■秘仏のひみつ
文∥山本勉
秘仏とは何でしょう? あたりまえの説明をするなら、お堂の中で厨子におさめられ、ふだんはその厨子の扉が閉じられておがむ‥とが許されない仏像といえばいいでしょうか。多くの秘仏は定期的 に厨子の扉が開かれる機会があり、これを「開扉」「開帳」といいます。それさえもない、つまり過 去にだれもその姿をみたことがなく、未来にもみることのない秘仏を「絶対秘仏」と呼ぶこともあります。
しかし仏像が人びとにおがまれる対象であることを思えば、ほんらいその姿は隠されるものではなかったはずです。インドに生まれ、中国・朝鮮をへて日本にやってきた仏像は、この国で、それまでの経路の国ぐににあったさまざまな理屈づけや風習にまなびながら、この国独特のきめこまかなまなざしがそそがれて、独特の歴史を積み重ねました。それがこんにち語られる仏像ブームにもつながっているのですが、この秘仏という、仏像を隠す風習がひろがり、こんにちまで続いているのも、日本独特の仏像のひみつなのです。
あるものを隠すことで、そのものが神秘的にみせられるということは、わりあい想像しやすいでしょう。だから、仏像が秘仏になるということは、仏像とそれ以外のものとの区別がつきにくくなったということ、あるいは、仏像は仏像であるけれど同時にそれ以外のものでもあったということがあるのかもしれません。
日本には、仏と日本の神とのありかたにおりあいをつけて、ともにまつってきた長い歴史がありますが、そのなかで仏と神とをもともとはいっしょのものだとする考えかたも育ってきました。由緒のある古い樹木を神が宿ったものと考える風習も日本独特のものですが、そういう木から仏像を彫り出すこともおこなわれるようになりました。とくに地方のお寺でそういうことが多かったようです。樹木が仏像に変わる、あるいは樹木から仏像が生まれる、というよりも、樹木の中にあってみえない神さまが仏像になることによって姿かたちをあらわす、といったほうが正しいのかもしれ喜ん。いずれにしてもたいへん墓跡です。そんな奇跡が仏像の背景にあることを示すには、ふだんは仏像を隠しておいて、あるときにだけ扉を開くというのは効果的ですよね。ついでにいっておくと、平安時代のはじめごろからつくられるようになった神さまの像つまり神像は、ほんらいおがむことのできないものです。秘仏というのは適当ではないのでしょうが。
由緒ある樹木から仏像があらわれるのにかぎらず、さまざまな神仏の奇跡が起きた場所を霊場といいます。世界各地のほかの宗教でも通用することばでいうと聖地でしょうか。ともあれ仏教そのものと同じょうに霊場という考えかたもそこをめぐる巡礼というならわしも、外国からまなんだものですが、それにしても日本では西国三十三観音霊場などというのがあるように、霊場をとくにこのんできた歴史があります。霊場の中心のお寺の本尊は秘仏であるものが多いことを思うと、秘仏とは何かが少しわかってきます。
各地に霊場ができあがり、そこにおまいりするのがさかんになったのは平安時代後期ですが、霊場は多くの場合、都をはなれた、すばらしい自然の景色をもつ地方にあります。そこをめざして旅することは、その時代にさかんになった、この世で亡くなってからはるか遠い極楽浄土に年まれ変わることを目標とする仏教の教え、つまり浄土教の思想とも重なるものだったのでしょう。霊場の秘仏本尊とであうことは、極楽往生につながるものだったにちがいありません。秘仏と同じあつかいを受けている人物像も少なくありません。これらもひとくちに秘仏と呼ばれています。有名なところでは京都・広隆寺上宮王院本尊の聖徳太子像でしょうか。まもなく聖徳太子 の五百回忌が到来しょうという元永三(一一二○)年に、下着姿につくられたもので、その上に、歴代の天皇が即位式でもちいた袍(ほう・わたいれ)という衣と同じものをまとう習慣がいま確かめられるだけで室町時代 からこんにちまで続いていています。同じころに法隆寺聖霊院の聖徳太子像もつくられました。これも通常はおがむことのできないものです。聖徳太子という人物は日本の国や社会の歴史のうえでも、仏教の歴史のうえでも、早くから特別な存在になっていましたが、特別である度合いは秘仏になることによってより高められたのでしょう。そして法隆寺夢殿の本尊の救世観音と呼ばれる観音菩薩像が厳重な秘仏になったのもこのころのようです。飛鳥時代につくられたこの像は、夢殿に安置された奈良時代にほすでに聖徳太子との特別なかかわりが語られていました。このころには聖徳太子の肖像だとする伝えもあったようです。だから秘仏になったのでしょう。江戸時代には白布が巻かれ、絶対秘仏になっていましたが、その白布が明治十七 (一八八四)年にフェノロサや岡倉天心という「日本美術の発見者」によって取り除かれることになります。
広隆寺の聖徳太子像が実際の衣を着けていることをお話ししました。こういう表現はその像を生きているかのようにあらわすためのものです。このような表現はやがて仏像にもしばしば使われるよう になります。もともと仏像には「生身仏(じょうしんぶつ)」といって、それがこの世に実際にあらわれた姿をもつと考えられるものがありました。早くからそういう仏像だといわれたものが、長野・善光寺の本尊阿弥陀三尊像です。この像はインドにあらわれた像が百済をへて飛鳥時代に日本に到来したといういわれをもつものですが、平安時代の終わりにそれを描いた図があり、鎌倉時代以後にそれをまねてつくつた像がたくさんあるものの、根本の像はこんにちにいたるまで絶対秘仏です。秘仏になったのは「生身仏」であるという神秘性にかかわるのでしょう。
平安時代の終わりくらいには、仏像の眼を水晶のレンズであらわす玉眼、金色の肌をあらわすのに金箔を貼るのでなく金粉を溶いた金泥をもちいる金泥塗りなど、実際に「生身仏」をあらわすたくさんの表現技法が発明されました。広隆寺聖徳太子像あたりにはじまる、実際の衣を着せるというのは、そういう表現のかなり極端な例です。それらの技法や表現が出てくる前は、仏像を隠してしまう、つまり秘仏にするのが、「生身仏」をあらわす、いちばんかしこいやりかただったのかもしれません。そしてそういう秘仏を安置するお寺は、「生身仏」がこの世にあらわれるという奇跡の起きる場所です。もうおわかりでしょう。これらのお寺も、前にお話しした霊場になってゆくのです。
秘仏の生まれた理由は、まだまだあげられるかもしれませんが、あまり複雑になってもいけないので、これくらいにしておきましょう。いずれにしてもそれぞれの理由は日本の仏像の独特の歴史に大きくかかわっているようです。各地の秘仏をたずねる旅は日本の仏像のひみつをたずねる旅になるはずです。
やまもと・つとむ 美術史家 一九五三年神奈川県生まれ。清泉女子大学教授や東京国立博物館名誉館員 主な著書に『仏像のひみつ払(朝日出版社)、日本仏像史講義(平凡社別冊太陽)など
■道明寺(大阪府藤井寺市道明寺1丁目14−31)
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■観心寺 (〒586-0053大阪府河内長野市寺元475)
■会津・勝常寺(福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764)
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■上宇内薬師堂(福島県河沼郡会津坂下町大字大上字村北甲)
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■法用寺(福島県大沼郡会津美里町雀林字三番山下3554)
■弘安寺(福島県大沼郡会津美里町米田字堂ノ後甲147)