出雲の謎を解く

■出雲の謎を解く

武光 誠  

▶︎出雲の謎を解く大発見・「荒神谷遺跡」

大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

 これまで、出雲の大国主命信仰の特質についてあれこれ述べてきた。そして、その中で古代の出雲に関して謎とされてきた点をいくつか挙げてみた。ところが、そういった謎の大部分を一気に解く大発見がなされた。それが荒神谷遺跡の発掘である。

 荒神谷(こうじんだに)遺跡に関する疑問点を挙げておこう。第一に、なぜそこに大量の青銅器が埋められていたのか。第二に、古代の出雲の人々にとって、荒神谷遺跡の位置はどのようなものであったのか。そして第三に、荒神谷を祀ったのはどのような集団であったのか。これらの謎を解くことにより、大国主命信仰と朝廷の天照大神信仰とのちがいが浮かび上がってくる。

 まず荒神谷遺跡がみつかったいきさつをしめそう。昭和58年(1983)、当時の島根県教育委員会と斐川町教育委員会によって、農道建設予定地の遺跡分布調査が行なわれた。そのとき、斐川町の谷の最奥部にある小谷で須恵器の破片が採集された。

 それによって、そこは遺跡として扱われることになった。近くに荒神さんが祀ってあるので、その遺跡は「荒神谷遺跡」と呼ばれるようになった。このとき調査にあたった人々は、それが画期的な新発見につながるとは、予想もしていなかった。いつまでも、考古学を研究している友人から「荒神谷の例があるから、農道の調査のよう細かいものもおろそかにできない」という言葉をきく。

 昭和59年(1984)7月11日なって、発掘調査が開始された。調査がはじめられた翌日に、早くも重なりあった状態で銅剣が五本発見された。その後、銅剣の数は日ましに増えて、ついに出土総数は358本になった。

 その年までに全国で出土した銅剣の数は、300本程度にすぎない。そのことからみても、荒神谷の銅剣の数の多さが特別のものであることがわかる。後で述べるように、大国主命信仰が、それだけの貴重な宝器を集めたのである。

 荒神谷遺跡に次いで多くの数の銅剣が聖した例を探すと、庫県南あわじ市古津路遺跡の十三本の例にいきつく。しかしその数は、荒神谷のものよりはるかに少ない。

 さらに昭和60年(1985)、銅剣が発見された場所の周辺に、関連する遺構があるかどうかを確かめるために、第2回目の荒神谷の調査がはじめられた。それによって、銅鐸6個と鋼矛16本が、整然とならべられた形で出土したのである。こうした状況から、それらが何者かの手によって、意図的に埋められたと考える他ない。

 それならば、何者がそれだけの数の、当時としては極めて重な宝器を集めて埋めたのだろうか。荒神谷の発見以来、この問題について多くの意見が出されることになる。

▶︎なぜ仏経山(ぶっきょうざん)のそばに荒神谷遺跡があるのか

 荒神谷遺跡の評価については、まだ決定的な定説が出されていない。諸家の意見の紹介をはじめるときりがなくなるので、それは控えるが、諸説はつぎの点においてほほ一致している。

 すなわちこの遺跡は、荒神谷遺跡周辺あるいは出雲郡だけを押さえる豪族が残したものではなく、出雲全体をまとめる勢力がつくったものであるということだ。そして多量の祭器は、有力な首長個人のために集められたものではなく、出雲の首長の連合が行なつた祭祀のために使われたものだとされる。

 奴国(なのくに)の王墓である1世紀なかばの福岡県春日市須玖(すぐ)・岡本遺跡甕棺(土器でつくつた棺)から、30枚の銅鏡と8本の銅剣等が出土している。伊都国の王墓といわれる2世紀はじめの福岡県前原市三雲遺跡でも、35枚の銅鏡と銅剣1本、銅矛2本をおさめた甕棺墓がみつかった。

 初期の古墳に、銅鏡、刀剣などの豊かな副葬品をもつものが多い。しかし、荒神谷遺跡の出土品は、そのような首長個人のための宝器と区別して扱わねばならない

 荒神谷遺跡が、古代人が「神奈備山(神の山)」とよんだ仏経山のそばに位置することは重要である。(「かんなびやま」にはさまざまな表記が用いられるが、古代史家は普通「神奈備山」と書く)。この点は、これまでいく人もの学者によって指摘されたことである。

 出雲には四カ所の神奈備山がある。そして、秋鹿(あいか)郡の神奈備山のそばにある枚江市志谷奥(しだにおく)遺跡が、荒神谷(こうじんだに)遺跡に関連する祭祀の場ではなかったかと考えられる。そのことについては、すぐ後の項で述べよう。

 上の地図に示したように、出雲郡の主だった古墳はすべて、仏経山を眺められる位置にあり、荒神谷遺跡は仏経山と軍原(いくさばら)古墳とを結ぶ線上にある。

 軍原古墳は、いまは円丘しか残っていないが、それはもとは全長50m余りの前方後円墳であったと考えられる。5世紀なかばのもので、太刀・鉄鏃・短甲(たんこう)などの豊かな出土品をもつ古墳だ。それが出雲部に拠った神門(かんど)氏の当主の一人を葬っていたことはまちがいない。

 被葬者は、かつて荒神谷遺跡で重要な祭祀が行なわれていたことを知って、その真後ろに墓をつくらせたのだろうか。

 古代人は、荒神谷遺跡のそばを流れる斐伊(ひい)川を、天の神が出雲に下りてくる道すじだと考えていた。斐伊川の流域に、大原郡斐伊郷がある。そこでは、樋速日子命(ひはやびのみこと)が祀られていた。

 樋速日子命は、火がすばやく燃え広がるありさまをあらわす名をもつ神である。そのような勢いのよい火は、神々を招くものだとされた。そのため、夜にかがり火をたいて祭祀をはじめる例が多い。

 樋速日子命は、天から下りてきた神を迎える役目の神である。素戔鳴尊が高天原から斐伊川の流域にやってきたとする話は、高天原神話が整えられた6世紀に新たにつくられたものである。

  出雲の人々が斐伊川を神の通りみちと考えていたために、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が下ってきたところが斐伊川だとされたのだ。

▶︎出雲国内の四つの神奈備山

 『出雲国風土記』には、つぎの四カ所の神奈備(かんなび)山がみえる。

秋鹿部の神名火(かんなび)山・・・松江市の朝日山
・出雲都の神名火山・・・出雲市の仏経山 
・楯縫郡の神名樋(かんなび)山・・・出雲市の大船山 
・意宇部の神名樋山・・・松江市の茶臼山

 ここにあげた四カ所の山は、いずれも出雲の人々から聖地とされた山であった。そしてその中でも、神々の通りみちとされた斐伊川のそばの出雲郡の神奈備山(『出雲国風土記』には神名火山、神名樋山とあるが、以下通常の表記により「神奈備山」とする)がもつとも重んじられていたと考えられる。

 秋鹿郡の神奈備山である朝日山の東麓で、前に挙げた志谷奥遺跡が発見された。昭和48年(1973)、農作業中に偶然、銅鐸二個と銅剣六本が出土した。そこで、昭和50年にその周辺の発掘調査がなされた。このとき、銅鐸と銅剣をまとめて埋めた溝のあとがみつかった。

 銅剣は切先を下に、銅鐸は1部を下にさかさの形で埋められていた。そこから出土した銅鐸と銅剣は、荒神谷遺跡のものと同じ2世紀なかばに製作された青銅器だ。

 この遺跡は、これまでほとんど注目されなかった。しかし、荒神谷遺跡と神奈備山とが深い関係をもつ以上、志谷奥遺跡の存在は見落とせない。二世紀なかばに、出雲国内の四カ所の神奈備山が、出雲の首長全体がかかわる祭祀の場とされており、その中の核になったのが出雲郡の神奈備山である仏経山ではなかったろうか。

 楯縫郡の神奈備山である大船山でも祭祀が行なわれた形跡がみられる。現在までに、大船山の山麓の四カ所で遺物が採集されている。いまのところ、古墳時代の土師器の破片しかみつかっていないが、その中に内面を丹で赤茶色に塗った、明らかに祭器だと思われるものがある。本格的調査が行なわれたら、大船山から弥生時代の銅鐸、銅剣、銅矛などがみつかると思われる。

▶︎銅剣と神社の数の符合が意味するもの

 荒神谷遺跡の銅剣は、人為的につくられた埋納施設の中から出土した。それは、上下二段のテラス状の加工段の形をとるもので、銅剣は下段の加工段に埋められていた。加工段は、東西4.6mのすりばち状につくられており、その中央の長さ2.6m、幅1.5mの埋納坑から、銅剣がまとまって出てきた。

 このつくりは、後で紹介する荒神谷遺跡の銅鐸、銅矛の埋納の形と共通する性格をもつものである。何者かが意図的に祭器を埋めたことはまちがいない。358本の銅剣は、きっちり4列にまとめて箱に納められていた。発掘担当者は、その四列を西側からA列・B列・C列・D列と名づけた。A列は34本、B列は112本、C列は120本、D列は93本から成る。この数が同数でないことは、列ごとの銅剣の本数に何らかの意味があることをうかがわせる。銅剣の置き方も、列によって異なつている。A列は剣先を東に向けたものと、剣先を西に向けたものとを交互に置く形をとる。B列のものは谷例の四本だけがすべて剣先を西に向け、それ以外は剣先を東に向けたもの西に向けたものとを交互にするC列とD列では、剣先がすべて東に向けられている。このような銅剣のありかたを、出雲の神社の数に結びつける説が出された。前にあげた『出雲国風土記』にみえる神社の総数399社と、銅剣の359という数が極めて近いのである。

 古代の出雲は四つの地域に分けられる。出雲氏の本拠地である意宇(おう)郡と、意宇部とつながりが深かった島根半島にある島根、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)の三郡。それに、神門氏の霊地のある出雲郡と、そことかかわり深い奥地の神門、飯石(いいし)、大原、仁多(にた)四部である。

 神門(かんど)氏の成りたちについて、彼らはもとは出雲郡に拠っていた。そして、4世紀なかば以降、意宇郡から侵入した出雲氏に徐々に辺地に追われて、神門郡に移る。

 神門都の郡名は、神門氏がいたことによってのちになつて付けられたものである。神門氏が神門郡から起こつたのではない。『出雲国風土記』にみえる四つの地域の神社の数を示そう。意宇部は67社、島根、秋鹿、楯縫の三郡は113社、出雲郡は122社、神門、飯石、大原、仁多四部は97社である。

 B列の銅剣の数、111本が島根、秋鹿、楯縫の三郡、C列の122本が出雲郡、D列の93本が神門、飯石、大原、仁多四郡の神社の数に対応する。『出雲国風土記』は意宇部に六十七社あったとするが、国衛がおかれた意宇郡に奈良時代に中央から移住してきた豪族がかなりみられる。彼らがつくつた神社も多い。そこで、A列の銅剣の数34本は、古い時代の意字郡の神社の数に対応していたと考えられる。

▶︎出雲を統一した出雲氏と神門氏の連合

 出雲国内の土着の豪族の数は、荒神谷遺跡がつくられた2世紀なかばから奈良時代直前までほぼかわらなかったのだろう。彼らは、支配下の民衆の信仰の拠りどころとして神社をおこした。

 それは、もとは天降ってその地の守り神になったと伝えられる、前に示した独立神の形をとった。そして、のちにはそのような神の中のいくつかは、中央の神統譜素養鳴尊の子孫の系譜に結びつけられた。

 出雲の豪族が一本ずつ銅剣をもちよって、荒神谷の祭祀を行なったのであろう。荒神谷は、神門氏の本拠地にあった。しかし、神門氏が出雲の諸家族をまとめていたとは考えられない。

 考古資料からみて、1世紀末から2世紀はじめにかけて、出雲国東部が先進地であったことがわかる。前に挙げた佐太、能野、野城の大神も、二柱が意宇郡、一柱が秋鹿郡にあった。

 四カ所の神奈備山のうち、三カ所が意宇、秋鹿、楯縫の出雲東部にあり、残りの一つが出雲西郡の出雲郡にある仏経山である。こぅいった事実は、出雲統一の動きが出雲東部からはじまったことを物語る。

 2世紀なかばに、意宇郡を本拠とする出雲氏が意宇郡と島根、楯縫・秋鹿の三部の首長たちの指導者になつた。彼らは、三カ所の神奈備山で、各地の首長が共同で行なぅ祭祀を始めた。そして、そのころ出雲郡の神門氏が、出雲西部の豪族に対する指導力を確立しつつあつた。

 このような情況のもとで、出雲氏と神門氏が手を結んだ。これによって出雲は一つにまとまった。このような推定が成り立つのではあるまいか。意宇郡の領域は海岸部で西方にのびて、出雲郡と境を接している。出雲国でもっとも広く使われた道路は、中海と入海の岸沿いにつくられ、奈良時代になって官道になったと思われる。その道の大部分は意宇郡を通っており、出雲氏の本拠の熊野大社と荒神谷遺跡はその道の近くにある。

 2世紀なかばの出雲統一は、この道を用いて行なわれたのであろう。出雲氏の勢力圏が入海沿いに西にのびて仏経山の手前に達したところで、出雲氏と神門氏の連合が成立したのだ。

 それ以後、政治を扱う意宇部の出雲氏と、その下で祭祀にあたる神門氏との職務分担がつくられた。そして、このことをきっかけに、出雲郡が神聖な土地だと考えられるようになった。

 そのため、出雲大社は出雲氏の本拠地の意宇郡でなく、出雲郡に建てられたのである。

▶︎荒神谷の銅鐸と銅矛は神門氏のものか?

 荒神谷遺跡から出土した銅剣は、中細形銅剣とよばれる比較的古い型のものである。それがつくられた年代は、2世紀なかばに求められる。

 銅剣は、紀元前1世紀末の北九州に出現した。その時期の銅剣を細形銅剣という。細身の実用的なもので、今日知られる細形銅剣のかなりの部分が、朝鮮半島からの輸入品である。

 荒神谷遺跡から出土した六個の銅鐸と十六本の銅矛が埋められた時期も、銅剣のそれと同年代であると考えられる。5個の銅鐸が外縁付紐式、1個の銅鐸が菱環鉦式の型である。

 銅鐸の上部の、銅鐸をつり下げる鉦(しょう・かね・大のまわりの部分)の断面が単純な菱形をしているものを菱環銀式という。そして、菱形の鉦の外部に薄い装飾を付けたものが外縁付鉦式である。

 最古の銅鐸は 1世紀末もしくは2世紀はじめに出現した菱環鉦式で、それに次ぐのが2世紀なかばの外縁付鉦式である。荒神谷遺跡から一個だけ出土した菱環鉦式銅鐸は、銅鐸が誕生してまもなくつくられた貴重なものだ。それは2世紀なかばまで、出雲の首長のもとで使われたのちに埋められた。

 銅矛は、2本の細形鋼矛と14本の中広形鋼矛とから成る。銅矛は銅剣より早く大型化するので、それらの年代は358本まとめて出土した中細形銅剣の年代と同じだと考えてよい。

 銅鐸と鋼矛が埋納されていた場所の遺構からみて、銅鐸と銅矛は、銅剣と同時に地中に納められたと考えられる。銅鐸と銅矛の埋納坑は、銅剣埋納坑からわずか7m離れただけの位置につくられている。

 しかも、両者の標高はほぼ同じ22mの高さにつくられている。二つの青銅器が偶然に近接して埋められたとは思えない。弥生時代後期になると、各地で青銅器づくりがさかんになる。そこで、荒神谷遺跡から出土したものより新しい形式の青銅器の出土例は多くなる。つまり、中広形(ちゅうひろがた)銅剣、平形(ひらがた)銅剣といった大型銅剣や、扁平鈕(へんぺいちゅう)式(鈕の装飾に高く突出する線がみられるもの)の銅鐸はあちこちでまとまって出ているのだ。

 新しい時期の銅鐸が二十四個まとまって出土した滋賀県小篠原(こしのはら)銅鐸群(上図)の例もある。しかし、発生からまもない時期の銅鐸が6個出てきただけでも大事である。荒神谷遺跡を残した集団は、当時としては極めて多量の青銅器を保有する有力なものでぁったと考えてよい。358本の銅剣は、出雲の各地の首長から集めたものであるのに対し、6個の銅鐸と16本の銅矛は、荒神谷遺跡を管理する神門氏が祭祀に用いたものだつたとは考えられまいか。

 前に挙げた、秋鹿郡の神奈備山を祀る志谷奥遺跡で出土した銅鐸2個、銅剣6本も、出雲氏の下で秋鹿(あいか)郡の首長たちをまとめる立場にあった首長が残したものとすべきであろう。

▶︎太陽信仰から生まれた「ヒコ」の称号

 大国主命のために、358本の銅剣を集めた2世紀なかばの出雲の信仰は、どのような性格のものであったのだろうか。それを解く鍵の一つは、素養鳴尊大国主命などの出雲の神々の神話にある。そしてもう一つは、荒神谷遺跡から読みとれる出雲の人々が銅剣をもっとも重んじ、それとともに銅鐸と銅矛を用いていた点である。

 九州の弥生時代の遺跡では、必ず銅鏡と青銅製の武器銅剣、銅矛、銅戈・どうか)がともに出てくる。ところが、出雲では銅鏡が重んじられていない

 鏡と武器とを用いた九州の祭祀は、弥生時代はじめに江南から移住してきた人々によって伝えられた。江南では、銅は魔物を退けるはたらきがあると考えられていた。そして、鏡は魔物の本体を映し出し、武器は魔物を脅かすと考えられた。

 そのため江南の有力者たちは、身を守る呪具として銅鏡と刀剣類を身辺においた。この習慣は民間に広まり、道教にもうけつがれた。

 九州の小国の首長も、はじめは銅鏡や銅剣、銅矛、銅戈を支配下の人々を邪悪なものから守る呪具として用いていた。彼らは、自分たちの先祖である祖霊を祀っていたが、人々が好む美しい青銅器で祖霊の気をひくことができると考えた

 そこで、祭祀のときには銅鏡や銅剣、銅矛、銅戈をならべて祖霊を祀った。その習俗の中で銅鏡も銅剣・銅矛も大型化していく。大和朝廷が各地に広めた三角縁神獣鏡は、中国にみられない大型の美しい鏡である。

 また、銅剣、銅矛も細形から中細形、中広形、平形と、青銅を多く用いた幅の広いものにかわつていく。こういった動きの中で、弥生時代後期にあたる2世紀なかば前後に、北九州で祖霊信仰が太陽信仰と結びつくようになつていく。

 そして、太陽の光を反射させて輝く大型の銅鏡や幅の広い銅剣銅矛は、太陽の祀りに欠かせないものだとされた。『魂志倭人伝」は、邪馬台国の支配下の対馬一支(いき)などの小国の首長が「日子(ひこ)」とよばれていたと伝える。それは、「太陽の子」をあらわす太陽信仰にもとづく名称である。祖霊が太陽の働きをつかさどると考えられたために、聖買ちに守られた首長は太陽の恵みをもっとも受ける「太陽の子」だとされたのだ。

 このような太陽信仰は、瀬戸内海航路を通じて吉備経由で大和に入った。そのため、初期の大和朝廷の大王は御間城入彦(みまきいりびこ・崇神天皇・すじんてんのう)、活目入彦(いくめいりびこ・垂仁天皇・すいにんてんのう)といった「ヒコ」の称号をもつ。朝廷が祭器の中で銅鏡もっとも重んじていたのも太陽信仰にもとづくものだ。ところが、出雲では力をあらわす剣がもっとも重んじられた

▶︎力の神と知恵の神の協力

 出雲の神々に関する物語には、戦いに勝つことによってはじめて平和と安定が得られるとする発想が強くみられる。大国主命は力の神である。彼が八十神をはじめとする票たちを倒したことによって、はじめて知恵の神である少彦名命(すくなひこのみこと)の働きが可能になる。

 地上に乱暴な神が満ちていれば、小さな少彦名命は彼らを恐れて、人々にさまざまな生活の知恵を授けることができない。

 古代の出雲の人々は、力の神と知恵の神の働きがあってはじめて国作りができると考えた。そして、その場合、まず力の神が悪者と戦って勝たねばならないとされた。ゆえに力の神である大国主命は、「八千戈神(やちほこのかみ・大そう多くのもった軍勢に相当する力をもつ神)」という強そうな別名をもつている。

 素戔鳴尊(すさのおのみこと)も、八岐大蛇(やまたのおろち)との戦いに勝って出雲に平和をもたらした。八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)がよその土地を切りとってくる「国引き」の話も、戦いによって国作りができるとする発想が変化したものだといえる。ところが、大和朝廷がつくり出した神話伝説は、悪者を力で打ち負かすとする発想を表に出さない形をとる。朝廷に背いた者が、降参するか自滅する話が多いのである。

 高天原で乱暴をした素戔鳴尊は、進んで神々の裁きをうけたとされる。神武天皇の最大の敢である長髄彦は、身内の裏切りで滅んだと記されている。

 このような特質は、北九州にもみられる。邪馬台国の人々は魂に対して、三十の小国が卑弥呼を共立して大乱をおさめ、人々が台与(たいよ・後で述べる卑弥呼の復讐)を立てて邪馬台国の内紛を終わらせたと語る。大和や北九州で戦いがなかったわけではない。彼らは、武力で相手を屈服させるよりも、話し合いで敵を従えることが望ましいと考えていたのだ。こういった発想は、銅鏡が重んじられた太陽信仰がさかんな地域に広まったものだ。

▶︎出雲では神同士は平等だった

 古代出雲の人々が戦いを好んだのではない。彼らは、首長の先祖が力で悪神を退治して平和をもたらしたとする共通の伝説をもっていた。そのため、首長の先祖が用いたと伝えられる剣を祀ったのである。

 いったん悪者が滅んだ以上、戦いの必要はない。だから、農民たちを守る立場にある小国の首長同士が争うべきではない。そう考えたうえで、2世紀なかばの出雲で狭い地域を押さえる首長358人(358本の銅剣発掘の根拠)が共存する形がつくられた。

 彼らは、自家の祭器である銅剣を一本ずつもちよって、大国主命を荒神谷遺跡で祀った。その祭祀は、出雲氏と神門氏の指導のもとに行なわれたが、彼らが力で他の首長を押さえることはなかった。

 奈良時代の出雲には、臣の姓をもつ小家族が極めて多くみられる。『出雲国風土記』にみえる郡領名(表・参照)を示してみた。そこから、下級の郡司まで臣の姓をもっていたことや、多様な臣姓豪族がいるありさまがわかる。

 後で述べるように、大和朝廷が出雲国造である出雲氏に臣の姓を与えたのは、6世紀なかばごろだと思われる。そのとき出雲氏は、出雲国内の首長層すべてに臣の姓を授けてくれるようれるように求めたのである。これは、出雲の首長はすべて対等の関係にあるとする考えが長くうけつがれたことを物語るものだ。

 大和朝廷は、高天原神話つくって神々の間の序列を重んじた。それに対して出雲では、神同士は平等だとされた。人望のある人は多くの者に信頼され、そうでない者のまわりには人が集まらない。それと同じで、有力な神は広い地域で祀られ、そうでない神は一つの小国だけで信仰される。

 そうであっても、力な神が力の劣る神を力で従えたり否定すべきでない・・・出雲の人々はこう考えた。出雲氏は、自家の祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)に他に熊野大神と大国主命を祀った。熊野大神がつくられたとき天穂日命が祀られなくなったり、大国主命を生み出すために熊野大神を否定することはない。

 出雲の小国の人々は、そこの首長が祀る神を拝みながら大国主命を愛した。大国主命は、人々の生命を妨げる悪神を倒す強い神であったが、自ら農作業に従事し、庶民と同じ些細なことにあれこれ悩む神でもあった。そのため、大国主命信仰は出雲全体にうけ入れられ、さらに全国に広まった。

 素戔鳴尊が、水をつかさどる神である八岐大蛇を斬る話に象徴されるように、出雲の神は自然神と戦う姿勢をとっていた。このことは、自然神を手なずけようとした大和朝廷の姿勢と異なるものとして注意しておく必要がある。

 大和朝廷は神話をつくる際に、このような戦う神の伝統をもつ出雲を、話し合いだけで従えたとするわけにはいかなかった。そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と大国主命の子、御名方神(たけみなかたのかみ)の力くらべの話ができた。

 大国主命は天孫に国をさし出そうと考えていたが、子神の一人武御名方神が「おれと力くらべをしてみろ」と高天原の使者に挑む。そして、その戦いに敗れた武御名方神諏訪に追われるのである。

 もし出雲の神が戦わずに高天原の神に従う形にすると、出雲の人々は心から朝廷に従わない。しかし、大国主命以下の出雲の神がこぞって高天原の神と戦って敗れたとすれば、出雲の人々が朝廷に反感をもつ。

 そこで、出雲から離れた諏訪で祀られていた武御名方神だけが、高天原の使者に敗れる物語がつくられたのである。

▶︎出雲を繁栄させた青銅器生産

 2世紀なかばの荒神谷遺跡の時代に出雲が栄えた理由は三点ある。———-

第一に、日本海航路によって出雲が交易を通じて先進地になったことである。第二に、三百数十の出雲の小国  の首長が、共通の信仰によっていちはやく一つにまとまったことである。

 大和の統一は、弥生時代なかば以来の小国間の抗争を通じて、大和が二十余りの有力豪族の勢力圏に区分された段階からはじまった。ゆえに大和の統一は、出雲のそれより百年余り遅れたのである。

 そして、出雲の繁栄の第三の要因として、出雲の青銅器生産の発展があげられる。北九州から青銅器づくりの技術を得たことをきっかけに、出雲で銅剣づくりがはじまる。2世紀はじめには、出雲が青銅器の有力な産地になっていたのである。

 出雲は、わが国有数の銅の生産地である。近年まで出雲の廃坑跡で、さいころに似た形の小さな自然銅の結晶体を見つけることができたという話を開いた。ゆえに、古代には自然銅が露出していた場所があちこちにあったと考えられる。

 出雲の人々は青銅器の製法を学ぶと、ただちに手近な自然銅で銅剣や銅鐸をつくりはじめた。荒神谷遺跡で出土した銅剣と銅鐸の形式は、北九州のそれと明らかにちがう。

 そのことから、荒神谷遺跡がつくられた2世紀なかばには、出雲の首長たちは出雲でつくられた祭器を用いるようになっていたと考えられる。

 それ以後、出雲は金属工芸の先進地になった。そのため、鍛冶関係の地名や神社名、神名が出雲各地に広く分布している。

 前に挙げた「国引き」の話に、島根半島にあった闇見国の地名が出てくる。それは、朝鮮半島から移住してきた鍛冶の集団がつけたものだ。「くらみ」とは、古代朝鮮語で「愛する谷」をあらわす言葉だ。谷あいで露出した自然銅をみつけた人々が、その地名を考え出したのであろう

 出雲市に唐川(からかわ)の地名がある。朝鮮半島南端にあった加耶から来た鍛冶の集団が住んだことにもとづく地名だ。「伽耶」が訛って「唐川」になった。唐川の近くに鍛冶屋谷の地名もある。

 出雲市の伊布伎(いふき)神社は、ふいごの神を祀る鍛冶屋の神である。

出雲国風土記』の楯縫(たてぬい)郡の部名の由来に関する記事は、古代にそこで銅矛がつくられていたことをうかがわせる。神魂命(かみむすびのみこと)の命令によって、ここで出雲大社で用いる楯をつくるようになった。そのため、楯縫の地名がおこった。ゆえに、今日に至るまでここの人は楯や矛をつくって皇神(すめがみ)たちに献上していると、そこには記されている。

 2世紀はじめからなかばにかけて、出雲のあちこちで青銅器づくりがはじめられた。そのため、荒神谷遺跡の祀りに参加した首長たちは、手近なところで銅剣を入手できた。さらに出雲の人々は、青銅器の交易を通じて富を得るとともに、大国主命信仰を各地に広めていったのである。

▶︎朝廷の祭祀で必ず使われた出雲の玉 

 弥生時代未になると、銅剣・銅矛より鉄の刀剣が重んじられるようになる。そして、古墳時代前期にあたる4世紀なかばに入ると、加耶から輸入された鉄素材を用いた鉄器づくりがさかんになる。

 こういった動きの中で、出雲の青銅器づくりは重視されなくなっていった。出雲には青銅器づくりの経験を生かした優秀な製鉄技術があったが、出雲の刀剣が全国で求められることはなかった。

日本の勾玉の歴史は約5000年前(縄文時代)からであることが分かっており、新潟地方で翡翠を素材として作られていたのに対し、出雲型勾玉は約2600年前(弥生時代)から出雲に伝わる形と言われます。出雲では玉造温泉の東側にある花仙山で取れる瑪瑙を素材として作られ始め、特にこの地方独特の濃い緑色の青めのう(碧玉)の勾玉が好評でした。
製作中の勾玉

古墳時代には玉造温泉にて作られた出雲型勾玉は数々の献上品としてはもちろん、埴輪に多く見られるようになり当時一般の装飾品としても普及し始め、また玉造温泉では古墳時代後期には勾玉作りを全国でほぼ独占していたと言われます。

 それにかわって、朝廷は玉作りの場を出雲に集中させるようになる。出雲の玉作りは、弥生時代前期にはじまっている。そして、6世紀なかばまでは、平野部を中心に出雲のあちこちで玉作りが行なわれてきた。

 ところが、6世紀末になると、現在の松江市玉造以外では、玉類の生産が行なわれなくなった。このあたりは、古代の意宇郡忌部の神戸にあたる。

 その地名の由来について、『出雲国風土記』はつぎのように伝えている。「出雲の国造が神賀詞(かんよごと)を述べに朝廷に出向くときに禊(みそぎ)をする忌(いみ)の里がここである。そのため忌部(いんべ)の地名がおこった」

 つまり、出雲氏の本拠地意宇部の中の神聖な地とされたところで、玉作りが行なわれたのである。しかも6世紀末以降にあっては、出雲の忌部の神戸(かんべ)以外の地で玉作りが行なわれた形跡はない。各地の玉作りに関する遺跡が、その時期に妄に姿を消すのである。6世紀は、高天原神話の確立に力を入れた欽明天皇のあとをうけた敏達天皇の治世にほぼ相当する。敏達天皇のときに、朝廷の祭祀には必ず出雲の玉を用いよという命令が出されたのであろう。そのことは、朝廷がかつて銅剣・銅矛の有力な生産地であり大国主命信仰を生み出した出雲を重んじていたことを物語る。

 宮廷の祭祀にあたった忌部氏の古伝を集めた「古語拾遺(こごしゅうい)』につぎのようにある。

「櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の孫が御祈玉(みほき・祈祷に用いる玉)を作った。その子孫はいまは出雲に住み、毎年国衙から送られる租税とともに、御祈玉を送ってくる」

 また、「延喜式』にもつぎのようにみえている。

 「出雲国からつくる御富岐(みほき)の玉六十連は、毎年十月以前に、意宇部の玉作(たまつくり)氏につくらせて、そのための使者を立てる形で送られてくる」

 これにより、朝廷で祭祀に用いる玉が平安時代まで窒でつくられていたありさまがわかる。出雲氏の全盛期は2世紀なかばであったが、出雲氏が朝廷に従ったのちにも、出雲は長く神々のふるさとの地として重んじられた。

 それは、大国主命信仰のかなりの部分が2世紀末から3世紀にかけて各地の首長にうけ入れられたことにもとづくものだつた。朝廷の祭祀にも、そのころ出雲からとり入れた要素は多い。