■ヘンリー・ムア・・・初期の時代
デビッド・ミッチンソン
世紀が移り変わろうとする頃のウェスト・ヨークシャー州カッスルフォードは、石炭の採掘を主要な産業とする小さな町だった。絵になるような町ではなかったが、少し足をのばせば美しい田園地帯や魅力的な村落の風景があった。ヘンリー・ムアが1898年の7月30日に生まれ、少年時代を過ごしたのはこの町でだった。
ムアがカッスルフォード中学校の2年生だったとき、若い美術の先生が新しく赴任してきた。彼の成長期を通じての友人となり、よき助言者ともなったこの先生、アリス・ゴスティックはフランス人の母親と暮らしていたが、ウェスト・ヨークシャーの片田舎にはとても収まりきらないほどの関心をいろいろな方面に寄せていた。ヨーロッパでの美術の動向に詳しいアリスを通じて、後期印象主義やウィーン分離派、アール・ヌーヴオーなどのニュースが幼い生徒たちの耳にも届いたのだった。
ムアは16歳のとき、ケンブリッジ上級修了試験に合格した。地元の美術大学に進むつもりで奨学金を得るための試験を受ける決心をしていたが、常に実際的な人間だった父親は、ヘンリーを姉と同じように教職につけさせたいと考えていた。わずかな期間、教育実習生として過ごしたのち、ムアはカッスルフォードの母校で正式に教え始めた。またOBだということで、これまでに出征して行った卒業生全員の名前を刻んだ銘板のデザインと制作をも依頼された。そしてまもなく、ムア自身も戦争に行く番がきた。彼は18歳で志願し、すぐに市民ライフル銃隊として知られるロンドン第15連隊に配属された。
訓練のスケジュールはきびしかったが、ロンドンでムアは初めて大英博物館とナショナル・ギャラリーを見ることができた。しかしすぐにフランスに送られ、彼の連隊はこの戦争での最後の激戦となった、カンブレの戦いに参加した。多くの戦友とともに毒ガスにやられ、戦争へのムアの積極的な参加はそれで終わりを迎える。10マイルの距離をどうにか歩いて野戦病院にたどりついたものの、症状が悪化してイギリスに送り返されたのである。
回復後ムアは体育の指導教官となり、後にフランスヘ戻ったが、この頃には戦争は終わっていた。それからカッスルフォードの学校に復職したが、すでに教職が自分に合っていないとわかっていた。彼は退役軍人を対象にした奨学金を申込み、それを受けてリーズ美術学校に入った。
ここには彫刻の教官が誰もいなかったが、彫刻を学びたいというムアの希望によって、1名採用されることになった。2年目の終わりに、彼はロンドンの王立美術学校への奨学金を得た。
それからは精力的に活動する日々が続いた。知識を渇望し、アイデアがとめどなく湧き出してくる。この頃のアイデアはノートの真にたくさん書き込まれていて、今も残っている。1922年24歳から26年28歳にかけての日付のあるハードバックのノートが5冊現存しており、ほかにもう2冊あると見られている。
1928年30歳の「地下鉄レリーフのノート」は彫刻のための素描ばかりが描かれた最初のノートで、『西風』1928−9年[LH58]や『横たわる女』(下図)も含まれている。
この時期以後のノートはスケッチブックとなり、後に彫刻作品へと発展する最初の着想を描いたスケッチがたくさん詰まっている。ムアはヴィクトリア&アルバート美術館やテイト・ギャラリーのコレクションを研究し、スケッチしているが、いちばん興味をもつたのは大英博物館で、メキシコのアステカ彫刻のコレクションを熱心に調べた。こういう作業を彼は「ミュージアミング(美術館通い)」と呼んでいた。
ロジャー・フライやアンリ・ゴーディエ=ブゼスカの著作を読み、ジュイコブ・エブスタインの作品を知り、1923年25歳には初めてパリを訪れた。1924年にムアはヨーロッパへの旅行奨学金を得たが、王立美術学校の彫刻科講師に任命されたため旅行は1年間延期した。
1928年30歳にムアは、美術学校の画学生イリナ・ラデッキーと知り合った。二人は翌年結婚し、ロンドンのハムステッド、パークヒル・ロード11Aで暮らすようになる。
この家は1階が小さなアトリエで、2階は同じように小さなフラットになっていたDパークヒル・ロードに面した横町の先にアトリエが8つ並んだ路地があり、モール・スタジオと呼ばれていた。ムア夫妻がここへきた当時、その7番に彫刻家の夫妻、ジョン・スキービングとバーバラ・ヘップワースが住んでいた。
30年代のロンドンではハムステッドがクリエイティブな活動の中心になっており、ムア夫妻はこの地区に住む美術家や作家や建築家たちとすぐに仲良くなった。この時期、著名な顔ぶれの多くが半径1mile(1.6km)の範囲に移り住むようになった。マルセル・ブロイアー、ウェルズ・コーツ、ワルター・グロピウス、イーボン・ヒッチェンス、E・L・T・ミーセンス、ピエト・モンドリアン、ポール・ナッシュ、ベン・ニコルスン、ローランド・ペンローズ、エイドリアン・ストクスらである。30年代の終わりにかけて大陸から避難してきた人たちも増えて、この地区はますます国際的になっていった。
ヴィクトリア&アルバート美術館の彫刻部長リチャード・ベッドフォードは直彫りに非常な関心を示していた。サイズウェル近くのイースト・アンダリア海岸にあるベッドフォードの別荘に、ムア夫妻、スキービング、ヘップワースらがよく出かけていって休日を過ごした。ムアは鉄鉱石の小石を持ち帰って、それを小さな彫刻に仕上げた。ケント州にあるシェイクスピア・クリフでは白亜の小石を見つけ、これも彫刻に使った。ロンドンの地質学博物館で彼はイギリスで採れる石を研究し、彫刻に適した材料を求めて国内のあちこちの採石場を訪ねている。スキービングがカンパーランド雪花石膏を見つけると、ムアもいくつかその塊を買い取ってロンドンに送った。さらにダービシヤーからホプトン・ウッド石を、エッジヒルから線色と褐色のホーントン石を送らせたりもしている。30年代にムアは、年に7点から20点の直彫りを制作しており、狭いアトリエは完成した作品や制作中の彫刻ですぐにいっぱいになった。
パークヒル・ロードで彫った最大の作品は、現在オタワのカナダ国立美術館にある『横たわる女』(上図)である。この作品も今日の基準ではかなり小さく思えるが、当時ムアは石塊をアトリエの中に入れるのに大変な困難を味わったのである。制作スペースがなく石を持ち込むのも難しいとあって、大きなスケールでの制作が不可能となったため、ムアはどこか田舎に余裕のある場所を探す以外になくなった。イリナのもらったわずかな遺産を使って、1931年33歳に夫妻はケント州パルフレストンに小さな別荘を購入した。さらに1934年36歳には数マイル離れたキングストンにあるバークロフトと呼ばれる家に移った。ここには5エーカーの(4 047㎡ )土地があり、必要とするスペースには十分だった。ダービシヤーから届けられたホプトン・ウッド石の塊がいくつも庭に立てられ、景色の中に置かれたその石を眺めていると新たな彫刻のアイデアが浮かんできた。1924年26歳の春、ロンドンのレッドファーン画廊で開かれた合同の展覧会にムアは彫刻3点を出品した。テラコッタの『頭部』、ブロンズの『踊る人体』、大理石の『直彫り』である。
彼の最初の個展は1928年30歳にロンドンのウオーレン画廊で開かれ、彫刻42点と素描51点で構成されていた。このときの作品の購入者には、オーガスタス・ジョン、ヘンリー・ラム、ジュイコブ・エプスタインがいた。
2度目の個展は1931年33歳、レスタ一画廊においてであり、彫刻34点、素描19点が出品された。カタログの前書きにエプスタインはこう書いている。「きわめて明確に表現されているのは、豊かな彫刻的着想をもつビジョンである。抽象の陳腐さを避け、偉大な彫刻を構成する、あの変わることのない要素に集中している・・・イギリスの彫刻には想像力も方向性もない。
しかしこのヘンリー・ムアの作品には、その両方の特質が備わっている。」この展覧会では、初めて外国のギャラリーに作品が売れた。鉄鉱石の小品『頭部』で、購入者はハンブルク美術工芸博物館(後に破壊された)の館長、マックス・ザウアーラント博士だった。しかし、好意的な反応ばかりだったわけではない。
ロンドンの『モーニング・ポスト』紙の美術批評担当者はこんな記事を書いて反対の立場を表明した。「ムア氏のおかげで、醜さの崇拝が勝鬨(かちどき)をあげる。氏は女性や子供の自然な美しさをまったく軽蔑し、またそうすることで、美的、感情的表現の手段としての石の価値までも奪い取ってしまう。」「美的な無関心は魂と視覚を萎(な)えさせてしまうほかなく、敏感な人びとに腹立たしく感じさせるような、ぞっとするほど不格好な形を生み出すのである。」王立美術学校では、このような批判がムアの直接の上司によって問題にされた。この人物はムアを追い出して、自分の気に入った者を後任に引き入れようとしたのである。また、同校の同窓会もこれを問題視してムアの解雇を求めた。
学長であるウィリアム・ローゼンスタイン卿の支持は失われていなかったが、ムアは退官することを決心し、契約の更新を断った。その代わりにチェルシー美術学校で彫刻の授業を再開し、1940年42歳まで週に2日教壇に立っていた。
20年代を通じてムアは、人物の素描を続けていた。「人物の素描はモデルの完全な3次元のフォルムを把握して、それを紙の平面に表現しようとする絶え間ない闘いだった。」しかし、1932年頃34歳には人物の素描への関心もやや薄れかけていた。ただし、数は減りながらも1935年37歳まではこの種の素描が描き続けられた。
大英博物館のコレクションの研究はもうやめており、自然の観察に興味が向くようになっていた。自然に対するムアの関心は、生涯失われずに続くことになる。最初、ロンドンの自然史博物館で自然のフォルムを研究していたが、やがては有名な「発見されたオブジェ」の収集が始まった。自然のフォルムのいくつかを、ムアはつぎのように記している。