妙心寺

00043cb32b06d6702b268c2a28469b565f4 img_map2c50e6 妙心寺_仏殿・法堂 myoushinji Myoshinji07s5s4110Myoshinji-M9719_Cropped Myoshinj_shunkoin02s2000 Myoshin-ji_5 mainimg_sanmonimage46 image48 image51 image40 image49 image46 image25 image29 image6 image12 engi 126736304535416222842_SANY3644 125950764111716201475_IMG_4183 10116571_HD 20150921101315 20120314000619089

■概論・妙心寺

竹貫元勝

■はじめに 

 正法山妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山で、ここに連々と嗣がれてきた法灯は関山禅であり、開山の一流相承によって歴代住持は継承され、それを堅持してきた禅刹である。76

 中世禅宗の展開は、五山と林下において把握することができるが、妙心寺は、五山・十剃・諸山(甲剃)の五山官寺のいずれの位次にも列せられたことがなく、純然たる林下の寺史を刻んできた。林下(禅宗で地方の寺)は五山に対する用語であるが、妙心寺や大徳寺には、五山に対する概念として「山隣(さんりん)派」と称する語がある。こと臨済宗にあっては、五山と山隣派の二系統においてとらえるのが妥当であろうと考える。

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 近世にはこの山隣派から応燈関門流としてとらえられる禅が出現し、現在の臨済禅に息づいており、日本禅宗史において、山隣派のもつ史的意義には見るべきものがある。こと妙心寺には、五山と一線を画し、時代の変化に応え、それを幾度か乗り越えての展開を見出すことができる。この妙心寺の寺史をうかがうことで、日本禅宗の史的展開の一端を知ることになると思われる。「温故知新」という語があるけれど、妙心寺の史的歩みを紐解くことは、後世に臨済禅が歩むべき道を示唆してくれるものがあるのではないかとも思われる。紙幅の都合で、それにどれ程の言及ができるかは覚束無いけれど、開山六五〇年遠諒の重みに意を置きながら、妙心寺史の一端を紹介することにする。

一、開山と開基

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 山号を正法山、寺号を妙心寺とするこの禅刹は、花園法皇(一二九七−一三四人)花園御所を禅寺にしたもので、関山慧玄(一二七七−一三六〇)を開山花園法皇を開基としてなっている。山号・寺号を付けたのは、花園法皇に請(こ)われた宗峰妙超(一二八二−一三三七)で、また花園法皇の師に関山慧玄(無相大師)を推挙する。建武四年(一三三七)のことで、この年宗峰妙超(大燈国師)は遷化する。

198 大燈国師像

 妙心寺を開創する関山慧玄は、生誕地の信濃国から鎌倉に赴き、南浦紹明に師事して延慶元年(一三〇八)に至る。南浦紹明(なんぼじょうみょう)(一二三五−一三〇八)は、高峰顕日(一二四一~一三一六)とともに天下の二甘露門と称された。高峰顕日(仏国国師)は夢窓派の派祖夢窓疎石(一二七五!一三五一)を法嗣(ほっす)に出し、夢窓派は五山派の主勢力をなすが、宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)もこの高峰顕日(ほうけんけんにち)に師事し、印可され大徳寺の開創する。しかし、宗峰妙超はさらに南浦紹明に参禅して大悟徹底し印可される

73 高峰顕日

 関山慧玄は宗峰妙超嗣法の師に参じた後、京都に上り大徳寺の宗峰妙超のもとに掛塔(かとう・僧堂の入門)する。嘉暦四年(一三二九)、この年は八月二十九日に改元して元徳元年となるが、宗峰妙超から「開山」の号を授けられ、また慧眼の(いみな・死者の生前の本名)を慧玄と改める。翌元徳二年(一三三〇)に印可され、美濃国で聖胎長養し、やがて京都に迎えられて妙心寺を開創するなどして、延文五年十二月十二日に八十四歳をもって遷化(せんげ・高僧が死ぬこと)している。

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 開基の花園法皇は、『花園天皇蔑記』によると、元亨三年(一三二三)五月二十三日の記事を初見として宗峰妙超に謁(えつ)している。参禅開法して、やがて花園上皇は印可された。大徳寺に蔵されている「宗峰妙超・花園天皇問答頌井花園天皇投機」にそれを知る。また、花園天皇皇后も宗峰妙超の参禅の徒で、仮名法語が遣っており、花園天皇の周辺のこととして軽視できない面があるように思われる。貞和四年(一三四八)十一月十一日、花園天皇は五十二歳で崩御された。

 ところで、妙心寺の開創年次は諸説あるが、妙心寺では建武四年(一三三七)を開創年次とする。名実ともに寺基が確立するのは、花園法皇が暦応五年(一三四二)正月二十九日付けで院宣を下して、関山慧玄に仁和寺花園御所跡を管領せしめられ、さらに十一月十二日付けで光厳上皇に宛てた処分状が出されており、暦応五年、四月二十七日に改元されて康永元年となるが、この年であることを知る。

花園天皇宸翰置文-

 妙心寺の開創と展開の根本精神は、「花園天皇翰御置文」に看取し得る。貞和三年(一三四七)七月二十二日、病床にある花園法皇は、一流再興と妙心寺造営などを光厳上皇に依頼され、その願いを成就してくれる人物は関山慧玄をおいて他にないと、関山宛てに「花園天皇嵩翰御置文」を下賜された。妙心寺の開山と開基がともに宗峰妙超の印可を得た弟子であったことは、妙心寺史に看過できないのであり、重視すべきものと考えるが、この翰を妙心寺では「往年の翰」と称している。さらに、花園法皇は、貞和三年七月二十九日に玉鳳院を妙心寺と別にして塔頭となし、塔主は関山門弟が相続するようにと「花園天皇翰御証状」を下賜される

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 観応二年(一三五一)八月二十二日、光厳上皇は関山慧玄に妙心寺再任の院宣を下賜された。再任した関山慧玄は、これより妙心寺で学徒の提噺に専念し妙心寺の井戸「風水泉」の樹の下で訓戒を述べて遷化する。その遺誡(ゆいかい・死を予期したときに遺言することが行われていたこと)は翌年に成文化されて「無相大師遺誡」となるが、それには虚堂智愚(きどうちぐ)(一一八五~一二六九)南浦紹明−宗峰妙超−関山慧玄の伝灯嗣承(でんとうししょう)が語られる。

『法語』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)

 虚堂智愚(きどう ちぐ)は、楊岐派松源崇岳の法系を嗣ぐ

運庵普巌が出した法嗣で、松源一流の禅をかかげて一世を風靡した禅僧であった。その禅が南浦紹明(なんぼじょうみょう)によって日本に伝えられ、宗峰妙超、そして関山慧玄に至ったと強調する。それに関山慧玄の禅宗史観を垣間見ることができる。また、白雲守端(一〇二五~七二)や、虎丘紹隆(一〇七七~一一三六)といった楊岐派の禅を嗣ぐ禅僧の故事を上げて、「忘二却応燈二祖深恩一、不二老僧児孫一」と大応国師(南浦紹明)・大燈国師(宗峰妙超・しゅうほう みょうちょう)の二祖への深恩を忘却してはならないと誡(いまし)めた。後に応燈関門流などと称される「応・燈」の二祖を強く打ち出す関山の人柄や、関山禅の「深恩」思想などが把握でき、語録のない関山を知る恰好の資料である。しかし、この道誠には詳細に検討すべき疑念的余地があり、そのことを指摘する研究があることを付言しておきたい。

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 概して、開山の伝記と妙心寺に関して、初めて纏(まと)められた文献は、妙心寺六祖雪江宗深(せっこう そうしん)(一四〇八−八六)が著した「関山玄禅師」と『正法山妙心禅寺記』である。雪江宗深のそれは、宗門の人々に受け容れられ、開山と妙心寺を知る手立てとなった。まさに、妙心寺と開山の基本史料とでも称し得るものである。やがて妙心寺の学究の徒は、それを具体的かつ詳細に捉えようとする史的関心を高め、生誕地、生年、宗峰妙超に参じた年次、聖胎長養の年次や場所、妙心寺開創年次、退山の年次や理由、授翁宗弼に与えた印可状、遺誡などが研究課題となった。此山玄淵の『正法山六祝伝考嚢』、草山祖芳の『六祖伝別考』や『樹下散稿』、型冗師蛮の『本朝高僧伝』や『延宝伝燈録』、応禅普善の『関山国師別伝』などに近世期の諸説が見出せる。それらを踏まえて、大正六年に出版された川上孤山著『妙心寺史』、同じく昭和十年の天柚接三編輯『妙心寺六百年史』などに論考が示された。さらに、研究史に特筆すべき文献史学者のものとして、昭和四十年の荻須純道著ヲ甲世禅宗史』、平成十人年の加藤正俊著『関山慧玄と初期妙心寺』などの上梓がある。それらに詳細な研究があるが、今後における更なる研究の進展を期待したい。

二、寺史の空白と中興

 関山慧玄の法脈は、二祖授翁宗弼−三祖無困宗因−四祖日峰宗舜−五祖義夫玄詔−六祖雪江宗深と嗣がれる

 妙心寺住持の世代については、順序に検討の余地があるが、一般的に二世授翁宗弼−三世無因宗因−四世雲山宗峨−五世明江西堂−六世拙堂宗朴−七世日峰宗舜−八世義天玄詔−世雪江宗深とされている。

 二祖授翁宗弼(じゅおうそうひつ、永仁4年(1296年一二九六−一三八〇)は、後醍醐天皇の重臣藤原藤房(万里小路藤房)であるといわれる。授翁宗弼の伝は雪江宗深(せっこうそうしん)の『正法山妙心禅寺記』や東陽英朝の「天授授翁弼禅師」などが基本になるが、その後まもなく妙心寺において同人であるか否かをはじめ、授翁宗弼伝の研究がなされている。それはともあれ、宗弼の法諒、授翁の道号は宗峰妙超から授けられ、やがて関山慧玄に師事して、「本有円成仏」の公案を得て修禅に励み、印可されて法嗣となる。康暦二年(三一人〇)三月二十八日に遷化した授翁宗弼(円鑑国師)の塔所は天授院で、明治になって妙心寺の専門道場(僧堂)となる。

 授翁宗弼は、但馬の七美庄に報恩寺を問創して、父母の菩提を弔っているが、この寺は廃寺となっている。現存する授翁宗弼の由緒地として知られている妙心寺派寺院としては、江州三雲の妙感寺、熱海の温泉寺・輿禅寺などがあげられる。法嗣には三祖の無因宗因(一三二六~一四一〇)、北開東地域に関山禅の教線を拡げる華蔵曇、有隣徳などがいる。

 尾張の出である無因宗因(むいんそういん)は、建武元年(三一三四)京都に上り、建仁寺の塔頭天潤庵で南浦紹明法嗣の可翁宗然に師事し、康安元年(一三六一)頃より建仁寺から通って妙心寺の授翁宗弼に参禅した。貞治三年(一三六四)に建仁寺の推那となり、将来を嘱望される五山僧であった。しかし、無困宗因は建仁寺を出て、授翁宗弼に師事し、応安四年(一三七一)印可された。開山と二祝が修禅を第一にして、法要儀礼に関心をよせなかったが、無因宗因は、五山で身につけた礼楽を活かして、妙心寺の礼楽を調えた。

 やがて妙心寺を出て行脚し、関山、授翁における地方活動の精神を継承して教練を拡大し、山城の退蔵院、摂津の海清寺、河内の観音寺などを開創する。こと、退蔵院は後に妙心寺内に移建されて塔頭となり、大巧如拙筆「瓢鮎図」(国宝)などを蔵している。応永十七年六月四日に海清寺で寂した無因宗因は、法嗣に日峰宗舜、春夫宗宿などを出した。

 開創から五十年余、関山慧玄遷化後三十九年、無因宗因が地方に活躍する頃、五山は隆盛し、五山文芸僧の活動も盛んであった。その背景には室町幕府の権勢があったが、それに貢献したのが大守護大内義弘であった。応永六年(一三九九)その大内義弘は、幕府に反旗を翻して応永の乱を起こしたが失敗した。妙心寺に無関係と見られた応永の乱であったが、この頃妙心寺を管理していた拙堂宗朴は、大内義弘と師檀関係にあった。足利義満はそのことに着目して、妙心寺を弾圧する格好の理由となし、妙心寺を没収して、天台宗門跡青蓮院に管理させ、妙心寺は中絶した。

 青蓮院門主の義円が所管するが、義円は正長元年(一四二八)に還俗(げんぞく・僧が僧籍を離れて、俗人にかえること。)し、永享元年(一四二九)に室町幕府六代将軍足利義教(一三九四−一四四一)となる人物である。さらに妙心寺の管理は、南禅寺の廷用宗券に移り「能書寺」の寺号で管理される。妙心寺は寺名さえも消え、これより三十年余におよんで寺史を知る情報はなくなる。文字どおり妙心寺史の空白期問となった。今日、大本山となっている禅寺においては、稀に見る寺史を有する妙心寺なのである。

 永享四年(一四三二)、妙心寺開山塔の微笑塔が延用宗器から根外宗利に返還され、関山派徒は日峰宗舜(一三六人−一四四人)に妙心寺中興を託した。

 日峰宗舜は、天龍寺塔頭本源庵の岳雲に師事して行脚の後、海清寺の無因宗因に師事し、応永十三年(一四〇六)に印可されて関山禅を嗣ぎ、応永二十二年(一四一五)尾張の犬山に瑞泉寺を開創していた。応永二十九年にこの瑞泉寺の鐘銘文を「前南禅寺住」を冠した掛鄭蹴(三六〇⊥聖一七)に依頼する。相国寺敵戴耶での学芸の指導や万寿寺、天龍寺、南禅寺と昇住した惟肖得巌のそれは、将軍足利義持の支持を受けたことに依っていた。日峰宗舜は単に高名な五山文芸僧であるだけの理由によって依頼したのでなく、惟肖得巌を取り巻く人脈を考慮したもので、妙心寺奪還を期する動きではなかったと見られる。

 ともあれ、中興の任を背負って京都に来た日峰宗舜は、荒廃した微笑塔の復興に心血を注ぎ期待に応える。開山塔の隣に庵を設けて中興にあたった。これが塔頭養源院のはじまりである。

 日峰宗舜は守護細川持之の帰依を得るが、それは細川勝元(一四三〇−七三)の外護に繋がり、中興後の妙心寺に細川勝元が果たした史的意義は大きいものがあり、文安四年(一四四七)に日峰宗舜を大徳寺三十六世として出世させたこともその一つである。大徳寺の一休宗純と養彗ホ陳が拒んだが、大徳寺に関山派からの初入寺を果たした。これより妙心寺住持は「前大徳」を冠称することになる。大徳 てっとうぎこう寺はそれにより応灯徹の徹翁義亨門派による住持制を崩すもので、妙心寺史に限らず大徳寺においても一事件であったが、妙心寺は大徳寺を本寺とすることになり、大徳寺の末寺化という画期的なことで、妙心寺が大徳寺を背にしての進展をみる契機となった。

三、開山一〇〇年忌

 中世の妙心寺史において、法灯維持と、妙心寺造営に尽力した人物といえば、「妙心寺中興開山」の四祝日峰宗舜と「妙心寺再興開山」の六祖雪江宗深(一四〇八−八六)が上げられるが、その間をつないだ五祖義夫玄詔の存在も看過できない。

 中興日峰は文安五年正月二十六日に寂したが、雲谷玄祥、桃隠玄朔とともに、義夫玄詔(一三九三−一四六二)を法嗣に出す。義夫玄詔は、五山建仁寺を出て、犬山の瑞泉寺で日峰宗舜に師事し、応永三十五年(一四二八)に印可された。日峰宗舜寂後、養源院の塔主となるが、義夫玄詔の活動には、細川勝元の外護があり、宝徳二年(一四五〇)に細川勝元が創建した龍安寺の開山に請われ、宝徳三年には丹波の八木に龍興寺を開創し、享徳二年(一四五三)に後花園天皇の輪旨により紫衣を受け、大徳寺三十九世住持となった。この紫衣開堂も細川勝元の奏講があったことによる。ずいけいしゅうほう

 長禄三年(一四五九)妙心寺は開山一〇〇年忌にあたり、龍安寺で厳修される。鹿苑院主瑞渓周鳳(一三九一−一四七三)が招かれるが、出席した端渓周鳳は、義夫玄詔が括香することを知り「号二導師一両引レ衆行道、不可也」(『臥雲日件録』)と、導師として行道することに反対した。義夫玄詔は行道をせず、大悲光一遍を諷じ、献香の一個を述べたに止まった。端渓周鳳のそれは、五山最高管理職にある鹿苑僧録の威信を顕示したものと考えられる。

四、再興と諸制度の設置

 雪江宗深は摂津の出身で、建仁寺に入った後、瑞泉寺の日峰宗舜に参じ、妙心寺の中興を三年におよんで支援する。文安三年(一四聖ハ)に日峰宗舜から「雪江」の道号が与えられるが、日峰宗舜の寂後は義天玄詔に参じ、寛正三年(一四六二)に印可され、この年三月十八日に義夫玄詔が遷化すると、細川勝元の要請により龍安寺に任し、また妙心寺の護持にあたる。同年八月には大徳寺四十一世住持となり、文明五年(一四七三)十二月に再任もする。

 応仁元年(一四六七)、応仁の乱が起こり、妙心寺は焼失した。雪江宗深は、再興に尽力し、文明九年には後土御門天皇より妙心寺再興の給旨を得る。  けいせんそうりゆう ごけいそうとん

 雪江宗深は、四人の法嗣を出し、景川宗隆(一四二五−一五〇〇)は寛正五年(一四六四)、悟渓宗頓(一四一六−一五〇〇)は応仁元とくほうぜんけつ年(一四六七)、特芳禅傑(一四一九−一五〇六)には文明五年(一四七三)、東陽英朝(一四二八−一五〇四)には文明十年(一四七八)に、それぞれ印可して四法嗣に関山禅の法灯を託した。また、景川宗隆に開山塔所の微笑庵、悟渓宗頓に授翁宗弼塔所の天授院、特芳禅傑には義天玄詔塔所の龍安寺、東陽英朝に日峰宗舜塔所の養源院と、四法嗣各々に付して護持させる。その四法嗣の各々は龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派の派を形成して四派祖となる。

 文明七年、雪江宗深は、妙心寺の住持を「三十六箇月を限り輪次に焼香致さしむるものなり」と、輪番住持制となし、その住持期間を つうす かんす なっし上三十六ケ月、つまり一任三年とした。文明十人年(一四人六)には「米銭納下帳」をもうけ、米銭の出納は三役の都寺・監寺・納所、それに  いのう侍真・維那二役を加えた五役によって管理させる制度を設けた。妙心寺には「米銭納下帳」が所蔵され、寺院経済を知る貴重な史料である。

 住持制度と会計制度を立ち上げた雪江宗深は、「妙心関山玄禅師」の開山伝と『正法山妙心禅寺記』を著した。宗門では、雪江宗深が著したそれによって、開山伝と草創期の妙心寺を知るのであり、妙心寺徒が宗門人としての意識の昂揚をはかることになり、雪江宗深の二つの著作がもつ意義には甚大なものがある。もっとも先記の如く、その記事には幾つかの疑点が指摘され、妙心寺における研究課題を残した。

 関山は「余の頂相を写す莫れ」と遺命し、妙心寺では一円相をもって開山の頂相としていたが、文明二年(一四七〇)、雪江宗深は関山全身像の頂相に賛を書き、文明五年には海清寺の半身像の関山頂相にも賛をしている。また、開山の木像については、応仁の乱に雪江宗深は木像の面首をかかえて、丹波八木の龍興寺に難を逃れたという話が伝えられている。

 このようにして、再興雪江宗探は関山派の聖地としての妙心寺づくりに尽力し、示寂の翌文明十九年(一四人七)、後土御門天皇は、特芳禅傑(一四一九−一五〇六)に宛て、「宗門無双の名刺」とする輪旨を下賜され、再興は名実ともになる。

五、紫衣勅許と寺域拡大

 日峰宗舜の大徳寺出世後、関山派僧の大徳寺出世は恒例化し、義夫玄詔は紫衣で開堂をなし、雪江宗深は再任を果して、大徳寺と妙心寺の関係にも変化を見る。四派の時代になると、大徳寺住持などに関わる規式や壁書の連署者が出る。霊雲派の派狙特芳禅傑や郵林宗棟、聖澤派の天蔭徳樹などで、特芳禅傑が初めて署名したのは、文亀元年(一五〇一)で、大徳寺方丈の造営費捻出に一件一五〇 くもんせん いなり ぎくもん いくもん貫文の官銭(公文銭)をとる居成(坐公文・居公文)を三人出す規定である。

 即金納入を泉走した壁書に特芳辞任と天善徳材が署名し、茹林宗棟は同年十二月の「侍真寮壁書」に連署している。妙心寺が大徳寺運営の一角に組み込まれ、親密且つ友好的関係にあることを知るが、やがて妙心寺は、大徳寺離れを起こすことになる。

 永正六年(一五〇九)二月二十五日、妙心寺は後相原天皇から「正法山妙心禅寺は、大燈国師上足の草創、花園仙院御願の蘭若なり。  はら(中略)然れば則ち須く紫衣を若けて入院の儀式を刷うべし、位次は大徳寺に等し」という給旨の下賜を得た。妙心寺は紫衣をつけて人寺が出来る寺、つまり紫衣勅許の禅寺となり、さらに大徳寺と同格の寺とされ、独立本山としての展開をすることになった。

 この後柏原天皇による紫衣勅許の輪旨によって、妙心寺住持になるために恒例となっていた大徳寺出世の必要がなくなった。妙心寺  せっしゅうずいしゅう僧の大徳寺出世は、大徳寺七十五世の雪他端秀をもって最後とする。

 このように、妙心寺は文明十九年の「宗門無双の名刺」給旨下賜から二十二年を経て永正六年に至り、紫衣勅許の給旨下賜を得て、ついに独立本山として展開を確かなものにする。外護看である戦国大名などにとっては魅力ある禅寺となり、寺勢拡大を見ることになる。

 この永正六年十二月二日になって、仁和寺の真来院領の土地を買収した利貞尼(一四五五−一五三六)は、妙心寺の境内地として寄進する。翌七年六月二十一日には後柏原天皇が論旨を下賜している。美濃加納の城主斎藤利国の室で、東海派狙悟渓宗頓に帰依して尼となったのが利貞尼である。

 利貞尼による寺域拡大は、その後の妙心寺の寺観形成に大きな意味を持つが、文明期に創建されていた龍泉庵・東海庵に加えて、この寺域に大永三年(一五二三)に聖澤院、大永六年(一五二六)に霊雲院の創建がなり、四本庵が揃った。これによって妙心寺に四派・四本庵制の運営制度が構築される基礎ができた。妙心寺の寺勢拡大とその維持は、この四派・四本庵の成立による。

六、戦国大名と妙心寺

 妙心寺は紫衣勅許の給住寺となり、四派祖の塔頭が揃うなど、戦国期は妙心寺史上における画期的な時期であったが、その背景には、地方における四派狙とその法嗣、法孫の活動があった。

 戦国大名の出現があって群雄割拠となり、やがて織豊政権の時代を迎えることになるが、この時代の流れは妙心寺の展開にも端的に現われる。五山派を支えた室町幕府は衰退滅亡し、山隣派が外護者にしていた地方の勢力が接頭し、戟国大名の出現を見る。この時代の転換は、禅宗の主導権を握っていた五山派が衰退し、地方に展開した妙心寺など山隣派の寺勢拡大を意味する。

 戦国武将たちがもとめた禅僧は、単に文芸の才に長けた人物ではなかった。禅的人格をそなえた「禅僧」を求めたのである。戦国武将にとっての禅僧は、精神的拠として欠かせない存在となっており、その要求に応え得る禅僧が戦国武将を外護者にできたのであるが、 かいせんじょうき たいげんそうふ たくげんそうおん妙心寺僧との問わりでは、武田信玄と快川紹喜(?−一五人二)、今川義元と太原崇字(一四九六−一五五五)、織田信長と沢彦宗恩 てっさんそうどんじきしそうがく(?−一五人七)、徳川家康と鉄山宗鈍などが有名である。また、妙心寺の霊雲院・徳雲院を創建した大体宗休、東林院開祖の直指宗誇、だいつういん りんかいん   なんかげんこう いっちゆうとうもく大通院・隣華院の開祖南化玄輿、雑華院開祖の一宙東黙などをはじめ戦国大名を外護者にした禅僧は、妙心寺に塔頭を開創している。

 織田信長(一五三四−八二)は、比叡山の焼き討ちなど仏教勢力を厳しく弾圧したけれど、妙心寺に対してのそれはない。織田信長と妙心寺僧とのかかわりは、沢彦宗恩に見出せ、織田信長は「岐阜」の地名や印判「天下布武」の印文四字選定などで相談をしている。また、織田信長が老臣平手政秀のために創建した尾張の政秀寺に開山として迎えている。

 その信長を本能寺の変で自刃に追いやったのは、明智光秀であったが、この光秀に因む由緒をもつのが妙心寺の浴室「明智風呂」である。山崎の合戦で敗れた明智光秀の後、政権を握るのが豊臣秀吉であるが、玉鳳院内に祥雲院殿霊屋や妙心寺蔵の「色々辣絨胴丸」、隣華院・玉鳳院蔵の「棄丸坐像および木造玩具船」があるが、これは天正十九年(一五九一)に夫折した豊臣秀吉の子葉丸(法名、祥雲院殿)に由緒をもっている。棄丸の葬儀は妙心寺で催し、東山には菩提寺祥雲寺が創建され、功沢宗薫を開祖に塔頭養徳院を創建した石川重光の勧めで、南化玄興が開山になる。

 徳川家康は、鉄山宗鈍に帰依し、文禄元年(一五九二)に野火の平林寺に住持として招請し、その後妙心寺に住持させ、さらに妙心寺三門の改築もしている。三門は慶長四年(一五九九)になっているが、妙心寺に関心を示す家康のそれは将軍職拝命前のことであった。妙心寺が紫衣勅許の寺であり、また後陽成天皇に禅要を進講する鉄山宗鈍など、朝廷との親密な関係に着目したことが、妙心寺に接近する要因の一つにあったと考えられる。慶長十一年(一六〇六)になった妙心寺塔頭の大龍院の開祖はその鉄山宗鈍で、中村忠一が父一氏七回忌に創建した菩提所塔頭であった。  かいさんげりんしゅ

 その徳川家康に関わる妙心寺僧に、南化玄輿の弟子海山元珠(一五六六−一六三二)がいる。慶長十九年に東山の方広寺が再興され、ぶんえいせいかん鐘楼に巨鐘がつるされるが、文英清韓(?−一六二一)が作った鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」とあり、家康は激怒し、方広寺鐘銘事件が起こる。この事件で家康の機嫌を取る五山僧などの論評を否定し、鐘銘文を正当に評価して文英清韓の文才を支持したのが海山元珠であった。家康は方広寺、祥雲寺を没収し、祥雲寺に任する海山元珠は追い出され、そのときに棄君の木像を妙心寺に移したという。

 豊臣から徳川に政権が移る時期に、正論を主張する気骨のある禅僧が妙心寺にいたことを知る一事例である。

七、近世の妙心寺

 江戸幕府は宗教統制に乗り出し、元和元年(一六一五)に諸宗本山寺院諸法度が制定された。この元和の寺院法度は妙心寺に出されたものと大徳寺のそれと同文で、五ケ条であったが、条文の中に修行期間は三十年、公案は一七〇〇則を透過して、諸師に歴参し、長老たちの推挙を得た人にかぎつて開堂を許すなどとあった。両寺ではそれを無視していたが、寛永四年(一六二七)になって、幕府は元和元年以後に紫衣勅許を受けた者のそれを取り消し、法度の厳守を求めた。妙心寺と大徳寺では、それを受け入れる軟派と、拒否する強硬  たくあんそうほう ぎ上くしつ派に分かれて議論がなされる。妙心寺では、東海派の単伝士印、霊雲派の東源慧等などが硬派の代表者で、大徳寺のそれは沢庵宗彰・玉室そうはく こうけつそうがん宗拍・江月宗玩である。寛永五年、五ケ条の各条目一々について問題を指摘した沢庵宗彰の執筆になる抗弁善が幕府に提出された。この抗議行動に対し、幕府は単伝士印や沢庵宗彰などを処罰した。寛永六年、単伝士印は出羽の本庄藩、東源慧等は陸奥の弘前藩、沢庵宗彰は出羽の上山藩、玉室宗拍は陸奥の棚倉藩にそれぞれ流罪となる。これが紫衣事件で、寛永九年に赦免され、東源慧等は妙心寺に帰山し、 へきおうぐかん単伝士印は春日局の帰依を得た。春日局の由緒には江戸の麟祥院、妙心寺塔頭で単伝士印の法孫碧翁愚完を開祖とする麟祥院がある。

 近世の禅宗では、修禅における形骸化や弊風が見られるようになる。その危機的現状を感知し、直視して本来あるべき修禅による祖師禅を興すことが急務であり、使命であるとして、正法復興運動を起こしたのは妙心寺派の禅僧であった。     みょうけりん

 禅僧に明眼の師はいない。それらしく振る舞う邪師、つまり外道の師ばかりである。禅が行なわれず俗士にも劣る禅僧が世にあふれているではないか。

 祖師禅の復興をめざす愚堂東塞(一五七七−一六大一)を主導者に、裏居希席(一五人二−一六五九)、大愚宗築(一五人四−一六六九)、雪窓宗握 (一五人九−一六四九)、洛浦全邑(一五七九−一六五一)、回天法旧(一五人一1一六六三)、大雲玄祥(一五六一−一六三五)などが加 わって結盟遍参する。駿河清見寺の説心宗宣、宇都宮輿禅寺の物外紹播、仙台覚範寺の虎哉宗乙など各地の老宿に参禅して、問答応酬する。『雲居和尚紀年録』『雲居和尚年譜』や愚堂来室の伝記『国師伝』などによると、慶長十一年のことである。近世初期禅宗界にあって、まず宗風刷新の行動を起こした妙心寺僧たちの出現には注目すべきものがあり、愚堂東塞の禅は「正法禅」などと称され、雲居希暦は『往生要歌』の著で知る如く念仏禅をかかげ、大愚宗築は「走力の大愚」と呼ばれ、その禅は「無相禅」と称され、雪窓宗雀は禅教双挙 いっしぶんし ばんけいえいたくをかかげ、また一兢文守の禅は持戒禅として知られ、著書に『大梅夜話』『定慧明光仏頂国師語録』五巻などを遺し、盤珪永琢(一六二二−九三)は不生禅をかかげた。

八、開山三〇〇年遠謀と関山禅の展開 

 正法復興の気運が高まる妙心寺であったが、承応三年(一六五四)、臨済宗無準師範の法系を嗣ぐ隠元隆埼(一五九二−一六七三)が明朝禅を伝えた。山城の宇治に黄葉山万福寺を開創し、黄葉宗の宗祖となるが、妙心寺では、塔頭龍華院開祖の竺印祖門、仙寿院開祖り上うかくの禿翁妙宏、大雄院の万拙知善、慧照院の大春元貞、龍安寺の龍渓性潜、さらに大阪大仙寺の湛月紹円、広島禅林寺の虚嬬了廓、鳥取ていじゅんえぜん龍峰寺の掟宗慧全などが隠元に関心を示し、龍渓性潜の如きは、妙心寺を出て黄葉僧となっている。黄葉宗に関心を寄せる人たちの中には、妙心寺住持に隠元を招請する提案もなされ、隠元によって妙心寺の宗風刷新をなし、正法復興をしようと考えたのである。妙心寺では一山をあげて議論し、隠元の妙心寺住持は退けられた。妙心寺開創以来の関山一流相承剰の伝統維持を主張する愚堂東塞などの意見が通った。隠元をめぐる論議は、妙心寺の在り方を真剣に考える機会となる。時あたかも妙心寺三〇〇年遠諒を目前にする頃のことである。

 万治二年(一六五九)開山三〇〇年遠謀は愚堂東塞が導師となり、「二十四流日本禅、惜哉大半失二其伝一、関山幸有二児孫一在、続焔聯芳三百年」と香語を述べる。日本に展開した二十四流の禅は、近世に大半が絶法してしまったが、関山慧玄の法孫は健在で、関山禅は三〇〇年続いていると、開山禅の昂揚をする。

 遠諒後の関山禅は、先ずは古月禅材(一六六七−一七五一)、少し遅れて「五百年聞出」といわれる自隠慧鶴(一六人五−一七六人)の出現によって昂揚され、日本禅宗史上に画期的転機をもたらす。

 古月禅材(本妙広鑑禅師)は霊雲派の法系にあり、豊後臼杵の多福寺で賢厳禅悦(一六一人−九六)に嗣法する。日向の大光寺、久留 んね米の梅林寺や福衆寺などにあって学徒を指導し、多くの弟子が集まり隆盛した。弟子には、月船禅慧(一七〇二−八一)などがいて、はん誠拙周樗(一七四五−一人二〇)が法灯をつないだ。ことに博多の聖福寺に三十年も住して活躍した仙崖義梵(一七五〇−一人三七)の如き禅僧も出ている。しかし、古月禅材の弟子の多くは、自隠のもとに走った。

 白隠は至道無難(一六〇三−七六)の弟子道鏡慧端(正受老人)の法嗣である。至道無難は愚堂東塞の法嗣であるから聖澤派の出が自隠である。信州飯山の道鏡慧端に参じて徹底大悟したが、その後、禅病に悩まされ、京都北白川の自幽子に学んだ内観の法を修している。

 「隻手音声」の公案を発案するなど、公案の集大成をして、徹底見性のための手段としての公案禅を確立し、近代禅の出現をみる。五十余編の著作、書画・墨蹟など一万点余を遺しており、それはそのまま「自隠禅」の教化活動であったが、書画・墨蹟は白隠の禅文化でもすいおうけんろ とうれいえんじ がさんじとうある。妙心寺の首座位にとどまり出世しなかった自隠であったが、明和五年十二月十一日に寂し、遂翁元虚、東嶺円慈、峨山慈樺など こくhリんの法嗣を出し、鵠林派を形成している。

 臨済宗諸派は近世に法系的断絶を見たが、関山禅の伝法者から自隠が出現して法脈を後世に繋ぎ、今日の臨済宗は応燈関門流として集約されることになる。

 近世の妙心寺には、革冗師蛮(一六二六−一七一〇)、無著道息(一六五三1一七四四)など高名な学僧も出た。草花師蛮は、龍泉派の人で、『延宝伝燈録』『本朝高僧伝』などを著わし、龍泉庵には二八七枚の「延宝伝燈録彫刻板」、四二五枚の「本朝高僧伝彫刻板」が所蔵されている。無著道息は、霊雲派の出した学僧で、「宗門第一の学匠」と称され、妙心寺に再任し、龍華院に退休して著述に専念し、著書は『禅林象器箋』『正法山誌』など三七四種、九二巻を数える。

九、議会制

 妙心寺塔頭の龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院は、四派各派徒の法系的精神的拠点としての派祖塔所であり、また本庵でもある。本庵は派内管理の事務を取り扱い、妙心寺輪住や転位、本山香資等の納金に関することをはじめ、派内寺院に関する本山(常住)への取り次ぎなどをした。本庵蔵はその関係資料を納める所である。

 四派の四本庵は、派中あるいは門派の意識をもって派祖塔頭に求心的につながるが、妙心寺諸塔頭及び末寺は四派のいずれかに属し、四派の小教団を形成しており、その複合体が妙心寺敦団である。 妙心寺の行政機構は、四派・四本庵制が中枢をなし、本山妙心寺(常住)には、四派執事と陪席執事がおかれた。四派執事は四派各派の代表四人で、陪席執事は大心院と龍安寺が出す執事である。

 妙心寺の決議機関は、稔評、衆評などの議会が設けられ、それによって決議された。稔評は稔前任と一山総衆とによる会議で、開催権は法山位頂が就任する議頭(議長)がもっていた。衆評は当番和尚と四派執事、陪席執事による会議である。この会議において、議題が重大なときは、四派執事個人の決断によるのではなく、かならず四派各派に持ち返り、派内での討議を経ることを原則とした。四派の各派での決議は、再度衆評に持ち返って「つきあわせ(衝合)」の議論をして決定した。

 さらに、本山の総評、衆評の下には、四派各本庵の「一派衆会」と称される決議機関があった。四派・四本庵制での四派各派の最高決議機関がこの「一派来会」の評議で、前堂、持庵及び平僧の役者にいたるまで、派中評議への参席が義務づけられ、派を構成する人の総意を尊重する議会制度が確立されていた。また、「一派宋会」に上った議題によっては、必要に応じて小派各派に持ち帰り、各小派内で検討し、その結果を再度一派衆会に持ち寄り、「つきあわせ」の一派来会がもたれた。この小派(徒弟)は、四派の各派に形成された派で、妙心寺十二小派とか十五小派と称している。四派の各派内運営は、徒弟の意見をも尊重して運営されたのである。妙心寺は四派、小派にいたるまで、徹底した合議制をとった。

十、塔頭と末寺

 近世の妙心寺は、御宋印高四九一石余を有しての展開で、京都五山の本山寺院のそれには比較にならない程の乏しい額であったが、末寺は臨済宗諸派中最も多くを有する本山であった。妙心寺の末寺帳に、寛永十年(一六三三)三月十四日付けで「当住紹罷」「桂昌院玄呆」が署名し、書き上げられた「正法山妙心禅寺末寺井末々帳」がある。これには妙心寺塔頭の書き上げはないが、直末寺三一一ケ寺、孫末寺四三三ケ寺、総計七四四ケ寺を書き上げている。その後、古月禅材、自隠慧鶴が没して二、三十年を経た寛政元年(一七人九)八月の『禅宗済家山城州正法山妙心寺派下寺院帳』は、塔頭・寮舎・門前境内庵など二五、末寺一四一七、孫末寺三二〇五、曾孫及び玄孫末寺三人五、給数五〇〇〇余ケ寺を書き上げる。この頃の臨済宗寺院総数は、九二〇〇ケ寺余で、その過半数を占めていたことになる。

 こと、塔頭については、貞享二年(一六人五)になった水雲堂孤松子著の『京羽二重』に、「正法山妙心禅寺、洛陽ノ西仁和寺之近隣」と記し、塔東名を列挙するが、塔頭五十一ケ院、南門前十四ケ院、北門前人ケ院、総計七十三ケ院を数えている。先記の寛政元年の派下寺院帳は、「本山塔頭八拾参箇字」「同寮舎二拾一箇宇」「門前境内之庵拾五箇寺」、「以上百拾九箇字、今在二妙心寺境内一」を書き上げる。無書道忠撰述の『正法山誌』第九巻「正法山妙心禅寺塔頭」の章では、塔頭として微笑庵以下八十三ケ塔頭を記載している。さらに安政六年(一人五九)の「正法山妙心禅寺塔頭絵図」は、南北門前及び境域内所在の院庵八十一字、龍安寺とその塔頭二十三宇を合わせると一〇五宇を画いている。

 かかる妙心寺塔頭の創建件数が際だって増えるのは、戦国末期から近世初期においてであり、ことに天正から寛永期(一五七三−一六四三)創建の妙心寺塔頭は、檀越外護者の菩提所塔頭である。

おわりに

 妙心寺は、美しい寺戟を呈する禅文化の府である。南惣門、勅使門、三門、仏殿、法堂、大方丈、小方丈、大庫裡、経蔵、浴室、鐘楼、北惣門、玉鳳院、開山堂、そして塔頭が建ち並び、それらの多くは国の重要文化財に指定される建造物であり、また玉鳳院、東海庵、霊雲院、退蔵院、桂春院などの庭園は史跡・名勝の指定を受け、史跡・特別名勝指定の龍安寺は、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 それらの堂宇は、開山無相大師遠諒をはじめ、開基花園法皇遠諒、輿祖微妙大師遠諦、中興日峰禅師遠諒、再興雪江禅師遠諒、さらに各塔頭の開祖忌などの記念事業として、建造当時の復元にも配慮されながらの解体修理などがなされ、保存維持されてきた。また、  み所蔵する頂相、墨蹟、墨画、工芸品、梵鐘などの多くが国宝や重要文化財に指定され、その文化財の護持と顕彰を目的とする組織に「撤しょうかい笑会」が結成されている。

 ここに、妙心寺は、関山禅の法灯を堅持するとともに、文化財に対する高い関心と保護の精神をもって歩んできたことを看取し得るのである。

(たけぬき げんしさつ 花園大学文学部教授)

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