円覚寺・禅の文化

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■鎌倉円覚寺の歴史

三浦 勝男

▶円覚寺の開創

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 寺は、瑞鹿山円覚興聖禅寺と号し、かつて鎌倉五山第二位の寺格を保持した巨利(大きなもうけ。莫大な額の利益)で、臨済宗円覚寺派の大本山である。弘安五年(三八二)十二月八日、ときの執権北条時宗が開基となり、中国の名僧仏光国師(無学祖元を開山第一世にむかえて開堂の儀を行った。いわゆる円覚寺の誕生である。

 創建の目的は、まず国家を鎮護し、仏法を興隆すること、かつ蒙古襲来で戦没した敵味方の霊をなぐさめること、そして故郷の中国へ帰りたくなっていた開山を思い留まらせるため、という意味あいもあった。

16 絵図

 寺名の由来について、『本朝高僧伝』『鹿山略記』などによると、弘安元年(三七八)時宗は、建長寺開山の蘭渓道隆をして寺を創建しようと、現在の寺域を掘ったところ、円覚経を納めた石櫃が出土したのにちなむ、とつたえている。円覚寺は華厳(「華厳経」にもとづき、菩薩のすべての修行や功徳をおさめて、その仏徳がひろく備わった世界)の教主蘆遮那仏(るしゃなぶつ)を本尊に安置したことを考えると、当寺創建の基本姿勢は、華厳の世界をこの世に具現しようとしたことは確かなことで、この華厳経と同じ系統の経典である「円覚経」も完全無欠の悟りを説いているので、円覚経が寺名の由来として用いられたのであろう。

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 また「円覚興聖禅寺」という四字の寺号は、建長寺同様、中国宋元の禅林を模したもので、このうち、「興聖」は開山ゆかりの寺である径山(きんざん)の「興聖万寿禅寺」に由来し、山号の瑞鹿山は、開堂の日、開山の説法を聴こうとして集まった人びとと共に、白鹿も群をなしてこれを聞いたという「奇瑞譚(きずいたん・珍しい幸福の話)」によるが(元亨釈書)、これも釈迦が初めて説法を行った鹿野苑(ろくやおん)に擬しての話であろう。

整えられた伽藍

131 円覚寺仏殿

 こうして創建された円覚寺の初期の建物は、本尊蘆遮那仏などを安置する仏殿大光明宝殿)をはじめ、僧堂(正法眼堂)・厨庫(庫裡)などしかなかったらしく、寺として重要な住持の説法の場である法堂の建立が、北条貞時十三年忌にあたる元亨三年(一三二三)であるから、寺が創建されてから約四十年後のことであった。これより四年後の嘉暦二年(一三二七)「北条高時円覚寺制符」(重要文化財)には、仏殿・僧学舎利殿・輪蔵(経蔵)・御影・堂司・庫子(司)の名が認められ、このほか、鎌倉最末期には、山門・法堂はもちろんのこと、方丈・仏日庵華厳塔なども揃い、寺の諸建物がことごとく整えられたことがわかる。寺観の整備は創建当初のある時期に、短期間で整えられたのではなく、長い時間を要したことが理解されよう。このことは、鎌倉のどの寺院でも例外ではなかった。ともあれ、円覚寺は元亨三年の法堂落成から応安七年(一三七四)全山が焼亡するまでの約五十年間が、寺勢が最も繁栄し、輪奐(りんかん・建築物が広大でりっぱなこと)の美をほこった時期だったのである。

 この寺観隆盛の当寺の姿を今に伝えているのが重要文化財「円覚寺境内図」である。図は、ほぼ建武・暦応年間(一三三四~四一)に描くかれたもので、境内の界を示す朱線上に、足利直義の執事として重用された上杉重能(しげよし)の花押(かおう)があり、いわゆる円覚寺の寺域を明らかにするために作製されたのである。その伽藍配置は建長寺と同じように、総門・山門・仏殿・法堂などの重要な建物が一直線にならび、総門と山門との両側には東司(便所)と浴室とがあり、山門と仏殿間の左右には僧堂と庫裡とが並ぶなど、いかにも中国風の左右対称に配置されていることがわかる。

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 つぎに、創建された当初の円覚寺の経済的裏づけについてだが、当然のことながら開基檀那の、執権北条時宗が対処している。時宗は、開山無学祖元が入寺した翌弘安六年(一二八三)、寺勢運営の財源として尾張国の富田庄(名古屋市庄内川西南方)外二カ所を寺領として寄進した。時宗は、この旨を「北条時宗申文」「関東下知状」「北条時宗書状」(共に重要文化財)をもって開山禅師につたえた。

 まず、円覚寺は北条氏の私寺ではなく、将軍家のために祈る公的寺院となったことにふれ、ついで、寺領の寄進で寺の食輪(経焉基礎)もかたまったから、この上は法輪つねに怠りなく、円覚寺が永遠に繁昌するよう期待するとのべている。これに対し開山は、即刻、文を時宗に送って感謝の意を表した。これらの文書(重要文化財)は、ともに円覚寺に所蔵されている。

 一方、『仏光録』によると、開山は円覚寺の僧衆を一堂にあつめて説法し、大檀那時宗の意にこたえるべく、修行 いましふぎんになお一層刻苦勉励するよう警めたという。もし万一、坐禅もせず、諷経(ふぎん)もせず、ただ寮舎において寝転がり、真っ裸になって袈装もつけず、托鉢もせず、無益に一年を送るようなことがあれば、どうして檀那の志に報いることができようや、と。中国の純粋な禅法を円覚寺の僧衆にたたき込もうとした、開山国師の気迫が伝わってくるようである。

  かくして円覚寺は、建長寺につぐ大寺として発展の途を約束され、諸建物は徐々に整えられていくが、不幸にもその矢先 大檀那の北条時宗は、当寺を創建した二年後の弘安七年(三八四)四月四日、三十四歳という若さで他界する。続いて同九年には開山国師も六十一歳でこの世を去り、ここに当山は、二つの大きな柱を失ってしまう。が、その後の歴代住持がよくあとをついだことと、北条氏の特別な保護とによって寺勢は興隆の一途をたどることになった。そして、延慶元年(一三〇八)には時宗の子貞時が朝廷に申請して、円覚寺と建長寺が「定額寺」という、いわゆる北条家の私寺から官寺としての寺格をあたえられるに至ったのである。このことは、のちの五山制度が施かれる下準備をしたことになる。

▶災害と貞時の活躍

 年をおって伽藍が整えられ隆盛の一途をたどった円覚寺だったが、反面、たびたび火災などの災害にも見舞われた。『武家年代記裏書』や『北条九代記』は、開創されてから五年後の弘安十年(一二八七)十二月に「瑞鹿山炎上」「円党寺煉央」と伝えているが、その具体的な情景はわからない。ついで正応六年(一二九三)四月の大地震について、さきの『裏書』は「山顛、人屋顛倒、死人二万三千州四人」と伝え、円覚寺については直接語るところがないが、鎌倉中が大きな被害をこうむった大地震であったので、何らかの禍害をうけたものと思われる。

 正和五年(一三一六)の大地震による罹災(りさい)では、仏殿・方丈・仏日庵などが顛倒(てんとう)もしくは焼失し(『東明語録』他)、その被害は甚大であったことがわかり、二年後の文保二年(一三一八)にも焼失しているが(『北条九代記』)、その具体的な罹災内容は不明である。このように、円覚寺は創建以来四十年たらずの間に、たびたび被災した事実を知ることができる。

 しかし、時宗のあとをついだ北条貞時(一三一一年没)は、円覚寺の大檀那としてその復興に傾注するとともに、「定額寺(鎌倉時代以降,五山などの禅宗の官寺。)」という官寺に寺格をあげ、文字どおり天下の円覚寺にふさわしい伽藍の整治につとめた。貞時こそ、父時宗の意志を重んじ、真に円覚寺興隆の礎をきずいた大檀那といえよう。時頼・時宗と同じように、彼は篤(あつ)く禅宗を信仰して、その保護につとめた。

北条貞時が物部国光 「円覚寺梵鐘」

 このように、禅を理解し、禅に心をよせた貞時の伽藍復興の一例として、国宝「円覚寺梵鐘」の鋳造がある。

 このように、禅を理解し、禅に心をよせた貞時の伽藍復興の一例として、国宝「円覚寺梵鐘」の鋳造がある。正安三年(二二〇一)八月七日、大檀那貞時が寄進し、鋳物師物部国光が造った、関東で最も大きい、総高二五九・五㎝の洪鐘で、現在、仏殿に向って右方の丘陵上にある。ときの住持西網子曇(一二〇六年寂)が銘文を撰し、それによると、鋳造に喜捨助縁した信者は一五〇〇人におよび、勧進に心をよせた円覚寺の僧衆は二五〇人であったことがわかる。また、鋳物師の物部国光は、建長寺鐘を造った重光の三代目にあたる巧匠であった。

 一方、これよりさき、貞時は円覚寺をはじめとする禅院で生活する禅僧たちに対し、十二ケ条におよぶきびしい禁制を定め、これを公布している。永仁二年(一二九四)正月のことで、坐禅を中心とする環境の中で生きた鎌倉時代の禅僧たちの実生活を垣間みることができる。

 ちなみに、円覚寺当初の僧衆の員数は、僧一〇〇人、行者・人工一〇〇人、承仕・洗衣・方丈行者など三八人、計二六八人であったが、貞時の代の僧員は倍の二〇〇人に達していた。

▶幕府滅亡後の円覚寺

 貞時のあとをついだ高時(一三三二年没)も、父の意趣を踏襲して禅宗に深く帰依し、来朝した中国の名僧のもとで禅を修め、円覚寺の大檀那として活躍した。元亨三年(一三二三)十月、高時は母方の安達氏らとともに、仏日庵(北条得宗家の祖廟)において貞時の十三年忌供養の儀を盛大に行い、あわせてこのとき、禅寺において最も重要な建物の一つである法堂が建立された(この法堂は今はない)。

 高時と禅僧たちとの関係の中で、円覚寺にとって重要な存在となったのは、夢窓疎石が当山第十五世として入山したことであった。そのころ世間は飢饉に襲われて人びとが苦しんでおり、円覚寺とて例外ではなかった。『夢窓国師年譜』に「けんさい(凶作の年)を以て明日の飯なし」とあるのは、当寺においても明日の飯米がなかったことを物語っているわけである。これを夢窓国師は、たまたま富豪の商人の帰依を得たことによって、喜捨(きしゃ・寺社や貧乏な人に施し物を、喜んですること)された物資を私用に供することなく、ことごとく円覚寺に送って援(たす)けたのであった。

夢窓疎石頂相 北条高時像

 しかし、そのころ幕府の命運は、すでに燃えつきようとしていた。そして、隆盛をほこつていた北条氏も元弘三年(一三三三)五月に至ってついに滅亡し、世は後醍醐天皇による建武の中興(元弘3年=正慶2年(1333)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活したこと。翌年建武と改元して公家一統の政治を図ったが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の離反にあい、2年半で崩壊、天皇は吉野に移って南北朝時代となる。建武の新政)と称した乱世をむかえたのである。が、円覚寺はこの政変による著しい影響はみられず、従前どおりの寺勢を保つことができた。それは、後醍醐天皇や北条氏・足利氏の信任が篤かった夢窓国師の存在と、師の尽力によるものであった。

 その中で、建武二年二三三五)七月のこと、夢窓は当時建長寺にあった仏光国師の塔である正続庵を、後醍醐天皇の勅命という形で、いわば政治的な手段を用いて強引に円覚寺へ遷してしまった。この遷塔一件は、のちに建長・円覚再寺の同に思わぬ亀裂を生むに至るのである。

136 正続院

 その具体的な形で表れた事件こそ、応安の火災であった。応安七年(一三七四)十一月、善美をつくしてたたずむ円覚寺伽藍は、全山焼亡という思いもよらぬ猛火に襲われてしまう。当寺が創建されてから、これほどの火魔に見舞われたことはなかったので、円覚寺の最も栄えた中世の姿が火建とともに消滅した感があった。山門をはじめ仏殿・方丈・庫裡・衆寮などを類焼し、加えて、塔頭の正旋院・掟定席の僧ら十九人が焼死するという惨状を呈したのである

 『円覚寺史』によると、火災の本質的な原因は法系上の争いがからんだ根深いものであり、演出された事件をにおわせる所があると指摘し、その根源をさぐっている。兄弟のように過してきた建長寺と円覚寺の間に、暗い影をおとす直接の原因となったのは、やはり夢窓国師による正続院の遷塔にあったようである。

 しかし、円覚寺を襲った火魔は、これだけに留まらなかった。応安大火の二十七年後の応永八年(一四〇一)から永禄六年(一五六三)までの間に五回にわたり被災し、『鎌倉管領九代記』をして、「火叉は尋常の事といいながら、此比うらつ、きて本所霊寺の回薇する、いかさまにも国家の大変をしらする成へしと、諸人唇を翻し、あやしみ思ほまぬ者はなし」と嘆かせたのである。

 それでも円覚寺は、罹災(りさい)のつど相応の復興をみ、寺勢を保持してきたが、いかんせん、応永の火災以後は、ようやく衰退のかげりがみえ始め、永禄六年十二月の大火にあってからは、寺勢も一段と衰え、堂宇(どうう・殿堂・堂の軒(のき))のまわりには雑草が生いしげり、出入の僧たちは昔をしのんで思わず落涙したという

 こうした寺勢の衰退をもたらしたのは、最大の外護者(俗人が権力や財力をもって仏教を保護し、種々の障害を除いて僧尼の修行を助けること)である足利氏(室町幕府)の衰残と、それにともなう経済的な裏づけとなっていた寺領の退転などが大きな原因であった。しかし、足利氏の末裔を自負する喜連川(きつれがわ)氏は、ひとり支援の姿勢を崩すことなく、江戸幕府の治政下でも同様に続けられたのである。

近世以降の円覚寺

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 天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康は鎌倉内で円覚寺領一四四貫八三〇文を安堵して建長寺よりも多く与えているが、正続院ているが、それでも円覚寺としては、現状の維持管理が精一杯であつたと思われる。

 だが、円覚寺の伽藍復興に文字どおり心血をそそぎ、当寺の再出発をはかった人が出現するのである。三伯昌伊(さんぱくしょうい・当寺一五六世)と天甫昌円(てんぽしょうえん同一五七世)の兄弟で、兄の三伯は正続院の修造に力をつくし、弟の天甫は仏殿の再建に努力し、これを成しとげたのである。将軍秀忠代の慶長年中(一六〇一年頃)、天甫が仏殿再興を幕府に願い出て、黄金十枚が寄進されたことにより復興事業にとりかかり、これが完成したのは、寛永二年(一六二五)正月のことであった。

 仏殿本尊の修復には養厳院の逝去後の遺産を寄進して、その費用にあてられ、養厳院が喜捨(きしゃ・寺社や貧乏な人に施し物を、喜んですること)した関係遺品は今も円覚寺に所蔵されている。彼女は徳川家康の側室で、於六(おろく)と称したが、のち足利氏の末孫である喜連川義親(きつれがわよしちか)の室となった人で、いわゆる足利氏の関係者である。そして、三伯や天甫も古河公方の血縁者であり、喜連川の一族であつた。これをみても、円覚寺と足利氏との因縁がいかに深く、江戸幕府のもとでも、その所縁が続いていることを知ることができる

 寛文十三年(一六七三)には方丈が再建され、同時に庫院の修補、ついで正続院の開山塔亭も改築された。元禄五年(一六九二)には浴室の改修および仏殿本尊の脇侍梵天・帝釈の造営、同十二年には経蔵と僧堂とをかねた建物を仏殿の西側に建立し、これを「選仏場」と称して現存する。これら諸堂の再興は、いずれも在家の喜捨によるものであった。こうして円覚寺の伽藍は徐々に復興・整備されていったが、その途上、またしても鎌倉地方を襲った元禄の大地震のため、相当の被害をうけてしまうのである。

 元禄十六年(一七〇三)十一月二十二日夜の大地震。『祐之地震道記』は、仏壇が倒れて本尊がおち、「堂塔方丈・寺家等、山崩れか、りて、その形勢たとへんかたなし」と述べている。しかし、不幸中の幸いは、火災が発生しなかったらしく、円覚寺請堂は顛倒もしくは傾くという被害をうけたものの、復興はわりと早かったようで、翌々年の宝永二年(一七〇五)三月に修造の功を終えている。

 この震災後の伽藍の再興および宗風の振興に努めた特筆すべき住持が誠拙周樗(せいせつしゅうちょ・一八二〇年寂である。師は、正続院僧堂の師家となり、おおいに僧堂の興隆に尽力し、名実ともに円覚寺の専門道場を創立した。天明三年(一七八三)には現存の山門を再建、翌年には正続院の宿龍殿を再興するなど、沈滞した宗風を高尚によみがえらせて、現在の円覚寺をあらしめた名僧であった。

円覚寺三門(山門)

 明治維新の混乱期には今北洪川(いまきたこうせん)がよく寺勢を維持し、弟子洪嶽宗演(こうがくそうえん)は師の遺志をついで、近代円覚寺の歴史を赫(かがや)かしいものにした。この宗演を支えたのが鈴木大拙である。開山以来の宗風と多くの学僧を輩出してきた大本山円覚寺らしく、開山箪笥に納まる寺宝を中心に数多くの什宝が死守されて現存していることは、限りない喜びであり、寺宝同様、不滅の法灯はともし続けられていくのである。ストリートビュー円覚寺

(みうらかつお鎌倉国宝館館長)