得月院の歴史

■得月院誌・得月院の沿革 

鈴木光夫

得月院のおこり(太田市とリンク)  

 得月院本堂裏の墓所中央付近に、本院の開基となった妙印尼(みょういんに)の墓碑(得月院五輪塔・下図)が建っている。

 妙印尼は、戦国期、上野国(群馬県)館林城主の赤井重秀の娘として生まれ、やがて同国金上城主由良成繁(ゆらなりしげ・新田支流)の室となった夫人。『寛政垂修諸家譜』の「由良家系譜」によると、夫成繁は天正六年(一五七八)六月晦日、金上城内で七三歳で死去以後、妙印尼と称したようである。なぜ、この地に墓碑が建てられ、本院の開基となったのであろうか

 今から約四〇〇年前の天正十八年(一五九〇)、関白豊臣秀吉は、天下統一のために三〇万の大軍を率いて小田原北条氏攻略を行ったことは史上有名なことである。この時、成繁の跡を継いだ嫡男の桐生城主(元金上城主)由良国繁は、父成繁代の北条氏との確執から小田原城に籠もっていた。母の妙印尼は、これが不服であった。それは、かつて七年前の天正十一年(一五八三)右に、小田原城主北条氏直が国繁らをはかって小田原へ招き寄せ、その留守に金上城を襲ったという経緯からであった。その時、母の妙印尼は「こは口惜(おし)き事なり」と、家人に命じ激しく防戦して北条勢を追い散らし、ついに北条と和睦を結んだのである。そこで妙印尼は、前回の北条氏の手口と、今回の天下の形勢をにらみ、自ら率先して秀吉軍に加わったのである。

 たまたま秀吉軍の前田利家・上杉景勝が松枝城攻めに入ったことを聞き孫の貞繁を伴って家人の柳井、大沢、根来、県、森、一族の矢橋・烏山などの軍を引き連れ、これに加勢し、松枝城での戦いののち、老齢に鞭うちはるばる小田原の秀吉軍本陣まで馳せ参じたのである。秀吉は、妙印尼のこの参戦をことのほか喜び、その恩賞として、小田原落城後の天正十八年八月一日付で常陸国牛久城(牛久領五〇〇〇石)を与えた。その朱印状には

本知をも下され度思食され侯へとも、家康へ下され侯条、堪忍分として常陸国の内うしく、当知行の旨に任せ、一職に下され侯間、母の覚悟に任せ、全く領知すべき者也 {市村高男}「天下統一と上野」(『群馬県史』・通史編3所収)

 とある。かつての金上領は徳川家康領となったため、そのかわり妙印尼に「母の覚悟に任せ」、牛久領を充て行われたのである。妙印尼は早速、秀吉へその御礼の印として綿二〇〇把を進上した。同年九月五日、秀吉からは、

(由良)ゆら・(長尾)なかを事、まへよりの(筋目)すちめ、いよいよ(異議)いきあるべからず侯 {市村高男}「天下統一と上野」(前同)

 という返礼の朱印状が送り届けられている。牛久城には、かつて岡見氏一族の岡見治広(はるひろ)がいて小田原の北条氏に通じていたが、この時にはすでに下妻城主多賀谷重経(たがやつげつね)の浸攻を受け、落城となっていた。この時にこうして、まもなく妙印尼は、嫡男国繁を城主とし牛久城に移ったのである。牛久に入封した国繁は「新田由良事林系図諸由来記」 によると、速刻、家中屋敷割を行うために牛久城内を中城・梅作・石神・衣崎・南原・板古屋・矢田部の七地域に定め、ここに、つぎのように家臣団を移住させたようである。現在、牛久城跡がある牛久市城中町に中城・埋作・石神・南原・谷田部宿の小字名が残っているのは、そのためであろう。

常州河内郡牛久城家中屋敷割  中城 

大澤半之助 小頭・内野宗心 茂木左京 亮・岡田久左衛門 成学坊
益田伊勢守 南蛇藤左衛門 松吉七内 玄成坊 米原左京大 小曽根久左衛門 林太郎右衛門 酒井宮内 矢島孫兵衛 梅作 中村善兵衛 小頭・内野宗心 岡田久左衛門 麻新左衛門 蘇小兵衛 谷中茂左衛門 米原仁右衛門櫻井孫右南門 南市左衛門 室田又左衛門 息内太左衛門牧野権七 中尾四郎右衛門 行学院ほか略す

 この時、妙印尼も国繁とともに牛久城内に入り、金竜寺長芸大拙大和尚を伴い城内谷田部の一角に長屋得月亭を営み寓居(ぐうきょ・かりずまい)となったが、これから三年後の文禄三年(一五九四)十一月六日に死去した。法名は得月院殿月海妙印大姉。妙印尼墓碑の五輪塔の地輪部正面左側に「口文禄三口霜月口日」の陰刻文字が見られるが、文献上の死去年と一致している。

 妙印尼の死去により、以後、由良氏一族の矢場能登守、御留守居奉行柿沼長門守、御家老野内民部少輔(和田氏政)、御家老林越中守、公用人方大澤大和守、公用人方林加賀守等の六人が交替で人夫総計一三五人を出し寺屋敷を造営、妙印尼死去の翌々年慶長元年(一五九六)に超然嶺学大和尚開山の由良家菩提寺の一つとして寺院を建立した。これが得月院のおこりである。その名称は、妙印尼が寓居した長屋得月亭からとったものと考えられる。現在も得月院裏山林中に北、西、南三方に連なる空堀を見るが、この時の造営のあとであろうか。また、慶長六年(一六〇一)頃と推定できる牛久地方の古地図にも、すでに牛久城北例の大手門付近城内に得月院が描かれている。

 なお、炒印尼は、牛久城内に住んだ時、天正十九年(一五九一)の秋から岡見一族、上野国金山・桐生・小田原城中に戦死した多くの人々をとむらうために、牛久・足高・矢田部・若柴・羽成・岩崎・藤代・田宮などの地区に七観音、八薬師、十王堂を造営させたという記録が残っていることをつけ加えておきたい。

▶江戸時代の得月院の変貌

 常陸の太閤検地が終わってまもない慶長三年(一五九八)一月二十七日に、国繁は秀吉から改めて牛久領五〇〇〇石の知行を充て行われたが、やがて慶長五年の関ケ原役後、天下を掌握した徳川家康にも仕え、慶長七年(一六〇二)十二月二日に、嫡子貞繁に近江国蒲生郡内において二〇〇〇石の知行を受けている。ところが家系のよると、国繁はそれから九年後の慶長十六年一月三日、牛久城内で死去した。それにょって、翌慶長十七年一月、領地五〇〇〇石は没収嫡子貞繁の遺領相続は許されなかった。さらに、天和七年(一六二一)三月二十三日、貞繋が嗣子なく死去すると近江領一〇〇〇石も没収された。その二年後の元和九年になって、由良家は新田支流の各家ということで貞繁の弟貞長に一〇〇〇石余が新たに与えられ貞長は旗本として由良家を継いだのである。その領地は、常陸国河内・筑波二郡にまだがる各村であった。以後、霊の変更はなく明治四年(一八七一)の廃藩置県まで続く。となる。 河内郡 猪子村 東栄穴村)の廃雷県まで続く。いま、明治元年の村名とその石高を揚げると、つぎの通りとなる。(略す)

 国繁死去後、牛久に入封したのは、慶長十六年(一六一一)に家康から牛久領五〇〇〇石を含む一五〇〇〇石を拝領した山口重政である。もっとも重政は、その二年後の慶長十九年に、嫡男重信の妻が大久保忠憐(ただちか)の養女という理由で忠憐の失脚に巻き込まれ領地没収となったが、元和元年(一六一五)の大阪夏の陣に参戦、その功によって寛永六年(一山六二〇) に再度牛久領を含む一五〇〇〇石を拝領し、初代牛久藩主となった。以後、藩主重政は、藩領内に検地を実施、領内諸村には村役を任命、諸村の行政組織を整えて幕藩体制を着実にすすめていったようである。かつての由良家家臣が住んだ牛久城内も例外なくこれに組み込まれ、それは、近世の新しい村落城中村として急速に変貌していったことが容易に推察できる。くわしいことはわからないが、先に揚げた 「牛久城家中屋敷割」によると、牛久退城後その後も引き続き由良家家臣となった者、または他藩家臣に採用された者など数名の付記が見られるが、他は何の記載もない。この中には、そのまま土着し城中村の草分百姓となった者もあったに違いない。さらに重政死後は、四男弘隆(ひろたか)が通商を継ぎ、寛文九年(一六六九)には城内南原に牛久陣屋を構築したから、城中村は陣屋付きの村として一層その進展がはかられたものと考えられよう。

残された近世後期の城中村文書によ