古代金銅仏彫刻

■古代金銅仏彫刻

姜 友邦

▶︎三国時代の仏像

 韓国の仏像を知ることは、日本の仏像をより深く理解する上に是非とも必要である。いうまでもなく、わが国へ仏教及び仏教美術を伝えたのは、百済である。また、仏教伝来の初期にわが国で造仏に従事したのは、いずれも古代韓国や中国からきた技術者ないし、その子孫であった。また、飛鳥・白鳳時代の仏像の手本になったものも多くは、古代韓国仏である。

  

 日本に仏教が伝わった頃の韓国は、半島の北に高句麗、中央部に百済、南に新羅が鼎立していた時代である。そこで、この時代を三国時代と呼び、この時代に制作された仏像を三国仏と称している。無論、これらの国に仏教が伝わったのは、日本よりもはるかに早い。高句麗には、小獣王2年(372)に中国の前妻から仏教が伝えられ、百済には、枕流王元年(384)に東晋から伝来した。新羅はやや遅れ、5世紀半葉に高句麗を通じて伝わり、この国の仏教が公認されたのは、528年といわれている。また、それぞれの国の位置から、高句麗には、中国の北朝から伝わり、百済へは海路を通って南朝の仏教が伝わつた点も重要である。

 三国時代の仏像は、いずれも体が痩せ型で、顔が面長であり、唇には、古式の微笑を浮かた像が多い。また、側面からみると体躯が偏平で、体にまとった衣の皺(しわ)は、左右相称的に彫り出されている像が多い。高句麗仏の代表的遺品としては、1963年に、慶尚南 道宣寧郡下村里で偶然発見された金銅如来立像(下図)がある。

 この像の光背裏面には、延嘉7年に高句麗楽良(今日の平壌)で造られた賢劫千仏の一体であると明記されており、その年代は、5 39年と推定されている。この像は、北魏仏に近い鋭い面相と衣文が表現されている。また、百済仏の典型としては、山の三尊石仏(下図右)がある三尊とも顔や体に丸みが加わり優美さを示している。恐らく、中国南朝の仏像の影響が強いのであろう。また、扶余の軍守里廃寺出土の滑石製如来坐像(下図左)も、やさしい面相をもち、衣文は左右相称的に彩り出されている。

 三国時代の新羅において制作された仏像中、重要なのは、慶州三花嶺の如来三尊石仏(下図)や、拝里の三体石仏である。

いずれも童顔の面相をしており、わが国の白鳳仏と共通する特色をもっているところから、古新羅でも末期のものと考えられる。これらの像よりさらに重要なのは、出土地は不明であるが、現在ソウルの国立中央博物館にある二体の大型の金銅弥勤半伽思惟像である。いずれも、右手で頬杖をつき、左足を垂下し、左手を左膝上にお いている。弥勒菩薩が、冥想にふけっている時の姿をあらわしている。両像の精神性の豊かな表現は、見る人をひきつけずにはおかない韓国仏像中の最高傑作である。

▶︎金銅日月飾三山冠思惟像

 高句麗・百済・新羅の三国は同じ文化的基盤の上に成立したが、気候と風土に従って各々異なる地域的様式を見せている。高句麗の美術様式は、東北アジアに共通して表れる雄渾(ゆうこん・雄々しくて勢いがいいこと)さと躍動感を示している。しかし、それが線的に偏らず、力を充満した量感と自由奔放さとして巧みに表現されているのである。

 これに比べて百済の美術様式は、厳正で洗練され、温和で静的である。このような百済の美術様式は、その地域の自然に見られる低く柔軟な稜線、そして温和なと気候という風土性と深い関係があると考えられよう。

 次に新羅は高句麗・百済の二国とは異なり、その後進性からくる硬直した線と剛直な量感、また稚拙さなど、鈍重とも言える美術様式を見せている。しかし、このような三国の様式的特性は固定されていたものではなく、一つの傾向にすぎない。それゆえに、高句麗の強い影響を受けた百済美術も、場合によっては「高句麗様式」と呼ぶことができるのである。

 このように「様式」の概念とは地域によってのみぼ得られるものではなく、幅広い許容度を持つものなのである。

 金銅半加思惟像は、三国時代に大きく流行したが、ここに紹介する像は、王冠日輪と三日月が結合した特異な形式を示している。この複稚な宝冠が筆者によって始めて詳細に分析されて以来、この像は日月飾宝冠思惟像と呼ばれるようになった。

 この像側面から見るならば、弾力性のある身体の全体的な曲線は大きく強調され、正面(正面観)では腰部を細くするものの過大な頭部と下半身をやはり弾力性をもって連結させている。天衣は両肩と台座下段に各々鋭利に反転しており、身体の流れに従って非常にしなやかに、また柔軟に身体に密着している。

 両膝の褶(しわ・ひだ)はS字形とU字形により、また背面の(とんじゃ・いすの古称)覆いもS字形とU字形により変化が与えられている。悠然でありながら力のこもった身体の動勢と、において反復するS字形とU字形のモティーフが構成的調和をなしていることが、この像の様式の最も大きな特徴と言えよう。

 この仏像の製作地としては、百済または新羅など様々な説があるが、上記で述べたように、身体と天衣の力に満ちた勢い(気勢)は高句麗古墳壁面、特に動勢が強い四神図にみられるように非常に高句麗的であり、筆丁老Hはこの像を高句麗仏であると考えている。

 また鋳造技術も非常に高度で、発達した技術を見せており、高さ83㎝の大型金銅仏でありながら、厚さは2㎜に満たない卓越した技術が、豊大しく生命感ある様式を可能としたのである。

▶︎金 銅 三 山 冠 半 伽 思 惟 像 Ⅰ

 東洋の古代仏教彫刻の中で最も問題となっている作品の一つが、この金銅三山冠半伽思惟像である。まず、本像が百済の作であるのか、あるいは新羅の作であるのかということが論議の的になっている。さらに、本像と類似した木彫像が日本の京都広隆寺にあり、この像が韓国から持って行かれたものなのか、あるいは日本において製作されたものなのかという議論もある。

 つまり、広隆寺像は百済の影響を受けたものなのか、あるいは新羅の影響を受けたものなのかという問題が、その結果として生じてくる。また木像の製作時期に関しても600年頃という説7世紀中葉という説があり、問題はさらに複雑化せざるをえない。このように、この仏像は6〜7世紀の東洋におけりる代表的な仏教彫刻中の一つであるために、韓日文化交渉史において最も大きなイシュー(イシューとは、一般的な用語としては「論点」「課題」「問題」などと訳される)の一つとして登場してきている。

 しかし、日本においては、次のような点で広隆寺像を新羅仏とする見解が支配的である。

 まず第一に、飛鳥・白鳳時代の木彫は例外なく「クスノキ」であるが、この広隆寺像のみが「赤松」であり、赤松が韓国に多いために広隆寺像が韓国仏であるという見解である。

 また第二に、『日本書記』623年(推古31年)の条には、新羅の使臣が仏像一具・金塔・舎利などを持って来たが、仏像は秦寺に安置し、他の物は四天王寺に安置したという記録がある。さらに、広隆寺を建てた秦氏が新羅系の人間であり、このような実証的な態度によって材料の類似と歴史的な記録を見れば、広隆寺像は新羅仏であることが明確であるように思われる。そして、広隆寺像と類似する本像を新羅仏と見ようとすることには今まで異議がなかった。しかし、広隆寺像は日本彫刻史上、材料面や図像面、また様式面において例外的なものであることは間違いがない。

 私が1975年秋に初めて広隆寺を訪問した時、広隆寺像に韓国の三山冠半伽思惟像と異なる点があることに驚いた。もちろん、二件の仏像の一つの像は金胴であり、もう一つの像は赤松であるという材料面から来ている差異はある。しかし、もっとも大きな差異は「大胆な生命力の表出」である。金銅三山冠半伽思惟像は、顔や衣襲の処理において面の処理が大胆である。足や手の指には、微妙な動きがあり、生命感を感じることができる。結局、本像の形態の特色は、像全体に充満する生命感にあり、冷たく固い青紫に生命を吹き込んでいるのである。しかし、広隆寺像においては、そのような躍動する大胆さを感じることができない。金銅三山冠半伽思惟像は、はたして新羅の作であるのか、また広隆寺像といかなる関係があるのであろうか。

▶︎金 銅 三 山 冠 半 伽 思 惟 像 Ⅱ

 韓国の三山冠思惟像が百済の作であるのか、あるいは新羅の作であるのかに従い、広隆寺像もいずれの国からもたらされたのかが決まる。仮に『日本書記』の記録と広隆寺像が一致すると信ずるならば、問題はなかろう。しかし、逆に推論してみれば、広隆寺像は新羅作となり、したがって三山冠思惟像も自動的に新羅作となってしまう。

 しかし、美術史家は記録から出発してはならな。もちろん歴史的記録が重要でなくはないが、美術史家はまず文字言語よりも造形言語を解読しなければならない。韓国の三山冠半跏思惟像は、自信のある身体のモデリングにより造られた生命力が充満している彫刻である。童顔に可愛らしい指先、偏平な胸部に細い腰などは児童の姿である。しかし、身体は瞑想にふける静かな姿勢であるものの、下裳は非常に厚く、微風にそよいでいるが、この上なく強い律動感が感じられる。このような静と動が調和をなして生命感を高潮させている彫刻も稀である。

 

 これに比べて、広隆寺像は三山冠半跏思惟像ほど童顔ではなく、むしろ青年像である。顔は明るい微笑というよりは、深い瞑想にふけっており下裳は静かに垂れて、全体の雰囲気が崇高な寂滅の境地を表している。このように二つの像を全体的に見る時、全く異なった感じを受ける。しかし、不可思議なことに、細部的には全く同じような部分が非常に多いことには驚く。まず、三山冠は同一であり、胸部と腰の処理も類似する。膝下の衣端処理、椅子の両横から垂下する装身具も同一である。恐らく、この世界にこの二像ほど同一点と相違点が共存する影刻もないであろう。それゆえに、同一点を強調するならば、二像は類似した像となり、相違点を強調するならば異なる像となってしまう。このように、類似しながらも異なる様式と形式に関する問題は、韓国が中国の美術を受容する時も、また日本が韓国の美術を受容する時にも起こる一つの普遍的な文化現象である。韓国の場合、中国仏が発見される例は極めて稀であり、古代韓国仏は中国仏と非常に類似していても、中国のものではない。日本も同一である。日本の学者たちは、飛鳥・奈良時代のかなり多くの金銅仏を韓国からの渡来品と指摘しているが、筆者が見るに、そのような例はやはり非常に稀である。そのはとんどは、韓国の様式を帯びているが、日本の作なのである。

 美術史において、視覚の差異ということは非常に興味のあることである。しかし、微妙なことは韓国人がそれらの像を見るならば韓国像とは異なった印象を受け、日本人が見るならば韓国のものであるということである。その代表的な例が、まさしく、広隆寺像なのである。

▶︎金 銅 三 山 冠 半 伽 思 惟 像 Ⅲ

 それでは、韓国国立中央博物館所蔵の金銅三山冠半伽思惟像の製作国は、どこなのであろうか。既に述べてきたように、この仏像は日・韓の学者間では、新羅作としてその意見が固まってきている。彼らは「日本書紀」の記録と弥勒信仰とを結合させ、さらに新羅の独特な花郎(かろう)制度を結び付けて、この像を「新羅の弥勤菩薩半跏思惟像」と規定している。

花郎の制定・・・花郎という制度は真興王37年 (576年頃)に制定されたことが 三国史記に記されている 。この記事によれば花郎集会は下記のような特徴を備えている。 1.歌舞遊娯を行う社交クラブ  2.国家有事の際、出征する青年戦士団  3.青年の国家的社会的教育機関  4.貴族の子弟の官吏養成機関 [8]である。 これらの特徴の内、貴族の子弟のみがその構成員であり平民は含まれていないと考えられる点  は原始韓族の男子集会所とは大きな相違である。 花郎集団は複数存在し、一つの集団には三百人から千人の郎徒があったと伝えられている。 真興王から真聖王に至るまでの約350年間に二百人余りの花郎が名を馳せたと伝えられているが、文献上明らかなのは次の26名である。

 しかし、彼らは美術史家として当然行わなければならない、この仏像に対する様式的考察を全く行っていない。この仏像の出土地に関しては、忠清通説慶州説などがあり、移動が可能な大きさの金胴仏は、出土地のみをもって製作地が決定できず、その当時ではない朝鮮時代にも移動が可能なのである。美術史家にとって、作品の絶対的資料は記録や出土地ではなく、まさしく作品それ自体である。

 この仏像の造形性を詳細に見てみるならば、まず顔と身件の表現は、さながら生きているように表され生命感が充実している。弾力ある顔のモデリング、彫塑的な構造をもつ身体、こどもの指のようなかわいらしい指、微妙に動いている手や足の指、おそらく古代仏教彫刻の中で、この仏像のように生命感が見事に表されているものも稀であろう。それのみならず、下裳を厚くして健全体に安定感を与えており、下裳の衣襞の構成も緻密でありながら自然で、裳裾にまでも微風にそよぐ生動感が与えられている。このような複推な形式の構造を無理なく自然に彫刻することは、それほど易しいことではない。この仏像は、人体表現において東洋彫刻史のみならず、世界彫刻史においても重要に取り扱われるぺき作品であると考えられよう。

 それでは、この仏像の製作地はどこなのであろうか。その当時、つまり6世紀前後の時期に、東北アジアにおいて百済は最も洗練され美しい芸術を開花させた国の一つであった。

 新興の新羅は、6世紀中葉に皇龍寺を建てた時にも、百済から阿非知という巨匠小匠200名を招いて建てたほどであり、そのことからも当時の事情を十分に推測しうる。

 6〜7世紀の新羅仏像は、彫刻や鋳造技術が拙(つたな)く、そのほとんどが粗雑で不合理な部分が多いものであり、編年(考古学者は発掘された考古資料を型式学的方法によって分類し,型式を設定する。)上で新羅仏の中に、この半拗思惟像と比較することができる彫刻はない。ところが、これと形式が同一で、復元値が2m50㎝の統一新擢期の大形石造思惟が、慶尚北道春北部から発見されている。万一、新羅の「弥勤・花郎」の信仰が、主導的であったならば、そのような記念碑的仏像は慶州にあらねばならない。その像が、慶州から遠く離れた辺境な地で造られたことは、むしろ百済との関係から究明されねばならないことではないのか。

▶︎方 形 台 金 銅 半 伽 思 惟 像

 ある国の美術の形式や様式は、文化的先進国の影響を受けるが、必ず民族性と風土性にょって変化する。百済美術が東西において、その独創性を早くから認定されたことは、百済人が早い時期に百済独特の様式を確立したためである。

 その一つの例が、百済の半伽思惟像である。中国において、思惟像のほとんどは⊥王たる仏像に従属したり、また一つの部分的存在であったりした。しかし、百済に思惟像が渡ってからは、そのような従属した関係から解き放たれ、半伽思惟の姿勢で一止面観をとるようになった。

 

 ここに紹介する思惟像は、そのような良い例と言えよう。この像は、深く傾けるべき頭を最大限に上げ、礼拝者と向かい合っている。このように頭を上げりるならば、半跏した姿勢全体に大きな変化が起こることとなる。即ち、頭を上げているため、屈した腰も可能な限りに伸びてしまい、右膝に置く腕も長くなって、若干の不均衡な現象が起こることとなる。また半伽像の場合、下裳の処理が非常に複旭稚で難しいが、このような不八日然な姿勢と下裳の問題を解決するために、百済人は像全体に大胆な造形的変形を意図した。そのような変形が、この仏像においては極致をなしているのである。

 まず、この仏像は、一般的な形式と異なった広くて高い四角形のム口座の上に座っている。しかし、台座とは対照的に仏像自体は身体が細くて長い。フランスの両H家モディリアーニの人物画のように胸、腰、腕が非現実的な程に細長く、極端な変形が施されて抽象化されており、下葉の衣襲も省H臨Hと図式化により、抽象化されている。従って、座っている姿勢全体が解体を適して再構成されるという高度な芸術性を口兄せているのである。

 しかし、身体が細長く衣繋が単純化されている反面、装飾的要素の多いことは、中国の隋代美術の様式的特孜を受けたものということができよう。隋代においては、既に半伽思惟像が消滅しており、陪川様式の思惟像は存在していない。百済人はそのような特赦を大胆に半伽思惟像の形式に山川い、橿端なまでに高めている。そして、このように台座と像を橿端に対照させ、身体と衣襲を最大限に抽象化させているものの、全体的にまた様式=阿に調和がなされていることは、彫刻家の非凡な手腕と言えよう。両肩にかかる天衣は、身体の流れに逆らうことのないよう両味に密着し、両腕と一つになって流れ、各々手首と味を回って、やはり下裳に密着して台座に達している。下裳の前面の抽象的形態と衣襲の処理も、像の均衡のために調和させ再構成させる優れた手腕と言うことができよう。このように百済の半伽思惟像をはじめとし、その影響を受けた新羅の氷丁伽思惟像においても、異なる国に見ることができない大胆な形式的変形がおこなわれ、独特な様式が確立されたのである。


▶︎ 梁 山 出 土 金 銅 半 伽 思 惟 像

 この仏像は、新港地域である慶尚南通梁山から出土したため、疑うこともなく古新羅仏と分類されて来た。しかし、筆者は幾つかの造形的特性等により、この仏像を百済仏と推定している。なぜなら、金銅仏は移動が容易で、その出土地のみをもって製作した国を簡単に断定することができないためである。百済では、前回に紹介した方形台座金銅仏のように意図的に形態を変形させた抽象的様式を帯びたものと、今回紹介する染山出土像のような写実的表現に中心をおいた二つの様式が完成されていたものと考えられる。

 しかし、どちらが先であつたかは断言しがたい。一般に、初期にあらわれる抽象性と後期にあらわれる抽象性とは異なり、前者は未熟と省略による古拙な抽象性である。後者は写実的表現をマスターした後に自由自在に形態を変化させた芸術的美感をもつ抽象性である。七世紀中葉以降に総じてあらわれる二つの様式は、平行しておこなわれたものと見られる。

 一般的に抽象的様式においては、半跏の姿勢が正面観をなしているのに比べ、写実的様式の半伽思惟像においては、意を相当に深く屈すると共に横にも傾け、右手の二指の先も静かに頰にあてている。また身体に比して、台座は非常に低く、蓮花足座も同様に低く小さい。このような比例感覚は百済特有のものである。身体は全体的に細長いが、詳細に見てみると相当な量感が感じられる。また下裳と左右の装飾帯は台座から分離しており、この像が非常に写実的表現に忠実であることがわかる。抽象的様式ではこの部分が共に結合し、図式的に処理されている。

 ここで注目されることは、下裳の二重処理である。既に紹介した半伽思惟像においても二重に処理されたものは数例あった。この像では足座に下ろした左足にかかる下裳が、二重に着衣されていたことが明確にわかるようになっている。また右足の下に垂下する下裳の上段は非常に短く、また少しずつ折り畳まれて、衣襲の形態が反復する。そして、下段の下裳は深く広い衣襲の形態に変化しているものが多く、その構成が絶妙である。また、台座に覆われた裾は下裳と区別されるために抽象的・図式的形態で一定に反復している。

 この像は、その秀でた造形により韓国の最も美しい仏像中の一つであるが、鍍金は大部分落ち、銅線がはなはだしい。(総高二七・五センチ)


▶︎ 銅 製 半 伽 思 惟 像

 最近、筆者は国民学校(小学校)時代の同窓から、彼のが人親が家{玉のように保管していた仏像を鑑{足してくれるよ、つ依頼を受けた。初めて口兄た瞬間、このような皿美しい古口済の銅山製半謝思惟像がまだ世に出ることもなくあったことに蟄叩きを姓ホ‥し得なかった。話を聞いてみると、この仏像は日本が戦後の恐慌に苦し

めたが、止息を遂げることができなかったとい・つ。何よりも、私はこの仏像仰の田H緑により、自分が国民学校の小さい時の友人に三八鹿丁振りにA五えたのである。

 仏像の全面を漆のようなものが覆うが、部分的に様々な箇所に残っているだけであり、鍍金の痕跡はない。しかし、この仏像は表面

んでいた1948年頃、筆者の・友人の父親が東京のある本人から、家二軒の値段という大金を支払って入手したという。その当時、韓国美術品の所蔵家として有名な小倉氏は、この仏像を購入しようと様々な努力をしたが失敗してしまい、韓国人の所蔵家に引き渡されたという話を聞いて、身を震わせて驚いたという。その後、小倉氏は友人の父親に対し、いくら金を払ってもよいから自分に譲ってくれるよう強く求

の状態から見て出土品ではなく、伝世品であることが明白である。それゆえ、いつ日本に渡って行ったのかは不明であるものの、長い期間が経過する間に、鍍金が落ちた可能性があり、日本のどこかの寺に秘仏として安置されていたのかもしれない。また、この仏像は欠損したところが全くない完全な状態である。

 顔のやや細長い輪郭に厚めの頰は、百済7世紀瑞山磨崖三尊仏の右脇侍の観音菩薩と同様な印象を漂わせている。深くほのかな微笑を含んだ顔は神秘的であり美しい。胸、腰、脚などは細長く裸身に簡単な装飾品が施されているだけである。このような単純な裸身に比べ、下半身の下裳は非常に抽象的であり図式的な構成の衣襞を見せている。このように細長い身体、単純な装飾、抽象的な図式的な衣襞などは、また隋様式の特放でもある。中国においては隋代にこのような半跏思惟像が全く造られておらず、百済後期に流行した半跏思惟像に隋様式が全面的に反映されたことは興味のあることである。ここに百済特有の感覚が主となり、韓国独特な半跏思惟像の形式と様式を創出することとなった。ここに紹介する半跏思惟像は百済半跏思惟像の発展段階において最終段階のものである。金銅日月飾半伽思h惟像金銅三山冠半伽思惟像伝公州出土金銅半跏思惟像金銅方形台座半伽思惟像などの様々な特徴がすべて現れている。そして、このような百済の最終段階の仏像が古新羅に流入し、影響を与えたのである。(総高一九・五センチ・台座七センチ)