均衡のとれた田園都市をめざして
昭和38年(1963)9月、研究学園都市の建設地が筑波山麓に決定した。富士山麓・赤城山麓・那須高原の三候補地を退けての決定であった。研究学園都市構想は二年前にスタート、東京都内および周辺地域への行政、研究機関の集中を緩和するのが狙いであった。当時、茨城県下では鹿島開発が緒(ちょ・しょ)についたばかりで、開発の波が押し寄せた感が強かった。同40年、開発区域に当時の筑波郡筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、新治郡桜村、稲敷郡茎崎村の六町村が指定・告示され、同年暮れから用地買収が開始された。
しかし研究学園都市建設計画についての地元六町村の対応はさまざまで、全面協力から絶対反対まで、地区によって態度が異なっていた。折しも、当時霞ケ浦を埋め立てて新東京国際空港を造ろうという案があり、これに対し稲敷郡下で江戸崎町・阿見町・牛久町・美浦村の四町村が反対運動を展開していた。これに刺激されたこともあっって、昭和38年12月6日には茎崎村の代表が県庁に押しかけ、学園都市建設反村の申し入れをしている。同じく谷田部町でも、同年一一月一四日の町議会の全員協議会で、研究学園都市の全面返上案を決議した。だが翌年四月、全員協議会で全面返上の決議を取り消している。このように学園都市建設にからんでは、種々の思惑もからんで、賛成・反対が二転三転するようなところもあった。同39年6月には筑波町で学園都市建設に関連する町有地払い下げにからんで汚職事件が起きた。
この事件で町長が逮捕されると、当該町有地を有する地区では地区民により売買契約白紙撤回が決議されるなど、学園都市建設の前途は多難であると思われた。一方、昭和39年12月の閣議で総理府に研究学園都市建設推進本部が設けられると、土浦市に建設事務所が設置された。やがて建設反対の中心であった谷田部町で、新都市建設反対期成同盟会が建設絶対反対の旗をおろして解散、代わって新都市協議会が生まれるなど空気が変わっていった。同42年には、研究学園都市に移転する34の大学・研究機関も決定され、同45年5月には「筑波研究学園都市建設法」も制定され、ようやく学園都市建設の方向へと勢いづくのであった。建設は同五四年度末が目標とされた。
学園都市建設法では、東京の過密緩和と科学技術の振興・高等教育機関の充実が二大目標で、地域全体を「均衡のとれた田園都市」にすることが求められた。このことにより、それまで未開の地であった山林原野が切り開かれ、住宅・人口とも徐々に増加していった。各町村でも小・中学校が整備され、昭和54年4月には県立の竹園高等学校が開校した。それと同時に私立の若渓学園高等学校が開校した。それまでは谷田部に高校がひとつ存在しただけであったのに、県立校のほか私立高校が出現したのである。このことは研究学園都市建設が、軌道に乗ったひとつの現われであったといえる。