雪村の生涯の動向

■雪村の生涯の動向

▶︎雪村の常陸時代以降の動向

 作品も含めて雪村について全体的に概観することで、さらに常陸時代雪村の作品の位置づけが明確になると考えるからである。福井利吉郎氏の「雪村新論」は、雪村の行程を常陸から奥州へと道筋を示したが、その「雪村略年表」においては、雪村の生涯を太田辺垂(部垂・常陸太田)時代会津時代、田村時代と大きく三つの時期に区分している。

 しかし、雪村の常陸時代の活動を具体的にいうならば、部垂(へたれ)の近くの下村田が中心となり、そこから佐竹義元との関連が深い宇留野城や部垂城周辺へと往還し、また太田では正宗寺を拠点にしながらも、周辺の寺院、たとえば佐竹義人や性安と関係がある耕山寺とも絆を深めたと考えられる。

部垂義元は、大宮地域市街地にあった部垂城と、同地域宇留野にあった宇留野城の城主でしたが、兄 佐竹義篤(さたけ よしあつ)に攻められ、城もろともに滅んだ人物です。

 その後天文15年(三男)5月に、雪村は会津の葦名盛氏に「画軸」を授けるため常陸から旅たった。この時の会津滞在は、極めて短期間であったが、盛氏の雪村への信頼は厚く後の再度の会津訪問の契機ともなったと思われる。またこの年の6月26日には、雪村は鹿沼の今宮神社神馬図を奉納しており、さらにこの後に佐野の天明釜の制作にも係わり、正宗寺(しょうじゅうじ)とも関係が深い足利学校にも足を延ばしたと思われる。

 この後は、小田原と鎌倉の時代で、この間の雪村の活動は具体的な作品によってその様相を見ることができる。まず福井氏によって紹介された、天文19年(1550)に描いた頂相、すなわち小田原早雲寺開山の以天宗清の賛のある「以天宗清像」竜泉庵)がある。また円覚寺の景初周随賛の天文24年の「叭々鳥(はっかちょう・ムクドリ科)図」(常盤山文庫)と、さらに早雲寺二世大室宗碩(だいしつそうせき)の賛の「山水図」が戦後の研究で見いだされた。

 これらによって、雪村の小田原、鎌倉における具体的な作画活動が確認されたわけである。そしてこの小田原、鎌倉時代の下限は、大室宗碩の亡くなった永禄3年(1560)より前で、少なくとも景初周随賛の「叭々鳥図(ははちょうず)」が成立した天文24年(1555)には、今だ雪村は鎌倉にあった。何れにせよ、雪村は弘治年間(1555-58)の頃までは小田原、鎌倉に居たと考えられる。

 雪村の小田原と鎌倉での滞在は、正宗寺に次いで第2の学画の時代ということができる。江戸時代に入って、浅井不旧(古書鑑定家・大正7・1918)が「扶桑名工画譜」の雪村の項で、「蓋し聞く、北条氏政帰依僧(仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、仏・法・僧を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる)なりと記すように、まず雪村は小田原北条氏の文化に深く係わることができた。ただし北条氏政が家督を譲られたのは、永禄2年(妻)の頃だから、雪村の小田原の時代は、前の氏康の代から始まっていたことになる。

 この地に僧、小田原狩野と通称される狩野玉楽前島宗祐など、雪村とほぼ同時代の画家たちも活躍しており、先に紹介した「飲中八仙・西園雅集図屏風」を描いた官南もまた、『画工便覧』によれば氏政の絵師であったといわれる。もともと北条氏は、初代の早雲以来、歴代の城主が学問や文芸に関心が深かった。とく二代の氏綱は、狩野元信に「酒伝童子絵巻」(現サントリー美術館)を制作させ、また牧谿(13世紀後半、中国南宋末元初の僧。法諱は法常で、牧谿は号だが、こちらで呼ばれるのが通例。俗姓は水墨画家として名高く日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家)の作品も収集し、次代の氏康も玉澗の「清湘八景図巻」の中の「遠浦帰帆図」(現徳川美術館)を今川義元から譲られている。

 さらに当時建長寺にあった周季常(しゅうきじょう)の「五百羅漢図」(現大徳寺、ボストン美術館)も、北条氏に召し上げられて早雲寺に寄進されていた。

 これらの内の、とくに牧谿玉澗の作品や「五百羅漢図」は、雪村の作品形成に大きな影響を与えている。その中でも、これ以降の雪村の山水図には玉澗様式撥墨山水図の割合が極めて多いが、これの基盤は小田原、鎌倉時代に築かれたと考えてよいだろう。

 鎌倉においても雪村は、多くの画を学ぶことができたと思われる。もともと鎌倉は、佐竹義人の出身地でもあり、また太田の耕山寺で学んだ性安をとおして、この地の画壇は雪村にとって身近なものに感じられたであろう。

さらに雪村より前の代から、建長寺の画僧・祥啓、また円覚寺の如水宗淵などにより、中央の本格的な水墨画が、この地に取り込まれており、雪村は鎌倉でさまざまな刺激を受けたことが考えられる。たとえば円覚寺の塔頭(たっちゅう)の「仏日庵公物目録」には、牧谿の猿図をはじめ、呂洞賓・鐘離権図藻魚図、また幾つかの道釈人物図が見られるが、これらは雪村の作品のモチーフや表現様式に多くの影響を与えたに違いない。

 この間も雪村は、早雲寺二世の大室宗硫の賛の「山水図」が示すように、小田原との間を往還したと思われるが、それも先に推測したように、弘治年間(1555−1558)頃までだったと思われる。そしてこれ以降雪村は、再び奥州へ向けて出発した。ただし現在鹿島神宮(現茨城県鹿鴨市)に所蔵される画帖「百馬図」を見るならば、雪村は奥州への途次に、この地に豊ち寄ったと思われる。

 各図(全十三図)に「鹿鳴大神宮、奉進納」と書され、また次節で触れるが、作品の印章が小田原、鎌倉時代から奥州時代への、ちょうど過渡期の組み合わせになっているからである。前の天文15年(1545)に雪村は、今宮玉殿に神馬図を奉納したが、同じょぅに次の時代への転機の願いを込めた寄進だったと思われる。しかし、この後の雪村の足跡は、これまでのように必ずしも明らかではない。三春の雪村庵扁額墨書による由来から逆算するならば、雪村がここに居した時期は天正元年(1573)の前後の頃と推定することができる。

 しかし、その前の小田原、鎌倉の時代から、田村時代の三春に至るまでの15年余の間、何処の地を拠点にして作画活動に従事していたのかは、直接にこれを証する資料や作品はない。ただし福井氏の「雪村新論」や以後の研究では、小田原、鎌倉から以降の雪村の道筋を、二度目の会津時代とするのが通例となっている。その推定の根拠として、永禄4年(1561)に葦名盛氏が、それまでの本拠の会津の黒川城とは別に、向羽黒山(現会津本郷町)岩崎城の造営を開始し、同11年に完成したこと、そしておそらくは、この築城に関連して雪村が襖絵や屏風絵などを手掛けたのではないかと推測するわけである。

 たとえば襖絵や屏風絵ではないが、永禄6年、7年に雪村は、牧谿(もっけい)や玉澗(ぎょくかん)に倣った「湘八景図巻」を進上している。

 すなわち永禄6年には、牧谿・八景中軸と・玉潤小軸を、永禄7年には、玉澗・大軸瀟湘八景図巻を描き、何れも巻末に「奉進上」と記すが、この進上先盛氏ではないかと推定されるのである。また奥州時代から使う「鶴船」の号は、向羽黒山の麓の西方を流れる鶴沼川に由来することを、福井氏は「雪村新論」で説いている。

 福井氏の永正元年(1504)生誕説に従えば、この年は雪村の60、61歳となり、年齢的にもっとも充実した時期となるわけである。

 しかしこれについても、先にも触れたように赤澤英二氏から異論が提示された。赤澤氏は、天正元年(1573)まで雪村は三春の雪村庵に住し、また「湘(しょうしょう)八景図屏風」制作の年齢の82歳で没したと解釈し、その生誕の年を明応元年(1492)とした。そのため赤澤説では、先の湘八景図巻永禄6年、7年は雪村の72、73歳となるが、一方で『素川本図絵宝鑑』には、雪村が70歳の時に三春に居たことが記されている。当然湘八景図巻の進上先は、葦名盛氏ではなく当時三春を支配していた湘八景図巻の進上先は、葦名盛氏ではなく当時三春を支配していた田村隆顕となり赤澤氏は、このことを雪村と田村氏との密接な関係から論証しようとした。もちろん赤澤氏は、三春に隠棲する以前に雪村が会津に赴いたことを否定していない。

 しかし、ここで問題になるのは、鎌倉での景初周随賛の「叭々鳥図(ははちょうず)」が天文24年(1555)の制作で、赤澤説では雪村が64歳にあたる。そしてこの直後の弘治年間(1555-58)の頃までに会津に赴いたとしても永禄3年(1560)に没した大室宗碩の賛のぁる「山水図」もあるが、これも弘治年間までには成立したとして)、『素川本図絵宝鑑』に記されるように、雪村は70歳には、すでに三春に住していたことになる。

宗碩(そうせき、文明6年(1474年) – 天文2年4月24日(1533年5月18日))は、戦国時代の連歌師。別号は月村斎。尾張国の生れ。

 そうとするならば、再度の会津滞在は、またもや短期間の5年前後に過ぎないことになり、このような短い期間の間に、晩年に多くの割合を占める雪村の作品は、どのようにして描かれたのだろうか。また後に触れる会津関係の弟子たちは、どのように育成されたのだろうか。これらも含めて考えるならば、おそらく雪村は会津を完全に離れて三春に定住したのではなく、しばしば三春と会津の間を往還した可能性も考えられるだろう。江戸時代幕末期の白井華陽の『画乗要略』では、雪村が元亀3年(1573)常陸に流寓したことを記すが、あるいは同じように三春と会津の間を、距離的にもより近いだけに、たびたび往還していたと考える方が自然であろう。ちなみに筆者は、雪村の作品の時代区分や様式の展開から見て、赤澤氏の明応元年生誕説を固定的な年としてではなく、延徳年間(1489-92)を上限の年として、巾をもった一つの目安として支持するが、雪村が三春に住した年代的な下限、すなわち三春で没した年代については、赤澤説より後の天正5年(1577)以降と推定している。このように考えなければ、他の地域と較べて奥州関係の弟子たちが多いことが理解できないからである。

 また現存する雪村の作品の割合の内、会津と三春時代に作品数の多くが偏っている理由についても説明できないことになるからである。

 ところでこの時代の東国は、戦国乱世に相応しいというべきか、田村氏と葦名氏だけでなく、佐竹氏や伊達氏も絡んで、政治的、軍事的には極めて複雑な状況にあった。今ここで諸史を参考にして、天文15年(1546)に雪村葦名盛氏に「画軸巻舒法(絵画の鑑賞方法)」を伝授した以降の状況を概観すると次のようになる。

 まず天文16年(1547)、田村隆顕が仙道へ進出して安積郡(現郡山市)を攻略し、また葦名盛氏も出兵し、両者の緊張が高まった。これには、伊達氏の内紛が絡んでいる。天文十九年、葦名盛氏が田村領を攻め、圧倒的に勝利したが翌年に講和した。永禄2年(1559)、田村方が安積郡をめぐつて葦名氏と対立するが、一方葦名氏は次第に中通り方面にも勢力を拡大したため、今度は北進策をとる佐竹氏の勢力と葦名氏が衝突する。翌永禄3年、葦名盛氏白河の結城晴綱を助けて、田村隆顕と佐竹義昭の連合軍と戦った。この後も葦名氏と佐竹氏は、しばしば戦火を交えているが、一方でこの間に、葦名盛氏が会津本郷の向羽黒山に岩崎城を造営したことは先に触れたとおりである。

 近年の研究では、この岩崎城も盛氏の単なる隠居城ではなく、より本格的な文化的な機能も含めた拠点であったとされている。そして元亀2年(1571)には、佐竹氏を挟撃するため、葦名氏と北条氏の同盟が成立する。そしてこの年から翌年にかけ、葦名盛氏や田村清顕などの連合軍が、仙道に進出した佐竹義重を迎撃し勝利を収めている。雪村が常陸に流寓したのは、このような時期であった。葦名氏と田村氏が連合して、北進しようとする佐竹氏と敵対しているこの時期に、佐竹氏の一族である雪村があえて常陸に赴くのは、余程の特別な事情と意図があつたのだろうか。あるいは先にも述べたが、雪村は田村氏や葦名氏、また佐竹氏の三つ巴の勢力争いの中でも、戦乱の合間を縫って三者の間を比較的自由に行動できたのかもしれない。雪村は、最晩年には三春の庵に定住したが、それまでは同じように、とくに三春と会津との間を、しばしば往還したのではないかと筆者は考えている。

 天正元年(1573)以降も、三春周辺は引き続き戦乱の時代で、とくに翌天正2年は激動の年であった。2月に田村清顕と葦名盛氏の連合軍が、赤館(現棚倉町)に来襲した佐竹義重と戦い、伊達氏の斡旋で一旦和議が成立した。ところが3月から5月にかけて、それまで協力的にあった田村清顕と葦名盛氏の軍が岩瀬郡、安積郡で衝突し、葦名軍が大敗を喫した。しかし、9月には清顕の父田村隆顕が没し、その直後に葦名、白川、佐竹氏などを中心に盟約が成立したため、田村清顛は四面楚歌の中に立たされることになる。これ以降も戦乱は続いていくが、以後葦名氏は佐竹氏に接近をはかり、田村氏は伊達氏に結びついていく。そして雪村が三春の庵で没したのは、この後の天正5年の頃だったと思われる。

 雪村が没した後の天正7年には、田村清顕の息女愛姫が、米沢城主伊達輝宗の嫡子政宗のもとに入嫁した。これによって伊達、田村氏が連合し、佐竹、葦名、白川氏などの連合との対抗関係が形成された。しかし、天正14年清顕が没すると田村氏は内紛に巻き込まれ、伊達政宗が三春に入城する事態になる。また葦名氏の方も、天正八年に盛氏が没し、天正15年には、盛氏を嗣いだ葦名盛隆の息女佐竹義重の次男義広が結婚し、義広が葦名氏の家督を嗣いだ。

 そして天正17年には、葦名氏は伊達氏に敗れて遂に滅亡するが、翌18年には豊臣秀吉による奥州仕置、すなわち奥州全体が秀吉によって制圧されることになる。

 雪村が葦名盛氏に「画軸巻舒法(絵画の鑑賞方法)」を伝授した天文15年(1546)以降と、さらに三春に居たと推定される天正年間についても、雪村の周辺の状況を概観したが、これによって如何に乱世の時代を生きたかが理解できるだろう。もっとも常陸時代の部垂(へたれ)周辺においても、佐竹氏の内紛は激しかったから、このような状況の中で生きる術は、雪村は身に付けていたと思われる。

 ところで雪村が永禄6年、7年に進上した湘八景図巻は、会津において描かれたのか、または三春で描かれたのだろうか。会津や三春での作画活動が、雪村の生涯全体の中で質的にも量的にもかなりの割合を占めていることは注意すべきだろう。

 いわば常陸や小田原、鎌倉の時代が、雪村の字画とその延長の時代とするならば、奥州の時代は、これらの成果を巾広く充分に応用した時期であった。またこれらの活動が、かなり根づいたものであったことは、常陸時代と同様に奥州にも雪村の弟子が多いことからも理解できる。江戸時代に入ってからの資料だが、比較的出自の明らかな雪村の弟子を画伝史類からあげると、常陸では9名、奥州では10名を数える。ただし、雪村の奥州関係の弟子たちは、会津か三春か必ずしも明らかでないものも多い。弟子たちの中で、とくに西海枝 (さいかいし,さいかち)については、雪村と葦名氏との親密な関係をとおしての会津での弟子と思われるが、雪洞については、これが洞雪と同一人物と考えるならば、会津と三春の両説がある。しかし何れにしても、常陸におけると同様にここで西海枝も含めた奥州関係の弟子の多さを考慮するならば、三春だけでなく雪村の会津での活動も無視できない。そうとするならば、雪村は三春を主にして拠点を構えたとするより、しばしば会津との間も行き来したと考える方が自然であろう。

 ところで先にも触れたが、雪村が会津や三春に赴いた理由の一つに、復庵宗己(1280-1358)を慕ったことが考えられる。復庵は、請 (こ・何かをしてくれるよう願う)われて結城華蔵寺、会津実相寺三春福聚寺等を開き、勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)による開山も含めると関東、東国にかなりの数の寺院が復庵によって開山されている。

 会津の実相寺(現会津若松市馬場本町)は、元徳年中(1329-32)に葦名氏重臣富田祐義復庵を請じた。その後永正11年(1514)には関東十刹に列し、天文年中には下野雲巌寺から来た希代の奇僧・桃林契悟(残夢)が住している。葦名盛氏を訪れた雪村も、実相寺で残夢に会している可能性もあるだろう。

 また復庵の開山ではないが、『新編会津風土記』によれば、葦名氏関係の周辺の寺院には幾つかの雪村の作品が記録されている。鏡堂覚円開山とされ、葦名盛宗が大檀越の興徳寺には、「布袋画一幅 雪村筆」の記載がある。なお先にも触れたが、雪村と同時代で正宗寺の葦叔顕良の肖像画に賛をした妙心寺の月航玄津(げっこうそうしん)も、一時はこの輿徳寺に住した。

 さらに金剛寺は、葦名盛久のとき寺領を寄進して院宇を修興し、以後居城守護の祈願寺となったが、「雪村筆山水図屏風」、「雪村筆遊魚図」が所蔵され、他に「像一幅 雪村筆」、「布袋画一幅 雪村筆」の記録が『新編会津風土記』にある。この内「山水図屏風」(八景図屏風) については、雪村の会津時代の作としてよく知られている。

 一方三春の福聚寺(現御免町)は、暦応2年(1339田村輝定が復庵を請じ、もと郡山市にあったが、永正元年(1504)田村義顕守山城より三春に移城したとき、田村氏の菩提寺として福聚寺も現在地に移された。この福聚寺には、雪村筆と伝える「達磨図」が所蔵されている。その他雪村の作品と田村氏、さらに田村氏と密接な関係にある伊達氏と雪村の作品との関連については、福井利吉郎氏亀田孜氏の論説があるが、とくに赤澤英二氏田村氏を中心とした雪村の作品について詳しく紹介している。

 これらを簡単に要約するならば、まず雪村の銀扇の墨跡が田村氏に伝えられていた。また資料や記録に残るものとしては、田村清顕の遺愛の三幅対の掛物の他に、五大尊図、三十六歌仙絵など、特異な主題の雪村の作品が田村氏によって田村大元帥神社に奉納された。

 また伊達氏の関係では、伊達政宗から田村氏に関係が深い白石宗実への返書(天正15年(1587)11月29日付)に、「雪村之絵」が進呈されたことについての礼が述べられている。このころ雪村はすでに没していたが、先に触れたように、田村清顛の息女愛姫が政宗のもとに嫁しており、政宗にとって雪村の名は周知であったと思われる。

 伊達氏旧蔵の「八景図襖絵」(現仙台市博物館)や他の雪村作品だけでなく、元和8年(1622)造営の松島瑞巌寺の襖絵に、雪村の作風を伝えた吉備幸益の「竜虎図」などがあるのも、政宗の雪村への好みをよく示しているといえるだろう。

 ところで雪村が最後に隠棲した雪村庵は、三春城(舞鶴城)より3km程西方にある(現郡山市西田町大田字雪村)。今は竹林や樹木が鬱蒼と繁った小高い丘を背景に庵が建ち、前面に田畑が広がり八島川が流れる。背後の竹林の中に倒れたままの自然石の石碑らしきものがあり、雪村の墓碑ではないかともいわれるが、今は確かめる術もない。雪村が若い頃に住した、雪村屋敷があったとされ、また現在も筆洗いの清泉のある部垂の近く下村田にも、鬱蒼とした小高い丘が背後にあり、前方に田畑が広がり玉川が近くを流れている。三春の雪村庵と常陸時代に住した下村田は、極めて相似た地形であり、おそらくは雪村も、これを意識して終の住処にしたと考えられる。