栄西以後の建仁寺 

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浅見龍介

■京都における宋・元文化受容の窓口 

 京都五山のうち、東福寺は十三世紀半ばに藤原摂関家が円爾を開山に迎えて創建万寿寺は同後半に住職だった十地覚空が円爾に帰依することで禅宗寺院となった。南禅寺は十三世紀末、亀山上皇が建立した天龍寺は南北朝時代の初頭に足利尊氏が、相国寺は室町時代初めに足利義満が造営した。

 亀山上皇が禅宗を重んじたことは京都に禅宗が定着する大きな契機になった。これ以前に開かれた建仁寺、東福寺はいずれも天台や密教を兼学する寺だった。南禅寺以後は、花園上皇、そして足利将軍家なとが有力な庇護者となったため、なんと平安時代以来の勢力を誇った比叡山あるいは南都といった保守的勢力の弾圧に屈することがなくなっただけでなく、大きな勢力の一角を占めるようになった。

 ところで、建仁寺は栄西以後どのような歴史をたどり、いかなる役割を果たしたのだろうか。たび重なる罹災によりそれを示す文献や資料は少ないが、残された資料から判明するところを記述してみよう。

 まず何よりも、京都最古の禅宗寺院であるという点は意義が深い。南都仏教(奈良時代に奈良の都に興隆した仏教)、天台宗、真言宗に占められていた仏教界に、最初は微かにではあるが、禅宗を加えたのである。微(かす)かにという意味は、前述したように建仁寺が禅宗だけでなく、天台、密教を兼修する寺院として始まったためである。しかし、これは栄西自身の経歴を反映したもので、台密葉上流(葉上流とは世界宗教用語。 葉上房栄西が伝えた天台密教(台密)の流派をいう。台密十三流の一つ。)の祖であり、そして宋で禅の修行を積んできた栄西にとっては自然なことだった。栄西は中国の禅宗の中でも臨済宗黄龍派という一派の禅をもたらした。そして建仁寺の九代目の住持まではこの派に属し、密教を兼修する宗風だった。

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 その当時の建仁寺で注目すべきことは、鎌倉時代前半から入宋留学僧を多く送り出していることである。たとえば貞応二年(一二二三)に出発したのは明全(みょうぜん)、道元、高照(こうしょう)、廓然(かくねん)らである。道元は、中国寧波(ニンポー)の天童寺で如浄(にょじょう)から印可を受け、帰国後永平寺を創建した曹洞宗の祖として知られる。同行した明全は不運にも客死した。

 兵庫・法恩寺の菩薩坐像は像内の銘から建仁寺の僧覚心が、宋の明州(寧波)の仏工沈一郎に造らせて嘉禎(かてい)三年(一二三七)に持ち帰ったものとわかる。しかもこの像はヒノキ材製なので日本からヒノキを持ち込んで造らせたと考えられる。ちなみに法諱(ほうい・天皇などの貴人が没した後につける、仏法上の尊称)が共通し、栄西の弟子栄朝の下で学んだ無本覚心むほんかくしん・二一〇七〜九八)の入宋は建長元年(一二四九)なので、別人である。名の知られぬ留学僧も多数いただろう。

85 円爾

 第十一代住持の蘭渓道隆以降は、宋・元からの渡来憎が住持になる数が多いことも注目すべきである。建仁寺の開基は二代将軍源頼家だから鎌倉幕府の寺と言ってよい。鎌倉幕府は、中国五山にならって、住持を一つの門派に独占させず、幅広く人材を探索して適任者を任命する十方住持制(じっぽうじゅうじせい)を採用した。東福寺は藤原摂関家の寺で、円爾の法系が住持を独占した。そのため、東福寺には渡来僧はほとんといなかっただろう。室町幕府は夢窓派を重く用いたため、相国寺はほぼ独占、天龍寺も夢窓派が多い。

東福寺-1 東福寺

 蘭渓道隆の住持就任は建仁寺の宗風を大きく変えたと考えられる。蘭渓はぎおラじょぅにん南宋から寛元四年(一二四六)義翁紹仁とともに渡来し、建長寺開山となった。日本に本格的な南宋禅院の規矩をもたらし、日本僧を厳しく教育した最初の人である。建仁寺でも同様だったはずで、天台教学、密教との兼修は恐らく排除されただろう。宗風だけでなく、組織、僧侶の役割分担、運営方法、規則など寺院生活全般にわたって改革されたはずである。

一山一寧 清拙正澄坐像

 その後も円覚寺開山無学祖元とともに弘安二年(一二七九) に来日した鏡堂覚円、永仁六年(一二九八)、一山一寧に随(したが)って来日した石梁仁恭、嘉暦元年(一三二六)に来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)というように、法系の異なる渡来僧が、およそ二十年毎に来て建仁寺住持に就任しているのは、建仁寺の性格、雰囲気を大きく左右しただろう。特に清拙は禅宗寺院の行儀作法を定めた清規に詳しく、そ えかいの清規を作った百丈懐海の忌日に行なう百丈忌(一月十七日の百丈の亡くなった日)をはじめて日本に伝えた。

円覚寺正読院

 渡来僧とともに宋・元の文化を伝えたのは留学僧である。龍山徳見(りゅうざんとくけん)は嘉元三年(一三〇五)から観応元年(一三五〇)まで四十五年の長きにわたって滞在した後、帰国して建仁寺住持となった。滞在中に参じた(くりんせいむ)から偈頌(げじゅ)を学び、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などにそれを教授した。二人はその後五山文学の中心的存在になったので、龍山の果たした役割は大きい。ちなみに義堂、絶海ともに夢窓疎石(むそうそせき)の法嗣(はっす)である。このように、法系とは別に、文学上の師と弟子の関係があり、五山をはじめ、各地の禅刹(ぜんさつ・禅宗の寺。禅寺。禅院。)から文芸の師を求めて建仁寺には禅僧が集ったのである。文学では中巌円月(ちゅうがんえんげつ)も忘れてはならない。少年の頃から天才として漢詩文創作の評価が高く、正中二年(一三二五)から元弘二年(一三三二)まで元に留学してさらに才能を磨いた。渡来僧の石梁仁恭の叔父である一山一寧清拙正澄も文芸、書法に優れており、こうしたことから建仁寺は五山文学の中心的な存在になったのである。

『法語』(虚堂智愚筆、国宝) 瑞泉寺開山堂夢窓疎石坐禅像頭部

■建仁寺の中世彫刻をめぐつて 

 建仁寺は応永四年(一三九七)、永享七年(一四二五)、文明元年(一四六九)、天文二十一年(一五五二)なと焼失を繰り返した。そのため、中世の彫刻は少ない。法堂兼仏殿の本尊釈迦如来および迦葉(かしょう)・阿難尊者像(あなん)は室町時代の作で、釈迦の像底の銘によれは天文四年(一五三五)の作だが、越前国弘祥寺から遷(うつ)されたものである。開山堂の栄西禅師坐像は、寛文四年(一六六四)七条仏師康乗(こうじょう)の作で四百五十年遠忌を期して造られたものだろう。

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 中世の遺品では西来院の蘭渓道隆坐像像内に納められた頭部前面が注目される(上図)。これが蘭渓道隆の古像のものであり、制作は鎌倉時代に遡るとする私見が正しけれは、西来院の創建も鎌倉時代とみてよいだろう。火災に罹(かか)って中絶しているためか遺品は少ないが、正伝永源院に伝来する蘭渓道隆所用の九条袈裟の箱には西来院の名が記されているという。蘭渓道隆の後、第十二代から十八代(途中境堂覚円を挟む)まで六人が蘭渓の法嗣であるから、この間塔頭設けた可能性が高い。今回見出された頭部はそれを示す物証といえる。第十代住持円爾(えんに)の塔頭常楽院は、東福寺にも設けられたこと、円爾の弟子が建仁寺に住まなかったことから、恐らく長く存続しなかったと思われる。西来院は建仁寺における塔頭造営およびその運営の端緒を切ったのではないだろうか。

中巌円月坐像 瑞泉寺開山堂夢窓疎石坐禅像頭部清住院・十一面観音菩薩坐像。

 そのほか仏師康俊(こうしゅん)周辺の像が三件あることも目につく。興雲庵「伝観音菩薩坐像」清住院「十一面観音菩薩坐像」(上図)と霊源院「中巌円月坐像」(上図)である。前二者は幅広の体躯と脚部等の衣文の配置、像底の形なとが、延文三年(一三五八)康俊作の岡山・妙囲寺所蔵「釈迦如来坐像」に酷似している「中巌円月坐像」は康俊の造った「文殊五尊像」がある宮崎・大光寺の「乾峰士曇坐像」「嶽翁長甫坐像」や、赤松氏が開基である栖賢寺の「竺堂円犀坐像」、宝林寺「雪村友梅坐像」などに姿勢、袖口の形、衣文の配置がよく似ている。康俊は播磨・法雲寺の「毘慮舎那三尊像」を造っているが、その寺の開基は赤松氏、開山は雪村友梅(一二九〇〜一三四七)である。この二人の関係する造像にしばしば康俊工房が起用されたと考えて長さそうである(奥健夫「中巌円月(仏種恵済禅師)坐像」〔『国華』一三〇八号、二〇〇四年〕)。

 清住院は蘭洲良芳(一三〇五〜一三八四)の塔所であり、蘭洲は隠居後もしはらく師雪村友梅の塔所大龍庵(廃絶)に住んだから、その造営は十四世紀後半も末に近いだろう。十一面観音坐像の造立はそれより早いと見られるので、大龍庵にあった可能性も考えられよう。これと前後する時期に造られた伝観音菩薩坐像が伝来する興雲庵は雪村友梅の師一山一寧の甥であり弟子である石梁仁恭(一二六六〜一三三四)の塔所である。石梁は一山によく似ていたらしく、雪村は師に対する思いを石梁に向けていたという。伝観音菩薩坐像が石梁や雪村の生前に造られた可能性は低いが、一山門下でも特に親近する緑が弟子の代にも引き継がれた可能性があろう。中巌円月と雪村友梅は元(中国)留学中に遭い、同じ寺で修行した仲である。大友氏の帰依を受けて中巌が住んだ群馬・吉祥寺本尊「釈迦如来坐像」も康俊周辺の作風を示しており、雪村を介してか否かは不明だが、中巌も康俊周辺と緑をもったことがわかる。

 中世彫刻を取り上げて断片的に述べたが、今回展示した絵画、書跡なとも含めて研究すれは、さらに新知見を得ることができるだろう。

(あさみりゅうすけ 東京国立博物館学芸研究部)