同年秋、専門学校の敷地内に画廊九段を開設するとともに、同校卒業生を中心に首都美術展を創設し、同所で第一回展を開催。「三科」結成に際して創立会員となり、翌一九二五年の三科会員展、三科公募展に出品する。「三科」解散後、一九二六年、玉村善之助らと「単位三科」を結成し、翌年の「単位三科」による三科形成芸術展に参加。「劇場の三科」 では自作の演劇「蒼弓の尺度」を上演。その後、第一美術協会や二科展で活躍。戦後は、日本歯科大学長、日本歯科医師会会長等の役職を歴任した。

■奈良岡昂[ならおか・たかし 生没年不詳]

北海道生まれ。一九二二年、札幌で黒土社の結成に参加。一九二四年十月、札幌丸井にて個展を開催。「ダダイズムの作品」として《即興四十三、弧線によりて限定したる主として宋音黄と緑の色彩対称》が新聞に掲載される。一九二五年、北海道美術協会[道展]の創立会員。カンディンスキーに傾倒したといわれ、抽象的な絵柄の第二回展ポスター、道展記章などをデザイン。

■難波慶爾[なんば・けいじ 一九〇〇〜一九二四〕

岡山県生まれ。児島虎次郎と多々羅茂雄に師事。岡山の竜羅社展に出品。中央美術展に人選二回。一九二二年、二科展に入選。「アクション」 の結成に参加し、第一回展、第二回展に出品。関東大震災後、神戸で岡本唐貴や浅野孟府と起居を共にする。病没後、神戸のカフェー・ガスで遺作展が開催される。

■野川隆[のがわ・たかし 一九〇一〜一九四四]

千葉県生まれ。東洋大学を中退。一九二三年、兄の野川孟編集の美術文芸雑誌『エポック』六号が特集したマックス・ウエーバー立体派詩集の翻訳を手がける。一九二五年、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を編集、また自作の詩などを掲載した。『マヴオ』 七号に詩を寄せる。この年、三科公募展に出品。一九二六年、「単位三科」 の結成に参加。一九二七年、「単位三科」にょる三科形成芸術展に出品、また「劇場の三科」で舞踏を自演し、さらに群集劇を演出した。その一方で、『文党』 『戦旗』 『太鼓』などに作品を発表、その間に共産主義に傾斜してナツプに参加。一九三七年、満州にわたり、満洲日日新聞嘱託として働きながら、『九篇詩集』 などの詩集を刊行した。

■萩原恭次郎[はぎわら・きょうじろう 一八九九〜一九三八]

本姓、金井。群馬県勢多郡生まれ。一九一人年、前橋中学を卒業、川路柳虹の 『現代詩歌』 に参加する。一九二〇年、『日本詩集』 に詩が掲載され、その年日本詩話会の会員となつた。一九二二年、『種蒔く人』 に寄稿。一九二三年、壷井繁治らと 『赤と黒』を創刊し、アナーキスト詩人として注目された。一九二五年、岡田龍夫、村山知義とともに、復刊した雑誌『マヴオ』 の編集に携わり、自らも詩や美術作品を寄せた。この年十月、第一詩集『死刑宣告』を刊行。一九二六年、「マヴオ大聯盟再建に就て」と題する声明文に署名。昭和初期には、『文芸解放』 『バリケード』 『弾道』 『黒色戦線』などに詩や評論などを発表し、アナーキズムの立場を主張した。

■橋本錦永[はしもと・きんえい 生没年不詳]

一九二四年、『マヴオ』 三号にリノカット《発端》を寄せる。一九二五年、四月開催の無選首都展に出品。一九二六年、横井弘三が開催した理想大展覧会に出品。一九二八年、第一回プロレタリア美術大展覧会に出品、その後、第四回展まで毎回出品した。

■浜岡周忠[はまおか・ちかただ 一八九五〜一九六六]

山口県萩生まれ。一九一五年に蔵田家を継いだために蔵田周忠としても知られる。一九一三年、早稲田工手学校建築科卒業。一九一五年、曾禰中催事務所に入所。一九二〇年から二一年、早稲田大学理工学部に学ぶ。一九二一年から二二年、平和記念東京博覧会の技術員として分離派建築会のメンバーであった堀口捨巳、滝沢真弓らを知る。その後、関根要太郎建築事務所で働くが、一九二三年、分離派建築会同人となる。一九二八年、近代的デザインに基づき量産を目的とする「形而工房」を設立する。一九三一年、ドイツに向田学。バウハウスのデザイン思想を日本に伝え、実作者、教育者として大きな影響を残した。

■浜田増治[はまだ・ますじ 一八九二〜一九三八]

兵庫県揖保生まれ。一九一五年、第三回赤鳥会展に抽象的な絵柄の油彩画を出品して注目される。一九一六年、東京美術学校中退。一九一九年、ライオン歯磨衣装部に入社。一九二一年、デザインの事務所「商業美術研究会」を開設。「商業美術」という表現を用いた最初期の事例。一九二六年、商業美術家協会を創立し、「商業美術家協会設立趣意」を起草し、発表。さらに、丸ビル内丸菱呉服店を会場に商業美術展覧会を開催。一九二八年、『現代商業美術全集』全二十四巻[アルス社]を監修。「商業美術」 の普及に貢献した。

■原弘[はら・ひろむ 一九〇二~一九八六]

長野県飯田生まれ。一九二一年、東京府立工芸学校[現東京都立工芸高校]印刷科を卒業後、母校に教員として残り教鞭をとるかたわら、バウハウスの影響を受けて制作を開始。一九二五年、三科公募展に出品。一九二八年、第一回造型美術家協会展に《無産者新聞ポスター》を出品するが、撤去を命じられる。一九三一年、『新活版術研究』を編集・翻訳・執筆。一九三三年、日本工房[第一次]に参加。一九三四年、中央工房を設立。戦後は日本を代表するグラフィック・デザイナーとして活躍。

■パリモフーヴィクトル・ニカンドロヴィチ 一八八八〜一九二九]

ロシア、サマラ生まれ。ベンザ美術学校卒業後、モスクワ絵画彫刻建築学校でも学ぶ。一九一九年から極東ロシアで活動する。「線の猫」、「創造」に参加する。一九二〇年、来日。「日本に於ける最初のロシア画展」に出品。一九二一年、国民美術協会で特陳。帰国し、チタの芸術学校で教える。翌年、モスクワに移る。一九二三年、「レフ」[芸術左翼戦線]に参加。一九二五年、キエフ美術学校で教壇に立つ。[

■日名子実三[ひなご・じつぞう 一ハ九三〜一九四五]

本名、実蔵。大分県北海部郡生まれ。東京美術学校彫塑科を卒業後、一九一九年、帝展に初入選。朝倉文夫らが結成した東台彫塑会に参加。一九二六年、斎藤素巌とともに構造社を創立。一九二七年、渡欧し、一九二九年、帰国。構造社展に出品するが、一九三二年、斎藤素巌の退会に端を発した日名子排斥論に展覧会出品作撤回を要求し、会員と対立して退会。一九三五年、反帝展を掲げて第三部会を設立。以後、同会を主な発表の場として制作。一九四〇年、紀元二千六百年を奉祝して宮崎に《八紘之基柱》[現平和の塔]を建設。

■平戸廉吉[ひらと・れんきち 一八九三〜一九二二]

本名、川畑正一。大阪生まれ。上智大学を中退。報知新聞記者を経て日本美術学院に勤務、『中央美術』 の編集部記者として働く。川路柳虹の曙光社に入り、『現代詩歌』 『炬火』 の中心同人として活躍。一九二〇年、未来派美術協会結成に関わる。一九二一年、『日本詩人』創刊号に未来主義の思想を取り入れた詩を発表、十二月に『日本未来派宣言運動』 のリーフレットを日比谷街頭で撒布したといわれる。一九二二年一月、『日本詩人』 に「私の未来主義と実行」を発表、同二月、『炬火』 に日本における未来派詩の代表作となる《合奏》を発表した。

■フィアラ、ワッラフ [一八九六〜一九八〇]

チェコ、プラハ生まれ。三歳で両親とともにロシアに移住。ハリコフ美術学校に続いて、ベトログラード美術アカデミーに学ぶ。一九一九年、ウラジオストクに至る。雑誌『創造』記者となる。ブルリユークの妹マリアンナと結婚。一九二〇年、来日。「日本に於ける最初のロシア画展」に出品。翌年、二科展、第二回未来派美術協会展に出品。その後、ウラジオストクに滞在した後、チェコスロヴァキアに帰国。

■船崎光次郎[ふなざき二」うじろう 一九〇〇〜没年不詳]

兵庫県生まれ。光治郎と同一人物と思われる。日本画家のグループ赤入会同人。一九二二年、第一作家同盟創立同人。同年、同盟解散後、革新「蒼空邦画会」を結成。一九三一年、第一回日本版画協会展に入選。第二回展に出品し会員に推挙された。第四回展まで連続出品する。一九四一年、協会退会。この年、『図説樺太の高山植物』を樺太庁より出版した。

■ブブノワ、ワルワーラ・ドミトリエヴナ[一八八六〜一九八三]

ロシア、サンクト・ペテルブルグ生まれ。一九〇七年、帝室美術院附属高等美術学校[通称、美術アカデミ⊥絵画科に合格、翌年正式に入学。一九一〇年、ロシア・アヴァンギャルドのグループ青年同盟の展覧会に出品し始める。一九一四年、美術アカデミー卒業。一九一七年、モスクワに移る。一九二〇年、芸術文化研究所[インフク] の所員となる。一九二二年、来日し、二科展、三科インデペンデント展に出品。この年ロシア構成主義の紹介論文を 『思想』 『中央公論』 に掲載した。一九二三年、「マヴオ」 のメンバーと交流。一九二四年、「三科」創立に加わり、翌年九月の三科公募展に出品。一九三二年、個展で色彩豊かな石版画を発表。その後は主にモノクロームの石版画を制作した。一九五人年、帰国し、スフミで画家として活躍した。

■普門暁[ふもん・ぎょう 一八九六〜一九七二]

奈良県奈良生まれ。東京高等工業学校[現東京工業大学]で建築意匠を学ぶ。中退して、川端画学校に日本画を学び、暁水と号す。油彩画も始め、一九一七年、太平洋画会展、二科展に人選。この間、巽画会絵画研究会でも活動する。一九二〇年、伊藤順三らと未来派美術協会を結成し、第一回展を開催。来日したブルリユークと交流する。同年、赤松麟作、斎藤与里らと求画芸術院にて指導する。一九二二年、運営をめぐる内紛により未来派美術協会から除名される。その後は、デザイン界でも活躍する。

■ブルリューク「ダヴィト・ダヴィドヴィチ[一八八二〜一九六七]

ロシア、ハリコフ生まれ。カザンとオデッサの美術学校に学んだ後、一九〇二年、ミュンヘンの美術アカデミー、一九〇四年、パリのフエルナン・コロモンのアトリエに学ぶ。一九一一年、詩人マヤコフスキーらと「ギレヤ」グループを結成し、ロシア未来派の中心作家として文芸活動に従事。ミュンヘンのカンディンスキーと交流し、「青騎士」展に参加。革命後、極東ロシアに移り、一九二〇年、来日。「日本に於ける最初のロシア画展」を開催。未来派美術協会や二科展に出品。一九二二年、アメリカに移住。一九二三年、木下秀一郎との共著『未来派とは? 答へる』が出版される。

■牧寿雄[まき・ひさお 生没年不詳]

一九二四年、マヴォイストとして活動したか。一九二五年二月、東京から関西に移り住み、京都で街路展を行った。この年、神戸で第一没落期作品展覧会を開催。また雑誌『マヴォ』 に、神戸での活動や先述の展覧会に出品したと思われる作品図版を関西から寄せた。一九二六年、京都で舞台模型映画セット展覧会を開催し、関連企画としてマヴオ創作舞踊発表会を開いて舞踊を上演した。一九二七年、関西の構成派、ダダイストらが結集したという第一回形成芸術協会展に出品。またこの年、『マヴオ染織図案集』 や『新希臓派模様』を刊行、さらに京都染織界の新人たちと組んで織染芸術研究連盟を組織し展覧会を開催、服飾を通して芸術と産業の一体化を図った。

■牧島貞一[まきしま・ていいち 一九〇五〜没年不詳]

別名、神田一雄。長野県飯田生まれ。一九二三年、飯田中学を卒業。上京し洋画を学んだ。一九二五年、第三回無選首都展、三科公募展に出品。一九二八年、第一回造型美術家協会展、第一回プロレタリア美術大展覧会に出品。一九二九年、第二回展に出品した。その後、木村伊兵衛について写真を学んだ。さらに映画に転じ、戦後はテレビ界で活動した。『炎の海』 などの著作がある。

■松山文雄[まつやま・ふみお]

長野県飯田生まれ。一九二五年、一九〇二〜一九八二]一九二四年、上京、岡本帰一に師事した。三科公募展に出品。一九二六年、横井弘三の理想大展覧会に出品。一九二七年、第一回日本漫画連盟展に出品。日本プロレタリア芸術連盟に参加。一九二九年、第二回プロレタリア美術大展覧会に出品。以降、一九三一年の第四回展まで毎回出品した。一九三二年、新ニッポン童画会結成に参加。一九三五年、壷井繁治らの 「サンチョクラブ」に参加、翌年の近代漫画展に出品。戦後は日本美術会の結成に参加、日本アンデパンダン展などに出品した。

■真野満[まの・みつる 一九〇一〜二〇〇二] 

東京生まれ。十五、六歳のとき一時尾竹竹薮に絵の指導を受ける。一九一人年、佐藤日梵の勧めで日本画研究団体、青樹社に参加。一九二二年、青樹社の一員として第一作家同盟に参加するが、第一回展ののちに脱退。その後、京都に移り一九二七年、京都市立絵画専門学枚[現京都市立芸術大学]を卒業。再び上京し、一九二三年、安田牧彦に師事。翌年、第五回院展に初入選。一九二六年より法隆寺金堂壁画模写に従事し、五号壁画を担当。一九四一年、第二十人回院展で日本美術院第三賞を受賞。戦後も院展で活躍し、一九五七年、第四十二回院展で日本美術院賞を受賞するとともに同人となる。一九七一年、文部大臣賞、一九八〇年、内閣総理大臣賞を受賞。

■三浦束三[みうら・とうぞう 生没年不詳]

村山知義の母方の叔父三浦守治の子息。村山の上落合の自宅近所に住み、尾形亀之助がその隣家であった時期があった。一九二四年、『マヴオ』 誌に作品が掲載される。早世したという。

■溝口稠[みぞぐち・しげる 生没年不詳]

北海道生まれか。一九二四年、アナーキスト詩人らの詩誌『赤と黒』終刊後に創刊した同傾向の雑誌『ダムダム』の同人となり、同誌に二科の展評と詩を寄稿した。また表紙を制作したという。一九二五年、『世界詩人』 や『マヴォ』 に詩を寄せる。一九二六年、横井弘三の理想大展覧会に出品。一九二八年、第六回春陽会展に出品、その後一九三二年の第十二回展まで毎回出品した。その後北海道に移り住み、絵画制作を続ける。一九四一年、菊屋ギャラリーで北海道を描いた油彩画による個展を開催。一九七四年、埋蔵文化財の保護によって、第十回北海道文化財保護功労賞を受賞した。

■村雲毅一[むらくも・きいち 一八八三〜一九五七]

雅号、大操子。東京生まれ。一九一二年、慶応義塾大学文学部に入学。一九一五年、同学部を中退。このころ名古屋の石川柳城に南画を学ぶ。また白馬会洋画研究所にも学び、演劇活動も行った。一九一六年、台湾へ渡り、その後中国各地をめぐり一九一人年に帰国。一九二一年、玉村善之助らとともに、高原会を創立し、展覧会を開催。翌年、同会の一員として第一作家同盟に参加する。同盟は第一回展を開催したのみで、一九二三年に解散。同年、東銀座に小林源太郎らと東京商業広告図案社を設立するが、関東大震災により解散。一九二五年、日本プロレタリア文芸連盟に参加、委員長も務めた。前衛座の演劇にも参加。一九二八年、玉村善之助らと万華鏡社を結成。一九三一年、川合玉堂の門下となる。一九三六年から三七年まで文展に出品。一九四二年、青鸞社を結成。戦後は日本美術会の創立に参加し、日本アンデパンダン展にも出品。独自の南画風を追求しながら、中国の画家、惇南田の研究も行った。

■村山知義[むらやま・ともよし 一九〇一〜一九七七]

東京生まれ。開成中学、一高に学び、東京帝大を中退して、一九二二年一月、渡独し、主にベルリンに滞在。東西ヨーロッパのアヴァンギャルドと交流する。一九二三年一月、帰国して、意識的構成主義を唱え、個展を連続的に開催。「マヴオ」 の結成に参画。関東大震災後は、指導者として運動を率いる。制作活動に加え、バラック装飾、美術批評、パフォーマンス、小説、翻訳など、多岐にわたり活動。一九二四年、国民美術協会主催の帝都復興草案展に「マヴオ」として参加。雑誌『マヴオ』を創刊し、欧米の前衛美術雑誌のネットワークに参加する。「三科」 の結成に参加。同年末、築地小劇場公演のカイザー原作「朝から夜中まで」 の舞ムロ装置を担当し、「構成派舞台」として注目される。一九二五年、三科会員展、「劇場の三科」、三科公募展に参加。河原崎長一郎らと心座を結成。「三科」解散後は、左傾化し、日本プロレタリア文芸連盟の創立大会に参加。以後、演劇を中心にプロレタリア芸術運動の主要な担い手となる。

■望月桂【もちづき・かつら 一八八七〜一九七五]

筆名、犀川凡太郎。長野県東筑摩郡生まれ。一九一〇年、東京美術学校西洋画科を卒業する。一九一六年、神田で「へちま」を屋号とする氷水屋を開業、同年谷中へ移って一膳飯屋に転業した。この時期に久板卯之助ら社会主義者と知り合った。一九一七年、平民美術協会を創立、大杉栄を知る。一九一九年、黒濯会を結成、翌年四月、第一回展を開催、十一月に第二回展を開催した。一九二一年と翌二二年、民衆芸術展を開催、一九二二年には大杉栄との共著『渡文漫画』を出版した。一九二六年、横井弘三の理想大展覧会に出品。一九二八年以降、新聞社や出版社で漫画を描く。一九三人年には漫画同人雑誌『バクショー』を発行した。一九四五年、長野県に疎開したのを機に、以後同地に居住した。

■森谷延雄[もりや・のぶお 一八九三〜一九二七]

千葉県佐倉生まれ。一九一五年、東京高等工業学校[現東京工業大学]工業図案科卒業。清水組設計部に勤務。多くのインテリアを手がける。一九二〇年から二二年まで、海外派遣。帰国後の一九二三年、東京高等工芸学校[現千葉大学工学部]木材工芸科教授に迎えられる。同年、標準家具メッセを提唱し、木材工芸学校主催で実現。一九二七年、新しい家具の創出を目標に「木のめ舎」を設立し、展覧会を企画するが、その実現の前に夫逝した。

■柳川椀人[やながわ・かいと 生没年不詳]

一九二五年、第二回無選首都展に出品。この年、雑誌『マヴオ』にダダ的な詩や構成派的な版画を寄せるなど、マヴォイストとして活動。一九二六年、岡田龍夫、矢橋公麿文責「マヴオ大聯盟再建に裁て」と称する声明文に署名。この年、アナーキズム雑誌『NNK』を創刊した。一九二七年、北原千鹿を中心に結成された工人社に参加するが、翌年退会した。また工人社結成と同じ頃、同社同人の信田不洋らと舞台装置社を結成、一九二八年に展覧会を開催した。

■柳瀬正夢[やなせ・まさむ 一九〇〇〜一九四五]

本名、正六。愛媛県松山生まれ。門司で洋画を独習したのち、一九一四年、上京して日本水彩画研究所に学ぶ。一九一五年、院展に初入選、また北九州で小倉分離派洋画協会の活動に参加。一九二〇年、長谷川如是閑の紹介で読売新聞社に入社。一九二一年、第二次『種蒔く人』同人となる一方、第二回未来派美術協会展に穴明共三の名で出品。一九二三年、「マヴォ」を結成、また秋田雨雀の先駆座に参加して舞台美術を担当した。一九二四年、「三科」創立に参加、翌年、三科展に出品、「劇場の三科」に出演した。「三科」解散後、『無産者新聞』の専属画家となる一方、日本プロレタリア文芸連盟の創立に参加。以降、本格的にプロレタリア芸術運動を推進した。一九二六年、日本漫画家連盟を創立。一九二八年、個展開催。

■矢檎公麿[やはし・きみまろ一九〇三〜一九六四]

本名、丈吉。岐阜県に生まれるが、幼少時に北海道雨竜都に移り住む。一九二〇年、上京。一九二三年、公麿の名を用いる。同年、二科展入選の住谷磐根作品の入選撤回を求めて村山知義らと抗議行動を起こした。一九二四年、意識的構成主義的連続展を開催したり、雑誌『マヴオ』に詩やリノカットを寄せてマヴォイストとして活動した。一九二五年、復刊した 『マヴオ』 にリノカットなどを掲載する一方、第二回無選首都展に出品。一九二六年、岡田龍夫とともに「マヴォ大聯盟再建に就て」と称する声明文を起草。『太平洋詩人』に参加し、以降、『文芸解放』 『バリケード』 『単騎』 『悪い仲間』[『文芸ビルヂング』]、『自由聯合新聞』 『黒色文芸』 『矛盾』などのアナーキスト系文芸雑誌に詩や創作を掲載し、文芸の分野で活動した。一九三〇年代、オリオン社に勤務し、雑誌、単行本編集者となった。戟後、「組合書店」を創業。

■矢部友衛[やべ・ともえ  一八九二〜一九八一]

二新潟県村上生まれ。東京美術学校日本画科を卒業。行樹社に参加。一九一人年、渡米し、翌年にはパリに渡る。モーリス・ドニヤアンドレ・ロートの影響を受ける一方、中川紀元を知る。一九二一年、ベルリンに滞在。一九二二年、帰国し、二科展に入選。「アクション」を結成する中核となり、第一回展、第二回展に出品。一九二四年、「三科」の創立に参画し、翌年、三科会員展、三科公募展に出品。一九二五年、「三科」解散後、旧「アクション」系の作家と「造型」を結成。一九二六年、訪ソし、翌年、新ロシヤ美術展を実現する。その後、プロレタリア美術運動に関わる。戦後は、一九四六年、岡本唐貴らと現実会を結成。

■山上嘉吉[やまかみ・かきち 一九〇一〜一九九一]

京都生まれ。一九二三年上哀し、築地小劇場の道具方となる。一九二五年、三科公募展に出品。「三科」解散後は、「造型」に参加。銀座・松屋デパートのショーウインドーなどをデザイン。内橋洪三の名でプロレタリア美術大展覧会に出品。

■山口栄一【やまぐち:えいいち 一九〇六頃〜没年不詳】

一九二三年に創宇社を結成した岡村蚊象の実弟とされる。結成後の創宇社に参加した。一九二六年、「単位三科」の結成に参加、翌一九二七年の「単位三科」による三科形成芸術展に出品。

■山越邦彦[やまこし・くにひこ 一九〇〇〜一九八〇]

東京生まれ。一九二五年、東京帝国大学建築学科卒業後、戸田組に入社。一九二六年、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』誌に寄稿。「単位三科」に加わり、翌年の第一回展に出品。一九三三年、実験住宅DOMOD−NAMH只Aを建てる。一九三六年、建築事務所を開設。一九四一年、柳瀬正夢の三鷹の自宅を設計。戦後は法政大学や横浜国立大学で教壇に立つ。一九六一年、朝日新聞への投書記事が中性洗剤公害問題化の契機となる

■山崎清[やまざき・きよし 一九〇一〜一九八五]

埼玉県生まれ。一九二三年、東京歯科医学専門学校[親日本歯科大学]卒業。一九二四年、首都美術展の委員となる。一九二五年から三〇年まで、歯科医学研究のためにパリ留学。一九二六年、国外にあったが、「単位三科」の委員となる。

■山里栄吉[やまさとえいきち 一九〇二〜一九八九]

那覇生まれ。一九二三年、沖縄県立第一中学校[現県立首里高校]より日本美術学校に編入学。一九二四年、「マヴォ」 による意識的構成主義的連続展に参加。雑誌『マヴォ』創刊号の表紙に作品《立つてゐる男》が掲載される。一九二五年、本作が村山知義作として、エル・リシツキーとハンス・アルプ編 『諸芸術主義Die KunsTismen』 に収録される。同年、三科公募展に出品。一九二六年、「単位三科」に参加し、翌年の三科形成芸術展に出品。戦後は、沖縄で博物館長などを歴任した。

■山路壱太郎[やまじ・いちたろう 一九〇〇〜一九六九]

所沢生まれ。真護と号す。所沢市工業学校卒業後、京都市立絵画専門学校[現京都市立芸術大学]に進むが、中退。一九二二年、三科インデペンデント展に出品。一九二四年、遠縁にあたる中原実を中心とする首都美術展の創立に際して委員となる。一九二六年、「単位三科」 の委員。一九二九年、第一美術協会展に出品。一九三〇年から三二年まで、渡欧。帰国後は、二科で活動し、九室会にも参加。

■山内神算[やまのうち・しんぶ 一八八六〜一九六六]

本名、金三郎。大阪府尼崎市生まれ。最初梶田半古に入門したのち、東京美術学校日本画科へ入学し、一九一〇年、同枚を卒業。翌年、大阪平野町に美術店「吾人」を開店。一九一四年、再び上京。翌年、京都において日本画研究会である密栗会に参加。一九一六年、文展に初入選。一九二一年、小林源太郎とともに朝鮮、満州を遊歴。同年、高木長乗らとともに蒼空邦画会を設立。翌年、同会の一員として第一作家同盟の結成に参加するが、第一回展ののち脱退。一九二四年、雑誌『主婦の友』 の美術記者となる。一九二五年、主婦の友社事業部長、一九三三年、取締役となる。一九三七年、同社を退社し、大阪急百貨店嘱託となる。

■山本行雄[やまもと・ゆきお 一九〇二〜一九六二]

北海道国後島生まれ。函館中学卒業後、一九二〇年、独学で学んだ絵で二科展に入選。有島武郎の知遇を得る。一九二一年、函館で赤光社を結成。一九二二年、「アクション」 の結成に参加。一九二三年、第一回展、翌年の第二回展に出品。この間、しばしば 『みづゑ』等に寄稿する一方、二科展や中央美術展に出品する。

■山脇巌[やまわき・いわお 一八九八〜一九八七]

本姓、藤田。長崎県対馬生まれ。一九二六年、東京美術学校図案科卒業。横河工務所に勤務。「単位三科」と翌年の第一回展に参加する一方、伊藤薫朔と千田是也らの人形座に加わる。一九二八年、山脇道子と結婚し、山脇家に入る。一九三〇年、渡独し、三二年までバウハウスに学ぶ。一九三三年、建築設計事務所を開設。一九三五年、帝国美術学校講師。戦後は、日本大学芸術学科教授として教壇に立つ。

■横井弘三[よこい・ひろぞう 一八八九〜一九六五]

長野県飯田に生まれるが、幼少時に東京に移り住む。一九一〇年、早稲田大学商科を中退。独学で絵を学ぶ。一九一五年、第二回二科展に出品し、樗牛糞受賞。翌年、二科賞受賞。一九二二年、二科の会友となる。一九二四年、関東大震災後の東京と横浜の小学校への「贈り絵」として制作した油彩画が二科に落選、「三科」結成に加わった。また、「無選」を掲げる第一回首都美術展に出品。一九二五年、三科会員展、三科公募展に出品し、「劇場の三科」 でも演じる。一九二六年、東京府美術館落成記念展として開催の第一回聖徳太子奉賛美術展覧会に対抗して理想大展覧会を開催。一九二九年、童心芸術社を結成、翌年同社主宰の日本アンデパンダン展を開催。一九四四年、長野に疎開し、そのまま移り住む。

■横井礼市[よこい・れいいち 一八八六〜一九八〇]

本名、礼一。のちに礼以[れいい]と号す。愛知県生まれ。白馬会研究所に学んだのち、東京美術学校西洋画科に入学。卒業後、一九一四年、文展に初入選。一九一七年から二科展に出品。一九一九年、○年、緑ヶ丘洋画研究所を創立。 二科止貫受賞。一九三一九四七年、二紀会を設立。

■横山潤之助[よこやま・じゆんのすけ  一九〇三〜一九七二]

東京生まれ。私立京北中学校在学中に渋沢秀夫の指導で油彩画を試みる。一九二〇年、川端画学校に学ぶ。一九二一年、二科展に初入選。一九二二年、中央美術展に初入選。同年、二科展で樗牛賞受賞。のちの「アクション」同人たちを知り、十月の結成に参加する。翌年の第一回展には十六点に及ぶ作品を発表する。一九二四年、第二回展に参加。二科展で二科賞受山貫。「アクション」解散後、山本行雄と「ヴュルム」を結成。一九二五年、二科会友となる。一九二九年から翌年に渡欧。その後、制作を中断し、晩年に再開する。

■吉田謙吉[よしだ・けんきち 一八九七〜一九八二]

東京生まれ。東京美術学校図案科に在学中、飛鳥哲雄らの尖塔社に参加。一九二二年、「アクション」の結成に参加し、翌年の第一回展に出品。関東大震災後、今和次郎のバラック装飾社に参加。一九二四年、第二回アクション展に出品。築地小劇場の創立メンバーとして舞台装置を担当。「三科」の創立会員となり、翌年の三科会員展、三科公募展に出品。「劇場の三科」では開幕劇「釦」を演出。「三科」解散後は、「造型」に参加。その後、舞台美術家として活動するかたわら、今和次郎と考現学を実践する。

■吉原義彦[よしはら・よしひこ 一九〇〇〜一九五八]

別名、大沼道夫。新潟県生まれ。一九二五年、三科公募展に出品。同年十一月に「造型」を結成し「同僚」となる。一九二六年、第一回造型展、第二回展に出品、翌一九二七年の第三回展にも牡品した。一九二八年、「造型」再編に加わり、再編後の造型美術家協会の第一回展に出品。この年開催の第一回プロレタリア美術大展覧会に出品、以後一九三二年の第五回展まで出品を続けた。一九三六年、入江比呂らと大踏会展を開催。

■古都二郎[よしむら・じろう 一八九九〜一九四二]

本姓、吉村。長崎県生まれ。図案科卒業。「アクション」に出品。その後、挿絵画家、東光の新聞連載小説の挿絵、一九二二年、東京美術学校の結成に参加し、第一回展デザイナーとして活動。今川端康成の小説の装帳、藤蔭静樹の藤蔭会公演の舞台装置などを手がける。一九二した。

■リユバルスキー、パーヴェル・ワシーリエヴィチ[一八九一〜一九六八]

ロシア、ハバロフスクに生まれる。一九〇四年、モスクワ絵画彫刻建築学校に入学。一九一五年、第一次世界大戦のためハバロフスクに帰る。一九一人年、ロシア未来派のグループ「緑の猫」を結成、宣言を執筆した。一九一九年から二〇年、「緑の猫」 の展覧会に出品するとともに、自作のリノカットを『版画集』や版画集『三人』などに掲載、また自作リノカットによる版画集『娼婦』などを発行した。一九二〇年、ウラジオストクに移り未来派雑誌『創造』 や新聞『赤旗』 にリノカットを掲載、さらに雑誌『耕作者の悲哀』や『台風』、『沿海地方の灯』などを編集した。一九二八年、モスクワに移り住み「教育出版社」を設立、編集者として活躍した。一九二〇年にブルリユークらが来日した際、リエバルスキーのリノカットとともに原版が将来された。

■和達知男[わだち・ともお 一九〇〇〜一九二五]

名古屋生まれ。開成中学、一高を経て一九二一年、東京帝国大学文学部哲学科に入学。同年、ベルリンに留学。開成中学で同級だった村山知義とベルリンで前衛美術運動に参加。一九二三年、ベルリン無鑑査展覧会に炎眼鏡をかけた自画像》など四点を出品。ドイツでは美術のみならず演劇や詩との関わりをもつが、一九二四年、体調を崩して帰国。翌年早世した。[N]八年、主情派美術会の結成に参加。同年の第一回展、翌年の第二回展に出品。

■寄本司麟[麟二][よりもと・しりん 生没年不詳]

一九二五年、三科公募展に出品する。一九二八年、第一回造型美術家協会展、第一回プロレタリア美術大展覧会に出品する。以降、一九三二年の第五回展まで毎回出品した。