南北朝内乱期の常陸国

 ■烟田(かまた)時幹軍忠状

目安 常陸国鹿鴫烟田又太郎時幹(ときもと)申す軍忠の事

右、当国小田城において、今年謂二月二十四日、御敵小田宮内権 少ゆうはるひさ囲常陸国鹿鴫烟田(かまた)又太郎時幹(ときとも)が、いくさの手がらの事について申し上げます。 右のことについて。当国 (常陸国) 小田城において、今年、建武四 二三三七) 年二月二十四日、敵方の小田宮内権少輔治久が出陣したので、時幹が大急ぎで現地へ向かい、身命を捨てて責め戦いました。その際、家人鳥栖太郎三郎貞親が右の小膝を切られ、同じく乗馬を弓で射られたことを、大将軍が検証されております。同じ二十九日の合戦の時、家人井河又三郎幹信が敵方の一人を切り落としました。このことを船越又三郎種幹・家人田崎二郎左衛門尉が同時に合戦に参加しており確認しております。そこで、早く勲功の御承認とご報告を御願いし、幕府の恩賞に預かりたいと思います。今後も、より一層いくさで活躍いたします。そこで、文書に記して以上のとおり申し上げます。  建武四年二月 日  「承認した(花押)」

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■解説

 烟田氏は、常陸平氏の一族鹿島氏から分出し、現在の鹿島郡鉾田町を拠点に活動した武士である。

 建武四(延元二、一三三七)年二月、佐竹義篤を大将とする北朝軍は小田城(南朝方小田氏の本拠地)を攻撃した。この史料は、梱田時幹が佐竹氏の陣に加わって小田氏と戦った際に作成された軍忠状である。

 軍息状とは、戦闘に参加した者が、本人や配下の家人などの勲功を記録し、指揮者に提出した文書である。指揮者から証判を受けて提出者に返却された軍息状は、後日、恩賞をもらうための大切な証拠書類となった。いうまでもなく「討ち死に」が最高の勲功であるが、傷の程度など勲功によって恩賞も異なった。この軍忠状には、二月二十四日に家子鳥栖太郎三郎貞親が負傷し、乗馬を射られたこと、二十九日には家人井河又三郎幹信が敵を一人切り倒したことが記され、恩賞が要求されている。

 さらに、梱田氏の戦いは常陸国内にとどまらなかった。時幹は、文和四(正平十、一三五五)年には足利尊氏方に属し、京都で南朝方と戦っている。梱田氏のような地方武士が、京都まで出かけ合戦に参加するのは、大きな負担であったろう。

 烟田氏に与えられた恩賞は、残念ながら、従来から持っていた所領を安堵してもらっただけであったらしい。新恩として、新たな土地を給与されたことを示す史料は残っていない。

■南北朝時代に登場する城の位置を地図上で確認してみよう

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■小田城で起稿された『神皇正統記』

 暦応元(延元三、三一三八)年九月、後醍醐天皇は勢力を挽回するため、義良親王や北畠親房ら一行を陸奥、東国へ派遣し、おおみなと連携の強化を図った。しかし、伊勢の大湊を出航した船団は、海上で暴風に遭遇し、ばらばらになってしまった。義良親王はとう川レようの伊勢に押し戻されたが、親房は霞ケ浦に入り、常陸国東 条しょう荘に漂着した。この荘園は、常陸平氏の一族東条氏が支配するあばさきところで、神宮寺城(桜川村)や阿波崎城(東町)が拠点となっていた。十月になって北朝方の梱田氏らによって両城が攻略されたため、親房は小田城へ移った。

 暦応二年、親房は小田城において後醍醐天皇死去の報を受けた後、『神皇正統記』の執筆に取りかかった。その日的は、後村上天皇に対する訓育にあったとも、あるいは東国武士たちに対し、南朝方の正統性を説くためだったともいわれる。

 しかし、親房の努力もむなしく、北朝軍優勢、南朝方武士の離反の動きを止めることはできなかった。この間、再三にわたって、親房が来援を求めた陸奥国白河の結城親朝にも、全く動きはなかった。

 さらに、暦応四(輿娼「三四一)年、南朝結婚心であった小田氏が北朝方と和睦したので、南朝方は関城 (関城  だいはう川レよう町)・大宝城 (下妻市) へと追い込まれていく。康永二(興国四、一三四三)年には、常陸国内の南朝方の拠点がすべて攻略され、関城の親房らも吉野へ戻ることになった。

■史 話

 佐竹氏と小田氏 鎌倉末期、北条氏の専制政治のもとで、小田氏は所領を削減され、常陸国守護の地位も失なった。北条氏滅亡後の争乱のなかで、小田氏本宗家の高知は、後醍醐天皇より「治」の一字を与えられ「治久」と改名し、建武の新政権へ参加することによって、勢力を回復しょうとした。小田氏は、開・下妻・真壁・笠間など南朝方武士団の中心であった。

 一方、佐竹氏は、一貫して北朝方の中心にあった。足利氏に忠節を尽くして転戦することによって、多くの恩賞を与 なめかたぇられ、小田氏の望んでいた常陸守護の地位も佐竹貞義が獲得した。佐竹軍には、鹿島氏や行方氏などの常陸平氏の一族も加わっていた。

 佐竹氏は、建武三〈延元元、三三六)年、南朝方の拠点となっていた久慈郡瓜連城(瓜連町)を攻めた。約一年に及ぶ戦いの結果、佐竹氏は南朝方を破り、常陸国北部の支配を固めることになった。この戦いの後、争乱の中心は常陸国の南部・西部に移った。