■鑑真和上坐像

■鑑真和上坐像

 私たちはこの像を通じて、「東征伝』をはじめとしていくつかの文献に記される鑑真その人を感じることができるのである。

 日本に真の伝戒の師を招く使命感に燃えた栄叡と普照の熱意に動かされて、多くの弟子の反対にもかかわらず自ら渡航を決意した鑑真、そして五度の渡航に失敗し、自ら視力を失いながらも十年の歳月をかけて志を成し遂げた鑑真の姿を重ね合わすことができるのである。静かに瞑想するかのような穏やかな表情の中に、鑑真のすべてが凝縮され、拝する者の心を捉えて離さない力が、この像には込められているように思われる。

 この像を拝した時の感動から、芭蕉の「若葉して御めの雫拭(しずくぬぐ)はばや

<現代語訳:みずみずしい若葉で、盲目の鑑真上人の御目もとの雫を、ぬぐってさしあげたい>

をはじめとする数々の名句や名歌が詠まれ、井上靖の名作『天平の麓』が書かれ、東山魁夷の御影堂障壁画が制作されたといっても過言ではなかろう。この像には、芸術家の創作意欲をかき立てる力も潜んでいるといえよう。この像を拝して多くの人たちが抱く感動は、鑑真が十四歳の時に仏像を拝して得た感動と通じ合うように思われる。逆に、その感動を通して、私たちは人間が根本的にもつ尊厳を鑑真と共有し、心が浄化されて行くのかもしれない。

 『東征伝』によると、鑑真は平生、思託に対して、臨終の際は坐ったまま死にたいと述べ自分のために戒壇院に影堂(祖先の像や位牌(いはい)を祭る堂)を建てるようにと語っていたという。坐死は中国において理想的な僧侶の死のあり方と考えられており、鑑真もそれを強く望んでいたといえよう。影堂については、まさに鑑真が自分の肖像を祀る堂を望んだことを示すが、その背景には、鑑真が第五次の渡航に失敗し、海南島から揚州に戻る途中、帝州の法泉寺で拝したと考えられる慧能禅師の影像が関係しているように思われる

 この影像は慧能が亡くなった後にその遺骸しんしんぞうに漆布を加えて真身像としたもので、今も伝存する。「完征伝』には慧能像の存在を記すのみで、鑑真が実際に拝したとは記していないが、鑑真が見て強い印象を持ったからこそ特筆されているのではなかろうか。

 『東征伝』では、鑑真結伽扶坐して亡くなり死後三日経っても頭頂にはぬくもりがあったという。そして、鑑真が亡くなる直前に、弟子の忍基は講堂の棟梁が折れる夢を見て和上の死の前兆を知り、諸弟子を率いて和上の姿を模したと記している。今に伝わるこの和上像は、鑑真が理想とし、しかも実際に結伽扶坐して亡くなったという坐死の姿と一致する。しかし、そこにはまったく死の影はなく、まるで生きているかのようなぬくもりを感じさせる

 つまり、鑑真は自ら理想とする坐死の姿を影像という形で、後世に伝えようとしたのではなかろうか。その意識の背景には、当然慧能の真身像が投影されているといえよう。そして、本像が脱活乾漆の技法で造られていることも興味深い。脱活乾漆造りは、像の形に応じて心木を組み土をかぶせて塑形した上に麻布を漆で貼り重ねて像を形作り、最後に中の土を取り出す技法で、像内は心木の他は空洞になっているのが特色である。慧能の真身像漆布を貼っているので、表面的には乾漆像と似た仕上がりになるといえよう。

 また、この技法に用いられる木尿漆(こくそウルシ・漆に小麦粉を混ぜて練った麦漆に木粉や植物織維を混ぜた塑形材)は柔らかな質感の表現に有効であり、鑑真のぬくもりを感じさせる姿の創出には、最もふさわしい材料として選択されたのではなかろうか。さらに、中国の僧侶の肖像には道家思想の蝉脱(せみのぬけがらのこと)という観念が応用され、真身は脱けがらに相当するという解釈に従えば、鑑真像が像内を空洞とする脱活乾漆造りであることの意味も理解できるように思われる

 このように本像には、鑑真自身の思いと、彼と苦労をともにしてきた弟子たちの師に対する思いとが強く反映しているといえ、いわば鑑真と弟子たちの共同作業によって成立している像ともいえるのではなかろうか。本像を通して、これを拝する者が意識の奥底で鑑真や弟子たちの思いに感応するとも考えられ、本像が時代を超えて、多くの人々を感動させてきた力はそうしたところに起因しているように思われる。

▶金堂の諸像

 次に、唐招提寺の仏像の中心をなす金堂の諸尊について見ていこう。金堂の須弥壇の中央には盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、同じく左に千手観音立像が安置され、慮舎那仏の前方左右に梵天・帝釈天立像須弥壇の四方に四天王立像が配されている

 『提寺建立縁起』(護国寺本)によると、金堂は如宝(にょほう)によって建立され、盧舎那仏像が義静(ぎじょう)による以外、他の仏像は如宝によって造立されたと記している。如宝と義静はともに鑑真とともに来朝した弟子で、義静揚州興雲寺の僧であったが、如宝胡国人で年齢的に若く来朝時にはまだ受戒していなかったようである。金堂の造営はこうした鑑真の弟子たちによって行われたと考えられるが、その安置仏の構想は鑑真の意向を反映していると見るのが自然であろう。しかし、その構想が何に基づいているかについてはよくわかっていないのが実情である。

 ここでは鑑真との関係から金堂の諸尊について見ていくと、まず盧舎那仏は戒律において重要な経典である『梵網経』の教主として説かれ、唐招提寺の本尊としては極めてふさわしい尊像であることは確かであろう。ここで興味深いのは、「重修揚州府志』「寺観志」の江都県の項に見られる大雲寺の記載である。同書には同寺を鑑真が出家した寺とし、さらに唐の文人顧況による「広陵白沙大雲寺碑」の碑文を引用しているが、その中に、「諸仏同身、流入毘慮遮那智蔵之海」と度合邪仏に関する文言が含まれていることは注目される。おそらく、この雲寺の本尊は盧舎那仏であったのではなかろうか。もっとも、揚州にはこの白沙大雲寺と東大雲寺の二つの大雲寺があり、鑑真が出家したのは東大雲寺の方であるという説が出されており、必ずしもこの碑文の記載とは結びつかないが、唐招提寺の本尊には、鑑真が中国で身近に接した盧舎那仏の姿が投影されているように思われる。

 この盧舎那仏像には、中央にうねりをつけた髪際の形、沈鬱感のある表情、重量感のある体躯表現など、それまでの日本の仏像に見られなかった造形的な特色が指摘されているが、これらの諸要素は鑑真ないしその弟子たちを通じて流入した中国の仏像様式の反映といえるだろう。また、梵天・帝釈天、四天王立像は針葉樹の一材から像の大半を彫出し、部分的に木尿漆を用いるなど、共通する技法を示し、像高はいずれも一九〇センチに近い大きさにほぼ統一されている。さらに、沈鬱な表情や重量感のある体躯表現など作風も類似するが、それは盧舎那仏像にも通じるといえよう。従って、盧舎那仏像、梵天・帝釈天像、四天王像は一連の構想の下に造立されたと考えてよいと思われる。ただし、縁起によると、金堂の尊像のうち、盧舎那仏像のみは義静によって造立され、他は如宝によっていること、義静は鑑真の弟子としての地位や年齢が如宝よりも高いことを考慮すると、盧舎那仏像の造像が如宝による他の像よりも先行したと推定される。また、盧舎那仏像が三メートルを超える像であるのに対して、他の像が小さすぎるきらいもあるが、逆にそれによって盧舎那仏像の存在の大きさを示そうとしたのではなかろうか。そして、盧舎郡仏像が脱活乾漆造らで、他が木彫像であり、造像技法が異なる点も気になるが、盧舎那仏像が鑑真和上坐像と技法的に共通することは留意してよいだろう。つまり、盧舎那仏像を鑑真和上像と共通の技法で造立することによって両者を同じ性格の像、つまり盧舎那仏イコール鑑真和上という関係で捉えようとしていたように思われるのである。弟子たちが金堂で盧舎那仏像を拝する時、そこには常に鑑真和上像のイメージが重ね合わされていたのではなかろうか。

 盧舎那仏像の左右に安置されている薬師如来立像と千手観音立像は、縁起によると如宝による造としている。両像ともに木心乾漆の技法が用いられているが、これは木で像の概形を造り、その上に麻布を漆で貼って仕上げていく技法で、前記脱活乾漆造りの土で塑形した原型を木で置き換えたもので、経費や時間のかかる脱活乾漆の技法をいわば合理化したものといえよう。薬師如来像の左掌から延暦十五年(七九六)「隆平永宝」皇朝十二銭の一つ「隆平永宝」が発見されたため、それに近い時期の造立と推定されるが、両像の金堂への安置時期や度合邪仏との関係については、様々な説が出されている。

 いずれにしても、両像は鑑真との関係の中で造立されたと考えられる。つまり、鑑真が来朝した際にもたらした仏像の中に、白檀と刺繍による二つの千手観音像及び薬師如来の瑞像が含まれていたことはやはら留意され、これらの像には、鑑真の生前における信仰が色濃く反映していると見るべきではなかろうか。そして、日本では鑑真が来朝してまず東大寺に戒壇が設けられ、さらに東国では下野国薬師寺西国には筑前国観世音寺戒壇が設置されるが、盧舎那仏像には東大寺、薬師如来像には下野国薬師寺、千手観音像には筑前国観世音寺が象徴されていると見ることも可能であろう。

 つまり唐招提寺金堂には日本の三戒壇(戒壇(かいだん)とは仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指す。 戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで … その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)が尊像によって具現化しているともいえるのである。やや憶測に憶測を重ねたきらいもあるが、唐招提寺金堂の諸尊には鑑真をめぐる様々なイメージが複合的に投影されているのではなかろうか。

▶鑑真が感動した仏像

 それでは、鑑真と仏像との様々な関わり、さらには彼の信仰の原点ともいうべき、十四歳の時に感動した仏像とはどのような像であったのだろうか。ここであらためて注目されるのが、揚州大雲寺の歴史を考える上でもすでに紹介されている『優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記』という史料である。これは、後唐の長輿三年(九三二)都江(揚州)開元寺の十明によって記されたものであるが、釈迦在世時の仏教保護者として著名な優填王(うでんおう)によって造立された釈迦像がやがて中国にもたらされ、諸所を移動する東伝の経緯を記している

 この釈迦像はごすせんだん牛頭栴檀(ごずせんだん・白檀) で彫られたといわれ、仏像の始まりを示す像として、いろいろな経典や記録に出てくるが同記によると、永嘉年中(三〇七〜三一三)鳩摩羅瑛(くまらえん)によって西域の亀玄国にもたらされる。この鳩摩羅瑛の子が名僧として名高い鳩摩羅什である。弘始三年(四〇一)に後秦の挑興によって羅什は長安に迎えられるが、それとともにこの像も移動した。羅什の没後、義燕十一年(四一五)に劉裕(後の宋武帝)によって、江南の龍光寺へ移される。開皇九年(五八九)隋の文帝によって楊州の長楽道場に移され、同十八年(五九八)に沙門住力がこの寺に飛閣を建て、像を安置した。神龍元年(七〇五)、長楽道場を大雲寺となし、さらに開元十八年(七三〇)、大雲寺は年号によって開元寺とした。これによれば、鑑真が十四歳の時、揚州大雲寺には優填王が造立したというインド伝来の釈迦瑞像が存在したことになる

 

 鑑真が心よら感動し、出家まで決意させた仏像は、この釈迦瑞像だったと見るのが妥当であると思われる。後年、鑑真は五度の渡航に失敗し、かつ視力を失いながらも伝戒のために来朝するが、その強い意志力を支えていたものは、数奇の運命を辿らながらインドから中国へ東伝したこの瑞像の姿だつたのではなかろうか

 この瑞像はその後も転々とするが、北宋時代、東大寺の僧・育然が入宋し薙興二年(九八五)台州の開元寺で、張延吸・張延襲兄弟にこの瑞像の模刻を遣らせて日本に持ち帰った。この模刻像が、三国伝来の釈迦として名高い、京都・清涼寺の釈迦如来立像である。縄目状の頭髪、なまめいた表情、身体に密着した衣と同心円を連ねたような衣文表現など、異国風の強い特色ある造形を示すが、鑑真が感動したであろう仏像の姿をこの像を通して偲ぶことができるわけである。

 この清涼寺の釈迦如来像はその後の日本で独自の展開を示すことになる。釈迦没後二千年に当たる永至年(一〇五二)から末法の世が始まるという思想、いわゆる末法思想が高まりを見せていくに従って、むしろ釈迦を懐かしみ、釈迦の教えに帰ろうという動きが生まれてくる。平安時代末期から鎌倉時代にかけて釈迦信仰が復興してくると、あらためて、この清涼寺の像が注目され、その模刻像が盛んに造られるようになる。そうした、一連の模刻像を清等式釈迦如来像と呼んでいるが、唐招堤寺礼堂には同様の像が本尊として安置されているのである。この像は像内に納入された文書から正嘉二年(一二五八)に造立されたと推定され、一万人に近い結縁者の勧進によって造立されたことが知られる。

 この像は一見鑑真とは無関係に存在しているかのようであるがこの像が祖形とした清涼寺の釈迦像のさらなる聖像に鑑真が感動したとすれば、その因縁は浅からざるものとなるといえよう。そして礼堂のこの像の前には舎利厨子があり、十月↑旬の釈迦念仏会には鑑真が来朝時にもたらした「如来肉舎利三千粒」を納める金亀舎利塔が、通常はそこから三十粒ほどを分けて納めた日供舎利塔が安置されていることも興味深い。礼堂の本尊は鑑真とは差異なる惹から成立した像であるが、十四歳の鑑真が感動したであろう像の末商ともいえるこの像が鑑真によってもたらされた舎利と対面している状況は、単なる偶然とは思われず、人知を超えた不思議な因縁を感じぎるを得ない。この礼堂のあり方は、十四歳の鑑真が仏像を見て瞬時に抱いた感動が、時空を超え、様々に変容しながら、今日まで響き渡っていることを象徴しているとはいえないだろうか。

■おわりに

 以上、鑑真と仏像の関係について、いくつかの側面から概観してみたが、唐招提寺に現存する仏像を通して、鑑真の仏像に対する考えが、鑑真その人によって、あるいは弟子たちによって様々な形で具現化されている様相を垣間見ることができたように思われる。鑑真が残した偉大な足跡の原点にあるのが、少年の時に仏像を見て得た感動であつた。感動という瞬時にもたらされる心の火花が、時として人間に思いもよらない力、時代を超えて生き続ける力を与えるということを、鑑真の生き方や唐招提寺の仏像は、現代に生きる私たちに静かに語りかけているようにも思われるのである。

■参考文献

『唐大和上東征伝』 (竹内理三編『寧楽遺文』下巻所収 東京堂出版 昭和三十七年十一月)

『唐大和上東征伝』(田村晃祐訳 中村元編『日本の名著二 聖徳太子』所収 中央公論社 昭和四十五年四月)

■5755