芸術学 Aesthetics & Art History
金沢美術工芸大学
「日本におけるからくり人形とその沿革」 佐藤 美和
「からくり人形」ときいてどんなものを思い浮かべるだろうか。祭のときに山車の上で演技をする人形、取っ手を廻すと台の上で所作をする人形、ねじを巻くとひとりでに動き出す人形、西欧のオートマタ。これらに共通することはみな人形に何らかの仕掛けが施されているということだが、「からくり」という言葉の多義性に比例するように「からくり人形」として括られるものは複雑な体系を成している。洋の東西を問わず古くから文献に登場するからくり人形は神話や説話として伝えられていることが多く、それゆえその存在は不確かなものである。しかしながら不思議な魅力を湛えたからくり人形に向けられる人間の興味は尽きることがなく、次第に実現化への道を歩み始めることとなる。
日本においてからくり人形がとりわけ大きな発展を遂げたのは江戸時代のことといわれている。その頃の代表的なからくり人形には「茶運(ちゃはこび)人形」があげられるが、これは主に見世物あるいは接客などに用いられた人形であった。人形の持つ茶台にお茶を入れた椀を置くと人形はするすると歩み始め、客人の前に来るとピタリと止まる。客人が碗を手に取りお茶を飲み、再び茶台に置けば人形はくるりとUターンして主のもとへ戻ってゆく。この人形は時計などに仕様されているゼンマイとよばれる渦巻状のバネを動力として動いている。つまりこのからくり人形は時計の技術を用いて製作されたものであり、この応用こそがからくり史上最大のターニングポイントとなるのであった。当時においてからくり人形を手がけたからくり細工師や時計師たちは今で言うところの技術者的立場にあったために、これまでからくり人形へのアプローチはその方面からされることが多かった。しかしからくり人形がみる者に与える驚きや不思議さといったエンターテイメント性はそのような観点からは捉え難く、本来の魅力を十分に伝えることが出来ていないように思う。当時の人々が残した書物の中にはからくり人形について触れているものも残るが、そこから読み取ることが出来るのは純粋なからくりの面白さである。目にしたものをありのままに、感じたことを率直に記すそれらの記録によって当時のからくり人形の一端を垣間見ることができるのである。同時にからくり人形に施されている仕掛けを明らかにするような刊行物も存在しており、そこにもまた人々とからくりとの関わり方を感じ取ることが出来る。
本論文では江戸時代中期から幕末にかけての日本のからくり人形を中心に調べを進める。先述した時計技術流入前にもからくり人形は日本に存在しており、その発生から最高峰と言われる傑作が生み出されるに至る幕末まで、大きな流れを捉えてみたい。
第一章は「からくり人形の元祖」と言われている十七世紀半ばのからくり興行師、竹田近江に焦点を当てる。寛文二年(1662)、「からくり人形芝居」を掲げて道頓堀に一座を起こした初代竹田近江は自らが製作した自動人形を興行に用いた。その趣向は新鮮で話題を呼び、次第に竹田のからくりは人形浄瑠璃や歌舞伎などの舞台装置、そして山車からくりなど様々な方面に影響を与えてゆくこととなる。さらに竹田近江が登場するより前をからくり前史とし、麻糸や木製の歯車などを用いていた頃の素朴なからくり人形やそこにみる大陸からの影響などを探る。
第二章では引き続き竹田からくりと関連して、彼らの興行内容とその仕掛けを記している『 訓蒙鏡草(からくりきんもうかがみぐさ)』(1730)を中心に、からくりと機械、そして奇術との関係を探る。「からくり黄金期」といわれた頃の興行内容を伝えるとされるこの書には、人形を用いたもの、そうでないものと合わせて二十八種のからくりが紹介されている。確かに興味を惹かれる演目も載るが、その仕掛けのほとんどが当時における簡単な機械を用いたもの、もしくは奇術的と思わせるようなもので、「黄金期」を担った出し物とみなされていることに違和感を感じざるを得ない。興行の裏側を暴露してしまうというこの書の特異性と共に、技術、機械、そして奇術といった色々な要素が綯い交ぜになった当時のからくり像を読み解いてゆく。
続く第三章では、先の「茶運人形」で触れた時計技術の流入と『機巧図彙(からくりずい)』(1796)を取り上げる。時計技術の流入は西欧からの影響を意味し、それによってからくり人形は大きな発展を遂げる。すなわち人の手を必要としない自動人形の誕生に結びつく。そのことを如実に示しているのが『機巧図彙』という書なのである。首巻で三つの和時計の、上・下巻で九つのからくり人形の構造を記す。その中には「茶運人形」をはじめ、現在見ることのできるからくり人形と同様のものがいくつか載る。からくり人形のメカニズムに中心を置いているこの書は、当時における最高の技術書といわれるほどにその記述は詳細にして緻密である。刊行の目的は定かではないが、序文からは発明の勧めを説いている様子がうかがえる。不定時法を用いていた当時の日本において西欧の時計は実用性が無いに等しかった。そのため時計に使われている技術自体も実用性となかなか結びつくことはなく、その技術はからくり人形のような見世物や玩具といった娯楽の世界で生かされることとなったのである。当時の最先端技術ともいえるこのような高度な技術が、からくり人形という「遊び」の世界にみられることは注目に値する。
第四章では幕末における稀代のからくり師・田中儀右衛門(1799~1881)を取り上げる。からくり師であると同時に技術者でもあった儀右衛門は現在の東芝の創設者として知られている。そのような観点から語られることの多かったこの人物を、出来るだけからくりという軸に沿って捉えてみたい。彼が記したとされている『田中近江図案』というからくりの考案図があるが、そこには数々のからくり人形とその演出についての記述がみえる。この図案と残された番付、からくりの実見談、そして現存するからくり人形などと照らし合わせながら儀右衛門の興行、そしてからくり人形についての考察をすすめる。儀右衛門の功績は今に残るからくり人形を作り上げたというところにもあり、からくり人形の最高峰といわれる「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」や最近発見された「文字書き人形」などは彼が手がけたものである。人形とは思えない滑らかな動きと複雑な演出はまさに最高峰の名に相応しい。それは西欧の時計技術と糸によるからくり技術とを併用することでなし得る業なのであった。彼のからくり人形は動きだけでなく装飾や人形のかしらなど全ての部分に高度な技術が注ぎ込まれており、このことはそれまでのからくり人形を取り巻いてきた様々な要素がここに終結したことを思わせるのである。
以上のように日本においてからくり人形が大きな動きを見せたのは十七世紀半ばからであった。その裏にはやはり時計技術の応用がある。西欧と異なる社会にあった日本ではその技術がすぐに産業の機械化に結びつくことはなかったが、それはむしろ喜ばしいことであったかもしれない。見世物、祭、あるいは玩具として庶民の間に生まれ育ったこのからくり人形というものを、日本の誇るべき文化としてくみ上げたいと思うことは決して見当違いではないはずだ。しかしながらかつて人々と近しい距離にあったからくり人形も、今となってはショーケースの向こう側におとなしく陳列されている。動いて然るべきからくり人形のそのような姿を目にするのはなんとももどかしい。この論文を書くにあたりいくつかのからくり人形を見るべく足を運んだが、やはり動いているところを見て初めて本来の面白が伝わるものなのだと感じた。
からくり人形は当時のハイテクを駆使した江戸のロボットであるが、現在からくり人形の玩具としての要素を色濃く受け継ぐものとして、「AIBO(アイボ)」がある。商品開発の軸がエンターテイメントに置かれているという事実や、このようないわゆる玩具がニュースなどで取り上げられ、公の場でお披露目されるという現象は、かつてのからくり人形や見世物興行がとおってきた道と根本的にはなんの違いもない。「遊び」の開発に最先端の技術を持って挑み、質の高いものをつくりあげてしまうという行為は日本人の血によるものなのだろうか。