近世の学問

■1455年、鎌倉公方足利成氏が古河に入り、後北条に滅ぼされるまで約100年続く。

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■出典

『利根川圖志』下総国布川村(北相馬郡利根町)の医者赤松宗旦の著で、六巻からなり、安政二(一八五五)年の自序がある

 刀禰(とね)川にネ、コといへる河伯あり。年々にその居る所変る。所の者ども、その変りて居る所を知る。その居る所にては、人々も禍ありといものがたりへり。げにカッパの書ある談多し。しもうさところ茶屋新田 常総軍記巻一云、下総古河と中田の間に茶屋村といふ庭あり。ばかりかごめこの所は将軍家日光御社参にも、二町許の内御駕籠に召させられず、御歩行の恒例なり。昔古河公方の時に、御茶屋の路ゆえに茶屋村と号す。常陸の方言に潮(うしお)をいたといへる、輿あることゝおぼして、かく書改られたりとか。(中略)香取、かしま、息栖、てうしの浦々までも一まうにうかみ、富士筑波の両すう峯は西南につらなり、数十里てうもうの影境(けいきょう)なり。近き頃まで、銚子口より親船ひきもきらず入津せし処也。諸侯の蔵屋敷建つゞきしが、淵瀬かわりて船もいらず、 仙台河岸のみ存ず。(『利根川圖志』)

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潮来の図(『利根川圖志』より)

■口語訳

 利根川にネネコという河童がいる。毎年その居場所が変わるが、近辺の者は、その場所を知っている。河童がいる所では、人々に禍(わざわい)があるという。実際、河童の書の物語が多い。

 茶屋新田…『常総軍記』 の第一巻に次のように書いてある。下総国古河町と中田町の間に茶屋村という所がある。ここ二町ばかりは、将軍家が日光に参詣する時に駕籠に乗らずに歩いていくのが恒例となっている。茶屋村という名は、昔の古河公方の御茶屋の跡に由来している

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 取手宿・・・水戸街道の宿場町で、地名は、上の山に大鹿氏の出城があったことに由来する。

 潮来・・・『鹿島志』に次のように書いてある。鹿島より西に二里行き、行方郡にあり、歓楽街などもあって大変賑やかな所である。潮来の字はもとは板来と書いたのだが、光圀公が鹿島には潮宮という所があるように常陸の方言で潮を「いた」というので、おもしろく思われ、潮来と書き改められたという。

(中略)香取、鹿島、息栖(いきす・神栖)、銚子の浦々まで一望でき、富士山や筑波山は南西に連なっているのが見え、数十里が眺望できる景色の勝れた所である。最近まで、銚子の方から船がひっきりなしに入港していた。諸侯の蔵屋敷が林立していたが、前の川が次第に埋まって入船が困難になり、仙台藩の蔵屋敷のみ建っている。

■解説

 茨城は、江戸時代に、地理学の発達の上で忘れることのできない業績を残した人物を数多く生んだ長久保赤水・山村才助・沼尻墨儒・鷹見泉石・赤松宗旦・間宮林蔵らである。

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■解説

 茨城は、江戸時代に、地理学の発達の上で忘れることのできない業績を残した人物を数多く生んだ。長久保赤水・山村才助・沼尻塁倦・鷹見泉石・赤松宗旦・間宮林蔵らである。

 史料の 『利根川圖志』は、利根川中・下流域の沿革とその付近の寺社、名所旧跡、物産、伝説などを川の流れに沿って描き記したものである。一つの川に沿う地域を対象とした地誌では、他に類例を見ないほど精細である。このような地誌が出された背景には、郷土(=地方)に対する認識の高まりと、学問文化の地方普及が密接に関わっていることを指摘することができよう。

 江戸時代も元禄前後の時期から、医学をはじめ、農学、本草学、天文暦学、和算の各分野で実証的、経験的な学問が発達した。また、八代将軍吉宗による実学奨励の一環として、洋書の輸入制限を緩和したことは、洋学の発展を招いた。下表の人物のほとんどが洋学(蘭学)を学んでいる。前述の地理学の六人はもちろんのこと、医学の三人に与えた影響は大きい。

 学問文化の地方普及には、城下町の果たした役割が大きいが、江戸時代後期になると、流通機構の変化に伴って城下町以外でも町人の勢力が伸び、農村でも地方産業の発展や新田開発の波に乗って、地主、問屋、酒造家などが台頭し、彼らが、生活の向上を基盤として、学問文化への関心を高めるに至ったことも見逃してはならない。

■茨城出身の学者について調べてみよう

○村松 茂清(1606~1695)

笠間藩の和算家。-- 

 笠間藩の和算家。著書『算俎(さんそ)』は,わが国数学史上,円周率「3.14」笠間藩の和を打ち出した最初の文献。

長久保 赤水(1717-1801)

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 赤浜村(今の高萩市)出身。水戸藩の地理学者。『改正日本輿地路程全図』は,わが国最初の経緯繰入りの地図で,伊能忠敬の実測図が完成するまでは,全国を風靡(ふうび)した。

○山村 才肋(1770~1807)

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 土浦藩士。地理学。蘭学。『訂正増訳采覧異言』は,当時最高の世界地理書との評価を獲得。地動説も紹介。

○沼尻 墨僊(1775-1856)

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こん土浦出身。地理学。傘式地球儀,地上から星の運動を観測する渾天儀,エレキテル発電機などを作る。

○鷹見 泉石(1785-1858)

 古河藩士。蘭学。わが国最初の和名オランダ地図『新訳和蘭国全図』,洋式の距離測定法を使った『日光里程表』などを出版。引退後に「開国論」を主張。

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○赤松 宗旦(1806~1862)

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 地理学。『利根川闘志』は,一河川に沿う地域を対象とした地誌では類例がないほど詳しい。

○木村 謙次(1752~1811)

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 天下野村(今の水府村)出身の医者。エトロフ・クナシリを探検。近藤重蔵・最上徳内らと択捉島に渡って,彼の書いた「大日本恵登呂府」の木標を立てた。

○間宮 林蔵(1780-1844)

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 上平柳村(今の伊奈町)出身。「間宮海峡」を発見し,樺太が島であることを証明。

○原 南陽(1753-1820)

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近代医学を水戸に持ち帰った最初の医者。「叢桂亭医事小言」は医学入門書として70年余間もベストセラー。

○本間 玄調(1804~1873)

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小川村(今の小川町)出身の水戸藩医。原南陽の高弟。シーボルトに師事。種痘技術を持ち帰る。華岡清洲にも師事し,全身麻酔術を修得。

○河口 信任(1736-1811)

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 唐津(佐賀県)出身,古河藩医。自ら執刀して,わが国2番目の人体解剖書『解屍編』を刊行。

○佐藤 中陵(1762~1848)

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 江戸・青山出身。水戸藩の本草学者。30年を費やし,国内の動植物鉱物岩石大図鑑『山海庶品』を編集。

○土井 利位(1789-1848)

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 古河藩第11代藩主。日本で最初に雪の結晶を表わした『雪華図説』を著す。

○広瀬 周伯(不詳~1818)

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 谷田部(今のつくば市)の医者。気象学。地動説を紹介。わが国の気象研究の先駆者。

○飯塚伊賀七(1762-1836)

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 谷田部(今のつくば市)出身。別名からくり伊賀七。手押し測量機,歩く人形,鐘の鳴る時計などをつくった近世の発明王。

■史 話・土井利位と鷹見泉石

 土井利位(どい としつらは、下総古河藩の第4代藩主。土井家宗家11代。江戸幕府の老中首座。雪の結晶の研究を行い「雪の殿様」の異名で知られる[1。)の不朽の名著に雪華図説がある。

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 彼が雪の結晶の観察を始めた動機は、側近の鷹見泉石から、蘭書『格致(かくち)問答』を教えられたからだという。この本には、文政十一(一八二八)年の観察以来、天保三(一八三二)年に至るまでのもの合わせて八六種と、蘭書『格致問答』の図一二種を加えて、合計九八種がおさめられている。また、天保十一(一八四〇)年発行『続雪華図説』には九七種があり、これだけの数の雪を調べるのは、生半可なことではできない。

 名補佐役・鷹見泉石の協力と土井利位の研究者としての精進があったからであろう。図説の刊行後、雪の結晶の文様が大変な人気を博し、衣服、絵画(浮世絵など)、印刷、金工、織物、陶器、漆器などの生活用品に採用され、江戸ではとくに「大炊(おおい)模様」「土井型」として、ゆかたの模様や菓子のデザインにまで、雪華のデザインが大流行した。なお図説のあとがきに、泉石が蘭書の『格致問答』の雪の図と利位の観察図と全く同じものがあり、科学の真実は東西の別なく、世界共通のものと述べているのは、注目に値するといえよう。