新しい構想の大学誕生
研究学園都市建設が筑波に決定したのは昭和38年(1963)である。すでに同36年9月、時の内閣の会議決定で、「首都への人口の過度集中の防止に資するため、各種防止対策の強化を図るべきであるが、先ず、機能上、東京都の既成市街地に置くことを要しない官庁(附属機関及び国立の学校を含む) の集団移転について、速やかに具体的方策を検討するものとする」とされていた。つまり官庁の集団移転だけではなく、国立大学が移転対象に含まれていたのである。
地元筑波地区では研究学園都市建設そのものに、賛成・反対両意見の動きがはなはだしかった。一方、都内の国立大学のなかでは、どの大学が新しい研究学園都市に移転するのかが関係者一同の大きな関心事であった。昭和41〜42年頃になると地元の反対運動も鎮静化し、土地買収も軌道に乗り出した。そうしたなかで同42年9月、「研究学園都市建設の基本方針」 に基づき、大学・試験研究機関34施設が決定され、大学は東京教育大学が移転の目玉と予定された。
東京教育大学の前身は東京高等師範学校で、中等教育機関の教師を養成する機関であり、教育大学と改組されてからもその目的は変わらなかった。昭和44年、茨城県が内閣に移転促進を要望した頃、大学内は移転をめぐつて、賛成・反対で大揺れに揺れていた。翌年五月に筑波研究学園都市建設法が制定され、その翌年、一部の研究機関の移転工事が着工されたが、分裂抗争の激しかった東京教育大学の移転はついに計画中止と決定された。文部省は大学の移転中止の代わりに、新構想大学として筑波大学の設置を決定した。
新設の筑波大学は、明治以来の日本の大学の構成にはまったくとらわれず、学部・学科そして講座制は採用されなかった。新構想の大学は学生約九9000人規模の巨大なものであり、学部制に代わって学群制となった。第一学群が人文・社会・自然、第二学群が比較文化・人間・生物・農林、第三学群が社会工学・情報基礎考工学で、これに加えて体育、医学、芸術を専門学群とした(開学後、変更されたところもある)。こうして昭和49年4月に注目の新構想大学がスタート、大規模な国立大学が誕生し、とりわけ悲願だつた医学系の学科が開設、附属病院の設置に期待が集まったのである。
ともあれ、新構想大学が研究学園都市の一角に誕生し、国内各地から学生が集まってきた。それまで研究機関・大学など何もなかった、それこそ無住の原野・山林が広がる地帯に、国内でも有数の大学が出現したのである。その結果、つくば地区が急激に大きな変貌をとげることとなり、学生・教官・職員などの居住により、その生活を支える商業圏も形成されていった。県西各地の人たちが、何かあると大学付近の医療機関や、商店街に集まる傾向は顕著となった。それはまったく新しい地域の発展であった。