土浦港の繁栄

 土浦は、江戸時代から、京や銚子方面への物資の集散地として栄えた。なかでも霞ケ浦への「水の玄関口」川口は、港としての機能を果たし、近代には汽船も就航して大きく飛躍した。 汽船の登場まで水運の主役は高瀬船であった。川口河岸を出発した高瀬船は、霞ケ浦から横利根川に入って利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下って四、五日がかりで東京に着く。

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 土浦から東京へ向かう船には醤油、米、雑穀、薪などが積み込まれ、東京からは塩、酒、小間物、呉服などが積まれてきた。また、銚子からは新鮮な海の魚や塩が運ばれ、土浦に魚市場が開かれるほどの活況をみせたという。大量輸送と低運賃が利点の高瀬船は、大正時代まで霞ケ浦の水運を支えた。 汽船が川口に姿を現わすようになるのは、明治二四年(一八九一) のことで、銚子汽船会社が土浦・銚子間に就航させた銚子丸が最初の船である。船腹の両側に車輪を付け、長い煙突から煙を吐いて進む外輪蒸気船銚子丸は、銚子・土浦間をおよそ八時間で結び、一日一往復した。

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その後、同26年に朝日丸汽船会社が土浦に設立されると、霞ケ浦沿岸の各地にも相次いで船会社が設立されていった。船会社どうしの過当競争が繰り広げられるなか、同二八年に大手の内国通運会社と銚子汽船会社が協定を結び、両者の覇権が確立する。以降、霞ケ浦の水運は、内国通運が同10年に第1号を完成させた外輪蒸気船通運丸を筆頭に、汽船の全盛期を迎えるのである。

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 一方、陸上では日本鉄道海岸線(のちの常磐線)が、明治27年に土浦−友部間、同29年に土浦−田端間で開通し、明治30年代からの物資の輸送は、汽船や高瀬船による水運と、鉄道などによる陸運が並存するかたちとなった。鉄道に比べて輸送力に劣る汽船は大きな打撃を受けながらも、鉄道の及ばない地域との連絡や観光遊覧事業に力を入れるなど、昭和に入るまでその命脈を保っていった。しかし、鉄道網の発達はめざましく、さらに大正時代には自動車やバスなどの新しい交通手段も加わって、やがて水運は衰退の一途をたどっていく。隆盛を誇った通運丸も昭和7年(1932)に廃船となり、代わってあやめ丸やさつき丸などのスクリュー船が土浦と潮来方面を結ぶようになるが、この定期船も乗客や積荷の減少により、昭和40年代に廃止された。191-1 191

 作家田山花袋は、大正9年(1920)に発表した紀行文『水郷めぐり』のなかで、常磐線土浦駅で降りて向かった船着の「柳が靡(なび)いていたり、蘆荻(ろてき)が生えていたり、外輪(そとわ)の汽船が碇泊したり」する風景に水郷気分を味わっている。水郷の情緒あふれた川口周辺も、現在は埋め立てが進み、かつての情景をとどめていない。川口川河口にあった土浦港は霞ケ浦湖岸へと移され、平成2年(1990) には土浦新港の新たな港湾施設が完成した。隣接するヨットハーバーは、全国有数のマリンパークとして新しい港の風景に彩りを添えている。