藩から県へ

 王政復古の大号令で政権の樹立を高々と宣言し、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府勢力を制圧し、名実ともに政権を掌握した新政府は、近代的統一国家建設をめざして絃治機構の変革を果断に実施した。旧幕府から接収した天領や旗本領を直轄地とし、新政府はこれに府県を置いて支配した。これにより明治二年(一八六九)には常総地方に、若森県富谷(みやざく)県葛飾県などが誕生した。

 新政府は、藩に対しても干渉を加え、明治二年、土地と人民を朝廷に返還する版籍奉還を行なわせ、同四年7月14日、廃藩置県を断行した。この革命的変革に際し、新政府はあらかじめ薩摩、長州、土佐の三薄から御親兵(ごしんぺい)を徹して異変に備えたが、さしたる混乱もなく改革は進展した。多くの藩ですでに財政は破綻し、統制能力をも喪失していたことで、かえって戦乱が避けられたのであった。また欧米列強の外圧に対抗して強力な近代国家を築くためにも廃藩は不可避であるとする説は、識者の間では世論にもなっていた。こうして主従関係で結ばれていた割拠的封建制が解体され、新政府が直接支配する県となり、中央集権が成立した

 廃藩置県で藩の領域をそのまま受け継いで成立した県は入り組み状態にあり、早晩統合する必要があった。廃藩置県から四か月後の11月13日、関東周辺の大統合が実施され、常総地域には新治県、茨城県、印旛県などが誕生した。新しい県の版図は郡域で示され、新治県は常陸国の新治、筑波、河内、信太(しだ)、行方(なめがた)、鹿島の六郡と下総(しもうさ)国の香取、匝瑳(そうさ)、海上の三郡を県域とした。

 新治県の石高は62万5、000石余。これを旧県でみると、宮谷・若森・葛飾の直轄県から33万石余、土浦県2万石余、次いで水戸県三万石余、以下一万石余が安中県、前橋県、麻生県、石岡県、茂木(もてぎ)県、牛久県など六県、ほかに一万石未満が15県。この地域には廃藩置県時に、26もの藩・県がひしめいていたのである。

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 県庁には、新治郡土浦町の旧土浦落城址があてられ、ほかに明治5年5月から香取郡小見川と行方郡麻生に支庁が置かれた。県の初代長官は、権令池田種徳(たねのり)。広島県士族で、幕末には討幕運動にかかわり、戊辰戦争では東北遊撃軍の参謀として出征、明治二年七月より若森県権知事(長官)を務め、貧民救済など民政に尽くした。県の統廃合に際し、茨城県へ編入された地域の村民から、新治県への管轄替え願いが出されるほどに善政を慕われた。しかし新治県の長官の座にいたのはわずか二か月、県の組織も成立しないうちに島根県へ転任した。179-1179

 新治県の組織機構を作ったのは、池田のあとを継いだ元丸亀藩士の土肥実光(どいさねみつ)参事。旧県から土地人民の引き渡しを受け、県治条例(明治4年11月制定)に規定された組織と官員を整備し、大区小区制を実施した。しかし土肥は同5年5月24日未明、謎の屠腹(とふく・割腹)自殺を遂げ、36歳の生涯を閉じた。幕末激動の苦節に耐え将来を嘱望された人材の死、それは廃藩置県以後の改革もまた、苦難に満ちていたことを意味していた。  (安 夫久)