萬 鐵五郎

萬 鉄五郎

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 日本と西洋の問題と日本美術の特色の問題の両方を考えさせる日本近代の重要な画家は萬鐵五郎だろう。 鐵五郎は、特に「裸体美人」「もたれて立つ人」(挿図参照)で知られている画家である。前者は後期印象派からフォーヴィスムをいち早く取り入れた野心作とされ、後者は、「日本的キュビスム」の記念碑的作品として評価されている。この従来の評価は固定的に寓のレッテルとして付きまとってきたが、本当にそうなのか疑問が提示されるようになってきた。すなわち、彼は西洋美術との影響関係の中で「…イズム」で論ずべき画家ではないのではなかろうか、ということである。彼は日本人である。そして裕福な家の生まれとはいえ、決して都会人ではない。彼は岩手県和賀郡東和町土沢に生まれ育った人である。これまでの評価はあまりにも西洋寄りに一足飛びに飛んではいないだろうか。あるいは東京中心の発想ではなかろうか。

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 寓はアメリカにも滞在したことがあるし、キュビスムはもちろん「洋才」の部類に属する。しかし、彼の生まれた土沢は南部藩土沢城下の町で、当時としては開けた盆地であったろうが、山がちな土地柄で、早池峰(はやちね)山を初めとする民俗信仰も息づいていたし、彼が育った時代、近隣の北上山地では焼畑農業や稗など稲作以外の雑穀栽培など古くからの生業が営まれていたのである。村上善男氏の調査によれば、寓は早池峰神楽が好きで、その面を制作したことがあったという。そういう環境をもう一度見直す必要があり、その意味で、村上善男氏の詳細な探究や、寓鉄五郎記念美術館が行っている一連の活動は最も注目すべきである。

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 彼が最も充実した制作活動を見せた大正3〜7(1914〜1918)年の土沢時代とその延長線上にある作品を見れば、キュビスム以外の何者かが彼を強くバックアップしていることは明白であろう。キュビスムとその何者かは表現の中で深く関連しているが、本質的には別物である。そして、この時代であればやむを得ないが、キュビスムは未消化であり、感覚的で不十分な理解にとどまっている。むしろ、この時期に描かれた「木の間から見下ろした町」(大正7年)をはじめとする風景画や多数の自画像には、本質的に東北(岩手県和賀郡東和町土沢)土着の人、田舎人としての萬の姿が大きく影を落としている。それらの作品にみる心理的切迫感、視界や形態を極度に歪める表現は、単に当時の彼の精神状態などで説明のつくものではないだろう。もっと彼を突き動かしているものがある。それは丘から見下ろす風景を描いて眩暈(ゲンウン・めまい)のするような感覚に襲われる作品だが、盆地という土沢の風土が反映している。

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 風景画でいえば、上記の作品や「丘の道」(大正7年)などには北国の土沢という山がちで、起伏の多い土地柄が反映した、心理的なうねりやリズムがうかがえる。有川幾夫氏は寓の風景画に多数出てくる坂道に着目し、山から里を見下ろすような故郷での風景体験の可能性を指摘している(「寓鉄五郎の初期風景表現について」宮城県美術館研究紀要第8号、1996)。そうして、それは日本の各地に見られる風景であり、何も特殊なものではない。

 また、多数の自画像には、土着の人であるという誇り、それに田舎の人が時にもっている誠実さと愚直さと都会へのあこがれを共有するような複雑な感情が入り交じって作品に投影されている。造形的には土沢の土面の影響が指摘されている。寓の自画像によく現れる画面上方の原色の「雲」は単なる視覚的色彩的効果の狙いだけではなく、そのもやもやとした心理の反映ではないのだろうか。そうして今にも動き出しそうな不思議な生命力とユーモアを感じさせる拗音(ようおん)に見られる生活感。このようなバックグラウンドは、土沢でなくとも日本で長く生活しているならば、十分に理解できる広がりがあると思う。また、人体構成の作品についても、土沢周辺に残る仏像からの影響が指摘されている.万鉄五郎記念美術館で開催された「萬鉄五郎・多面体』展で紹介されている萬が幼時に使ったよだれかけや地元の土面など、土沢の民俗的な造形が彼の作品に深く投影していることはもはや確実なのではないか。近年、こうした方向からの寓鐵五郎の再評価がさかんであり、その理解には村上善男、田中恵、千葉瑞夫各氏の研究が重要であり、注目すべきであり、同時に寓に対する従来の評価よりもはるかに魅力的で発展性がある。

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 むろん、キュビスムのプリミティヴイズムと土沢の土着的背景は寓の中で共振している。しかし、色数が少なかったり、形を単純還元したり、仮面のような形態で自らを表現しているのはキュビスムの影響であると、美術関係者であれば一目瞭然の外見的特色を指摘し解説したところで寓の作品の理解にはそれはど役に立たないと思われる。むしろ、キュビスム、プリミティヴイズムに代表される「近代」を作品に取り込む際に、「近代人」としての寓と「日本人」「岩手人」「土沢人」としての寓の間に飛び散った火花が、これらの作品に大きな魅力と価値をあたえていることが重要であろう。そして、その造形の土台は「土沢人」なのではないか。 だが、寓の生きた時代、このような土着性や風土性を作者が自ら明確に意識するという土壌が培われていただろうか。事情はむしろ逆だったろう。 ここで、寓の有名な言葉を以下に引いてみよう。 「僕によって野蕃人が歩行を始めた。吾々は全く無智でいい。見えるものを見、きこえるものを聞き、食えるものを 食い、歩み眠り描けばいいのである。未来派立体派は正しく文明的産物と見ねばならぬ。文明というものに立脚する。だから浅薄なのである。原人は自然そのものである。 吾々は自然を模倣する必要はない。自分の自然を表わせばよいのだ。円いものを描いたとすれば、それは円いものを 描きたいからなので、他に深い意味もなにもない。」(『鉄人独語』)正確な年代の分からない言葉だが、この言葉の中で寓は、何物にもとらわれない精神的、造形的自由を訴えている。萬の考えは西洋と日本の間で常に揺れ動いていただろうが、この言葉の中では立体派(キュビスム)に否定的である。しかし、これは非常に高い目標で、実現は至難である。近代人がそれを実行するには宗教の悟りのような心の拠り所や周囲の強い支持が必要だろうと思われるが、それを寓は得ることができただろうか。

 それが、茅ヶ崎時代の平明な風景画や、肩の力の抜けた南画風の作品に向かうことと関連しているのではないかと思う。彼が精神的な安息を求めたと思われる茅ヶ崎時代の作品では、人物画など一部の油彩画に意欲作があるが、残念ながら全体としては、以前の彼の強烈な個性と作品への集中力は薄れてしまっている。南画風の作品についても、確かに興味深い作品もあるし、作家論をまとめたはどで関心は相当なものである。しかし、彼の文学的素養や宗教(例えば「禅」)的性格の不在を考え合わせると(文章や詩は上手とはいえないし、書くことを楽しんでいないものが多い。また、禅宗とは一時関連があったが、あまり影響はなさそうである。)、あれはど多数描く必然性がどこにあったのだろうか。南画風の作品を描くことの意味を寓はどれだけ認識していたのか。また、彼の作品に見られるユーモア、言皆詭性は、南画からの影響が指摘されているが、彼が時折見せる稚拙と紙一重のようなくずし方は、南画だけからの影響ではないと思われる。例えば、歌川国芳のいたずら書きのような浮世絵やをこ絵など日本の長い風俗画の中で見ていったらどうだろうか。そして、こうした要素は本展の他の4人の作家にも共通する一面といえるものである。

 いずれにしても、寓は文学的、宗教的人物ではなく、視覚の天才であり、あくまで、絵筆で、視覚的にものを語る人であるはずで、その時に最大限の力を発揮している。彼の不幸は、岩手県の土沢という町に生まれた人としての自らの個性を十分認識、発展できるような時代に生まれなかったことだ。また、従来の評価通り、彼の近代人として日本と西洋の狭間に挑戦した先覚者としての意義は非常に大きいが、さらに東北出身の芸術家であり、土俗的な意味でも近代人としてその要素を探ることができる画家として重要で魅力的な存在であることを付け加えるべきである。

萬と棟方

 出品作家の中では、萬が最も生まれが早く(しかも、ただ一人早逝である)、次に年長の棟方志功より18歳も上である。この世代の差は大きく、寓では未成熟で意識されなかったものが、棟方以降では意識されるようになる。それは時代の進展と、日本の近代国家としての自立の過程にも深く関連すると思われるが、直接的には作家をとりまく環境に拠るところが大きい。棟方の場合、民芸の人々に理解されたことが大きいのである。棟方は寓を「万鉄」(まんてつ)と呼び、その作品に「首ったけ惚れて」いる、と述べ、その作品の一点を苦労して手に入れたことを書いている(『板響神』京都祖国社1952)。その一部を引用する。

「北国の人の特有な暗い、じっとりとした奥行きと、東洋画の最も正しい格調を、あれほど真実に画面にへばり付か せた画人は、日本洋画始まって居ないから不思議だ。」 

「あのように、東西のケジメを一つの輪に収め得た安心の世界に油絵筆を収めた人はなかった。気取りのないムキな純真な画家の本能はただ措くにあった。」 

「万鉄五郎は、後にも先にも、その立派な系統を継ぐ何も 得ず、本然なる真実に、叫びを込めて死んだ。」

 これは、同じ東北の人として共感を寄せ、最大級の賛辞を贈っていると同時に、やや感情的だが、寓の芸術の本質に迫る内容である。両者の芸術をつなぐ意味でも重要だろう。

ギャラリー

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