身体・アクション・線の流動
■身体・アクション・線の流動
アンフォルメルを知る人がまず想起するのは、内発的なアクションによる描法と物質感を際立たせた生々しいマチエールであろう。とりわけアクションによる描法は、来日したジョルジュ・マチューの派手な公開制作がメディアを介し流布したことから、アンフォルメルの典型的な様式として認知され、日本人なら誰もが知っている書との親和性と相まって、新しい絵画表現としてまたたく間に広まった。
このアンフォルメルの書との親和性、言い換えれば線と余白で画面を構成し、線の流動やかすれ、滲みにさまざまな感情を読みとる東洋的な造形感覚、美的感受性との共通点は、アンフォルメルの実作品やタピエ本人の芸術論が上陸する以前から、日本の美術評論家たちがアンフォルメルに見出しでいた点であった。だが実は、書から戦後の抽象絵画の方向性を模索する動きは、関西では早くから存在しでいた。
1951(昭和36)年にパリのサロン・ド・メの作品がまとめで紹介され、翌52年にはその交換として日本人美術家の作品がサロン・ド・メに並ぶが、それを観た美術評論家の今泉篤男が、帰国後、日本の作品の「ほとんど例外なしに非常に色がどんよりと、鈍く見え」、「近代画としての絵のハリや強さが非常に希薄」だったと酷評したことで、日本人はグローバル・スタンダードとはいかなるものかと、日本人独自の抽象画を創造することの重要性を同時に思い知らされる。そしで関西では、吉原治良や津高和一らが、森田子龍や井上有一ら墨人会の前衛書家たちと盛んに交流し、線を主体にした抽象絵画を模索し始めるのである。
つまり、日本の主権の回復と国際社会への復帰を背景に、美術においても国際化と独自性の確立への意識が高まるなか、その両方を一挙に解決するキーワードとして浮上したのが書的で流動的な線であった。そして、そのことを関西の一部の美術家たちだけでなく、全国の美術家たちにあまねく覚醒させる契機となったものこそ、アンフォルメルだったといえるだろう。
こうして、アンフォルメルの上陸以降、洋画家のみならず日本画においでも、流動的な線やその発展である涜動的な形態による表現が、盛んに追及されるようになる。さらにそれらはある種の時代の表象としで、工芸の分野の美術家たちも意識するところとなった。
だがここで指摘しておきたいのは、戦前から欧米との同一化、世界との一体化を求め表現の前衛を歩んできた洋画界のベテランたちの多くが、いわば戦略的にアクションに注目したのに対し、若い世代はそこにより本質的な意味を見出していたことである。彼らにとってアクションとは、敗戦により軍国主義的な価値観や世界観が崩壊し拠りどころを失った自己の存在や外界との関係を、身体で再確認する手段もであったのだ。それだけではない。アンフォルメルは、戦後の民主化の影に隠された社会の矛盾に怒りを覚え、ルポルタージュ絵画や社会主義リアリズムを志向しながら、政治的な闘争に敗れた若い美術家たちの行き場のないエネルギーをも吸収し、形を与えたのだった。
ボクシングのグローヴに墨を付け、目の前のキャンバスに自身の生を叩きつける篠原有司の作品は、一見ヴェテラン美術家たちの書的な抽象絵画と似でいるが、その内実には大きな距離がある。この振幅と奥行きにこそ、様式的な側面だけでは語れないアンフォルメルの特質があるといえる。
■アンフォルメル活動作家作品と活動歴紹介
▶︎井上有一(1916−1985)lNOUE, Yuichi
1916(大正5)年東京都に生まれる。1936(昭和11)年東京府青山師範学校を卒業。1941(昭和16)年から上田桑鳩に師事し、日展、書道芸術院などに出品する。1952(昭和27)年桑鳩の下を離れ、同門の森田子龍らと墨入会を結成する。その機関誌『墨人』の編集や、翌年大阪で結成された現代美術懇談会(ゲンビ)の活動で知り合った国内外の前衛美術家たちに触発され、油絵具やエナメルを使い文字性から離れた作品を制作するが、やがてカーボンブラックをボンドで溶いたボンド墨による一字書で知られるようになる。その作品は海外にも紹介され、世界的な評価を得た。1985(昭和60)年神奈川県中郡大磯町で亡くなる。
▶︎森田子龍(1912−1998)MORITA, Shiryu
1912(大正15)年兵庫県城崎郡豊岡町(現・豊岡市)に生まれる。東京に出て上田桑鳩の下で書作と研究を行う。桑鳩門の通信教育誌『書の美』を通じて若い美学者らと交流を持つようになり、1951(昭和26)年に書の美学的究明を掲げた書芸術総合誌『墨美』を創刊、書だけでなく世界の最先端の抽象絵画を紹介する。翌年、さまざまなジャンルで前衛的な活動をする関西在住の作家により結成された現代美術懇談会(ゲンビ)に参加する。また同年桑鳩の下を離れ、より前衛的な書を目指して同門の井上有一らと墨人会を結成し、海外でも積極的に作品を発表する。その太筆で少ない文字を書く書風は、書道界や日本美術界だけでなく世界の美術界に影響を与えた。1998(平成10)年滋賀県大津市で亡くなる。
▶︎(1912−1999)HIDAl, Nankoku
1912(明治45)年神奈川県鎌倉市に生まれる。本名漸。父は書家の比田井天来。1934(昭和9)年東京高等工芸学校(現・千葉大学)印刷工芸科を卒業する。翌年、師・天来から南谷の号を受け、天来門下生の主宰する書道芸術社同人となる。1945(昭和20)年、書は文字の意味や文学から離れても成り立つ線芸術であるとの理解から、「心線」と適した抽象作品を発表する。以後、墨に工夫を加えたり油絵具を使用したり支持体を変えたりするなど、実験的な作品を発表する。毎日書道展に出品する一方で、父から受け継いだ貴重な碑帖を管理し、そこから学んだことをもとに研究書を出版。たびたび海外の大学で書道史や書法についで講演した。1999(平成11)年横浜市で亡くなる。
▶︎吉原治良(1985−1972)YOSHIHARA.Jir0
1905(明治38)年大阪市に生まれる。中学生時代から独学で油絵を始める。1934(昭和9)年、シュルレアリスム風の作品で第21回二科展に初入選、以後同展を作品発表の場としながら関西の抽象美術の主導者の一人として活動する。1954(昭和29)年、未知の美の探求を掲げで具体美術協会(「具体」)を結成し、野外や舞台を使用した作品発表などを企画する。1957(昭和32)年のミシェル・タピエとの出会いを機に「具体」の活動の場を欧米に広げるとともに、自身の作品も重厚なマチエールとアクションを強調した表現へと展開する。1960年代半ばには物質感や手わざを排した「円」のシリーズでその評価を確固たるものにした。1972(昭和47)年兵庫県芦屋市で亡くなる。
▶︎津高和一(1911−1995)TSUTAKA.Waichi
1911(明治44)年兵庫県西宮市に生まれる。戦前は詩人としで活動しながら、大阪の中之島洋画研究所で学ぶ。1951(昭和26)年第7回行動美術協会展に書的な線による抽象絵画《埋葬》を出品して同会会員となる。1957(昭和32)年第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品、翌年の第3回現代日本美術展で優秀賞を受賞する。1968(昭和43)年大阪芸術大学教授となり、多くの後進を育てた。1991(平成3)年大阪の国立国際美術館で個展が開催される。1995(平成7)年阪神・淡路大震災で倒壊した自宅の下敷きになり、夫人と共に亡くなる。
▶︎堂本印象(1981−1975)DOMOTO, lnsh0
1891(明治24)年京都市に生まれる。本名三之助。1921(大正10)年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業し、研究科に進む。在学中、西山翠嶂画塾青甲社に入門。1919(大正8)年第1回帝展に初入選して以後、官展系の展覧会で活動する。戦前は南画風、浮世絵風、写実風など多様な様式を用いて、花鳥画、山水画、人物画、仏画などを描いたが、戦後は一転しで洋画風の現代風俗画を発表。さらに昭和30年代に入ってからは抽象画を描くなど、多彩な制作で知られた。また、1961(昭和36)年にはミシェル・タピエの仲介によりイタリア、トリノで個展を開催している。1944(昭和19)年帝室技芸員、1950(昭和25)年日本芸術院会員となり、1961(昭和36)年文化勲章を受章する。1975(昭和50)年京都市で亡くなる。
▶︎大西茂(1928−1994)ONISH, Shigeru
1928(昭和3)年岡山県高梁市に生まれる。1953(昭和28)年北海道大学理学部数学科卒業後、大学院に進み「超無限」の研究を続ける一方で、その一環としで多重撮影、多重露光などによる写真作品を制作する。1956(昭和31)年国際主観主義写真展に出品し注目されるが、1957(昭和32)年ミシェル・タピエに認められたのを機に、もっぱら墨象作品を手がけるようになる。近年では戦後写真史の文脈から、「幻の前衛写真家」としても再評価されでいる。
▶︎田淵安一(1921−2009)TABUCHI, Yasukazu
1921(大正10)年福岡県小倉市に生まれる。1948(昭和23)年東京大学文学部美術史学科を卒業。1949(昭和24)年第13回新制作派協会展で岡田賞を受賞する。1951(昭和26)年渡仏、岡本太郎や今井俊満らと知り合い、北欧の前衛美術グループ「コブラ」系の北欧画家たちと親交を深める。1960年代前後から作品は単色のみを用い流動的な線を主体にした水墨画的様相を示すようになるが、70年代に入り極彩色のタッチと線・面から成る抽象絵画へと転じた。2009(平成21)年フランス、パリで亡くなる。
▶︎川端 実(1911~2001) KAWABATA Minoru
1911(明治44)年東京都に生まれる。祖父に日本画家の川端玉章を持つ。1934(昭和9)年東京美術学校(現・東京芸術大学)油商科を卒業する。1939(昭和14)年第26回光風会展の出品作が認められ、会員となる。戦後はフォービスムやキュビスムの影響を受けた独自の抽象絵画を確立し、1951(昭和26)年第1回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に選ばれる。1958(昭和33)年渡米し、この頃からにじみやかすれのある線が交錯する表現主義的な画風へと展開、アメリカで高い評価を受け、第2回グッグンハイム国際展で個人表彰名誉賞を受賞する。2001(平成13)年東京都で亡くなる。
▶︎横山操(1920−1978)YOKOYAMA, Misa0
1920(大正9)年新潟県西蒲鹿部吉田町(現・燕市)に生まれる。洋画を描いて光風会展に人選するも日本画に転向、川端画学校日本画部の夜間部に入学する。1940(昭和15)年第12回青龍展に初入選しで以後、シベリア抑留を経て1962(昭和37)年に脱退するまで同展を中心に活動する。同展では煤(すす)のような絵具と朱を主に用いて現代社会の一景を切り取り、大画面一杯に垂直と水平を強調したダイナミックな構図で描いた。従来の日本画らしくない作品を発表していたが、脱退後は一転して富士をモチーフとしたり琳派風の作品を制作したり水墨画を描いたりと、伝統的な表現に挑戦した。1973(昭和48)年東京都調布市で亡くなる。
▶︎鷲見康夫(1925−2015)SUMI, Yasuo
1925(大正14)年大阪府に生まれる。立命館大学経済学部卒業。1955(昭和30)年吉原治良率いる具体美術協会(「具体」)の会員となり、そろばん、番傘、電気マッサージ器を使いオートマチックに描く独自のアクション・ペインティングを生み出した。1972(昭和47)年の「具体」解散後は、1975(昭和50)年に結成されたアーティストユニオン(後にAUと改名)を拠点に活動を続ける。2015(平成27)年、伊丹市立美術館での回顧展開催中に兵庫県尼崎市で亡くなる。
▶︎白髪一雄(1924−2008)SHIRAGA,Kazuo
1924(大正13)年兵庫県尼崎市に生まれる。1948(昭和23)年京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業後、洋画に転向する。1955(昭和30)年吉原治良率いる具体美術協会(「具体」)の会員となり、天井から吊り下げたロープにつかまり床に置いたキャンバスの上を滑走して描くアクション・ペインティングで注目を集める。1957(昭和32)年に来日したミシェル・タピエに高く評価され、アンフォルメルを代表する美術家の一人に位置づけられた。1972(昭和47)年の「具体」解散後は個展を中心に活動。2001(平成13)年、兵庫県立近代美術館で回顧展が開催された。2008(平成20)年兵庫県尼崎市で亡くなる。
▶︎村上三郎(1925−1996)MURAKAMl, Sabur0
1925(大正14)年神戸市に生まれる。1950(昭和25)年、関西学院大学大学院美学科修了。白髪一雄や金山明らと前衛美術グループ0会を結成し、墨を付けたボールを紙に投げつけて描く《投球絵画》を発表する。1955(昭和30)年に具体美術協会(「具体」)の会員となり、木枠にハトロン紙を貼った衝立を何枚も並べ全身で打ち破る《通過》など、アクションを使った作品で注目を集めた。1957(昭和32)年以降は、「具体」がミシェル・タピエとの関係を深め絵画グループ化しでいくのにともないアクション・ペインティングを制作。1970年代からコンセプチエアルな作品が主となった。1996(平成8)年、芦屋市立美術博物館での個展開催を目前に兵庫県西宮市で亡くなる。
▶︎堂本尚郎(928−2013)DOMOTO, Hisao
1928(昭和3)年京都市に生まれる。日本画家の堂本印象を伯父に持つ。1949(昭和24)年京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業。1955(昭和30)年に渡仏し、パリで洋画に転じる。今井俊満の紹介でミシェル・タピエと知り合い、アンフォルメルの美術家として認知されるとともに国際的に高い評価を受ける。また、タピエに具体美術協会の活動を紹介し、両者が接触する契機を作った。1962(昭和37)年を境にタピエから距離を置くようになり、いくつかの様式を経て、晩年は水墨画的な抽象世界を探求した。2001(平成13)年にフランス政府から芸術文化勲章オフィシェを授与され、2007(平成19)年には文化功労者に叙せられる。2013(平成25)年に東京都で亡くなる。
▶︎嶋本昭三(1928−2013)SHIMAMOTO, Shoz0
1928(昭和3)年大阪に生まれる。1950(昭和25)年関西学院大学文学部卒業。1954(昭和ユ9)年吉原治良を代表とする具体美術協会(「具体」)の結成に参加し、体感する作品や音響による作品を発表するなど、初期の「具体」の先鋭性を代表する存在となる。絵具を詰めたガラス瓶をキャンバス上でさく裂させて描くアクション・ペインティングで知られる。1970年代からは互いに作品を郵送しあうメール・アートに打ち込み、年間60ケ国のアーティストと交流するなど、新しい表現のあり方を追求し続けた。京都教育大学や宝塚造形大学で後進の指導にあたる一方、障害者の美術にも理解を示し、日本障害者芸術文化協会会長も務めた。2013(平成25)年兵庫県西宮市で亡くなる。
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