伝統へのアプローチ

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 戦前・戦中・戦後と社会が大きく変化するなかで、丹下だけでなく彼の前後の世代の建築家にとって、日本の伝統をどのように解釈し、表現するかは大きな課是であった。丹下と丹下研スタッフらは、あくまで機能・空間・技術といった概念をめぐる現代的な方法にもとづき、伝統の中に新たな創造の可能性を見出そうとしていた。

▶失われた日本を取り戻す

 敗戦とそれに続くGHQによる管理下体制により、人々は日本人としてのアイデンティティを失いかけていた。そのような時代に丹下らは、桂離宮などの日本の古建築に、モダニズム建築に通じる要素が見られることを再確認した。現代的なまなざしによる日本の伝統の解釈は、広島平和記念館や丹下自邸、倉吉市庁舎などを経て、香川県庁舎の表現に結実する。

▶桂離宮

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 アメリカで当初、建築家を目指していた石元は、戦時中の収容所暮らしの際に写真に傾倒し、ニュー・バウハウス(シカゴインスティテュート・オブ・デザイン)の写真学科で学んだ経歴をもつ。帰国した翌年の1954年(昭和29)5月、桂離宮の撮影に没頭した。「外からの視線」で撮影された近代的な桂離宮の姿は、多くのモダニストに深い印象を与えた。167-1

▶倉吉市庁舎(1957年)

 香川県庁舎の設計と同時期、師の岸田日出刀との協働という形で、丹下は岸田の出身地・鳥取県倉吉市の市庁舎を設計する。腰高の勾欄(こうらん・欄干)や打ち放しコンクリートによる柱梁の構成など、広島から引き続く要素が見られる。一方、ベランダを支える突き出した大梁や、伝統的な無双窓を配した開口部廻りに、香川県庁舎で展開される意匠の萌芽が見られる。

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▶倉吉市庁庁舎ホール

 低層棟に設けられた吹き抜けの市民ホール。階段を上がると、正面が展示室、右手が議場へとつながる。この建築の発表時、丹下はこれまでの自作を振り返り、特に各地の庁舎建築においてどのようにパブリック・スペースを導入するか、その難しさを語っている。「正直にいって、どのようなかたちがいいのか、市民にとってこのましいのか、またそのようなものができたとして、これからそれがどのように使いこなされてゆくのか、確固たるかんがえが、わたくしにあるわけではない」(無題「新建築」1957年7月号)。こうした試行錯誤の中で、ピロティや開放的なロビー、建物前の広場の形成など、様々な建築的形式が試みられていった。

▶香川県庁舎のベランダ・小梁

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 瀬戸内の明るく強い日差しの下、大梁と小梁の先端部が白く浮き上がる。ベランダ下の陰影とのコントラストが印象的。竣工の前年の1957年(昭和32)11月、自らの計画の仕上がりを確かめるように、丹下自身も香川県庁舎にカメラを向けた。大梁・小梁の先端面がひときわ明るく映え、やはり強調されたベランダの水平線とともに、この建築の特徴をよく表している。

▶香川県庁舎本館議会議事堂新築工事設計図計画仕様書

 丹下研が設計図と同時に作成した香川県庁舎建設工事の仕様書。コンクリートに関する特記事項には、「従来の「型枠」の概念を廃し「鋳物」を作る様な心構へで正確な「型枠」の作業に努力すること」、「コンクリートそれ自体が仕上となるため、従来の概念を廃しコンクリートの色調に注意するは勿論、表面の豆板、其の他欠損を生ぜぬ様方善を期し、各部に人員を充分に配置し、突固め、「型枠」たたき等充分になす」などと記されている。

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■丹下さんと剣持勇

松本哲夫

 1949年新制作派協会に建築部が生まれる。吉村、谷口、前川、丹下、山口、池辺、岡田、剣持らが集う。多分、猪熊さんの推薦であろう剣持の名がある。丹下さんとの出会いはこの前後と思う。1950年イサム・ノグチとの初顔合わせは東大丹下研究室であったということからも想定される。

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 1953年春、剣持勇は産業工芸試験所意匠部長であった時、外務省に第10回トリエンナーレ・デイ・ミラノの公式招請状が来た事を当時工芸ニュースの顧問であった勝見勝に連絡したことから始まるデザイン界の動きは、第11回トリエンナーレに向けて、国際デザインコミッティー設立となる。そのメンバーは、建築・丹下健三、清家清、書阪隆正。インダストリアルデザイン・柳宗理。インテリアデザイン・剣持勇、渡辺力。グラフィックデザイン・亀倉雄策。写真・石元素博。絵画・岡本太郎。評論・瀧口修造、浜口隆一、勝見勝。顧問・前川国男、坂倉準三、シャルロットペリアンであった。それぞれの分野で先駆的役割を演じていたカリスマ的性格の持主が多かったと言える。

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 コミッティーの役謝は、国際交流を通して、日本の建築家、デザイナー、美術家、評論家の横断的結合と、グッドデザイン運動の推進であった。1953年と言えば、ヨージェフ・レーヴァイ「建築における伝統と近代主義」(針生一郎訳『美術批評』)が発表され、伝統論争の発火点となる年でもあったし、成城の丹下邸も竣工して、戦後の建築、デザインのアメリカ文化からの良い意味での独立の転換点になる年であった。1954年のサンパウロ400年祭の日本展示場は丹下さん設計、1955年の「H55」展の日本ブース設計を担当した私は、54年未に丹下さんに初めてOKをいただいた。55年独立した剣持に協力して以後、香川県庁舎から代々木の国立競技場まで、かなりの丹下作品に関係させていただいた。次の2人の文章から読みとれるのは、日本を意識してのモダンデザインの在り方なのだ

▶「剣持さんのデザイン」・・・丹下健三 

 剣持さんのデザインは、もうすでに、戦争前から日本のデザイン界に非常に大きな影響力を持っていたと思いますが、その当時、私達が剣持さんを通して感じていましたことは、剣持さんのデザインはかなり合理的な、どちらかというとバウハウスと同じ線の上で、その考え方を日本に定着させようということで頑張っておられたという風に理解していたわけです。 そういう意味では、当時の日本で、その影響はかなり重要な意味を持っていたと思われます。

 それから戦争中は、余り大きな活動はなかったのではないかと思うのですが、戦後の一私が直接剣持さんと親しくお付き合いするように成ったのは戦後なのですが、剣持さんのデザインの中に私は非常に日本生粋の、日本人らしいものを感じるようになっていったのです。 

 剣持さん自身も意識的にか、無意識にか、判りませんが、日本の生活の中にある家具とか、インテリアとかいったものに対し、その中からいいものを見つけ出そうという非常に真剣な気持をもって、日本のものをみつめておられたように思うし、また剣持さん自身の体質の中に、そういう風な、感覚というか、身についたというか、非常に心の中に、またすでに血の中に、溶け込んでいるといっていいかもしれない、そういったものを感じていました。

 それが、剣持さんのデザインの中に、にじみ出て来始めるのを、私達は、傍にいて感じていたわけです。 具体的には、剣持さんはよく日本の地方に、四国に行ったり、東北に行ったり、その他いろいろな地方に行っては、そこのいい民芸品を発見したり、そこでいい民芸品を育てたりするような事をされていましたが、それは一つの余技・・・と言っては失礼かもしれませんが・・・余技的な現れであって、本流は、剣持さんの自分で創造されるデザイン、家具とかインテリアとか、そういうものの中に、日本人の心をどういう風に植え込んでいくかということを考えていらしたように思われます。