我が国で三番目の国際博覧会
筑波山麓を会場に昭和60年(1985)3月から9月までの一人4日間にわたって開催されたのが国際科学技術博覧会(略して科学万博つくば)である。これは同45年の日本万国博覧会(大阪)以来、わが国で三番目の国際博であった。開会式で当時の皇太子殿下(現天皇)は、「この博覧会は〝人間・居住・環境と科学技術″というテーマをかかげております。全人類にとって、非常に大きな、また、切実な問題がここに示されているのであります。(中略)人びとは世界の各地で生み出された科学技術の歴史を振り返り、また、最新の成果を通して未来に夢を馳せるとともに、人間と科学技術のかかわり方についても、さらに考えを深められることでありましょう(後略)」とお言葉を述べられたが、この開会宣言のなかに科学万博開催の意味が込められている。
この科学万博は日本政府のほか28の民間企業・団体が出展参加し、開催地元の茨城県も県民総参加のシンボルとして〝いばらきパビリオン″を出展した。海外からも四七か国、38国際機関などが展示館を設け、きわめて国際色豊かな博覧会となったのである。またこの博覧会は、茨城県下ではすべての市町村が参加し、3月に地元の谷田部町を皮切りに九月まで、「○○市町村の日」と題して、その地産業や芸能などを演出したことが特色のひとつとなった。これは県民総参加というテーマを掲げていたためであったが、県民にとっても未知の事柄を知るうえで大いに役立ったことはいうまでもない。また世界各地からの参観者もあり、出展しているパビリオンのコンパニオンたちとの交流など、茨城県下では初めての大行事であり、国際交流の面からも大きな意義があった。
しかし、科学万博には批判もあった。それは映像での出展があまりに多く、どこの館も同じようだという批判であった。しかし映像を中心に参観者に実感をもたせるという点で、これ以後、この種の博覧会に先鞭をつけたことは大いに認められよう。また市町村の日と銘打ったイベントでは、県内各市町村に残る文化財や伝統芸能など、普段簡単に目にすることができないような事柄が競演され、それはおそらく茨城県民にとっても珍しいものであり、県民が県内各地の様相を知るうえでも大いに役立つものであった。期間中に科学博を訪れた人は、実に2,334万人余という数であった。この入場者をさばくための特別の交通機関が設けられ、道路整備が行なわれ、万博以後のつくば地区発展の礎となったのである。たとえば常磐線で科学博のために設けられた臨時駅が、やがて荒川沖-牛久間に新たに設けられたひたち野駅となり、駅周辺が急速に発展した。
科学博が行なわれたつくぼの地は、博覧会によって全国的に知られるところとなり、茨城県というよりは〝つくば″の名の方が通りがよくなる、というほどであった。科学博後の研究学園都市建設の促進と相まって、研究開発機関、企業などの進出が続き、世界的な学園都市が形成されるようになった。