満洲国の「理想」

■ポスターに描かれた満洲国の「理想」

▶︎満洲国を正当化し美化するためのイメージ戦略に使われたポスターの図案とはどんなものだったのか

広中一成

▶︎満洲国の「理想」と現実

 1931年(昭和6年)9月18日、清洲事変を起こした関東軍は、翌1932年(昭和7年)3月1日、東部内蒙古を一部含む東北三省を支配領域とする清洲国を建国した。

 満洲国は、「王道楽土」「五族協和」をスローガンに、日・漢・満・蒙・朝の五つの民族の提携による国家建設を目指した。

 しかし、そのスローガンは名ばかりで、実際の満洲国は、関東軍の指導下に置かれた日本の傀儡国家であった。 そのような「理想」と現実の違いを覆い隠すかのように、満洲国では国家としての存在意義や親日政策、関東軍の作戦行動を正当化した内容のポスターをいくつも制作した。 満洲国はそのポスターに何を描いたのか。鳥取県西伯郡南部町にある祐生出会いの館に所蔵されている満洲国関連のポスターからその一端をみていく。

▶︎天国と地獄

 満洲国が成立する以前、満洲は張作霖・学良親子が率いる奉天軍閥が支配していた。「王道楽土」「五族協和」をスローガンに掲げた満洲国は、その理想が正しい:とをアピールするため、奉天軍閥の統治がいかにひどかったかということをポスターで表現した(たとえば、図1は、「消滅旧軍閥暗黒時代」と題して、拳銃を向けて脅している兵士に怯えて手を合わせる貧しい農民の姿が描かれている。

 兵士と農民の背景が黒一色で塗られている。中国で黒は悪いイメージを持つ。中国語で非合法な集団のことを「黒社会」(ヘイシャーホイ)という。また、文字で使われている白色も、中国では葬儀など死をイメージする縁起がよくない色とされる。

 これに対し、ポスター上部には作物の実った畑と、農民と思われる二人の人物の下半身が描かれている。ポスターの上下を対比させることで、満洲国が軍閥を倒して、清洲の民衆に平和をもたらしたということを表現した。

 図2も図1と同じく、満洲国成立前後を対比させることで、満洲国の正当性をアピールしている。特に図2では、軍閥が鬼として表され、たくさんの税の針山がそびえ立つ地獄で、良民が圧政と重税を象徴した岩に押しっぶされていたり、鬼に捕まって火の中に投げ込まれたりしている姿が描かれている。

 地獄をモチーフにするという点では、図3も同じである図3の左半分には、やはり黒を背景色にして、地獄の裁判官といわれる閻魔(えんま)が、前に跪(ひざまず)いて座る死者に対し、彼らが生前犯した罪を裁く様子が描かれている。その閻魔の右横には、白色を使って中国語で「満洲国に背く者は来世でこのような裁きを受けることになる」と書かれていた。一方、右半分には、黄色を背景色にして、花の入った籠を手に下げて舞う女性の姿が描かれている。女性は雲の上に立ち、雲の下には満洲国旗を振り上げた家族がいる。女性の右側にも文字があり、中国語で「満洲国に喜んで従う者は、死後このような幸福を受けることになろう」と記されていた。地獄である左半分に対し、右半分は極楽浄土を表していた。 右半分が天国であるなら、雲に乗った女性はおそらく仏であろう。清洲には以前から文殊菩薩が信仰の対象となっていたという。そもそも文殊菩薩は女性ではないが、智慧を司る仏としてまれに女性の形で表現されることがある。この右半分に描かれた女性も、文殊菩薩信仰を意識したものではないだろうか。

▶︎満洲国=子ども、日本=大人

 満洲国は、建国のきっかけとなった満洲事変を重要視し、記念日が近づくと、事変を称(たた)えるポスターを発表した。図4は、満洲事変発生満二周年を記念したポスターである。これを見ると、日本兵は女児と手をつなぎながら、その横の満洲国旗を持った男児と笑顔で話をしている。このポスターが作られた1933年は、満洲国が成立してから一年が過ぎたばかりで、国家としてほ、まだ「子ども」であった。つまり、このポスターは大人の日本が子どもの満洲国を見守っているというメッセージが込められていた。

 満洲国を子どもと見立てているのはこのポスターだけでほない。図5を見ると、一年目でようやく立ち上がった赤ん坊が、三年目にはすくすくと元気な子どもに成長している。そして、彼らの手には満洲国旗が握られていて、満洲国の発展を子どもの発育という形で表現していたことがわかる。

 しかし、ポスターの一部には、清洲国=子ども、日本=大人というパターンには当てはまらないものも存在した。1932年9月15日、日本と満洲国は日満議定書を取り交わし、日本が満洲国を正式に国家として認めて国交を成立させた。図6はそれを祝ってつくられたポスターである。中央で握手をしている二人の子どもは、服装から左が満洲国、右が日本を表している。この日満議定書により、日本と満洲国は国家として対等な関係になった。そのため、ポスターの人物も、これまでの大人と子どもという間柄ではなく、どちらも対等な子どもの姿で描かれた。

 しかし、日満議定書では満洲国が日本に対し、日本の満洲権益と日本軍の清洲駐屯を認める取り決めも含まれていた。すなわち、目満議定書の締結は満洲国が日本の傀儡政権となることを意味した。ポスターで目満対等をアピールする姿は、日本と満洲国の真の関係をすっぽりと覆い隠していた。


■失敗した音楽による国作り−満洲国の国歌、愛国歌、軍歌

▶︎国家や軍隊といった近代の組織に欠かせない政治的な音楽。満洲国ではどのような曲が生まれていたのだろうか。

辻田真佐憲

 音楽はときに政治に奉仕する。国歌、愛国歌、軍歌などは、さまざまな国や地域で、ひとびとを鼓舞し、団結させてきた。では、満洲国ではどうだったのか。以下ではその歴史を建国期、発展期、戦時期の三期にわけてたどってみたい。

▶︎建国期(1932〜1933年)

 満洲国の建国前にも「満鉄の歌」(1926年)、「独立守備隊の歌」(1929年)、「満洲行進曲」(1931年)など満洲関係の歌が作られた。いずれも重要な歌だが、ここではさきに急ごう。

 1932年三月、満洲国が建国されると、宣伝機関として資政局弘法処が設けられた。同処は、同国の理想を普及させるため、ポスターや音楽を積極的に活用した。

 とくに歌の場合、広く歌ってもらえるように日本語と満語(漢語)の歌詞が両方用意された。「頒建国歌」と「建国記念日満大運動会会歌」の二曲がその代表格である。前者の歌詞を例に引けば、「燦欄的日光普照着萬方/あまねきや光の如く」といった具合だ。 資政局弘法処長に就任した八木沼丈夫は、満洲日日新聞ハルビン支店長、満鉄弘報係主任などを歴任した広報・宣伝のプロだった。資政局は日系官吏間の対立で六月に解体されてしまうが、八木沼はその後も音楽を活用しひぞくつづけた。関東軍の匪賊討伐(ひぞくとうばつ・集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒)に従軍して作詞した、「討匪行」(1933年)がその代表作である。

 その一方で、同じ1933年には満洲国の国歌も作られた。国務総理の鄭孝背が作詞し、これに在満の日本人音楽家の高津敏、村岡楽童、園山民平が曲をつけた。このように日本人の指導・協力を受けて、満洲国における共同体の歌は弧々の声をあげた。

▶︎発展期(1934~1940年)

 1934年3月、溥儀が皇帝に即位した。組織あるところに歌あり。国家体制が固まるにつれて、共同体の歌も急ピッチで整備されていった。

 なかでも特筆すべきは、皇帝即位にあわせて軍政部で行われた「満洲帝国陸軍歌」「清洲帝国海軍歌」の制作である。歌詞は懸賞公募され、満系官吏の彰寿と張競がそれぞれ当選した。歌詞の懸賞公募は日本では数多く行われていたが、それが満洲国にも応用されたかたちだ。作曲は、先述した園山民平が担当した。 このほか、1930年代後半には、軍政部の「日系軍官の歌」、関東軍の「関東軍軍歌」、満洲国協和会(満洲国の官製国民組織)の「協和会行進歌」、満鉄と満洲新聞社の「満洲鉄道唱歌」、また満洲国版の唱歌である「学校式日唱歌」などが次々に制作された。

 「協和会行進歌」には面白いエピソードがある。この歌は、協和会の甘粕正彦の依頼で武藤富男(後述)が作詞した。そのとき甘粕は、「協和会には行進歌がないため、会員が列を作って行進する時に、足取りがそろわないし、心も一つにならない」と述べたという(武藤富男『私と満州国』)。音楽が単なる娯楽や慰安ではなく、共同体のために使われていた証左である。

 ここであげた歌の多くはレコードに吹き込まれ、普及が図られた。組織は簡単に作れても、帰属心はすぐに生まれない。その帰属心を養うために、音楽は欠かせないものだった。

▶︎戦時期(1941〜1945年)

 1941年1月、機構改革によって、清洲国の文化行政が総務庁弘報処に一元化され。三月には「芸文指導要綱」が告示され、各種の芸文団体が発足した。この一連の改革を弘報処長として断行したのが、先述した武藤富男である。

 この新体制のもとで、清洲国の共同体音楽は最後の花を咲かせた。まず、1942年3月の建国十周年にあわせて、新しい国歌が制定された。新しい国歌は、日本語と満語で書かれ、「天照大神の恩恵を戴き、天皇の事業を翼賛しよう」と唱えた (政府広報の「国歌謹解」による)。傀儡国家以外のなにものでもない、あまりに露骨な内容だった。

 

 また、太平洋戦争の勃発を受け、戦時色の強い歌も大量に作られた。満洲新聞と満洲日日新聞が共同企画した「米英打倒大東亜興隆行進歌」(1942年)、満洲歌謡研究会が制作し、協和会が選定した奉賛大東亜聖戦一周年歌「戦ひ正にこれからだ」(1943年)、蘭花特別攻撃隊をテーマにした「蘭花特別攻撃隊「空に咲く花」「噴々春日中尉」(1944年以降)などがそれにあたる。

 このころになると、満洲国の音楽は、建国の理想はそっちのけで、日本の国策への従属を赤裸々に訴えるようになった。だが、当然そんなものはひとびとの心に響かなかった。結局、1945年の崩壊まで、満洲国は「国民音楽」と呼べるほど人口に膾炙(かいしゃ・広く知れわたっていること)した共同体の歌を生み出せなかった

 国歌、愛国歌、軍歌は、うまく使えば、ひとびとを鼓舞し、団結させられる。だが、清洲国の音楽は、あまりに日本に翻弄され、自発性がなさすぎた押しっけばかりでは、共同体意識も生まれようもなかった満洲国の音楽による国作りは、失敗するべくして失敗したのである。


■ヒット曲レコードでたどる満洲

▶︎満洲事変後、日本国内では時局に合わせて満洲開運のレコードが数多く発売された。その後、社歌から歌謡曲までさまざまなジャンルの歌が人気を博していった。

▶︎「売れる」レコードだった時局ネタ

 レコードの発達はメディアの発達と密接にリンクし、特に「真空管」の発明と普及はラジオ・トーキー映画・そしてマイクを使ったレコードの電気式録音を産み出し、新しいテクノロジーによるこれらメディアによって世界の距離は飛躍的に縮まった。そして、このニュー・メディアを巧みに利用したのがご承知の通りナチス・ドイツであり、他の国でも大なり小なりこれら真空管を使ったメディアでのプロパガンダや娯楽の興隆が盛んに行われたわけである。

 日本でも、昭和6年(1931)に満洲事変が起こると、それまでエロ・グロ・ナンセンス歌謡一色であったレコード業界もそれらを一掃し、売れるネタとして満洲関連レコードを各社が時局レコードとしてさまざまな軍事レコードに仕立てて濫発・濫売した。これは現代の眼からすれば軍部の圧力に屈したメディアと映りがちであるが、この濫売狂想曲はそういった圧力よりもむしろ、いまだ黎明期であった日本のレコード会社文芸部制による、前のめりなレコード業界の熱さを垣間見れる一断面でほないかと思う。

 ここでは、そんな時代に膨大に制作された満洲に関連したレコードのほんの一一部とともに振り返ってみたい。

▶︎満洲事変とレコード

 事変の推移が落ち着いた昭和7年2月、レコード各社はこのタイミングに直接的な満洲関連のレコードを各社こぞって発売しはじめた。これら濫売レコードでヒットした曲としては何といっても一月に発売された「清洲行進曲(歌‥徳山漣・作詞‥大江素天・作曲‥堀内敬三・ビクター 図1であり、それに続く第一次上海事変での「爆弾三勇士」をテーマとした新聞公募とタイアップした五月発売の「肉弾三勇士の歌」(歌‥江文也・作詞‥中野力・作曲‥古賀政男・コロムビア)、「爆弾三勇士の歌」(歌‥陸軍戸山学校軍楽隊・作詞‥与謝野寛・作曲‥辻順治・ポリドール)‥図2であろう。

 このほかにも:の年ポリドールで発売された満洲事変関連でも「清洲派遣軍慰問の歌」「満洲警備の唄」「建国行進曲」「護れ満蒙の生命線」「上海事変の歌」「満蒙建国歌」「嗜!空閑少佐」などなどが並び、各社合わせるとこの項が埋め尽くされるぐらいである。

▶︎満洲国歌と進出企業の社歌

 事変の鎮火と満洲国の建国により、日本人の希望の土地として満洲への入植が本格化すると、そういった副産物として会社の社歌も内地企業と同等に産み出され、これまた枚挙がない。特に南満洲鉄道(満鉄)関連のレコードが際立って多い。満鉄社員会撰定の満鉄社歌=図3もポリドールの奥田良三、コロムビアの中野忠晴、霧島昇と年を経るたびに幾度も吹き込まれるほどの豪著さであった。

 他にも「満洲航空株式会社社歌」や満洲電信電話株式会社社歌である「電々行進曲」(歌=松平晃・満洲電信電話株式会社撰定・作曲‥山田耕符・コロムビア)‥図4、大連に存在した「大連商業学校校歌」などもそのごく一部として挙げておく。また、ご当地レコードとして「大連新小唄」「奉天新小唄」「長春新小唄」「大連おけさ」などが昭和七年のポリドールだけでも濫売されている事から他社や新民謡華やかなりし頃の盛り上がりは推して知るべしであろう。

 そして「満洲国」 に関するレコードも数多く、「満洲国国歌」(歌‥日本ポリドール合唱団・作詞‥満洲国国務総理鄭孝背・作曲‥高津敏、園山民平、村岡楽童・ポリドール)‥図5をはじめ、満洲国帝政記念に作られた「満洲音頭」(歌‥東海林太郎新橋喜代三・作詞‥藤田まさと・作曲‥森義八郎・ポリドール)‥図6、満洲国皇帝陛下に捧げる歌として「蘭の花」(歌‥東海林太郎・作詞‥佐藤春夫・作曲‥竹岡信幸・ポリドール)‥図7などがある。

図5−「満洲国国歌」図6−「満洲音頭」済国7−「蘭の花」図8−「満洲磯節」

 軍事関連のレコードも一枚だけ陸軍大臣官房の企画による特別制作である他兵レコード(出征兵士への慰問のためのもの) のなかから「満洲磯節」(歌‥浅草色香・作詞‥田口勝三郎・オーゴン)‥図8を挙げよう。

▶︎流行歌に歌われた満洲

 前掲した「清洲行進曲」も勿論「はやりうた」としての流行歌ではあるのだか、ここでは時局レコードというよりは、レコード会社の文芸部制の絢欄期を迎えた昭和十年代の流行歌で扱われた満洲を垣間見たい。

 まず、何といっても大ヒットしたのは昭和13年12月発売の「満洲娘」(歌‥服部富子・作詞‥石松秋二・作曲=鈴木哲夫・テイチク)‥図9であろう。同じ服部富子でも「夢の牡丹江」「佳木斯の花」や「ハルビン娘」などがある。また同じテイチクでも名花として一世を風摩した李香蘭も昭和十四年にデビューをしており、「離別了姑娘」(歌‥李香蘭・作詞‥紫重代介・作曲‥陸奥明‥アイチク)‥図10「握手の目満支」や満洲語で歌う「何日君再来」「陽春小唄」などがある。

 他社でも「ハルピン夜曲」(歌‥由利あけみ・作詞∵作曲・ビクター)、「ハルピン旅愁」(歌‥東海林太郎・作詞‥佐藤惣之助・作曲‥服部逸郎・ポリドール)‥図11と、歌のテーマに国際都市ハルビンは格好のテーマであったようだ。

 最後に昭和十六年の「満蒙開拓だより 貴方しっかり」 (歌‥杉狂児、美ち奴・作詞‥菊田一夫・作曲‥長津義司・テイチク)‥図12は歌詞のなかで産まれた赤子は残留孤児として国家の犠牲となり、戦後長らく辛酸を嘗めたのではなかろうかと思いを馳せ、筆をおきたい。


■茶の間に広がった中国戦線

▶︎ビジュアルメディアとしての新聞・雑誌付録地図・・・アジア・太平洋戦争期、時局を反映して戦争の状況などを描いた地図が数多くつくられた。満洲はそのなかにどのように描かれたのか。

弘中一成

▶︎拡大する日本軍の戦線を描いた付緑地図

 2017年は、日中戦争が勃発してから80年目にあたる。1937年7月7日、北平(現北京)近郊の宛平県慮溝橋で発生した日中両軍の軍事衝突は、当初、華北に限定された局地的紛争に終わると思われた。しかし、8月13日、上海でも戦端が開かれ、戦線が華北から華中へと拡大した。さらに、1941年12月8日太平洋戦争が始まると、東アジアだけに留まっていた日本の戦線は、東南アジアから太平洋へと広範囲に広がった。

 日中戦争が始まってから、1945年8月15日に終戦を迎えるまでの約8年間、日本国民は新聞や雑誌、ラジオなどメディアからもたらされる戦局の報道に一喜一憂した。その報道の多くが日本側に有利なように改竄(かいざん)されていた実態は、本書監修者の辻田真佐憲氏が著書『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎、2016年)で明らかにしたとおりである。

 報道が真実であろうとなかろうと、戦時下にあって、一個人がことばによる情報だけで広大なアジア・太平洋戦線全体の状況を把握することは、きわめて難しかった。

 そのようなときに、彼らの理解の助けとなったのが、当時、新聞や雑誌にときおり付録として挟みこまれていた、日本の戦局を表した地図であった。

 これら地図では、カラフルな色や線、わかりやすい絵などを使って、日本軍の戦線の広がりが詳細に描かれていた。

 今日でも、家族が集まる茶の間(リビング)の壁や、家の中のひと目のつきやすいところには、しばしば地図が貼られている。おそらく、戦時下の日本の家庭でも、戦況を手っ取り早く知るため、部屋の壁に地図を貼りつけていただろう。地図は人々の生活に密着した一目で大量の情報を伝達することのできる最良のビジュアルメディアであった。

<図1「北支事変明細図解」東京日日新聞 昭和12年7月発行>

 この日本の戦局を表した戦時下の地図で興味深い点のひとつが、洲の描き方である。

 満洲は、日本にとって主要な資源の供給地であり、日本列島の過剰な人口のはけ口であり、また、極東ソ連軍の侵攻を防ぐ防衛拠点であった。その満洲をめぐる情勢も地図にははっきりと描かれていた。以下、三点の地図を例にその内容をみていく。(地図は、いずれも筆者所蔵)

▶︎資源供給地としての満洲と極東ソ連軍の脅威

 上図は、日中戦争勃発直後の東アジア情勢を表した地図である。この地図でもっとも目を引くのが、当時の満洲ならびに中国本土をめぐる戦況や、朝鮮や満洲の特産物が素朴な絵で描かれている点である。特に清洲は農鉱産物に溢れた土地として表現されている。一方、満洲の東西北の国境沿いには、極東ソ連軍の兵士と戦車が所せましと詰め寄っている様子が描かれている。その兵士らはすべて満洲国側に向けて銃口を向けていて、一部ソ連兵と日本兵が銃撃戦を起こしている場面も書き込まれている。

 ソ連は1933年から第二次五カ年計画を開始し、極東地方を中心に経済建設に力を注いだ。特に沿海州やシベリアには、大規模な資本を投下してコンビナートや重工業地帯を作り上げた

 さらに、ソ連は日本に対する警戒を強め1943年以降、極東ソ連軍の軍備を急速に増大させた。これにともない、ソ満国境では、1935年頃から日ソ両軍の散発的な紛争が相次いだ。地図に描かれた日ソ両軍の銃撃戦の絵は、この国境紛争の事実を示していた。

 この地図を手にした読者は、肥沃な満洲が極東ソ連軍に脅かされている現実を突きつけられたことであろう。

 図2では満洲で産出される農鉱産物の種類が赤い文字で記されている。そのなかには、石油も特産物のひとつに数えられている。

 古くから満洲の地下には石油が埋蔵されているといわれていた。日本は日露戦争後から満洲の資源調査を続けていた。しかし、石油については、撫順など数カ所で油母頁岩(ゆぼけつがん・オイルシェール)を発見しただけで、原油を掘り当てることは最後までできなかった(戦後、黒龍江省で大慶油田が発見された)。

 図3一日本政府の広報誌であった『週報』付録の中国地図(昭和15年)。日本人開拓民の入植地が記号で示されている

▶︎満洲開拓民の悲劇

 図3は、1940年初め頃の中国戦線を表した地図である。満洲のところを見ると、ハルビンから東部ソ満国境沿いにかけて赤く塗られた丸や四角の記号が点在している。これらはいずれも日本からの満洲開拓民が入植した場所を示している。農業開拓を名目とした日本人の満洲移民事業は、1932年の第一次試験移民の実施以降、年々規模を拡大させ、満洲や東部内蒙古地域にいくつもの入植村が建設された。

 終戦までに日本人開拓民の総数は約二十七万人(諸説あり)にのぼった。そのうち、ソ連の満洲侵攻に巻き込まれるなどして、およそ7万8000人が命を落とした。図3は、悲劇を迎える前の拡大を続ける満洲開拓民の姿を映し出していた。

■参考文献

日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 第四巻 日中戦争(下)』、朝日新聞社、一九」ハ三年満洲国史編纂刊行会編『満洲国史 各論』、満蒙同胞援護会、一九七一年