第1章1900―1923

第1章 1900―1923

  1900年1月12日松山市に生まれた。柳瀬正夢(正六)は、11歳で福岡県門司市(現北九州市)に移り、大陸との玄関口として国際的空気が濃厚に漂うこの地で少年期を過ごした。小倉で見た洋画展覧会をきっかけに画家を志望する。1914年父の反対を押し切り上京を果たす。光の存在感を点描の繊細なタッチで表現した「河と降る光と」第2回院展に入選する。小宮豊隆の賞賛を受け、一躍天才少年として注目を集めるようになる。

河と降る光 NE1390724803892

 

1919.裸婦 1920.自画像

1915角笛を吹く女 1915工場がえりの女工さんたち

1916.父母

 柳瀬は、天草、阿蘇、伊予、房総など様々な土地を訪れ、その風景をスケッチやキャンバスに描きとめた。

1919.ほのかな晩景色

1915.風景 1916.風景 1917.温泉場 1917.村の山寺 1917.冬の山 1921.お茶の水風景1920年門司

 少年時代を松山(愛媛県)、門司(福岡県)で過ごした柳瀬は、1914年に最初の上京を果たします。未来派美術協会やマヴォといったグループに参加し、最先端の芸術思潮を次々と吸収しながら、その多彩な才能を開花させていきました。

未来派・マヴォの影響を受けたと見られる作品

1922.仮睡 1922.底の復報 1923.ヤア失敬1923年五月の朝と朝飯前の私

 10代から20代の前半にかけて、それは丁度大正期と重なるが、最先端の芸術思潮を次々と吸収しながら、柳瀬は、その多彩な才能を開花させていったのである。

■展覧会の感想

 まず初期の油彩風景が圧巻。明らかにセザンヌの感化が際立つが、濃緑と青と赤紫の醸す不思議な響き合いには独自の禍々(まがまが・不吉)しい表出力があり、早熟な天才ぶりを印象づける。彼の暮らした北九州の街景(→《河と降る光と》1915 →《門司》1920)や、好んで旅した佐賀関(大分)や阿蘇山の風景がその芸術形成に果たした役割に思い至る。本展は北九州市立美術館が中心になって企画されたところから、個々の風景がいつ、どこを描いたものであるかの同定や考証にも抜かりがない。併せて、若き日の柳瀬を支援した門司のパトロンたちの存在にも言及される。
1920年の上京を機に柳瀬の作風は劇的に変化し、うねるように流動的な風景(→《川と橋》1921頃)から抽象性の強いダダ的な実験作→《五月の朝と朝飯前の私》1923)へと目まぐるしく移り変わる。村山知義と出逢い、前衛集団「マヴォ」の創設に加わるのもこの時代だ。ただし、本展では当時の彼の尖端指向をあえて強調せず、むしろ一過性のものだと云わんばかりにやり過ごし(先年ここで観た村山知義展との決定的な違いだ)、むしろ彼と演劇との係わり(秋田雨雀らが主宰する先駆座での舞台装置)の重要性を示唆するあたり独自の着眼がなかなか面白い(本展カタログには西澤晴美氏の興味深い論考がある)。