古代ギリシャ

■古代ギリシャ彫刻の発展史

森園敦(長崎県美術館学芸員)

▶はじめに

 私たちは古代ギリシャ彫刻の前に立つとその圧倒的な存在感に息を呑むことがしばしばある。それはまるで生きているように見えるということもあろうが、むしろその背景にある古代ギリシャ人たちの私たちとはまったく異なる宗教観や精神性が透けで見え、彫刻がそれらを具現化したものとして2000年以上を経てもまったく色あせることなく生々しく存在することに躊躇しながらも、そこに芸術の神秘を感じ取るからであろう。

 古代ギリシャ彫刻は古より多くの芸術家たちを魅了してきた。1506年にローマの葡萄畑から「ラオコーン」(上図)が出土した際にミケランジェロは「芸術の奇跡」と感嘆したし、ロダンはフェイディアスを敬愛し自身も古代彫刻の収集家であった。古代ギリシャ彫刻は美の規範としてさまざまな芸術家たちの創作の源であったし、それは現代においてもなんら変わることはない。

 古代ギリシャ人たちが神々の姿をかたどる際に人間の造形の理想化を図ったことは、古代エジプト人が神々を人間以外の姿にかたどった例を引き合いに出すまでもなく、よく知られた話ではあるが、そうした人間本位の考え方を持っでいたからこそ古代ギリシャ人たちは類まれなる造形芸術のみならず、文学、演劇、哲学、そして歴史上初の民主政など、ヨーロッパ文化の起源となるものをいくつも創造し得たのである。

 古代ギリシャ彫刻の起点をどの時代に置くのかについて語るのは容易ではない。本展で見るように、キュクラデス諸島やクレタ島ではプリミティブではありながらも青銅器時代にはすでに人体がかたどられているし、正確にはさらにさかのぼることもできる。しかし本稿では、彫刻史の1つの流れを生み出したアルカイック時代を起点としたい。アルカイック時代からクラシック時代、そしてヘレニズム時代へと続く流れからは、各時代の彫刻家たちが過去のものを学びながら発展していく1つの大きな連続性を読み取ることができる。この約600年の間に古代ギリシャ彫刻が成し遂げた美術史上の革新は、他のいかなる時代のいかなる地域にも見出すことはできない。その壮大な古代ギリシャ彫刻の歴史をこの限られた紙面で語りつくすことはもちろんできないのであるが、本稿では時代を代表する作例をいくつか取り上げながら概観を試みたい。

▶アルカイック時代におけるクーロスとコレー

 青年裸体立像クーロスと女性着衣立像コレーは、アルカイック時代を代表する人物彫刻であり、その様式の発展を追うことは、それ以降のクラシック時代を含めて、古代ギリシャ彫刻の向かわんとした道筋を見事に指し示しでくれる。

 クーロスとコレーの祖は、前7世紀にクレタ島近辺で制作されたダイダロス式彫刻といわれる。これは神話上の職人ダイダロスにちなんだ呼称で、おもに女性像に通用された。大きいものでも1mに満たないが、すでに手足や顔の造形が稚拙ではあるもののはっきりと表わされている。古代ギリシャにおいで、人物を石や象牙、ブロンズなどを用いて写実的にとらえようとする動きがここから始まったのである。

 その後、大理石が豊富に採れるキュクラデス諸島において、三次元の大型彫刻の制作が開始されたとされる。2000年にはその1つであるテラ(サントリーニ島)において、前640年頃に制作された2mを超える最古のコレーが発掘され話題を呼んだ。現在の研究では、クーロスもまた同じ頃に制作され始めたといわれている1。

 まずはクーロスについて考察する。ギリシャ語で「青年」を表わす「クーロス」は、前7世紀中頃から前5世紀前半にかけて制作された青年裸体立像のことを指す。一般的な特徴としては以下が挙げられよう。人物は正面を向き、腕を太ももに密着するように下げている。左肺を少し前に踏み出し、それ以外は左右対称である。またアルカイック・スマイルと呼ばれる微笑を口元に浮かべている。こうした特徴は、よく指摘されるように、明らかに古代エジプト彫刻(図1)からの影響である。ただしエジプト彫刻は通常着衣であるのに対し、クーロスは性器まで露わにした全裸であった。またエジプトでは等身大石像の多くの場合、人物像の後ろに背板が設けられ、人物はそれにもたれかかるように体重が後ろにかけられているのに対し、クーロスでは背板は誕生当初から存在せ坑両脚に均等に体重が乗せられている。

 前7世紀のクーロスはおもに筋肉表現において不正確さが目立っていた。前590年頃に制作された「スーニオンのクーロス」(図2)では昆虫のような腹筋の表現がなされているが、前530年の「アナヴィソスのクーロス」(図3)では、随分と正確性が増している。クーロスにおいて人物のポーズはほとんど変化することはなかったが、裸体であったことから人体表現において解剖学的正確さが求められるようになり、時代が下るとともに自然主義的傾向が進歩していったといえよう。

 またクラシック時代に入ると、背板がないことで両脚への体重のかけ方が研究されるようになり、次第に支脚(体重がかかった脚)と遊脚(体重のかけられていない脚)の関係性が取り入れられ、左右対称であった人体に微妙なずれが生じるようになる。まるで古代エジプトにおいては背板に縛られ留め置かれた人物が、そこから解き放たれたかのように自由な動きを始めたのである。着衣像ではなく裸体像であったこと、また背板がなかったこと、エジプトとは異なるこれらの特徴により、ギリシャ彫刻は表現の幅が広がることが約束されていたといえよう。

 これらクーロスがどういう目的で制作されたのかについてはいまだ不明な点が多い。現在までの研究では、神々への奉納像、あるいは死者たちを祀る墓像であったとされている。ギリシャ全体では奉納像としての例の方が数多く見られるのであるが、特にアテネでは墓像として用いられることが多かったようである。墓像であったことを示す銘が「アナヴィソスのクーロス」の台座に残されている。

 或る日戦闘の前線にありておぞましきアレスに命奪はれしクロイソスの墓の前に、足を留め而して悼み給へ

 つまりこの像はクロイソスという戦士の墓に建てられものであることがわかる。戦死を嘆き悲しむ言葉は、おそらく家族によるものと思われる。

 一方でコレーは、上述したように前7世紀中頃にキュクラディス諸島で制作が始まり、次第にアッティカ地方でも制作されるようになった女性着衣立像である。初期には等身大をはるかに超えるものが制作されたが、前6世紀後半になると等身大、さらにはそれに満たないものが登場するようになる。クーロスは厳格にポーズが規定されていたのに対し、コレーは作品によって腕や脚の置き方、さらには持ち物や装飾品など変化に富んでおり、比較的緩(ゆる)やかであったといえよう。

 また制作当初から着衣像であったことから、人体のほとんどを覆う衣装の表現に彫刻家たちの関心が注がれてきた。つまりアルカイック時代を通じて、クーロスにおいて裸体表現、コレーにおいて衣装表現がそれぞれ追求されたといえる。特にアクロポリスで出土した清楚で優美なコレー群、いわゆる「アクロポリスのコレーたち」(図4)は、キルの複雑な衣装の絡みとその襞、また衣装の内側にある女性の身体までもが感じ取れるよう巧みに表現されている。これがクラシック時代のパルテノンの女神たちの表現へと受け継がれていったのである。

 コレーもまた制作の目的ははっきりとしていないが、クーロスと同じく神域で出土したもの、墓地で出土したものがそれぞれ存在するため、奉納像、あるいは墓像の両方の用途があったと考えられている浮彫り墓碑とともにアルカイック時代の葬礼美術の典型がクーロスとコレーだったのである。

▶厳格様式時代における革新

 アルカイック時代末期からクラシック時代初期にかけて、厳格様式と呼ばれる彫刻がつくられるようになる。その代表例が、当時名声を博した彫刻家クリティオスの手になるとされる「クリティオスの少年」(図5)である。この作品は前480年頃に制作されたとされており、いまだクーロスの趣を残してはいるものの、はっきりとクラシック時代の到来を告げる特徴を見出すことができる。まさに時代の転換点となる最重要作品に位置づけられよう。

 クーロスとは異なり、まるで歩き出しそうなほど生き生きとした佇まいはどこに由来するのだろうか。これはコントラポストつまり支脚と遊脚の関係性を人体彫刻に取り入れ、より人間らしさを追求したことによる。「クリティオスの少年」の場合、左肺に体重をかけ右脚を遊ばせている。それに伴い、左の背部が右より上がり、さらに腰骨も左がやや上がっている。背骨の軸は中心からややずれて斜めに走っており、体重移動によるそれぞれの骨格や筋肉の動きが有機的に表現されている。人間がどのように駆動するのかを極めて綿密に研究した成果がこの作品には反映されているといえよう。

 また顔は正面ではなくやや右前方を見つめ、その顔からはすでにアルカイック・スマイルは消えている。これまでの研究により、この青年はアテネで開催されたパナテナイア祭における競技の勝利者であるとされている。まばゆいばかりの若々しい青年の人体美は、古代ギリシャ人にとって理想的な美とされた。若い競技者たちが描かれた陶器画に、「美」を表わす「kalos」の銘が付された作例がある。これにはもちろん壮年男子と競技者たちとの同性愛的な要素も含んではいるが、古代ギリシャにおいて青年の美しさそのものへの崇拝があったことを示している4。

 いずれにせよ「クリティオスの少年」における体重移動に起因する人体の微妙なずれにより、クーロスの特徴であった左右対称性を崩壊させることになった。それに伴い、彫刻は正面観に必ずしもとらわれることがなくなり、さまざまな角度から見られることが前掟とされた彫刻が制作されるようになったのである

 この時代を代表するもう1つの作例が「アルテミシオンのゼウス」(図6)であろう。1920年代にエウポイア島のアルテミシオン岬付近の海中で発見されたこのブロンズ(青銅)像は、前460年頃に制作されたとされている。三叉の鉾を持つポセイドンという説もあるが、昨今の研究では雷を構えたゼウスと解釈されることが一般的となっている。

 

 古代ギリシャにおけるブロンズの歴史は古く、すでに前8世紀にはブロンズ製の人物像が確認されている。ブロンズ像は、後の時代に溶かしてコインや武器に再利用されることが多く、本作のように完全な形で残されているものは極めて少ない。輸送船の沈没など、なんらかの理由により海中に沈んだ作品は幸運にもそうした消失から免れたものである。昨今日本で展示され話題を呼んだブロンズ彫刻「踊るサテエロス」もまた、シチリア島沖海中での偶然による発見であった。

 またブロンズは内部を空洞にすることで重量を減らすことができ、さらに剛性に優れ本作のように腕を伸ばしても容易には折れないため、大理石よりも大胆な表現を可能ならしめる。こうしたブロンズ像が古代ギリシャ時代において原作であったという例は数多く、それをローマ時代に大理石によってコピーした際には、自重で折れるのを防ぐため腕や脚の強度が低い部分に不自然にも見える支えをつくらざるを得ないという事態が起きる。

 本作では「クリティオスの少年」のようないまだ発育途上の肉体ではなく、壮年男子の完成された肉体が表現されている。両腕を大きく広げ、力強く雷を投げ下ろさんとする様子は、人知を超えた神の姿にふさわしい。そして固く結んだ口、雷の目標を鋭く見据えた目、そうした表情は、最高神ゼウスらしい威厳と人間を寄せ付けない冷徹さを感じさせる(図7)。彫刻家は明らかにゼウスの個性を付与させるよう顔の表情を意図的に創り出しているといえよう。つまりこの厳格様式時代から、身体の動きと顔の表情によって、対象となる人物の個性、さらには感情の動きさえも表現することが目指されるようになったのである。ほぼ同時代に制作されたアイギナ島のアファイア神殿における瀕死の兵士や、オルピアのゼウス神殿におけるアポロンは、まさにその代表例だろう。

主殺害者像」に見る彫刻作品の受容の問題

 前510年頃に彫刻家アンテノルによる2体の彫刻がアテネの中心地にある広場アゴラに設置された。この主殺害者像」(下図)と呼ばれる彫刻は、実際の歴史的事件をモチーフとした初めでの記念像として、当時のアテネ人たちに熱狂的に受け入れられた。

 アテネは前560年頃より僭主ペイシストラトスによる独裁政権下にあった。前527年にぺイシストラトスは死去したが、その跡を継いだ息子たち、ヒッピアスとヒッパルコスの政治はさらに独裁性を強め、暴政へと至った。そのヒッパルコスがアテネ市民であったハルモディオスとアリストゲイトンに殺害されたのは前514年のことである。パレードの最中に剣を振りかざしヒッパルコスに襲い掛かった彼らはすぐに捕らえられ殺されてしまうのであるが、彼らは後に独裁政権からの解放者として称えられることになった。しかし実はこの事件は政治的なものとまったくかけ離れたものであった。発端は、ヒッパルコスがアリスゲイトンの男色の相手であったハルモディオスに恋情を寄せたことに始まったとされる。つまり2人の主殺害者は極めで個人的な理由によって事件を引き起こしたのである。しかしアテネ人は彼らを解放者として見立て、それまで神々や死者の人物彫刻が主流であったアルカイック末期に、同時代の人物による歴史的事件を かたどった彫刻を建立したのである。これは当時としてはかなり異例のことであった。つまりアテネ人にとってこの事件は、前508年のクレイステネスによる民主政の成立へと至るきっかけをつくった重要な出来事であったといえよう。

 その後、アンテノルの彫刻は、前480年の第二次ペルシャ戦争の際、ペルシャ王クセルクセスによるアテネ中心部の略奪によりアゴラ(民会・広場)より持ち去られてしまうのであるが、前477年頃に彫刻家クリティオスとネシオテスによる群像が新たにアゴラに建立された。現在イタリアのナポリ国立考古学博物館に収められでいる像は、そのローマン・コピーである。等身大を超える堂々たるこれらの像がアテネ市民たちにとって最も目につくアゴラに設置されたということから、この群像がいかにモニュメンタルなものであったかは明瞭であろう。

 一方でやや時代が下った陶器画の分野、特にテセウスを主題としたものにおいて、この2人のポーズを模した人物像が散見されるようになる。テセウスはミノタウロス退治で有名な比較的古くから知られる英雄であるが、前6世紀末期噴からアテネの国民的英雄として祭り上げられるようになる。さらに前5世紀後半に制作されたエウリピデスの悲劇『救いを求める女たち』(下図・ポンペイ参照)においては、民主政の設立者として描かれている。つまり時代が下るにつれてさまざまな性格が付与されながら、次第に重要性を帯びるようになった後発の英雄なのである。前440〜前450年頃に制作された赤像式キュリクス(上図)では、テセクスの神話上の戦いが1つの円となって表わされている。中央の底部分にはミノタクロスの角をつかんだテセウスが描かれている。この中の2つのテセクスの表現に注目したい。目の前にいる敵に対して、右手でたらいを頭上に振り上げ左腕を後方へまっすぐに伸ばしたテセウスは、明らかにハルモデイオスのポーズを想起させる。一方で、左腕にマントをだらりとかけ、右手を低い位置に下げ て剣を握り今にも敵を突き刺そうとしているテセウスは、アリストゲイトンのポーズを想起させる。

 明らかに重ね合わされたイメージは、テセウスの英雄性を高める装置としてとらえることができるが、翻っていえば、「僭主殺害者像」のフォルムが陶器画において別の人物に見立てられるほどに公共性を獲得していた証左ともいえよう。陶器画に描かれたテセクスを見たアテネ人たちは、すぐに「主殺害者像」を想起し、両者を同一視したことであろう。「主殺害者像」は、1つの彫刻のフォルムをアテネ人たちが広く共有した最初の例であると同時に、彫刻がプロパガンダとしての役割を担うきっかけとなった極めて重要な作例なのである。それは古代ギリシャ人たちが彫刻作品をどのように受容していたのかという問題にもつながるのである。

▶華麗なるクラシック時代の彫刻

 アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿の建設事業は、稀代の政治家ペリクレスの主導のもと、建築家にイクティノスとカリクラテス、総監督に彫刻家のフェイディアスが採用され、前447年から15年の年月をかけて完成された都市国家アテネの一大プロジェクトである。この神殿を飾る数多くの彫刻は、1687年にオスマン帝国とヴェネツィアとの戦争の際に、弾薬庫となっていた神殿が砲撃を受けたことで、重大なダメージを被ったのであるが、残された彫刻は不完全であっても輝きを失することばない。

 それはアルカイック時代のクーロスやコレ一における直立に近い人体表現から、より人体の自然さを追求した体重移動や解剖学的正確さに基づく厳格様式時代を経て、彫刻による表現としての1つの頂点を極めた盛期クラシック時代を代表する作品群である。

 そしてさらに彫刻というジャンルを超越して、永遠性をも志向する美の極致として古より多くの芸術家や知識人たちによって称賛されてきた。初期クラシック時代を飾る「クリティオスの少年」からわずか半世紀足らずでここまでの完成度へと至ったのは、美術史上の奇跡ともいえよう。パルテノン神殿は、前5世紀中頃におけるアテネの経済的・政治的繁栄と芸術的な成熟が見事に合致した、まさに古代ギリシャ美術の代名詞といえるものである。

 現存するパルテノン彫刻は大きく3種類に分けられる。神殿の東西両面の屋根下の巨大な切妻部分を埋める破風彫刻、柱と屋根の間の東西南北四面を飾るメトープ彫刻、内室の外側四面を走る全長160mのフリーズ彫刻である。その他に、現存しないが12mを超える黄金と象牙でつくられた本尊のアテナ・パルテノス像が存在した。

 現在、イギリスの大英博物館で見ることのできる破風彫刻の中で最も有名な三美神(図10)は、個々の神々の表現だけではなく、三者の関係性を見て取れる貴重な作例である。破風の斜面に合わせて右へ行くほど人物が低い位置へ収まっている。最も右の女神はアフロディテとされており、性愛を司る女神らしく、肩がはだけ胸部や下腹部に衣装が張りつき、なまめかしい姿態を見せている。やや無理のある姿勢ではあるが隣のディオネとされる女神に体を預け、破風の中でもディオニュソスと並んで最もくつろいだ様子である。衣装の襞は、彫刻家の技術をひけらかすかのように複雑で、まるで手に触れれば皺が寄ってしまうかのように、大理石とは思えないほど柔らかい表現がなされている。

 ここで注目したいのが神々の背面の表現である(図11)。神殿を訪れた者に神々の背中は見ることができない。それにもかかわらず前面と同じく緻密な彫りが施されている。おそらくこれは神々への深い信仰心の表われだろう。ペリクレスやフェイディアスにとって神々をかたどることは、神そのものを創り出す行為であったといえよう。ヘレニズム時代になると「サモトラケのニケ」に見られるように前面のみが彫られ、背面の表現は省かれるようになる。制作時問の短縮化や費用の問題といった現実的な理由が優先されるようになるのである。

 パルテノン彫刻の中で破風彫刻に比肩するほどの高い完成度を誇るのがフリーズ彫刻である。古代ギリシャでは、クーロスやコレーに代表される三次元彫刻と神殿のフリーズを飾る浮彫り彫刻の2種類がそれぞれ発展してきた。浮彫りは平面に近いことから奥行表現が困難でありながらも、その限られた表現形態の中でまるで絵巻物のように物語性を込めながら、彫刻家たちは工夫を凝らしてきた。

 ここでは北西の角から二方向に分かれて騎馬隊や犠牲獣などの行列が整然と東フリーズ中央を陣取る神々に向かって進んでいる(図12)。時にはけたたましく馬を走らせ、時には女性たちが静かに歩む。自在に緩急がつけられ、それぞれの物語が神殿正面の東フリーズに収斂されていく様は見事としか言いようがない。主題が何であるかさえ不明なままではあるが、フェイディアスのフリーズ全体を見渡す総合的な視点と複雑な造形を可能にした彫刻技術が結実した美術史上の傑作といえるだろう。こうした浮彫りの技術が、前5世紀中頃以降に制作された墓碑彫刻へと受け継がれていく。

 パルテノン神殿と同時期の前5世紀中頃に、彫刻家として最も名声を博したのはポリュクレイトスである。ポリュクレイトスは、アマゾン像をつくるコンテストでフェイディアスをおさえて優勝し、また自らの制作理念を著作にまとめた初めでの彫刻家として知られている。残念ながら現存しないが、著作『カノン』に「規範」という意味があることからもわかるように、ポリュクレイトスは数学的な正確さをもとに理想的な人体を追求した。(上図)また厳格様式時代のコントラポストをさらに推し進め、人体の緊張と弛緩の関係性を理知的に把握することによって、より人間らしい姿態を完成させた。前440年頃に制作された「ドリエフオロス(槍を持つ人)」(図13)はまさにそれを具現化 したものである。左脚はもはやつま先のみが地面に接して完全に弛緩しているのに対し、右脚はほとんどの体重がかかっているため緊張している。一方で槍を携えた左腕は緊張し、右腕はだらりと垂らしている。つまり右側は腕が弛緩し脚は緊張、左側は腕が緊張し脚は弛緩するといったように、左右だけではなく上下関係においてもコントラストを生み出しているのである。

 こうして人体に1つの「規範」を創り出し、正確さと自然さを同時に追求することが盛期クラシック時代を貫く1つの大きな理念であったといえよう。

▶ヘレニズム彫刻に見る瞬間の表現

 ヘレニズム時代とは通常、アレクサンドロス大王が亡くなった前ぅ323年からプトレマイオス王朝エジプトの滅亡した前30年までの約300年間を指す。マケドニアのアレクサンドロス大王は、強大な軍事力を盾に、南はエジプト、東はペルシャさらにはインドに至るまで勢力を伸ばし、大帝国を築き上げた。それに伴い、ギリシャ文化が東方へ伝播することによってオリエント文化と融合し、広範囲にわたるヘレニズム文化が生まれた。

 ヘレニズム時代は世界的に有名な「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」「ラオコーン」が制作された時期にあたる。この時代の彫刻は、モチづ、表現方法、さらには制作地までもがバラエティに富んでおり、一概に述べることは難しい。しかし総じてクラシック時代よりもさらに感情の表現、そして動態表現がともにダイナミック、かつドラマチックになったといえよう。

 ヘレニズム彫刻に多大な影響を与えたのは、クラシック時代末期の彫刻家プラクシテレス、そしてヘレニズム時代への過渡期に活躍したリュシッボスであろう。プラクシテレスは西洋美術において初めての等身大の女性裸体像「クニドスのアフロディテ」(図14)をつくった彫刻家として知られている。現在はローマン・コピーを通してしかその姿を推し量ることができないが、その美しさは当時から広く知れわたっており、彫像を見るためにわざわざ航海をしてクニドスを訪れる者があったという。また、ある時この彫像に恋慕した1人の男が分別を失い、夜に神殿に侵入して抱擁した挙句、彫像を汚したという逸話がプリニクスによって伝えられでいる。その優美さの要因の1つとして、プラクシテレスが得意としたS字を描く人体表現が挙げられよう。オリンピアで発見された「ヘルメスと幼児ディオニュソス」(図15)は、その代表例である。現在に至るまで、プラクシテレスによる原作かあるいは彼の時代のコピーであるか議論は続いているものの、こうした上半身をやや不自然とも思えるほどにS字に曲げる人体表現は、後のヘレニズム彫刻に多大な影響を与えた。ベルガモン大祭壇におけるゼウスや巨人族の上半身は、まさにこれを応用したものといえよう(図19)。

 リュシッボスはアレクサンドロスの肖像彫刻の制作を認められた唯一の彫刻家であった(図16)。当時アレクサンドロスをかたどることは、彫刻のみならず絵画や宝石などさまざまな分野においで特定の職人のみに限定されていた。そしてリュシッポスをはじめとする彼らの作品が元となり、アレクサンドロスの特徴である彫りの深い大きな目と髭のない顎、そして額中央から上ヘカールしたライオンのような逆毛などが定型化し、後の時代につくられたコインや彫刻、そして絵画へと受け継がれた。その特徴はポンペイの貴族邸宅を飾っていた前100年頃制作の「アレクサンダーモザイク」(図17)においても見出すことができる。すでに大王死後200年以上を経てもトレードマークは消えることなく後世へと伝えられたというのは、当時としては異例のことであろう。リュシッポスが手掛けたアレクサンドロスや哲学者の肖像彫刻は、古代ローマ時代へと続く数多くの肖像彫刻に多大な影響を与えたのである。またリュシッポスは、クラシック時代にポリュクレイトスが7頭身で制作した人物像を8頭身へと移行させ、よりスマートで優美な人体を生み出すに至った。リュシッポスによる言葉「先輩たちは人間をあるがままにつくったが、自分は人間が見えるようにつくるのだ」の通り、彫像は必ずしも人体の数学的な正確さに因るものではないという考えがヘレニズム時代初期に明言されたのである。

 こうした考え方は、ヘレニズム時代の代表作である「ラオコーン」(上図左)ベルガモン大祭壇(上図右)へと受け継がれていった。そこでは人物の胸筋の中央割れ目が弓なりに湾曲している。こうした湾曲は構造上、実際の人間には起こり得ない。プラクシテレスのS字の人体、さらにリュシッボスの「見えるようにつくる」という理念が推し進められたことにより、より力強い動態表現が可能となった。これらは人体の中心軸に沿う弦を引っ張ったかのように、次の瞬間に起こり得る動きを読み取ることができるほどに動的である。最大の動きへ移行する直前の、最も力がみなぎった瞬間を彫刻家たちは好んで描写した。

 また一方で厳格様式時代にすでに萌芽を見て取ることのできた感情の表現は、ヘレニズムではさらに意識的に進められた。ここではソクラテスの言葉を引用したい。

 しかし、何卒、の活動をしている肉体に起っでいる感情も、これを真似たならば、見る人になんらかの喜びを与えないか。(中略)では闘っている者の物凄い眼つきを写すべきであるし、勝った者の意気軒昂たる顔つきもまねなくてはならぬのではないか。(中略)されば彫刻家は、魂の活動を外形に写し出さなくてはならぬということになる14

 ソクラテスは彫刻家にとって「魂の活動を外形に写」すこと、つまり対象となる人物の感情を表出させることを重要視した。ソクラテスの言葉はおそらく前5世紀末期、つまりクラシック時代にあたるため、ヘレニズム時代の彫刻理念をそのまま代弁するものではないが、こうした考え方がすでにクラシック時代には浸透しつつあり、それがヘレニズム時代へ引き継がれていったといえよう。「ラオコーン」における海蛇に殺されようとしている苦悶の表情や、ベルガモン大祭壇における巨人族の表情はまさに典型的なものである。つまり人物のある瞬間の感情表現が重要視され、より刹那的な表情をとらえる傾向が強まったといえる。

 アルカイック時代のクーロスやコレーは、人体表現、そして感情表現がいまだ抑制されており、彫刻というモノとしての存在感が強調されていた。ヘレニズム彫刻もまた圧倒的な存在感を誇るのであるが、そこにあるのはアルカイック時代とは明らかに異なり、人間の生々しい感情や動きに満ちあふれた人体の表現であったといえよう。

■おわりに

 古代ギリシャ彫刻には鮮やかな色彩が施されていたというのは苦から周知の事実である。しかし大理石のまばゆいばかりの白い美しさに魅了されるがゆえに、研究者たちはあまりそのことに目を向けてこなかった。しかしミュンヘンの考古学者を中心に色彩の研究が進められ、その成果として「彩られた神々一彩色された古代彫刻」展が同地を皮切りに200う年より欧米各都市を巡回し、2007年にはアテネ国立考古学博物館で開催されるに至り、私たちは改めて当時の彫刻の本来の姿を想定しながら古代ギリシャ美術を語るべきではないかと考えさせられる。

 色彩が施され、義眼が入れられた生々しい彫刻レプリカは、現代人である私たちの目には奇異にさえ映る。しかし古代ギリシャ人が目指したのは、神々や死者、そしてアスリートたちをかたどり色彩を施すことで、対象をあたかも現実の世界に顕現させ、それら彫像に永遠の生命を宿らせることではなかったかと改めて想像させられる。

 トロイア戦争において、ギリシャ人たちが木馬を用いて敵城内に攻め入り陥落させた際に、神殿や神像を破壊、略奪した結果、神々の怒りを買ってしまったという物語からもわかるように、古代ギリシャ人にとって神像は神そのものであった。そうした彫刻の役割に対す図19ベルガモン大祭壇フリーズのゼウス 前165〜前150年頃ドイツ、国立ベルガモン美術館 ◎alamy/PPS通信社る19世紀の歴史家ヤーコプ・ブルクハルトの考えは非常に説得力を持っているように思われる。

 肝要な点は当時の偉大な巨匠たちが神々の世界を新たに創り上げているのだという確信を世人に呼び起こし、住民たちにもそうしょうという意識を呼び覚ますことができたというこのことである15 

つまりブルクハルトは、彫刻には神々の世界を現世に創出させるだけの力があると当時の人々は信じていたと結論づけたのである。古代ギリシャ彫刻は芸術である以上に、当時の人々の深い信仰心が現われ出たものとしてとらえられなくてはならないだろう。

 古くから神聖とされていたものに固執するのではなく、むしろ新し  く生まれたばかりの美しいものを承認し、いやそれだけでなく、そ れを実際に受け入れることのできる国民を必要としたのである16 

 さらにブルクハルトは、彫刻を受容する当時のギリシャ人たちがより美しいものを欲したがゆえに進歩していったと解釈した。つくる側と見る側、つまり当時の社会全体が古代ギリシャ彫刻を育てたのである。