2度の火災に遭い、昭和52年にやっと再建された観音堂
筑波山の中腹に二十五番大御どう堂があり、二十六番の清瀧寺は筑波山塊の広大な山裾の東南部、りゆうがみね竜ケ峰のふもとに位置している。
柿や梨などの果樹をはじめ稲田、ソバ畑などが一面に広がるのどかな土浦市(旧新治村)小野の北端にあたる。
平安時代に東北に旅する小野小町が途中、清瀧観音に詣で、その折に病に倒れて小野源兵衛宅で亡くなったという伝説の地でもある。
小高い竜ケ峰を背後にした清瀧寺へは、田園地帯からゆるやかな坂を上る。急な石段の手前に岩清水が筧(かけい)を伝って流れ落ち、山寺の趣が漂っている。
天保年間(1830〜44)に再建された仁王門は古色蒼然たるたたずまい。昭和44年、火災に遭い、本尊も堂宇も焼失してしまった清瀧寺の唯一の遺構である。阿吽(あうん)2体の金剛力士像は文化15年(1818)、当時の信徒たちにより再興されたが損傷がはげしく、胎内に阿弥陀如来像を抱くという貴重な阿形は消滅の危機に至った。そこで小野信徒一同、全国から寄進を仰いで平成12年、復元に成功した。銅葺きでコンクリート造りの本堂も昭和52年に地元の木彫りの聖観音像を安置する信徒の熱意により再建された。
推古天皇15年(607)、勅願により聖徳太子作の聖観音像が竜ケ峰に安置されたのが清瀧寺の草創と伝わる。大同2年(807)、筑波山知足院中禅寺(大とく御堂)を創建したといわれる徳溢大師が竜ケ峰の中腹に移したという。
『新治村史』によれば、その「古(ふる)観音」と呼ばれる場所には堂舎跡を推定させる礎石が残っており、伝承が正しいとすれば中世の清瀧寺の跡であろう、と記されている。徳溢大師が開創したといわれる他の寺も筑波山麓一帯に点在し、霊山信仰が山裾の広がりのように伝来したことが想像できる。
清瀧寺の新しい本尊は、二十三番観世音寺住職寄進の聖観音菩薩である。たおやかで、それでいて力強い木彫りの観音さまだ。境内の隅に、かつて本堂に置かれていた獅子の彫り物が黒こげのまま残されている焼失の痛手を受けながらも地元の信徒たちは寺を守り、現在老人会有志が納軽所奉仕を行っている。
■清滝寺及び周辺の撮影写真