土浦周辺の文化環境情報誌2017
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土浦港の繁栄
土浦は、江戸時代から、
東
京や銚子方面への物資の集散地
として栄えた。なかでも霞ケ浦への「
水の玄関口」川口
は、港としての機能を果たし、近代には
汽船も就航して大きく飛躍した
。 汽船の登場まで水運の主役は
高瀬船
であった。川口河岸を出発した高瀬船は、霞ケ浦から横利根川に入って利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下って四、五日がかりで東京に着く。
土浦から東京へ向かう船には
醤油、米、雑穀、薪
などが積み込まれ、東京からは塩、酒、小間物、呉服などが積まれてきた。また、銚子からは新鮮な海の魚や塩が運ばれ、土浦に魚市場が開かれるほどの活況をみせたという。
大量輸送と低運賃が利点の高瀬船
は、
大正時代まで霞ケ浦の水運を支えた。
汽船が川口に姿を現わすようになるのは、明治二四年(一八九一) のことで、銚子汽船会社が土浦・銚子間に就航させた
銚子丸
が最初の船である。船腹の両側に車輪を付け、長い煙突から煙を吐いて進む外輪蒸気船銚子丸は、銚子・土浦間をおよそ八時間で結び、一日一往復した。
その後、同26年に
朝日丸汽船会社が土浦に設立
されると、霞ケ浦沿岸の各地にも
相次いで船会社が設立
されていった。船会社どうしの過当競争が繰り広げられるなか、同二八年に大手の内国通運会社と
銚子汽船会社が協定を結び、両者の覇権が確立する
。以降、霞ケ浦の水運は、内国通運が同10年に第1号を完成させた
外輪蒸気船通運丸を筆頭に、汽船の全盛期を迎えるのである。
一方、陸上では
日本鉄道海岸線(のちの常磐線
)が、
明治27年に土浦−友部間、同29年に土浦−田端間で開通
し、
明治30年代からの物資の輸送は、汽船や高瀬船による水運と、鉄道などによる陸運が並存
するかたちとなった。鉄道に比べて輸送力に劣る汽船は大きな打撃を受けながらも、鉄道の及ばない地域との連絡や
観光遊覧事業に力を入れる
など、昭和に入るまでその命脈を保っていった。しかし、鉄道網の発達はめざましく、さらに大正時代には
自動車やバスなどの新しい交通手段
も加わって、
やがて水運は衰退の一途
をたどっていく。隆盛を誇った通運丸も
昭和7年(1932)に廃船
となり、代わってあやめ丸やさつき丸などのスクリュー船が土浦と潮来方面を結ぶようになるが、この定期船も乗客や積荷の減少により、昭和
40年代に廃止
された。
作家田山花袋は、大正9年(1920)に発表した紀行文『水郷めぐり』のなかで、常磐線土浦駅で降りて向かった船着の「柳が靡(なび)いていたり、蘆荻(ろてき)が生えていたり、外輪(そとわ)の汽船が碇泊したり」する風景に水郷気分を味わっている。水郷の情緒あふれた川口周辺も、現在は埋め立てが進み、かつての情景をとどめていない。川口川河口にあった土浦港は霞ケ浦湖岸へと移され、平成2年(1990) には土浦新港の新たな港湾施設が完成した。隣接するヨットハーバーは、全国有数のマリンパークとして新しい港の風景に彩りを添えている。
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